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判断できない王と判断してみせた王女

 朝の鐘が三つ鳴った。

 昨夜、俺はほとんど眠らなかった。王宮の一室を与えられた後、老宰相カスパルと二人で、深夜まで話した。王家の記録、過去百年のハーゲンとの関係、属国契約書の条項、四大国の力関係──カスパルが知っていることを、俺が聞き、順序立てて頭に入れた。

 カスパルは驚いた。「一度、耳で聞いただけで、四十年分の整理を一晩でなさるのか」と。

 俺自身は、前世からの癖としか思っていなかった。相手の言葉をそのまま録音したように覚える、悪い癖。

 朝までの数時間、カスパルに口頭で指示し、一枚の羊皮紙に大陸全土の勢力図を書かせた。文字は俺が書いたのではない。しかし線の位置、色の濃淡、名前の並び、全ては俺の頭の中で組み上げた通りに、カスパルの手が動いた。

 朝の市場で、パンを買った。ミラに一つ、自分に一つ。

 「おにいちゃん、目が、赤い」

 ミラは真顔だった。

 「寝てないからな」

 「かわいそう」

 ミラは自分のパンを半分、ちぎって俺に差し出した。俺は受け取らなかった。代わりにミラの頭に手を置いた。

 「お前の半分は、お前が食え」

 ミラは、こく、と頷いた。

            ─── ─── ───

 王宮本館の東。第一の間。

 八年ぶりに掃除された部屋だった。六メートルの天井に石造のアーチ。東向きの縦長の窓が三つ。それぞれの上半分に、青・赤・緑の硝子が嵌まっていた。朝日が硝子を通り抜け、石の床に三本の色の帯を描いている。

 青の帯は水のように揺らぎ、赤の帯は血のように滲み、緑の帯は森のように静かだった。三本の帯は石の床の中央で一度重なり、白い光の点になった。その点の真上にレオン王は既に座っていた。

 古代アウレリア時代の意匠。色硝子を作る技術は、今は失われている。

 楢の木の長机の上に、羊皮紙の束とインクの瓶と割れたままのガラスのコップが置かれていた。

 割れたコップは八年前に誰かが割ったものだろう。それを誰も片付けなかった。この部屋は、そのまま、八年の沈黙を保管してきた。

 レオン王は既に待っていた。

 昨日の疲れた顔のまま、しかし目は昨日よりは乾いていた。一晩眠ったのだろう、三日ぶりに。

 改めて近くで見ると、王は三十代前半だった。即位から五年、弟を失い、父王を看取り、中継ぎの王として立ち続けた男の、静かな重みが宿っていた。

 俺は入口で深く一礼した。

 「陛下。おはようございます」

 王は頷いた。数秒、言葉を探してから口を開いた。

 「……昨夜から、一つ考えていた」

 「なぜ、お前は俺を助けるのか」

 まっすぐな問いだった。三十代の若き王の問いは、四十代の経営者の問いより、遥かに澄んでいた。

 俺は一礼の姿勢のまま、答えた。

 「陛下が昨日、署名するか、拒むかの二つの間で、動けなかったから、でございます」

 「二つとも死に繋がる選択肢の前では、人は動けない。それが自然でございます」

 「動けない方に必要なのは、三つ目の道でございます」

 「三つ目の道を探す仕事を、私は長くやってまいりました」

 王はしばらく沈黙した。そして小さく頷いた。

            ─── ─── ───

 老宰相カスパルが部屋の端に控えていた。四十年、この王家を見てきた男。昨日、俺が契約書を書いた時涙を流した男。

 その彼が、今朝は違う顔をしていた。

 昨日の涙の跡の、乾いた頬。しかしその目には静かな怒りがあった。

(──昨日、自分が四十年やってきたやり方を俺に否定された)

(──その怒りは当然だ)

