鍋汁の食卓に、十五年越しの書状が届いた
月光の月の七日目。
朝、アウリオンの鐘が満月前の七つを鳴らした。
王都の東側、古い王宮の時計塔の跡に、鐘の坂と呼ばれる一角がある。千年前、アウレリア黄金期に築かれた四つの時計塔のうち、二百年前の崩壊で三つが倒壊し、坂の上の一つだけが残された。以来、毎時、そこから鐘が鳴る。敗戦後も、屈辱の中でも、鐘は止まらなかった。この都に生まれた者は、鐘の音を聞いて育ち、鐘の音を聞いて死ぬ。
第一の間に向かう途中、回廊の修道士がこちらに一礼した。軽く顎を引く。同時に「海と、月に」と静かに唱える。
アウレリアの朝の挨拶。海と月こそがこの国を守るものだ、という古い祈り。昨日、マテウス院長から教わった。
俺も同じ挨拶を返した。
─── ─── ───
王宮で俺に与えられた部屋は、書記官室の奥の小部屋だった。元は書庫の一室。昨夜、セレネから受け取った蜂蜜漬けの瓶を、寝台脇の棚にそっと置いた。朝、その横で手帳を開いた。昨日の一行の下に、もう一行。
三ヶ月で、徴用令を半分に縮小する。
半分、と書きながら俺は知っていた。
これは交渉のためののびしろの数字。本当の目標は三割縮小。
しかし最初に「半分」と書けば、相手は「三割」で合意したくなる。
(──前世で、何百回、使った手だ)
昨日王に伝えた俺の流儀は、「一案と、撤退条件」。
これは味方に対する流儀だった。
今日相手にするのは敵──ハーゲンの視察官。
敵に撤退条件を差し出す必要はない。
敵に渡すのは、一案と、それを呑まない場合の破滅だけでいい。
背骨の奥で、木下建材の会長の白髪が一瞬、揺れた。
あの時の俺は、相手が敵か味方かの区別もせず、「この案しかない」と迫った。
敵に差し出すべき流儀を、味方に差し出してしまったのだ。
十一年の贖罪を経て、ようやく俺は、相手の立ち位置で自分の差し出し方を変えることを、身体で覚えた。
─── ─── ───
書記官室の扉が、勢いよく開いた。
「師匠──!」
入ってきたのは二十歳前後の若い女性だった。
栗色の髪を肩の高さで縛っている。茶色のワンピースに、書記官助手の腕章。両手に羊皮紙の束を抱え、息を切らしていた。
書記官室の床に、書類を少しこぼした。
慌てて拾おうとして、また、こぼした。
三度目で、ようやく全部を抱え直した。
そして三度目に立ち上がろうとした時、今度は扉に、額を軽くぶつけた。
俺は、笑ってしまった。
「大丈夫か」
「すみませんっ、全然、すみませんっ」
赤くなった額を片手で押さえながら、彼女は書類を差し出した。
俺は数秒、固まった。
師匠、という言葉が胸に残った。
「……あんたは」
「あ、はい!」
彼女は顔を上げた。「書記官助手、ロッテと申します!」
「師匠の補佐につくようにって、昨夜、カスパル様から仰せつかりましたっ」
俺は彼女を見た。二秒あれば十分だった。
手の皮、ペンの右中指の薄く磨かれた丸い跡。三年以上、書類を書き続けた手。しかし肩書きは書記官助手。書き写しはできるが、内容を理解して書く訓練は受けていない。
ブラウスの襟。糊の利きが均一すぎる。自分で洗って自分でアイロンをかけている。
にもかかわらず、走ってこけて謝って、頬を赤くしている。人目を気にしない明るさは、家族に愛された証拠。
そしてロッテの目が机の上の俺の手帳を一秒だけ凝視した。何事もなかったように書類に戻った。読もうとしたのではなく、何かを感じ取ったのだ。
(──頭脳ではない別の回路で情報を拾う型)
(──使い方を覚えれば、俺が持っていない目になる)
─── ─── ───
午後、第一の間。
視察官が再び現れた。昨日、広場で俺が公衆の面前で論破した男、ヴィスカルト・フォン・ハーデン。
昨夜のうちに、俺はカスパルから彼の事情を聞いていた。ハーゲンの没落貴族、侯爵位復活を狙う若手官僚。昨日の失態は、帝国にとっては大失点。しかし本国からの裁定が届くまで彼は監督官の任を解かれず、挽回の機会を与えられた恰好らしい。
そして今朝、帝都から早馬の速達が届いた。カスパルの諜報網が、その速達の存在を掴んだ。内容までは掴めていない。しかし速達が届いた直後にヴィスカルトが第一の間への面会を申し込んできた、という事実──これだけで十分だった。
