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緑の葉で、一人泣く女

 月光の月、十二日目の朝。

 アウリオンの北門を出た。

 王都から月影亭までは、早馬で四日、歩きと馬車で七日。

 俺は馬車で行く。急ぐ理由がない。神崎との会見は一月後。ゆっくり向かうほうが、道中で見えるものが増える。

 見送りはミラ一人にした。王宮の門では仰々しい。ミラの路地の入口のほうが、俺に相応しい見送り場所だった。

 「おにいちゃん」

 「また、戻ってくる?」

 「戻る」

 「銀貨の残りを、お前に預けていく。一月分の飯になる」

 ミラは頷いた。俺の指先を、小さな指で強く握った。

 前回の路地での別れの時と、同じ強さ。

 「おにいちゃん」

 「こわいひとに、会うんでしょ」

 俺は少し驚いた。

 ミラにはカスパルの書状のことも、ハーゲンの宰相のことも、話していない。

 しかしこの子は、俺の服の袖を握る強さで、俺の行き先の重さを測っている。

 「……ああ」

 「こわい人に、会う」

 ミラは首を傾げた。

 「かたなくて、いい?」

 「勝たなくていい。負けなければ、俺の勝ちだ」

 ミラはこくと頷いた。

 それから真顔で、こう付け加えた。

 「おにいちゃん。ひげ、そってからいって」

 俺は吹き出した。朝、時間がなかった。顎を撫でた。少し伸びていた。

 「……帰ったら、そる」

 「パンも、買って」

 「ああ。買って帰る」

 ミラは最後にもう一度強く指を握った。それからぱっと離した。

 路地の奥へ、走って消えた。振り向かなかった。

 振り向かなかったから、ミラが泣いていたかは、分からない。

            ─── ─── ───

 青の街道は、アウレリア王国を南北に貫く旧い交易路だった。

 馬車は一頭引きの小さなもの。御者は五十がらみの無口な男。王宮の馬車ではなく街の貸し馬車。王の参謀としてではなく、名もない旅人として動きたい、と俺からカスパルに頼んだ。

 街道の両側には、葡萄畑が続いていた。

 春の葉はまだ若く、薄い緑。風が通ると、葉の裏側のもう一段淡い緑が見える。

 葉の裏の色を見るのは、地球でも異世界でも変わらなかった。

 俺は膝の上に革の手帳を開いた。昨夜書き加えた一行。

   月光の月、十二日目。アウリオン出発。

 その下に、今日の一行を書く。

   青の街道。葡萄の若葉の色を、知った。

 前世で俺は仕事の日誌しか書かなかった。天気も葉の色も、手帳に書く価値がないと思っていた。

 この異世界に来て、俺は仕事でないものも書き始めている。

 師から渡された一行「功績はすべてクライアントに渡せ」の下に、少しずつ、俺自身の一行が積まれていく。

            ─── ─── ───

 その夜、街道沿いの小さな宿に泊まった。

 葡萄畑と葡萄畑の間、川が一本流れている。川沿いに、葉緑村という名の小さな集落。

 人口、百人ほど。宿屋が一軒。かもめ亭のような下町の食堂が一軒。薬草畑。

 商人の中継地としては小さすぎる。地元の農民の村だった。

 宿屋の女将は、四十がらみの痩せた女だった。愛想はない。しかし冷たくもない。

 「お一人で」

 「ああ」

 「夕飯は、下の食堂で」

 「分かった」

 鍵を受け取った。二階の畑に面した部屋。窓を開けると、葡萄畑とその向こうの薬草畑が見えた。薬草畑には、名前を知らない淡い緑の葉が整然と並んでいた。

 下の食堂で、夕飯を食べた。

 麦酒と、羊の煮込みと、硬い黒パン。かもめ亭ほど上等ではない。しかし旅の味だった。

 塩が効いていた。旅人の汗と、釣り合う塩分。

 一人で食べていたら、隣の席の年寄りが話しかけてきた。

 俺の地元の人間ではない顔を見咎めた。

 「兄さん。月影亭まで行くのかい」

 「ああ」

 「あの道は、夜、歩くなよ」

 「月影亭の手前、薬草商の女が一人で泣いてることがある」

 「見たら、話しかけるな」

 俺は老人を見た。

 「……話しかけたら」

 「厄介ごとを、背負う」

 「あの女は、厄介そのものを、背負って歩いてる」

 老人はそれ以上説明しなかった。

 代わりに、手酌で麦酒を呷った。

 俺は頷いた。

 しかし頭の中で、メモを取った。

 薬草商の女。一人で泣く。厄介を背負う。

 三つの断片だけで、その女の輪郭が、薄く見え始めた。

 薬草商は多くの場合、薬を必要とする家族を持っている。自分で薬を売る仕事についた理由は、身内の病気がきっかけのことが多い。

 一人で泣くのは、誰かに弱さを見せられない立場にいるから。家族を守る立場の人間は、弱さを隠す。

 厄介を背負う、と老人は言った。厄介とは表に出せない事情のこと。商人でありながら表に出せない事情を抱えるとすれば、それは誰かの命を握られているか、誰かに従わざるを得ない状態だ。