 俺はカスパルに一礼した。

 カスパルは表情を変えずに、一礼を返した。

 王はカスパルを見て少し首を傾げた。

 「カスパル。お前は稜の意見に同意するのか」

 カスパルは答えなかった。

 数秒の沈黙。

 俺が口を開いた。

 「陛下。カスパル殿は同意も反対もすべきではない立場です」

 「カスパル殿のお仕事は、陛下がご決断なさるための情報を整理すること」

 「判断は陛下のもの。整理はカスパル殿のもの。私の仕事は、その整理と判断の間の橋渡し、だけでございます」

 王はゆっくりと頷いた。

 カスパルが微かに息を吐いた。

 老人の肩の張りが少しだけ下がった。

 そしてカスパルは真顔のまま、呟いた。

 「陛下。四十年、王家に仕えても、これほど頭に血が上ったのは、初めてでございます」

 王が少し吹き出した。カスパルの表情は変わらない。しかし目の奥で何かが笑っていた。

 老人なりの皮肉と赦しの表現だった。

 カスパルはもう一言、付け加えた。

 「ただ、老骨の頭に血が上ると、医者を呼ぶことになります」

 「稜殿。次回は、もう少し穏やかにお願いいたします」

 俺は頷いた。

 「カスパル殿。医者代は、私の銀貨五枚から、お引きください」

 「……一日分では、足りぬかもしれませんが」

 カスパルが初めて微かに笑った。

 四十年、王家に仕えた老人のほとんど誰にも見せたことのない笑顔だった。

            ─── ─── ───

 その時、部屋の扉が静かに開いた。

 入ってきたのは十六歳の少女だった。

 金色の長い三つ編み。肩までの長さ。青いドレス。白い細い肩。

 セレネ。王女。

 廊下の向こうで、三回、深呼吸する音が聞こえていた。入ってくる前に、彼女は一人で息を整えていた。

 昨夜、食堂の外の柱の陰で一瞬、こちらを見た目。あの目の主だった。

 王が驚いた顔をした。

 「セレネ。なぜ、ここに」

 「兄上。私もこの場におりたいと思いました」

 声は落ち着いていた。しかし、よく聴けば、わずかに高く、震えを帯びていた。

 王は困惑した顔で俺を見た。

 俺はセレネに一礼した。

 「殿下。ようこそ。お席を」

 王女は楢の木の長机の王の隣に座った。

 背筋はまっすぐだった。

 しかし机の下で、両手が膝の上の布をきつく握っていた。指先が、白くなっていた。

 三つ編みの先端が、座った瞬間、肩甲骨の間で一度、揺れた。

 首筋に金の髪が一筋落ちていた。

 俺はそれを見ていた。

 そしてそれから目を逸らした。

 四十二歳の男の目線が、一瞬、迷った自分に気づいた。

(──こういう視線は、前世でも、滅多になかった)