彼は今日、昨日の失態を挽回する何かを手に、やって来る。
ヴィスカルトが入室した。昨日と違う顔をしていた。金髪を後ろに撫でつけ、細い顎鬚は同じ。しかし爪を噛む頻度が昨日の三倍だった。右眉が微かに痙攣していた。
本国の指令が、彼の想定と食い違っているのだろう。指令が強硬なら彼は晴れやかに来る。指令が弱腰なら彼は堂々と来る。震えながら来るということは、指令自体が矛盾しているということ。
俺はヴィスカルトに一礼した。
「使者殿。どのようなご用向きでしょうか」
ヴィスカルトは数枚の書類を差し出した。その手は昨日より震えていた。
「ハーゲン帝国より、一時的な譲歩をご提示する」
「今月の徴用令は暫定措置として、三割、縮小」
「──ただし来月以降の交渉は別途」
譲歩を持ってきた。
昨日公衆の面前で負けた男が、翌日に譲歩の使者として舞い戻った。これは彼の意思ではない。本国の指令だ。しかし、震えているということは、譲歩を本心から呑んでいないということ。
つまり彼は本国の指令で「三割譲歩」を伝えに来た。しかし本音では三割以上は絶対に譲りたくないと思っている。指令と本音の乖離が、指の震えになっている。
俺はヴィスカルトの肩の角度を見ていた。正面に向いているが、背骨が何かに押されているような姿勢。背後から誰かが彼を前に押し出している──そんな姿勢だった。
(──本国からの指令と、現場の論理が、ズレている)
「使者殿。ご提案、感謝いたします」
「しかし三割では、私どもの下限に届きません」
ヴィスカルトの眉が動いた。
「……下限、と仰ると」
「四割でなければ、引き下がれません」
ヴィスカルトの顔が固まった。彼は爪を噛んだ。その指がいつもより震えた。
俺は続けた。
「なお、私どもの要求は昨日も申し上げた通り、第十四条但し書き三項の契約違反の事実に基づく」
「一時的な譲歩ではなく正式な修正を要求いたします」
俺は卓上に三枚の羊皮紙を並べた。昨夜、カスパルに頼んで修道院のマテウス院長から冥書庫の記録を借りてもらった。十五冊の古い記録集。
文字は俺にはまだ読めない。しかしカスパルが夜通し音読してくれた。俺は耳で聞いて、必要な三箇所を選び出し、カスパル自身の手で清書してもらったものが、今卓上にある三枚の羊皮紙だった。
羊皮紙、一。属国契約書、第十四条但し書き三項の原文。
羊皮紙、二。百五十年前、初代の属国契約書を結んだルドヴィク一世の自筆メモ。「この条項は宗主国が実戦中に限って発動可能」と明記されている。
羊皮紙、三。過去百年で、他の属国国家(二国)が同様の条項について「実戦なき発動は契約違反」として統治委員会に正式に異議申立を行った記録。
ヴィスカルトは羊皮紙を一枚ずつ見た。法務担当の中年官吏が、二枚目で息を飲んだ。統治委員会の若い使者が、三枚目でヴィスカルトを見た。
そしてカスパルが部屋の端で、震える声で呟いた。
「稜殿は昨晩、私が読み上げた十五冊の記述を、全て、耳で聞いただけで、頭の中で整理なさいました」
「……四十年、私が整理できなかった論点の順序を、一晩で」
(──構図が見えた)
(──若い使者は俺の側に、既に引っ張られた)
ヴィスカルトは長い沈黙の後、震える声で答えた。
「……暫定措置として、徴用令を、三割縮小する」
想定通りの言葉。俺は羊皮紙を静かに畳んだ。ここが本当の下限だった。
俺は深く頭を下げた。
「ご英断、感謝いたします」
東京、虎ノ門の居酒屋。
七年前の春の雨上がりの夜。
俺の隣で水割りを置いた男。
「人間は駒です。動かせる駒と、動かせない駒」
その声が一瞬、耳に蘇った。
(──戦場の勝ち方は、お前が教えてくれた)
(──しかし俺は、お前の駒にはならなかった)
ヴィスカルトが帰り際、俺の方を一度だけ振り返った。その目の奥で、何かが既に暗い炎になっていた。侯爵位復活を夢見た男が二日連続で公衆の面前で屈した。彼はこの男を殺す理由を、既に手に入れていた。
─── ─── ───
その夜、俺は書記官室にいた。
ロッテが入ってきた。
「師匠! 夜に失礼します」