 稜の頭の中で、三つの断片が、一人の女の像を結んだ。

(──娘か、母親が、病気なのだろう)

(──そしてその病気の治療のために、誰かに何かをさせられている)

 確度、六割。

 しかし確度六割で、稜は、動き出す癖があった。

            ─── ─── ───

 その夜、俺は宿を出た。

 月は九日月。

 銀色の光が薬草畑に薄く落ちていた。淡い緑の葉が、月光を吸って、燐光のように見える。

 村の端の薬草畑の奥。

 一つの人影が、膝をついて葉の前に座っていた。

 女だった。

 後ろから見ると、肩が細い。三十代半ばか。旅装に近い、黒の上着。頭髪は、肩より少し短い栗色。風に、乱れていた。

 声は、出していなかった。

 しかし、肩が、一定の間隔で、震えていた。

 泣いている。

 声を殺して誰にも気づかれないように泣いていた。

 俺は足を止めた。

 老人の忠告が、頭に蘇った。「話しかけるな」。

 正しい忠告だった。見知らぬ女に、見知らぬ男が、夜、話しかけること自体、危ない。まして相手は、何らかの事情を背負っている女。

 しかし──。

 俺の視線は、女の手元を見ていた。

 女は一本の薬草を握っていた。根ごと引き抜いた、まだ土のついた薬草。

 握り方が、奇妙に、強い。

 必要以上に、強く、握っていた。

 薬草は、潰してはならない。潰せば、成分が、漏れる。

 薬草商がそれを知らないはずはない。

 それなのに、この女は今、薬草を握り潰しそうな力で、握っていた。

 これは、薬草が目的で畑に来た女ではない。

 薬草を握る仕草を借りて、泣きにきた女だった。

 俺は月の光の中で、もう一歩、考えた。

 この女に、今、声をかけるのは、不自然だ。

 しかし、声をかけずに、明日、月影亭で再会することも、あり得る。月影亭は、この街道の終点。薬草商の通り道。

 ならば、今夜、短く声をかけ、印象を残すほうが、明日以降の動き方が、緻密になる。

 ただし、印象の残し方は、慎重に。

 「泣いているのを見た」と、気づいたことを、相手に教えない。

 「泣いていない」ふりを、相手にさせてやる。

 それが、稜の二十年の仕事だった。

            ─── ─── ───

 俺は足音を、わざと、立てた。

 石畳を、ひとつふたつかつんかつん。

 女が肩の震えを止めた。

 薬草を握る指の力が、緩んだ。

 それから急いで、袖で、顔を拭った。

 俺は女の方を見ずに薬草畑の別の一角に歩いた。

 葉の一枚を、指先で、軽く撫でた。

 「……この葉は、何の薬になる」

 独り言のように呟いた。

 しかし、女に、届く音量で。

 女はしばらく黙っていた。

 それから声を、作った。少し、掠れた。しかしきりりとした声。

 「……それは、熱冷ましに、なります」

 「ただし、乾燥させて、煎じて飲む」

 「生では、苦いだけで、効きません」

 俺は振り返った。

 女が立ち上がっていた。

 涙の跡は、袖で拭った後の薄い赤みが、頬に残っていた。しかし目は商人の目に戻っていた。

 近くで見ると、三十代半ばと読んだのは、少し外れていた。

 三十代後半。三十六か、三十七歳。

 しかし、若く見える。髪の艶、肌の張り、顎の線の細さ。疲労が深いのに、顔が崩れていない。

 この女は、自分を、商売道具として、手入れしている。

 「薬草に、お詳しいのですか」

 女が俺を見た。

 青緑色の瞳。透き通った。しかし何一つ信じていない目。

 俺は首を振った。

 「旅人だ。今朝、アウリオンを出た」

 「薬草は見た目だけで、名前は知らない」

 女はわずかに目を細めた。

 「……アウリオンから」

 「ああ」

 「月影亭まで」

 「ああ」

 女が俺を見定めようとしていた。

 何者か。何を売りに来たのか。どこの手先か。

 商人の測る目だった。

 俺は動かなかった。

 相手に見定めさせる時間を、与えた。

 十五秒、ほどだろうか。

 女の目の焦点が、少しだけ、柔らかくなった。

 俺の中に、自分を脅かすものが、ないと、判断したのだろう。

 「──あなたは、何も売りに来ていない」

 「アウリオンから月影亭まで、ただ、通る旅人」

 「そうだ」

 「しかし、目が、商人の目をしている」

 「売るものを持っていないのに、商人の目」

 「……そういう男は、初めて会いました」

 俺は少し笑った。

