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三案を並べる参謀は、信用するな

 深夜一時の丸の内二十八階。空調の低音だけが、誰もいないフロアの沈黙を埋めていた。

 俺の前に、三つの影が座っていた。役員三人。机に落ちているのは、十五年分の経歴書と一枚の懲戒書。

 「タカギさん。処分は変更できません」

 革張りの硬い椅子。向かいの書類の束。

(──十五年、裏切らなかった男に、裏切られた)

 そのことだけが事実として胸に残っていた。

 モニターには書きかけのメール。宛先は空白。本文も空白。誰に何を書こうとしていたのか思い出せなかった。思い出したくなかったのかもしれない。

 引き出しを開けた。革の手帳。父の万年筆。二十年通った名もない寿司屋の名刺。五十枚入った黒い名刺入れ。

 手帳を開く。最初のページに、一行だけ。

   功績はすべて、クライアントに渡せ。

            高樹壮一郎

 師の言葉だ。この一行を信じて十五年、俺は走り続けてきた。そして今日、すべてを失った。

 冷めた紙コップのコーヒーを一口。苦い。

(──明日から俺は何者でもない)

 ふともう一つの記憶が薄く蘇った。

 十一年前の会長の白髪。葬儀の帰り道。会長が肩に手を置いて震える声で言った──「タカギ君。君は、決めさせてくれれば、よかった」。

 あの一言が、俺の十五年の原点だった。

 視界がゆっくりと暗転していく。

            ─── ─── ───

 目を開けた。

(──光が赤い)

 見慣れた蛍光灯の白でも、太陽の黄でもない。

 石畳の路地。両側に漆喰の壁。剥がれた所から下地の石が覗いていた。

 自分の服。粗い織り目のぼろ布。

 手を見る。皮膚は粗く、爪は泥と何かで汚れていた。

(──ここは、どこだ)

            ─── ─── ───

(──夢か、幻覚か)

 順番に潰していく。

 夢なら細部がここまで鮮明ではない。幻覚なら匂いがここまで具体的ではない。

 俺の手は三十年使った自分の手ではなかった。爪の形が違う。指の長さが違う。

 空気の匂いも空の色も石の形も違う。

 ここは俺のいた世界ではない。

 仮説を三つ並べてみる。

 一、俺は夢を見ている。

 二、俺は幻覚を見ている。

 三、俺は別の世界に来ている。

 一と二は先ほど潰した。

 残る三を受け入れる。

 俺は目を閉じた。深く息を吸う。

 異世界の空気が肺に入る。草と石と、微かな糞尿の匂い。本物の匂いだった。

(──受け入れるしか、ない)

            ─── ─── ───

 十字路を抜けた先、小さな広場で、幼い少女が石畳に座り込んでいた。

 九歳か十歳。灰色のワンピース。継ぎはぎが七つか八つ。埃で灰色に見える黒い髪は、肩までの長さでバラバラに切られている。濡れた、濃い茶色の大きな目。

 少女の俺を見る目が、何かをこちらに向けて開いていた。

(──身寄りもなく、文字も読めない男がこの路地でどう生きる)

 答えは一つしかない。

(──俺が俺自身を、再び「何者か」にする必要がある)

(──それも最速で)

 その時、路地の奥から震える声がした。

 「……みず、を。ください」

 しわがれた男の声。三十代か四十代。飢えと渇きで年齢が分からない。少女は何も持っていなかった。

 しかし自分の胸元に手を入れ、小さな革袋を取り出した。

 革袋を解き、少女が出したのは──小さな木の匙に残った水だった。一口か二口、あるかないか。

 少女は匙の水を男の唇に近づけた。

 男の喉が上下した。そして微かに笑った。

 少女は空になった匙をまた革袋にしまった。

 この子は匙の水を持って、路地を歩いている。

 自分の水でも、飢えた者に最初に分ける。

(──助けを求めて、誰かの目をじっと見る)

   会社のロビー。

   同期の、先輩の後輩の背中。

   誰一人、目を合わせなかった。

 一瞬、別の景色が重なった。

(──いつの誰の背中だったか)

