冥書庫、夜の門がひらく
月光の月の九日目。
朝の鐘が五つ鳴った。
昨日、手紙の鳥を帝都に飛ばした。神崎からの返事はまだ来ていない。
修道院の回廊。午後の陽が石畳に斜めに落ちていた。
マテウス院長の背中が前を歩いていた。
白い髭、茶色の修道服、左手に杖。
「稜殿」
「お足元にお気をつけください」
修道院の奥。礼拝堂の裏手。
石造の、目立たない扉。
マテウスが鉄の鍵を差し込んだ。
扉の向こうに、黒い口が開いていた。
階段。石造の螺旋。下りるほどに空気が冷たく、湿っていく。
五段ごとに燭台が埋め込まれていた。
マテウスが先導する。杖の音が石段に小さく響いていた。
四十段目で、俺は数え始めた。高さの感覚を掴むために。地下六階建てほどの深さ。
百二十段目で階段が終わった。
そこに夜の門があった。
─── ─── ───
高さ、六メートル。
黒い玄武岩。
扉の全面に、古代アウレリア文字が千以上彫られていた。
一文字一文字が、小さな谷のように石の表面を削っていた。
燭台の光が文字の谷に落ちて、陰を作る。
マテウスは扉の前で立ち止まった。
俺に振り向いた。
「稜殿」
「この扉の前で、旧い合言葉を唱えてください」
「……合言葉」
「はい」
「あなたが正統な継承者ならば、扉は開きます」
「五百年、誰の前でも開かなかった扉が」
俺は少し考えた。
高樹さんから、直接、合言葉を教わった記憶はない。
しかし二十五歳の入社日、老人が差し出した手帳の最初のページに一行だけ古い文字で書かれていた。
藍の作務衣の白い髪の師の声が蘇った。
「稜、これは読み方じゃなくて、音で覚えろ」
「心の中で唱えるだけでいい」
「意味は俺にも分からない。しかし我々の印の声だ」
その短いフレーズ。
十五年、毎朝、心の中で唱えてきた言葉。
意味は、十五年、知らないままだった。
俺は扉に向き直った。深く息を吸った。
「ルミナ・パクス」
静かに唱えた。
扉の千の文字の中心の一文字が、微かに青く光った。
波紋が文字の谷を走った。
千の文字が一斉に青い光を放った。
音はなかった。
ただ、空気が一度震えた。
光は、下から上へ、そしてまた下へと、呼吸するように脈打った。
千の小さな星が、扉の表面で同時に生まれたようだった。
夜の門は音もなく内側に開いた。
マテウスが深く一度頭を下げた。
「五百年、ぶり、でございます」
「ようこそ、冥書庫へ」
俺はマテウスを見た。
「……これは何の言葉ですか」
マテウスの青い目が、微かに笑った。
「古代アウレリア語で、光と平和」
「アウレリア黄金期、助言者の間で交わされていた合言葉でございます」
俺は軽く頷いた。
表情は変えなかった。
しかし胸の中で、小さな波紋が立った。
(──十五年、意味を知らずに、俺は千年前のアウレリアの言葉を、毎朝唱えていた)
─── ─── ───
扉の向こうは、広かった。
天井、高さ十メートル。石造のアーチ。
書架が五メートルの高さで迷路のように連なっていた。
木製、古代シルヴァン樺。千年朽ちない木として、古代アウレリアでのみ加工された素材。
書架の間を通路が縫っていた。
書物の匂い。
古い羊皮紙と、皮と、微かな樟脳。
防虫のための古代の処方。
空気は冷たく、一定の温度。
地下深くの、自然な冷却。
中央に、円形の広間。
大きな読書机が一つ。
机の中央に、握り拳ほどの石が置かれていた。
鈍い、白い石。
光石。
マテウスが机に近づいた。
石の上に、手のひらをかざした。
石が徐々に白く光り始めた。
ろうそくの二倍の明るさ。
「古代アウレリアの光石でございます」
「人の手の熱で発光する」
「油も火も要らぬ、照明」
俺は書架の間を歩いた。
書架の高さは俺の手が届かない。
書物は何万冊あるのだろうか。
そしてふと空気の流れに気づいた。
冷たい空気は階段の上から下りてくる。
しかし書架のある一方向から、微かに別の風が吹いている。
温度がわずかに違う。湿気も違う。
この第一層のどこかに、もう一つ、出入口がある。
マテウスはそれをまだ見せていない。
俺は風の出所を見た。
書架の最奥。光が届かない場所。
書架が壁に接しているように見えて──実は接していない。
マテウスの視線が、俺を追っていた。
「稜殿は空気を読まれますか」
俺は振り返った。
「はい」