            ─── ─── ───

 俺は机の上に、一枚の羊皮紙を広げた。

 大陸全土の勢力図。カスパルが今朝、俺の指示で書き上げた一枚。

 線を引いたのはカスパルだが、構図は俺が頭の中で組み上げたもの。

 羊皮紙は一枚だが、そこに描かれた情報の密度は、他の誰も見たことのない精度だった。

 四大国の国境線は、各国の傭兵の展開に合わせて、実効支配線として描かれていた。公式の地図とは異なる線。

 交易路は、過去五年の商隊の往来で、太さが変えられていた。太い線は月に千隊、細い線は年に十隊。

 各国の宮廷には、実権を握っている者の名前が、王位の隣に小さく書かれていた。

 経済指標は数字ではなく、線の色の濃淡で表されていた。濃い赤が好況、薄い赤が衰退。

 一目で、大陸の五年後が見える地図。

 朝日が硝子を通り抜け、石の床の三本の色の帯を、この羊皮紙の上で、一度、重ねた。

 経済指標、軍事力、交易路、各国の動向──昨夜、カスパルが十五冊の諜報記録を音読してくれた。俺はそれを耳で聞いて、頭の中で一枚に凝縮した。

 カスパルが自分の書いた羊皮紙を、改めて見た。

 そして手を震わせた。

 「稜殿。これは」

 「昨夜、お読み上げいただいた十五冊から」

 「……一晩、で、頭の中に、この構図を」

 老宰相の声が、細くなった。

 「私は、この十五冊を自分の手で読み、四十年かけて整理しました」

 「しかし同じ結論に辿り着けなかった」

 「稜殿は一晩、耳で聞いただけで、私が四十年でたどり着けなかった構図を、お作りになった」

 王が羊皮紙を見た。目が見開かれていた。

 俺は軽く頷いた。

 

