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書状を燃やさなかった夜

 月光の月の八日目。

 朝の鐘が五つ鳴った。

 昨夜、俺は書状を燃やさなかった。

 暖炉の火に放り込めば、書状は一瞬で灰になる。簡単だった。

 しかし俺は燃やさなかった。

 燃やせばあいつの書状がこの世界から消える。消えれば俺の中のあいつも、ここにいないことになってしまう。

 俺は書状をもう一度畳んだ。蜂蜜漬けの瓶の隣に置いた。王女の瓶、ロッテの南瓜の瓶、そして神崎の書状。

 三つが机の上に並んだ。

            ─── ─── ───

 朝の書記官室。

 ロッテが羊皮紙の束を両手に抱えて、入ってきた。

 「師匠、おはようございます!」

 「今日の書類、揃えておきましたっ」

 そして昨日と同じように、書類を少しこぼした。

 「あ、」

 俺はしゃがんで拾うのを手伝った。

 「ロッテ」

 「はい」

 「お前は毎朝、書類を落とす係か」

 ロッテは真顔で考えた。

 「……そう、かも、しれません」

 俺は笑った。

 「ロッテ。朝飯は」

 「あ、まだです」

 「じゃあ、かもめ亭に行こう。ミラも呼ぶ」

 ロッテは目を大きくした。

 「お、王宮の方が、下町の食堂に、ですか」

 「書記官助手のあんたも、下町だろう」

 ロッテがぷっと笑った。「そうでした」

            ─── ─── ───

 かもめ亭。

 親父は朝の仕込みの最中だった。大きな鍋から白い湯気が立ち昇っていた。

 「稜さん。また来てくれたか」

 「三人、頼む。ミラは後から来る」

 ロッテは卓の端に座った。扉の向こうから小さな足音がした。ミラが駆けて入ってきた。

 「おにい、ちゃん」

 ミラは俺の隣に座った。ロッテを見て、数秒、観察した。

 「……あの、おねえちゃん、だれ」

 ロッテがにこっと笑った。

 「ロッテ! 師匠のお手伝いをさせていただいてます」

 そしてロッテは、懐から小さな包みを出した。

 「ミラちゃん、はじめまして! これ、昨日、作った、お菓子」

 ミラは包みを開いた。小さな茶色いクッキーが三つ。ミラは一つを口に入れた。

 表情が固まった。

 「……しょっぱい」

 ロッテが真っ赤になった。

 「え! え! 私、塩と砂糖、また、間違えました!?」

 親父が厨房から顔を出した。

 「お嬢さん、前もそれで、配達先の婆さんを泣かせただろ」

 ミラは真顔のまま、二つ目のクッキーを口に入れた。

 「……こっちは、あまい」

 「半分ずつ、混ぜたのか」

 ロッテが両手で顔を覆った。「私、ほんとに、ダメ……」

 俺は笑った。ミラも小さく笑った。

 ロッテは泣きそうな顔で、しかし自分も笑った。

 ミラが小さな声で言った。

 「……おにいちゃん、お仕事の、なかまが、できたの」

 俺はミラの頭に手を置いた。ロッテが優しい目でミラを見ていた。

 親父が三人分の鍋を卓に置いた。湯気の向こうで、ミラの目が一瞬、大きくなった。

 「師匠。これ、美味しいです」

 ロッテが半分、口に含んで言った。

 「この香辛料は港町の船乗りが持ち込んだやつだ」

 親父が鍋をかき混ぜながら答えた。

 「南のどこか、らしいぞ」

 俺は汁を口に運んだ。前世で食べた、どの鍋でもない、異世界の味。しかし親父の手から出た味は、前世の大将の味と、どこか似ていた。

 親父の余分な一切れが、ミラの器にそっと加わった。ロッテはそれを見て、何も言わなかった。ただ自分の器の汁をすすった。

            ─── ─── ───

 昼、俺はミラに路地裏を案内してもらうと伝えていた。仲間たちと会いたい、というミラの願いだった。

 石狼通り。

 黒に近い灰色の石畳に、午前の陽が斜めに落ちている。両側の漆喰の壁、剥がれた所から下地の石が覗いていた。洗濯物の灰色のぼろ布が、細い紐に三枚揺れている。

 犬の彫像。片方の耳が欠けていた。

 ミラが俺の袖を引いていた。

 「おにいさん、きて」

 路地の奥から三つ目の角を曲がる。小さな広場に出た。石塀に囲まれた三十平方メートル。

 子どもたちが五人、いた。

 俺の目が、自然に、階層を読んだ。

 一番背の高い男の子。十二歳くらい。肩が脂肪のない硬い骨の形に浮いている。右手の親指の付け根に、包丁を握る位置の古い胼胝。料理の心得がある手だ。

 次に十歳くらいの女の子。ミラと目線で意思疎通している。言葉を使わずに。爪の形が揃っている。誰かが切ってやっている。この路地で誰かが他人の爪を切れる。それはこの広場の中に、ミラとは別のもう一人の大人びた子どもがいるということ。