 「売るものは、時々、持っていないほうが、いい」

 「持っていると、相手が警戒する」

 「時が満ちた時に、相手が欲しいものだけを差し出す」

 女はしばらく俺を見ていた。

 それからゆっくりと薬草を、土に戻した。丁寧に、根を土の中に埋め直した。

 握り潰さなかった。

 「リリア」

 「リリア、と申します」

 「商人ギルドのしがない末端の者でございます」

 俺は小さく頭を下げた。

 「高木稜」

 「アウレリア王国の一介の顧問」

 リリアの目が一瞬広がった。

 しかしすぐに細くなった。

 「……アウリオンの噂の」

 「広場で、契約書を光らせた、参謀」

 「噂は、尾ひれがついているものでございます」

 「光らせた、の部分は、尾ひれだと」

 「光ったのは、羊皮紙が、古代のものだったから、でございましょう」

 リリアは微かに笑った。

 この夜、初めての笑い。

 涙の跡が、まだ頬にある、しかし目はもう濡れていなかった。

 「稜殿」

 「月影亭まで、道中ご一緒にいかがでしょう」

 「──私、一人、道連れが、欲しくなりました」

 俺は頷いた。

 「こちらも一人で退屈しておりました」

 月光が、薬草畑の上で銀色に揺れていた。

 葉の裏の淡い緑が、一つ風に裏返った。

            ─── ─── ───

 宿に戻った。

 自室の机で、手帳を開いた。

 今日の一行の下に、もう一行。

   葉緑村。薬草畑。商人ギルド、リリア。

   三十七歳前後。娘か母が病気、おそらく娘。

   帝国の関与、高い確度であり。

 ペンを置いた。

 手帳の革が、今夜も、微かに温かい。

    東京、丸の内、二〇〇三年の春。

    俺は二十五歳。

    作務衣の老人、高樹さん。

    「稜、お前は、人を、信じすぎる」

    「人を信じる前に、その人の事情を信じろ」

    「事情を見抜けば、人を信じる前に、人の動き方が分かる」

 一瞬、前世の記憶が、指先を触れて去った。

 今日、俺はリリアを信じていない。

 しかし、リリアの事情を、六割、信じている。

 明日からの道中で、事情の残り四割を、埋めていく。

            ─── ─── ───

 窓の外。葡萄畑の向こう、薬草畑。

 先ほどリリアが泣いていた場所にはもう誰もいなかった。

 ただ、淡い緑の葉が、月光を吸って微かに燐光のように見えていた。

 葉の裏の色を、俺はまだ覚えていた。

            ─── ─── ───

    【同日、夜、帝都ヴェルデン、皇宮】

 神崎は執務机の前で一通の報告書を読んでいた。

 「アウリオン王国、戦略顧問、高木稜。本日朝、北門を出発。月影亭方面へ」

 神崎は目薬を差した。

 「一月後の会見まで、十八日」

 副官が頷いた。

 「道中、監視をおつけしますか」

 「……いや」

 神崎は少し、考えてから言った。

 「道中で、あいつが、一人の女に、出会う」

 「商人ギルドのリリアという女」

 「あいつは、女の事情を、三日で見抜くだろう」

 「そして女の事情に、介入する」

 副官が眉を上げた。

 「……それを、予見、できるのですか」

 神崎は笑った。

 「十五年、隣にいた」

 「あいつの、行動の癖は、知っている」

 副官が深く一礼した。

 神崎は目薬の瓶を、指で転がした。

 今度は、差さなかった。

 「リリアに一つ、伝令を」

 「娘の薬は、今月分届けない」

 副官が息を、呑んだ。

 「……閣下、それでは、少女が……」

 「届くか届かないかは、稜の動き方で決まる」

 「あいつが女を救えるなら、俺も少女の薬を届けよう」

 「あいつが女を救えないなら、俺はあいつの癖がもう通用しないことを知ることになる」

 神崎は窓辺に立った。

 帝都の夜空に、九日月が、かかっていた。

 「──稜」

 「十五年の癖が、まだお前の武器であるかを試させてもらう」

リリア、登場です。

三十代後半の、背負うものを持った女性。

薬草畑で一人泣く彼女の姿を、書きたくてたまりませんでした。

ミラとの別れの「ひげそってからいって」は、書いていて笑ってしまいました。

小さな女の子の、真面目な忠告です。

次話もお楽しみに。

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