 「陛下」

 「この国の置かれた状況を整理いたしました」

 「ハーゲン帝国、ヴェロニア共和国、サルマティア同盟、オスタール聖教国──いわゆる四大国」

 「このうち、ハーゲンがアウレリアの宗主国として、百年、属国契約を履行させております」

 王が頷いた。

 セレネは何も言わず、羊皮紙を見ていた。

 俺は続けた。

 「殿下は六歳から八年、四大国の宮廷を人質として渡り歩かれました」

 「ハーゲン三年、ヴェロニア二年、サルマティア二年、オスタール一年」

 「──昨夜、カスパル殿から、王家の記録の内容を、夜通し伺いました」

 「違いますでしょうか」

 セレネは一瞬、俺を見た。

 そして静かに頷いた。

 「……はい」

 王が驚いた顔をした。

 セレネの人質時代の詳細を王は知らなかった。八年の間、王はセレネとほぼ会話できなかった。

 俺は続けた。

 「殿下のお察しの通り、でございましょうが」

 「四大国の関係は今、ハーゲンの優位が揺らぎつつある」

 セレネの指が、机の上で微かに動いた。

 「具体的には、サルマティア同盟の議長が昨年交代し、ハーゲンとの距離を取り始めている」

 「ヴェロニアの海上交易が、ハーゲン経由を減らしている」

 「オスタールの教皇が、ハーゲンの侵略主義に、初めて公式に懸念を表明した」

 「──これは二ヶ月前、カスパル殿がまとめた諜報の要旨、でございます」

 カスパルが深く一度頷いた。

 俺はセレネを見た。

 「殿下。ここまでで修正すべき点はございますでしょうか」

            ─── ─── ───

 セレネは数秒、沈黙した。

 十六歳の少女が、四十歳の男の前で、自分の知識を披露する場面──本来なら怯むところだった。

 しかしセレネは怯まなかった。

 机の下の、握った指がゆっくり解けた。

 薄い唇が一度微かに震えてから開いた。

 「……三つ、修正をご提案します」

 王が息を呑んだ。

 「ひとつ。ヴェロニアの海上交易はハーゲン経由を減らしているのではなく、南回りの航路が開発されたため、物理的にハーゲン経由が不要になりました」

 「ふたつ。オスタールの教皇の懸念は、公式表明ではなく内部回状に過ぎません。公式表明は、教皇庁の総会を経る必要がございます」

 「みっつ。サルマティアの現議長は、昨年、バーダン族に交代しました」

 三箇所。十五秒足らずで、俺の情報を三つ修正した。

 老宰相カスパルが震える手で口を押さえた。

 四十年、王家に仕えた老人が、王女の横顔をまともに見つめたのは初めてだった。

 王の青い目が見開かれている。

 「セレネ……」

 「お前、そんなことを知っていたのか……」

 セレネは答えなかった。

 ただ震える手で、首元のペンダントを握っていた。

 俺は深く頭を下げた。

 「──殿下。今の十五秒で、私の分析を三つ修正していただきました」

 そして顔を上げた。

 「この国の戦略は、あなた抜きでは立ちません」

   十一年前、金曜の夜の会議室。

   コーヒーを飲む向かいの男──神崎。

   大手メーカーの経営危機、二人の初めての共同プロジェクト。

   神崎は言った。「買収される側の、三代目社長の問題です。自分で決める力を、まだ持っていない」

   稜は、その洞察の鋭さに、舌を巻いた。

 一瞬、前世の記憶が指先を触れて去った。

 目の前の王女は、あの時の三代目社長とは逆の存在だった。

 八年間、誰にも聞かれず、一人で考え続けた者。

 決める力を持っているのに、誰も認めていなかった者。

 神崎は十一年前、三代目の弱さを見抜いて切り崩した。

 俺は今日、王女の強さを認めて引き出す。

 同じ師に学びながら、俺と神崎は、どこで分岐したのか。

            ─── ─── ───

 セレネの青い目に、水が満ちた。

 一粒、こぼれた。

 頬を伝う水が、首筋の金の髪の一筋を濡らした。

 しかし声は震えなかった。

 「八年、私はこれらを一人で考えてきました」

 「誰にも言わず」

 「──誰も聞いてくれる人がいなかったから」

 王が机の上に手をついた。

 「セレネ。……すまない」

 「俺はお前を人質先から戻した後も会話しなかった」

 「お前の沈黙を、俺は傷の癒えと間違えた」

 セレネは兄を見た。

 涙は頬を伝っていた。しかし声は落ち着いていた。

 「兄上」

 「私は兄上が、八年間、兄上一人でこの国を持ちこたえさせたことを、存じております」

 「それが私の誇りです」

 王も目に水を浮かべた。

 兄と妹が、八年ぶりに互いを見た。

            ─── ─── ───

 俺は二人の涙が落ち着くのを待った。

 それから立ち上がり一礼した。

 「陛下。殿下」

 「明日から三ヶ月」

 「このアウリオンの王権を、実質的に機能する王権に戻す策をご提示いたします」

 「その中心に、殿下を置いていただきたい」

 王は驚いた顔をした。

 しかしセレネは動じなかった。

 既に自分の役割を理解しているような目だった。

 「陛下。王は判断する者でございます」

 「しかし王一人では、判断するための情報の幅が足りません」

 「殿下は王家の中で唯一、四大国の内情を生きて見てきたお方」

 「殿下の知識と陛下の判断。これを組み合わせれば、アウリオンの王権は実質的に機能します」

 王は深く頷いた。

 そして俺を見た。

 「では、お前の役目は」

 「──お二人が判断できるよう情報を整理し、選択肢を絞り込むことでございます」

 「三つの案を並べる者では、ございません」

 「陛下お一人がご判断できる形に仕上げる者でございます」

 王は一度深く息を吐いた。

 そしてセレネを見た。

 「セレネ。……お前は俺の戦友、だな」

 セレネが涙のままの目で微かに笑った。

 「はい、兄上」

 俺は二人に深く一礼した。

            ─── ─── ───

 戦略会議の後、カスパルが俺に話しかけた。

 「稜殿」

 「四十年、この王家を見てきた私に、一つ教えていただきたい」

 俺は頷いた。

 「どうぞ」

 カスパルの声は低かった。

 「昨日、あなたは私の四十年を否定した」

 「今朝、あなたは私を使った」

 「この二日間のあなたの振る舞いは、どう繋がっているのですか」

 老人の目は、昨日の涙の跡を残しながら、正面から俺を見ていた。

 俺は数秒、考えた。

 そして正直に答えた。

 「カスパル殿」

 「昨日は、私が陛下に選ばれるためにあなたの四十年のやり方を否定する必要がございました」

 「申し訳なく思っております」

 カスパルは瞬きをした。

 「しかし今朝は違います」

 「あなたの四十年の情報整理は、他の誰にもできない仕事」

 「私はあなたを、使う側ではございません」

 「あなたと、同じ机で並ぶ助言者、でございます」

 カスパルは長く目を閉じた。

 それからゆっくりと一礼した。

 「……恐れ入ります」

 「昨日の私の怒りを引き受けてくださったこと、今朝の扱いに謝意を」

 俺は一礼を返した。

 四十年、王家のために羊皮紙を書き続けてきた老人がこの朝、一人で自分の仕事を整理し直した。

 その夜、カスパルは一人で王宮裏の妻の墓に向かうことになる。彼は妻の墓前で、ぽつりと報告するだろう──「メリッサ。……若い男に四十年を抜かれた。しかし悪くない気分だ」。