「ここにもう一つ、扉がありますね」
老人の青い目が、微かに笑った。
嬉しそうではなく、納得した笑み。
「五百年、この冥書庫に入った者は、私を含めて三人」
「うち、一時間以内に第二の出入口に気づいたのは、あなたが、初めてです」
「第二の入口は」
「王宮の西塔の地下」
「カスパル宰相と私が、月に一度、密かに会う、その場所です」
俺は頷いた。
四十年王家を支えてきた老宰相と、五十年書庫を守ってきた院長が、月に一度ここで何を話すのか。
しかしそれを今問うのは早い。
マテウスは見せると決めた時に見せる。
─── ─── ───
マテウスは読書机の中央の位置に座った。
そして一冊の書物を机の上に置いた。
沈黙の書。
革の表紙。
羊皮紙、百五十葉ほど。厚さ、三センチ。
古代アウレリア文字が表紙に五文字刻まれていた。
俺の背筋に、熱いものが走った。
「稜殿。この書は、シルヴィウス二世の時代に編まれました。六百五十年前、アウレリア黄金期の絶頂でございます。その後、五百年前のクラウディウスが受け継ぎ、『終わりは、その時代の民が決めるべきだ』と空白の頁を残しました。四百年前の女王シビルが守り、そして二百年前、アルベリク一世とその弟アレクの時代に、我が国は崩壊した。鐘の坂の鐘は、その六百五十年の全てを、見ておりました」
マテウスの声は静かだった。
ここまでの十五年の仕事。
高樹さんの手帳の一行。
神崎の書状の日本語の一行。
すべてがこの一冊に繋がっている予感。
マテウスは書物をゆっくりと手前にずらした。
自分の指先の脂を丁寧に袖で拭った。
それから両手で、表紙を開いた。
古い羊皮紙の乾いた木の葉のような音。
その一連の動作を俺は見ていた。
そして──。
区立図書館の、閉館、午後八時。
棚の前で本を戻そうとしていた母の背。
ゆっくり膝が折れた瞬間。
母の手は本を握ったまま。
「本は読むより整える方が大事よ」
それが母の最後の一言だった。
俺は一瞬、息が詰まった。
母が死ぬ前に言い残したのは、本を読むことの価値ではなかった。
本を整えることの価値だった。
当時、十九歳の俺は、意味が分からなかった。
「読まなきゃ意味ないじゃないか」と、胸の中で反論したことを覚えている。
しかし今。
五十年、この冥書庫を整えてきたマテウスの指の動きを見て。
ようやく母の言葉の意味が分かる気がした。
整える、というのは、次の人のために、保つということだ。
マテウスは、書物を次の誰かに渡すために五十年、保ってきた。
母は誰かの次の読書のために、図書館を保っていた。
そして俺は。
十五年、案件を積み上げ、終わらせて、次の担当に渡してきた。
俺も整えていた。
気づかないで、整えていた。
マテウスが俺を見た。
「稜殿。何か」
俺は首を振った。
「いえ。続けてください」
老人は深く頷いて最初のページを指差した。
─── ─── ───
沈黙の書、第一の原則。
古代アウレリア語で書かれていた。
この世界で俺は、最初から話し言葉は理解できていた。耳で聞けば意味が取れる。しかし文字は読めなかった。転移以来、王宮の書類も、街の看板も、全て文字の形が奇妙に滑って、頭に入ってこなかった。
しかし──この書物の文字は、頭に入ってきた。
それも、まるで母語のように。
すらすらと読めた。
マテウスが俺の顔をじっと見ていた。
「稜殿。……今お読みになっていますか」
「はい」
「声に出して、読んでみていただけますか」
────
「助言は、決めさせるために、ある。
助言者は、決めてはならない。
助言者が決めるとき、
助言者の責は、助言者に残らない。
助言を受けた者の責も、消える。
責の所在を、設計せよ」
────
マテウスが杖の頭を握った。
手が震えていた。
「……稜殿」
「私はこの文字を読むのに五十年、かかりました」
「今の速度で読める者は、大陸に三人しかおりません」
「あなたは四人目になりました」
「しかも──初見で」
俺はマテウスを見た。
老人の目には驚きではなく、納得があった。
(──これまで読めなかった文字が、この書物だけは読める)
(──高樹さんの手帳の一行だけ、前世でずっと読めていた。あれと、同じ系列の文字だからかもしれない)
俺はそう流した。
マテウスは何も言わなかった。