 残り三人は幼い。七歳から八歳。

 そのうち一番小さい男の子。ほかの三人と距離を取って壁際に座っている。膝の上に小さな羊皮紙の切れ端。その上に黒い炭。

 三秒で、秩序が全て見えた。

 年長(料理)、中間(管理)、末端(絵)、残り二人(幼児)。ミラはこの秩序の外側。どこにも属さず、全員を繋ぐ役。

(──この路地はまだ生きている)

 男の子の目が俺を見た。そして俺の姿を炭で羊皮紙に描き始めた。

 ミラが囁いた。

 「かくひと。カオ、って、いう」

 俺はしゃがんだ。子どもたちの目線に。

 「俺は高木稜。よろしく頼む」

 誰も返事をしなかった。

 ミラが代わりに答えた。

 「みんな、おにいさんにつたえることば、もってない」

 「──ひとは、しんじてうらぎられてきた、から」

 俺は頷いた。

 十五年、俺の仕事だ。信じて裏切られてきた人間に、もう一度信じさせるのが。

 俺は背嚢から小さな包みを取り出した。朝、王宮の厨房から持ち出した乾いた黒パン。五つ。

 一つずつ、子どもたちの前に置いた。

 誰も手を伸ばさなかった。ミラがカオに最初に渡した。カオが一口齧った。それからほかの三人が受け取った。

 絵を描き終えたカオが俺に羊皮紙を差し出した。

 手のひらほどの、小さな切れ端。そこに木炭で、俺が描かれていた。

 稜は、笑っていた。

 絵の中で、俺は目尻が下がって、口の端が少し持ち上がっていた。俺は固まった。最近、誰かに笑いかけた記憶がない。少なくとも前世を含めて十年は、こんな顔を自分で意識したことがない。

 しかしカオは、俺の何を見たのだろう。

 俺は絵を両手で受け取った。

 「ありがとう」

 カオは頷きもしなかった。ただ、俺の次に絵を描く予定のほかの誰かをもう見始めていた。

 俺は絵を革の手帳の間に、丁寧に挟んだ。羊皮紙の切れ端は、手帳よりひとまわり小さかった。

            ─── ─── ───

 午後、王宮の月の庭。

 石のベンチの俺の隣に、白い髭の老人が座っていた。

 マテウス院長。修道院長で、冥書庫の守護者。しかし俺にはまだ何も見せていない。

 マテウスがゆっくりと口を開いた。

 「稜殿。神崎閣下から書状が届いたとのこと」

 俺は頷いた。どうしてマテウスが知っているのか訊かなかった。修道院の伝書の鳥が王宮の上空を通過する時、書状の封蝋は修道士の目に映る。帝国宰相の深紅の蝋は、一目で分かる。

 「お読みになりましたか」

 「はい」

 「お返事は」

 「まだ」

 マテウスは杖の頭を両手で握っていた。干からびた指の関節が白く光っていた。

 「稜殿。私は昨夜、一つ夢を見ました」

 「……夢を」

 「冥書庫の夜の門が、五百年ぶりに開いた夢を」

 俺はマテウスを見た。老人の青い、遠くを見るような目。しかし今は俺をまっすぐ見ていた。

 「夜の門、とは」

 「冥書庫の入口です」

 「古代アウレリアの旧い血の掟を唱える者の前でのみ開く」

 「五百年、誰の前でも開かなかった」

 マテウスは続けた。

 「そしてその夢の中で」

 「夜の門は、二度、開いたのです」

 俺は息を止めた。

 二度、開いた。意味は一つしかない。旧い血の掟を唱える者が、二人、この大陸にいる。

 一人は俺。もう一人は──。

 「神崎、閣下」

 マテウスが頷いた。

 「冥書庫の古文書にこう記されています」

 「千年の闇が明けるとき、異邦人が二人、この大陸に立つ」

 「一人は王国の戦略顧問。一人は帝国の宰相」

 「二人は同じ師の弟子である」

 「二人は最後の盤を指し合う」

 俺は自分の手の指が、わずかに震えていることに気づいた。指を膝の上で握り込んだ。

 「稜殿。この大陸の名を、古い書はエルダリオンと記します。中央の内海を、五つの国が囲む。我がアウレリア、帝国ハーゲン、商業のヴェロニア、武のサルマティア、祈りのオスタール。五国は千年前、一つの文明でした。それが、ある時から砕かれ、今の形になった。古文書が言う『千年の闇』とは、その砕かれた千年のことです」