 この場面を俺は見ていない。しかし老人の表情からそういう夜になるであろうことは、予感できた。

            ─── ─── ───

 昼過ぎ、俺は月の庭に出た。

 昼の月花は咲いていなかった。夜に咲き、朝に散る花だ。

 庭の芝は柔らかい緑。小さな噴水が石の鉢に水を落としていた。

 ぽちゃん、ぽちゃん、という音が静かに続いていた。

 石のベンチに座った。

 革の手帳を取り出した。

 昨日の一行の下に、もう一行書き加える。

   殿下、膝を折った。

   俺は立たせた。

 ペンを置く。

 手帳の革が昨日より少し温かかった。

(──師よ)

 胸の中で呟いた。

(──あなたは若い日、同じ経験をしましたか)

(──誰かに「必要だ」と言われて、相手を泣かせた経験を)

 その時、背後で衣擦れの音がした。

 振り返るとセレネが立っていた。

            ─── ─── ───

 「……師よ」

 セレネがそう呼んだ。

 声は、やはりいつもよりわずかに高く、甘さを帯びていた。

 俺は立ち上がって一礼した。

 「殿下。お一人で、ですか」

 「はい」

 セレネは俺の隣のベンチに座った。

 距離は一メートル弱。王女が他人の男の横に座るには近い。

 しかしセレネは気にしていなかった。

 「師にひとつ、お礼を申し上げたく」

 「お礼、でございますか」

 「はい」

 セレネはしばらく、噴水の水の音を聞いていた。

 三つ編みの先が、彼女の肩甲骨の間で小さく揺れていた。それから口を開いた。

 「先ほど、兄上に『戦友』とお呼びいただきました」

 「八年、誰からも名を呼ばれませんでした。王女、殿下、としか」

 「──『戦友』は八年ぶりに呼ばれた名でした」

 俺は噴水を見た。

 ぽちゃん、という音が一つ落ちた。

 「殿下。八年は長うございました」

 「はい」

 セレネは少し笑った。

 初めて見る王女の笑顔だった。笑う時、薄い唇の端が少しだけ上がり頬が微かに染まった。

 「師」

 「一つ、尋ねてもよろしいですか」

 「どうぞ」

 「師の前世では、お家族はどなたがいらっしゃったのですか」

 十六歳の、少女らしい質問だった。

 俺はしばらく考えた。

 「……両親は早くに亡くしました」

 「兄弟はいません」

 「結婚はしていませんでした」

 「お友達は」

 俺は少し沈黙した。

 「……多くはいませんでした」

 セレネは小さく頷いた。

 それからぽつり、と言った。

 「師と私は似ているのかも、しれません」

 俺はセレネを見た。

 十六歳の王女は噴水を見ていた。その横顔は四十二歳の俺よりずっと静かだった。

 首筋の金の髪の一筋が、そのまま落ちていた。濡れた跡が、乾きかけていた。

   前世、路地裏の寿司屋。

   大将の丸い背中。

   最後の夜、大将は小鯛の握りを一つ、俺の皿に追加した。

   「タカギさん。また来てくれ」

   それが大将の最後の言葉だった。

   三日後、俺は転移した。

   大将は俺を三日、待っていたのかもしれない。

 一瞬、前世の記憶が指先を触れて去った。

(──俺にもいた)