しかし杖を握る手は震え続けていた。
─── ─── ───
俺は息を止めた。
これは俺が十五年やってきた仕事の核心だった。
前世で、俺はクライアントに三つの案を並べた。
そして決めるのはクライアントと、徹底した。
功績も失敗もクライアントに残るように。
しかしそれを古代語で五行、ここまで凝縮した者がいた。
五百年前に。
マテウスが静かに続けた。
「この書は全部で五つの原則から成っております」
「今お見せしたのは第一の原則のみ」
「残る四つは、あなたが自力で読む資格を得るまで、封じられています」
「……資格を」
「はい」
「第二原則は第二の扉が開かなければ読めません」
「第三原則は第三の扉が。第四は第四の扉が」
「──扉は全部で、四つある」
「そして第五原則は」
「書物のどこにも書かれていないのです」
俺はマテウスを見た。
「どこに書かれているのですか」
老人は書物を静かに閉じた。
「第五の原則は継承者が自らの人生で、書き加えるものです」
「書物には、五原則めの頁が空白のまま残されている」
「五百年、誰もその頁を埋められなかった」
─── ─── ───
俺は羊皮紙の空白の最終頁を見た。
薄く、古代語の下線が五行引かれていた。
そこに何か書くべき文字が、まだ書かれていない。
五百年、空白。
俺は机の上の光石を見た。
マテウスが手をかざしてろうそくの二倍の明るさだった。
俺は何気なく、指先を石に触れた。
次の瞬間。
光石が、白く、眩しく、燃え上がった。
ろうそくの五倍か六倍の明るさ。
冥書庫全体が、青白い光に包まれた。
書架の奥まで影が走った。
石の壁に彫られていた古代の彫刻が初めてその輪郭を現した。
マテウスが息を呑んだ。
「……稜、殿」
老人の声は震えていた。
「光石は触れただけでは発光いたしません」
「手の熱を感じ取るのに、十秒、かかります」
「しかも、ろうそくの二倍までが限度」
「──五倍を見た者は、この大陸におりません」
俺は指を光石から離した。
光がゆっくりと通常の明るさに戻った。
(──触れただけだから、偶然だろう)
俺はそう流した。
しかしマテウスは今度は、座り込むように杖を支えにしていた。
「稜殿」
「あなたが正統な継承者であることは、昨日、契約書の光で分かっておりました」
「しかし──あなたはただの継承者では、ない」
「……と仰ると」
「六百五十年前、トルメアスが五原則を書いた時の光石の記録が、残っております」
「トルメアス本人が、指先で、光石を五倍にしたと」
老人は深く一礼した。
「稜殿」
「あなたはトルメアスの、正統な継承者でございます」
「一人の弟子だけが持つ資格」
「六百五十年、待たれていた方でございます」
俺はマテウスを見た。
数秒の沈黙。
(──誇張だろう)
(──光石は古いものだ。たまたま俺の手との相性がよかったのだろう)
そう流した。
マテウスは杖を支えに立ち上がった。
手は、震え続けていた。青い瞳に水が浮かんでいた。
五十年、書庫を守ってきた老人が、六百五十年前の伝説を自分の生きている間に見たのだ。
声にならない涙が、頬の皺の一つに落ちた。
─── ─── ───
マテウスは書物を机から下げた。
「稜殿。本日はここまででございます」
「残る四つの原則に至るまでに、長い道のりがございます」
俺は頷いた。
しかし一つだけ訊いておきたいことがあった。
「院長殿」
「神崎閣下も、この書物を読んでいますか」
マテウスの青い目が一瞬遠くを見た。
「おそらく第一原則は読んでおられます」
「ただし彼は──読んだだけで、書こうとしていないのではないかと」
「……書く」
「はい」
「第五原則を、空白のまま持っている可能性がございます」
「それゆえにあなたと対峙する必要があるのかもしれません」
俺は息を吐いた。
神崎は俺と同じ原則を知っている。
しかし俺と違うやり方でそれを運用している。
何が違うのか──第一原則のどこに解釈の余地があるのか。
それは今分からない。
しかし一つ、確信したことがあった。
一月後、中立地帯の月影亭で、俺たちは、五百年分の解釈をぶつけ合う。
─── ─── ───
地上に戻った。
夕陽が修道院の石の壁を赤く染めていた。
月光の月の九日目の陽。
マテウスが俺に鉄の小さな鍵を差し出した。