 マテウスの声は低かった。

 千年前、アウレリアが帝国だった時代、旧い血の掟を開いた初代の老師には三人の弟子がいた。

 第一の弟子は正統を継いで、その教えを守った。

 第二の弟子はその思想を帝国側に持ち帰った。

 第三の弟子は──記録から消えている。

 そして今俺と神崎がこの大陸に立っている。偶然では、ない。

 マテウスが静かに言った。

 「稜殿。私はあなたを試しました」

 「五百年、夜の門は誰の前でも開かなかった。しかしあなたの書いた契約書は光りました」

 一昨日の玉座の間。視察官を撃退した後、俺の羊皮紙が微かに光ったこと。

 「あれはあなたが正統な継承者である証です」

 「そして神崎閣下も──おそらく同じ光を帝国で発している」

 俺は長く息を吐いた。

 前世で神崎に書類を書かせた日が、何度もあった。あいつの書類は俺より速く、俺より正確で、俺より洗練されていた。高樹さんはしかし神崎を最後に破門した。理由は一度も、俺に説明されなかった。

 マテウスが立ち上がった。

 「稜殿。お返事をお書きになる時は」

 「燃やす、でも、逃げる、でもなく」

 「約束の言葉を、書いてください」

 「……約束を」

 「はい」

 「策を授ける者が、同じ者に与えるべき言葉です」

 老人は月の庭をゆっくりと離れていった。

 入れ替わりに、柱の陰から、金色の三つ編みが、一瞬だけ見えた。

 立ち聞きしていたのだろう。

 セレネだった。

 しかし彼女は俺の前には出てこなかった。ただ、三つ編みが肩越しに一度、浮いて、消えた。

 話を聞いてしまったことを、詫びる意味の、沈黙の会釈だった。

 俺は見なかったふりをした。

 月花の蕾が一つ、揺れた。セレネが息を吸った音が、届いていた。

            ─── ─── ───

 その夜。

 自室の小さな机。蜂蜜漬けの瓶、ロッテの南瓜の瓶、そして神崎の書状。

 俺は羊皮紙を一枚広げた。父の万年筆を取り出した。

 しかしペンが動かなかった。三時間、動かなかった。

 燃やす、は消去。逃げる、は保身。マテウスが言った「約束の言葉」は、そのどちらでもない。再会を、引き受けるということ。

 俺はふと、二十五歳の春を思い出した。

   丸の内の会議室。

   藍の作務衣の老人。

   「嘘を言うな」

   「お前は父の仇を討ちに来たのだろう」

   俺が一度、頷いた後。

   「──しかし仇を討つな」

   「父上と同じ道を歩むんだ」

 高樹さんは俺の「復讐」を「同じ道」に言い換えた。仇を殺すのではなく、同じ問題を自分が解決する側になる、という転換。

 そしてもう一つ、高樹さんが俺に言い残した一行が蘇った。木下建材の破産の夜、焼き鳥の煙の向こうで。

   東京、虎ノ門の居酒屋。

   十一年前の冬。

   焼き鳥の皿を無言で俺の前に押した高樹さん。

   「稜。お前は、一人の娘を殺した」

   「忘れるな」

   「二度と、決めさせない参謀になるな」

 あの夜の血の教訓が、今俺の背骨を支えていた。

 神崎に会いに行くとは、復讐ではない。あいつに決めさせること。

 殺すのではなく、対峙を決める。

 俺はペンを握り直した。

 羊皮紙に、古代アウレリア語で書いた。

   ────

 「ハーゲン帝国、宰相閣下。

  書状、拝受いたしました。

  一月後、青街道の村、月影亭にて、お待ちしております。

              アウリオン王国、戦略顧問 高木稜」

   ────

 最後の一行だけ、前世の日本語で書いた。

 神崎があの書状の最後を日本語で書いたように。俺も最後の一行を日本語で書く。

   ────

 「追伸。

  神崎。

  逃げない。

  今度は俺が勝つ。

              高木稜」

   ────

 ペンを置いた。

 羊皮紙が微かに温かくなった。微かに光った。五百年ぶりの光。

 俺は羊皮紙を畳んだ。封印用の蝋を火で溶かした。父の万年筆の尻にある小さな印章を押した。印章は円の中に一本の縦線。高樹さんが入社の日に俺に手渡したもの。「これは我々の印だ」と。意味は、高樹さんも俺も、本当の意味は知らない。しかし信じて使うと高樹さんは言った。