(──一人だけだったが、俺を待っていた人が)

 セレネは噴水の水音を聞いていた。

 「師。私はこの国を生かしたい」

 「八年、考えてきたことを初めて使える場所をいただきました」

 「それだけで、もう十分に生きる価値があります」

 俺は頷いた。

 そして小さく言った。

 「殿下。私も似たような思いでございます」

 「この国で私を必要としてくださる方がいる」

 「──それだけで私も、もう一度仕事を始められます」

 セレネは俺を見た。そして深く頷いた。

 少しの沈黙の後、セレネが静かに立ち上がった。一礼した。

 「師。明日も、第一の間で」

 「はい、殿下」

 セレネが数歩歩いた。

 庭を出る前に、一度、振り返った。

 三つ編みが肩越しに一瞬浮いた。

 深い青の目が、もう一度、俺を見た。

 わずかに長く。

 それから消えた。

 金色の三つ編みが、午後の陽に光っていた。

 俺はしばらく、噴水の音を聞いていた。

            ─── ─── ───

    【帝都ヴェルデン、皇宮】

 神崎は朝から執務室にいた。

 机の上、星の砂時計。金の砂が静かに落ちていた。

 神崎はそれを数えていなかった。

 副官が書類を差し出した。

 「閣下。アウリオンの昨日の徴用令の件、正式な報告が届きました」

 「視察官ヴィスカルトは、契約解釈の論点で取り下げを選びました」

 神崎は書類を受け取らなかった。

 ただ、窓の外を見ていた。

 「……契約解釈で、か」

 「はい」

 「アウリオン王宮に、戦略顧問を自称する男が現れた、と」

 神崎の口の端が、僅かに動いた。

 「名は」

 「タカギ、リョウ、と」

 神崎は目を閉じた。

 数秒の沈黙。

 そしてゆっくりと目を開いた。

 灰色がかった茶の目は目薬で湿していた。しかしその目の奥で、何かが静かに動いた。

 「副官」

 「はい」

 「星の砂時計を返せ」

 副官が金の砂時計を逆さにした。

 金の砂が、また落ち始めた。

 神崎は窓の外を見たまま呟いた。

 「……稜」

 「生きていたのか」

 その声は、誰にも聞こえなかった。

 目薬は、その朝、差していなかった。

 神崎はそれから机の引き出しを開けた。

 底に、小さな円の中の一本の縦線の印章があった。

 稜の印章と、同じ形。

 二十年前、高樹壮一郎が神崎に手渡したもの。破門の時、返せと言われたが、返さなかった印章。

 神崎は印章を指で撫でた。撫でて、撫でて、何分も、そうしていた。

 指の腹が、印章の縦線の溝を何度も往復した。

 「……稜」

 「お前は、この印章を見る目が、まだ同じだろうか」

 「──俺はあの夜、先生の目が怖くて返せなかった」

 神崎は目を閉じた。閉じた目の裏に、二十年前の師の目が、蘇った。

 藍の作務衣。白い髪。静かな、しかし何もかもを見透かす老人の目。

 「先生は、俺を見て、こう言った」

 「『玲。お前は、決めさせない側に、落ちるぞ』」

 「『落ちた日が、破門の日だ』」

 神崎は目を開けた。執務室の天井に、白い光が滲んでいた。

 「先生の予言は、当たったでしょうか」

 「それとも、外れたでしょうか」

 誰も答える者はいなかった。

 目薬の瓶が、机の上で、転がって止まった。

 差さないまま、一夜が、更けていった。

セレネの「三つ、修正をご提案します」のシーン、書けて嬉しかったです。

八年間、誰にも聞かれずに考え続けてきた少女が、ようやく口を開く瞬間。

稜が、彼女の力を、正面から認める瞬間。

「認められた側は、泣くのだ」──稜がそう気づく場面は、私自身、少し涙が出ました。

次話もお楽しみに。感想いただけると励みになります。

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