「これをお持ちください」
「夜の門の予備の鍵です」
「いつでもお一人で、お入りください」
俺は両手で受け取った。
古い、黒い、鉄。冷たい。
「私は五十年、この鍵を誰にも渡しませんでした」
「今お渡しできることが、生涯で最大の喜びでございます」
老人の青い目に、初めて水が滲んでいた。
─── ─── ───
書記官室に戻った。
ロッテが机で書類の山と格闘していた。
「あ、師匠! お帰りなさい」
俺は机の前の椅子に座った。
胸ポケットから革の手帳を出した。
「師匠、顔色、いいですよ」
ロッテがにこっと笑った。
「何か、いいことありましたか」
俺は少し考えた。
「……五百年ぶり、らしい」
「え?」
「気にするな」
ロッテは首を傾げた。それからまた書類に戻った。
俺は手帳を開いた。
高樹さんの一行のすぐ下。
昨日までに書き加えた数行。
今日、もう一行を書き加える。
千二十年、月光の月、九日目。
沈黙の書、第一原則、確認。
残り四つ。そして、空白の第五。
ペンを置いた。
手帳の革が、昨日より微かに温かかった。
ロッテがふと顔を上げた。
「師匠、その手帳、いつも持っておられますね」
「ああ。十五年前から、だ」
「師匠の大切なもの、なのですね」
俺はロッテを見た。
ロッテの目は何気なく、そう言っていた。
(──大切なもの、か)
前世で、俺はこの手帳を仕事の道具としてしか見ていなかった。
しかしここ数日、この手帳は温かくなる。微かに、しかし確かに。
(──もしかして、道具ではなく、仲間だったのかもしれない)
俺は少し笑った。
「そうかもしれん」
ロッテはこくん、と頷いた。
そして書類にまた戻った。
─── ─── ───
その夜。
月の庭に、俺は一人でいるつもりだった。
石のベンチ。月花の蕾が三つ膨らんでいた。
夜の風は微かに甘い。月花の香りだった。
俺は沈黙の書の、第一原則を思い出していた。
「助言は決めさせるために、ある。助言者は決めてはならない」
前世で、俺はこの言葉を自分で発見したつもりでいた。
十五年の経験から、自分で辿り着いた結論だと思っていた。
しかし今日、マテウスの冥書庫で知った。
この言葉は五百年前に、誰かが書いていた。
そして俺は、その誰かの正統な継承者らしい。
(──俺はオリジナルだと思っていた)
(──本当は継承者だった)
不思議と落胆はなかった。
むしろ安心に、似たものがあった。
一人で辿り着いた結論は、一人で守らなければならない。
しかし六百五十年前から続く系譜の一員であるならば、俺は一人ではない。
六百五十年前のトルメアス。
その後の、幾人もの継承者。
そして高樹さん。
俺は、その延長線の最新の一人。
月花の蕾が一つ開いた。
青白い燐光が、ふわりと立ち昇った。
その時、背後に、衣擦れの音がした。
振り返るとセレネが立っていた。
─── ─── ───
「……師」
セレネがそう呼んだ。
声は先日の月の庭の時よりさらに甘く、震えを帯びていた。
俺は立ち上がって一礼した。
「殿下。お夜分に」
「はい」
セレネは俺の隣のベンチに座った。
距離は先日より少しだけ、近かった。
三つ編みが、彼女の肩甲骨の間で一度揺れた。
月光に、首筋の白が光っていた。金の髪の一筋が、そこに落ちていた。
「師」
「一月後、月影亭に向かわれる時」
「はい」
「──私も、ご一緒させていただけないでしょうか」
俺はセレネを見た。
青い目は、まっすぐ俺を見ていた。
膝の上の手は、ドレスの布を握っていた。指が白くなっていた。
俺は数秒、考えた。
そして正直に答えた。
「殿下。お気持ちは有り難く存じます」
「しかし、それはなりません」
セレネの指が、一瞬、より強く布を握った。
「……なぜ」
「殿下が同行されれば神崎はあなたを人質として使う選択肢を持ちます」
「そしてあなたが同行されれば、私はあなたを守ることに、集中しなければなりません」
「そうなると、神崎と対峙する集中が、削がれます」
セレネは唇を噛んだ。下唇を、白くなるほど。
それから、ぽつりと言った。
「……師は、ずるいです」
「殿下」
「私が役に立つことを兄上に証明した矢先に」
「役に立たないところに留まれ、と仰る」
俺はセレネの横顔を見ていた。
彼女は泣いていなかった。しかし頬が微かに染まっていた。