 封印が固まった。

 手紙の鳥が窓辺で待っていた。神崎が寄越した、黒い陶器の大きな鳥。今度は俺が返す番。

 俺は書状を鳥の腹の小さな扉に収めた。

 「一月後だ」

 「寄り道を、するなよ」

 鳥は目を開けた。

 そして普通の鳥ではありえない動きで、俺を一度、凝視した。俺の呟きを理解したように。

 マテウスが言っていた。「手紙の鳥は、主を選びます。主の声を覚えます」。しかし鳥が主の独り言を理解するのは大陸の記録にはない現象だった。

 俺は軽く頷いた。「偶然だろう」と、自分に言い聞かせた。

 鳥は夜空に飛び立った。黒い影が青い夜空に一筋、線を引いた。月花が一輪、散った。夜明けの兆しにはまだ早い時間だった。

 窓を閉めようとした時、廊下の向こうに、小さな灯りがあった。

 蝋燭を一本、手に持った金色の三つ編みが、立っていた。

 セレネだった。

 彼女は俺に頭を下げた。何も言わなかった。ただ、蝋燭の光で、青い瞳が一度、濡れているのが見えた。

 返事を送るこの瞬間を、彼女は廊下で待っていたのだ。

 俺はセレネに頷いた。

 「殿下。もう、お休みください」

 「……はい、師」

 声は震えていた。しかし今度の震えは、恐れではなかった。

 彼女は俺が逃げなかったことを、見届けたかったのだ。

 セレネは一歩、俺の扉に近づいた。蝋燭を持った手が、薄い影を作った。

 そして、もう一歩。

 距離が、先日の月の庭より、わずかに近くなった。

 「師。──どうか、生きて帰ってきてください」

 そこまで言って、彼女は口元を押さえた。言うつもりではなかった言葉が、こぼれた顔だった。

 俺は答えた。

 「帰ります」

 彼女は頷いた。三つ編みが、肩越しに一度、浮いた。

 それから背を向けて、廊下の向こうへ消えた。

 蝋燭の光が、漆喰の壁に、金色の揺らぎを描きながら、遠ざかっていった。

 俺は扉を、静かに閉めた。

            ─── ─── ───

    【帝都ヴェルデン、皇宮】

 三日後の夜。

 神崎は執務机の星の砂時計を止めた。金の砂が途中で固まった。

 副官が両手で一通の書状を差し出した。深紅の蝋。円の中に一本の縦線の印。

 「宰相閣下。アウリオンから」

 神崎は書状を受け取った。封印を割った。古代アウレリア語の簡潔な承諾の三行。

 そして最後の日本語。

 神崎は声を上げて笑った。副官が顔を伏せた。宰相のこの笑いは年に一度も聞かない。

 「──稜」

 「お前、今回は、逃げないのか」

 神崎は砂時計を逆さに返した。金の砂がまた落ち始めた。

 目薬を一滴差そうとして、やめた。

 本心を言う時だけ、あいつは目薬を差さない。その習慣は、今夜、誰にも見せる相手がいなかった。

 「一月後か」

 神崎の口の端が弧を描いた。

 「楽しみで仕方がない」

 「──久しぶりに、楽しみで仕方がない」

 そして彼は立ち上がった。執務室の窓を開けた。

 帝都の夜空に、稜の返事を運んだ鳥の方角を探した。

 星が瞬いていた。鳥はもういない。

 神崎はしばらくそのまま、窓辺に立っていた。二十年前、破門された夜に、高樹壮一郎の家の前で、同じ姿勢で立っていたように。

「燃やさない」「逃げない」「引き受ける」──稜がこの夜、選んだ三番目の道を、書きたかったのです。

路地裏の子カオが描いた、稜の笑顔。

本人も知らなかった顔を、小さな子が見抜いていました。

子供の目は、時々、大人より鋭いです。

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