手に、小さな包みを抱えていた。
「これ、母の蜂蜜漬けです! 今朝、セレネ様が師匠に差し上げたっていうの、聞いて。うちは南瓜の蜂蜜漬けを作るんです」
ロッテは小さな水色の瓶を俺の机に置いた。青い花の絵が描かれていた。
瓶を机に置く時、また何かに蓋が軽く当たって、小さな音が鳴った。ロッテは驚いて瓶を両手で包んだ。
「あ、割れてない! 大丈夫です師匠!」
俺は少し笑った。
「……ありがとう」
ロッテはぱっと笑った。
「師匠、今夜、王宮の食堂でカスパル様が『六人で一緒に食べよう』って」
「陛下もセレネ様もマテウス様も。私も末席に加えていただけるそうで」
俺は頷いた。
(──六人の食卓。八年ぶりにこの王宮で)
─── ─── ───
王宮の食堂。
八年間、誰かが使っていなかった部屋。昨日、ロッテと三人の侍女が一日がかりで磨いた。
長いオーク材の食卓。六人、並んだ。王、セレネ、俺、カスパル、マテウス、ロッテ。
中央の陶器の鍋に、魚と野菜の煮込み。かもめ亭の親父の倍ほどの上等な魚だった。
カスパルが配膳した。最初の器は王ではなく、ロッテの前に置いた。
「末席の方を、最初に」
ロッテがあわてて頭を下げた。「い、いえ、陛下から……!」
王が少し笑った。「カスパルは今日、順序を崩したのだな。俺は最後でいい」
カスパルは配り始めた。そして、セレネの器を、マテウスの方へ置き間違えた。マテウスが微笑んで、器をそっとセレネに回した。セレネが微笑んで受け取った。
カスパルが一度、目を閉じた。
「……四十年の中で、最も不手際な配膳でございました」
王が吹き出した。ロッテが笑った。俺も笑った。カスパルだけが真顔だった。
全員に器が配られた。王は最後に自分の器を受け取った。
王が器を両手で持ち、一度、静かに頭を下げた。
「……いただきます」
全員が同じ動作をした。
─── ─── ───
ロッテが最初に声を上げた。「……おいしい」
セレネが小さく笑った。「ロッテ、あなた、毎日、王宮の食堂で何を食べているの」
「朝はパンとチーズと薄い麦茶です。昼は厨房の残り物。夜は家で、母の南瓜の蜂蜜漬けとパンです」
セレネは目を細めた。「では、お魚は」
「……母が徴用される前までは、週に一度食べました」
食卓の空気が一瞬止まった。マテウスが静かに口を挟んだ。
「ロッテ殿の母上は徴用されて、今どちらに」
「ハーゲンの鉱山です。三年、便りがございません」
ロッテは自分の器を両手で包んでいた。顔は下を向いていた。しかし声は震えていなかった。
俺はロッテを見ていた。彼女の明るさは、母親の不在を背負った上の明るさだった。
王が静かに言った。
「ロッテ。俺たちは今徴用令を三割、縮小する交渉を始めた。一気に連れ戻せるわけではない。しかし始まったのだ」
「……お前の母上が戻る日を、信じてほしい」
ロッテが顔を上げた。目は濡れていた。しかし笑っていた。
「はい、陛下」
カスパルが配膳の手を止めて、目を閉じた。
セレネの手が卓の下で静かに動いた。自分の蜂蜜漬けの瓶をロッテの方へそっと押した。ロッテがそれに気づくとセレネは微笑んだ。「私の瓶、一緒に開けましょう」
ロッテの目がまた濡れた。しかし今度は笑いながら濡れた。
─── ─── ───
食事が進んだ。
誰かが無理に話題を振るのではなく、自然と話が流れた。
カスパルが若い頃、王家の使者としてヴェロニアに派遣された話。セレネが人質時代に食べた、オスタールの謎の果物の話。マテウスが修道院の若い見習いの頃、古代アウレリア文字を何百枚も書き写させられて手が曲がった話。ロッテが去年、書記官室の同僚と川に釣りに行って靴を流された話。
俺はあまり話さなかった。ただ六人の声を聞いていた。
前世で俺は十五年、会食をしてきた。しかし誰かと共に熱いものを分け合うという本当の食卓は、数えるほどしかなかった。
今目の前に五人の人間がいた。俺の新しい仕事仲間だった。
胸ポケットの手帳が微かに温かかった。
─── ─── ───
その時だった。
食堂の東向きの窓。青い夜空の向こうから、何かが舞い降りてきた。
鳥、だった。しかし普通の鳥ではなかった。