十六歳の少女が、四十二歳の男の判断に、初めて拗ねている顔だった。
俺は少し笑った。
「殿下。拗ねておられますね」
セレネは顔を上げた。俺を見た。
「……拗ねて、おります」
一瞬の沈黙の後、セレネも、小さく笑った。初めての、少女らしい笑い方だった。
「殿下。一つ、お願いできますでしょうか」
「はい」
「私が月影亭から戻る日、第一の間で、お待ちいただけますか」
「帰って最初に、殿下にご報告を差し上げたい」
セレネの目が、微かに濡れた。
今度は嬉しさの涙だった。
「……はい、師」
そして彼女は小さな声で付け加えた。
「パンを、買って、戻ってきてください」
「──銀貨の残りで、パンでも何でも」
俺は頷いた。何かが胸で温かくなった。
─── ─── ───
セレネが帰った後、俺は月花の香りの中で、しばらく座っていた。
手帳が、今までになく温かかった。
そしてふと胸の中で、一つの言葉が浮かんだ。
空白の第五原則。
五百年、誰も書けなかった頁。
俺にその資格があるのかは、分からない。
しかし一つだけ、今の俺に書ける気がすることがあった。
助言者は決めてはならない、と第一原則は言う。
ならば、第五原則は、こう続くかもしれない。
助言者は、決めさせた後の沈黙に、耐えよ、と。
俺は月の庭で、小さく頷いた。
─── ─── ───
【帝都ヴェルデン、皇宮】
同じ時刻。
神崎の執務室。
星の砂時計は静かに砂を落としていた。
机の上に、小さな古い本があった。
革の表紙。厚さ、二センチ。
沈黙の書の、写し、だった。
しかしそれは完全な写本では、なかった。
第一原則だけが写されていた。
残る四つの原則は白紙だった。
第五原則の空白の頁も、そこにあった。
神崎はその白紙を指でなぞった。
「稜」
「お前は、四つを読めるのか」
囁くような声で呟いた。
副官は隣室にいた。
神崎は机の引き出しを開けた。
底に、小さな円の中の一本の縦線の印章があった。
稜の印章と同じ形。
二十年前、高樹壮一郎が神崎に手渡したもの。
破門の時、返せと言われたが、返さなかった印章。
神崎は印章を指で撫でた。
「──先生」
「僕は、まだこれを、持って、います」
声に、敬語が戻っていた。
誰も聞いていない場所でだけ、戻る敬語。
二十年前、破門された夜、神崎は高樹壮一郎の前で「失礼いたします」と最後の敬語を使った。
それ以降、神崎は誰にも敬語を使わなかった。部下にも、皇帝にも。
ただ一人、心の中の先生にだけ、敬語を使い続けていた。
神崎は目薬を差さなかった。
本心を言う時だけ、差さない。その習慣は、二十年、変わっていなかった。
「先生」
「僕は破門の日に、僕自身で光を見ないように、目を瞑りました」
「今も、目薬で、湿しております」
「──稜は、光を見ているのですか」
答える者はいなかった。
星の砂時計の金の砂だけが、静かに落ちていた。
神崎は、しばらくそのまま、印章を撫でていた。
そして二十年ぶりに、声を震わせて、笑った。
それから彼は立ち上がり、窓辺へ歩いた。
帝都の夜空を見上げた。
星が瞬いていた。
神崎は手の中の印章を、月光にかざした。
円の中の一本の縦線が、影となって、彼の手のひらに落ちた。
「稜」
声は夜空に溶けた。
「お前が光を見ているなら、俺は、その光を、消したい」
「──しかし、消す前に一度、その光を、抱きしめたい」
どちらが本心か、神崎自身にも分からなかった。
あるいは、どちらも本心だった。
一月後。
中立地帯、月影亭。
二人の継承者が、五百年分の沈黙を、破る。
第5話、完。
あとがき
冥書庫の夜の門、ようやく開きました。
「ルミナ・パクス」──高樹さんが二十五歳の稜に授けた、短いフレーズ。意味を知らずに十五年唱えてきた言葉が、千年前の合言葉だったと分かる瞬間を、書き終えた時、私も席を立ちました。
光石が青く脈打つ描写、アニメで見たいシーンのひとつです。
次話もお楽しみに。
冥書庫の夜の門、ようやく開きました。
「ルミナ・パクス」──高樹さんが二十五歳の稜に授けた、短いフレーズ。意味を知らずに十五年唱えてきた言葉が、千年前の合言葉だったと分かる瞬間を、書き終えた時、私も席を立ちました。
光石が青く脈打つ描写、アニメで見たいシーンのひとつです。
次話もお楽しみに。