全体が黒い陶器。翼を広げた時、接ぎ目の線が蝋燭の光に浮かび上がる。そして大きさが普通の鳥の二倍以上。
手紙の鳥。古代アウレリアの通信装置。しかしこんなに大きいものを俺は見たことがなかった。
鳥は窓の石台に音もなく降りた。目が青く光った。背中の小さな扉が、自動で開いた。中から一通の書状がすべり落ちた。
深紅の封蝋。丸い印章。翼を広げた鷲。
ハーゲン帝国の、正式文書、だった。
マテウスが息を呑んだ。カスパルが静かに立ち上がった。王が顔を青ざめさせた。
セレネの唇が微かに震えた。両手が卓の下できつく握られた。
俺は書状を拾った。封蝋を割った。
────
「アウリオン王宮にて、功を成された、戦略顧問殿へ。
かの国の再興、心よりお祝い申し上げる。
ついては、中立地帯にて、貴殿と一席設けたく思う。
旧知の仲、語るべきことも多い。
一月後、青の街道沿いの村、月影亭にて。
ハーゲン帝国、宰相」
────
書状の最後の行だけ、文字が違った。
古代アウレリア語ではない。
前世の日本語、だった。
────
「追伸。
稜。
久しぶりだな。
この世界でも、逃げるなよ。
神崎 玲」
────
流麗な古代アウレリア語の筆跡。しかし俺には一瞬で分かった。
文字の角度、右に三度傾いている。あいつの署名のいつもの癖だった。
─── ─── ───
俺の手が震えた。
セレネが俺の異変に一瞬で気づいた。
「師……?」
セレネの声は普段より高く、甘く、そして震えを帯びていた。
机の下で膝の上の布を両手が握った。指先が白くなった。
青い瞳が、俺の震える手を見て、それから俺の目を見た。
濡れた瞳だった。涙ではない。何かを察した瞬間の瞳の潤みだった。
三つ編みの先端が、一瞬、セレネの肩甲骨の間で揺れた。
十六歳の少女が、四十二歳の男の異変を、自分のことのように受け止めていた。
俺は答えられなかった。
路地裏の寿司屋。
暖簾の青。
隣に座った男。
目薬で湿した目。
「……うまい」
その「うまい」の発音が、初めてその言葉を口にする人間のそれだった。
七年の付き合いの始まりの夜。
十五年、俺の一番近くにいた男。一緒に何十という案件を成功させた。同じ師の弟子だった。しかし最後の三週間前に、俺を嵌めた男。
その男がこの世界にいた。
(──神崎、玲)
(──お前、本当にいたのか)
俺は書状を静かに畳んだ。ゆっくり息を吐く。五人の視線が俺に集まっている。
そして俺は一言、言った。
「陛下」
「──一月後、青の街道で、宰相に会ってまいります」
王が息を呑んだ。セレネが声を押し殺した。カスパルがゆっくりと席に座り直した。
マテウスだけが静かに目を閉じた。まるで既に予知していたような顔だった。
─── ─── ───
【帝都ヴェルデン、皇宮、前夜】
同じ書状を書いたのは昨夜のことだった。
神崎の執務室。机の上、白い羊皮紙と鵞ペン。
神崎はまず古代アウレリア語で丁寧に書いた。流麗な筆跡。しかし署名の角度だけを右に三度、意図的に傾けた。この癖を稜なら一瞬で見抜くと神崎は知っていた。
「あいつは見る」
副官には聞こえない声で呟いた。
それから最後の一行だけ、前世の日本語で書いた。
「逃げるなよ」
書いた後、神崎は鵞ペンを置いた。引き出しを開け、円の中の縦線の印章を取り出した。稜と同じ形の、二十年前、師が授けた印。
神崎はこの印章を書状の封には使わなかった。代わりにハーゲン帝国の公式の封蝋を使った。二つを混ぜない──それが神崎なりの礼儀だった。
公的な書状は公的な印で。私的な追伸は、師の印でなく、ただの友としての名前で。
書状を鳥の腹に収めた時、神崎は一度だけ、目薬を差した。本心を言い終えた、という合図だった。
「飛べ」
鳥は南へ飛び立った。
ロッテ、ようやく登場です。
書類を三回落とし、扉に額をぶつけ、それでも明るい二十歳の書記官助手。
この子は、稜にとって「肩の力を抜ける相手」として、これからも物語を支えてくれます。
末尾の神崎の書状。差出人の名前を、最後まで隠しました。
読者の皆様は、誰からの書状か、気づかれましたでしょうか。
次話、その書状の中身が明かされます。