 思い出そうとすると記憶が滑り落ちる。

 少女の目線に屈んだ。石畳の冷たさが膝を通して伝わる。

 「名前は」

 「ミラ」

 「お前、ここの案内を頼めるか」

 ミラは数秒、俺を見た。そしてこくん、と頷いた。

 そして真顔で、こう言った。

 「おにいちゃん、くさい」

 俺は思わず、息を吐いた。ぼろ布の袖を嗅ぐ。確かに、異世界の路地の匂いが染みついていた。

 笑えたのは転移してから初めてだった。

 「……後で水を、浴びる」

 ミラは頷いた。そして真顔のまま、俺の袖を引いた。

            ─── ─── ───

 ミラの小さな手に、名刺入れの裏の、小さな銀貨を一枚握らせた。手のひらが想像よりずっと小さい。

 「これ、俺が預けておく。何日分の飯になる」

 「……三日、くらい」

 「パンが、いくらだ」

 「……銀貨ひとつで、パンがひとつ」

 「他には」

 「……お母さんがいたころ。チーズは二つ」

 ミラの「お母さんがいたころ」という一言が、俺の耳に残った。しかし今は追わない。

 「職人の一日の稼ぎは」

 「……三枚か四枚。ばあちゃんは言ってた」

 銀貨一枚でパン一つ。職人一日で銀貨三、四枚。

 俺が値をつけるなら、この十倍、五十枚前後が相場の上限。数字の感覚は掴めた。

 ここまでで物価の骨格は分かった。

 しかし俺はまだ、この国がどうなっているのかを、何も知らない。

 「ミラ」

 「この国のこと、話を聞かせてくれ」

 「お前の知ってること、全部でいい」

 ミラはしばらく俺を見た。それから、ゆっくりと話し始めた。

 大人びた十歳の語り口で、断片を繋ぐように。

 「ここは、アウレリアっていう国」

 「でも、本当の王さまじゃないって、ばあちゃんは言ってた」

 「ホントの王さまは、ずうっと北の、ハーゲン、っていう大きい国の、皇帝さま」

 「うちの王さまは、その皇帝さまの、下で、ご命令を聞く王さま」

 属国。宗主国。形式上の王権と、実質的な支配の分離。

 地球の歴史でも、世紀ごとに繰り返された構造だった。

 「百年くらい前、戦争があって、アウレリアは負けたの」

 「それから、王さまは、ずっと、ハーゲンに、頭を下げてる」

 「毎月、何かあるのか」

 「うん」

 「毎月、満月の前の日、広場でサインするの」

 「ハーゲンの人が紙を持ってきて、王さまが、はんこを押す」

 「その紙、兵隊を何人出すかって書いてあるの」

 「……みんな、そう言ってる」

 定期的な人員供出。属国契約に基づく徴用令。

 「兵隊は、どこで戦うんだ」

 ミラは、首を傾げた。

 「……戦ってない、よ」

 「戦争、ないもん」

 「でも、帰ってこない」

 俺の背筋に冷たいものが走った。

 戦争がないのに兵隊が帰らない。徴用された先で、兵として使われていないということだ。

 「女の人は」

 ミラは首を横に振った。

 「おんなのひとは、いかない」

 「決まりだから、って、ばあちゃんは言ってた」

 女は徴用の対象外。契約で決まっている。

 ここで、一つの仮説が立った。

 戦争がないのに男が帰らない。女は本来、徴用されない。

 しかしもし女が連れて行かれているとすれば、それは兵役ではない別の目的で連れて行かれていることになる。その別の目的は、想像がつく。

 「ミラ」

 「王さまは、どんな人だ」

 ミラの目が、少しだけ遠くを見た。

 十歳の子の目とは思えない、大人の翳りが、そこに浮かんだ。

 「……若い王さま」

 「若いっていっても、大人だけど、まだお父さまみたいな年じゃない」

 「ちょっと前まで、兄弟、二人いたの」

 「お兄ちゃんの王さまと、弟」

 「でも、弟、死んじゃった」

 「ハーゲンの、偉い人が、殺したって、みんな言ってる」

 俺の指先が、冷たくなった。

 属国の王家の王子が、宗主国の人間に殺される。属国であることの重みが、一つの死として、ミラの言葉に現れた。

 「殺した人の名は」

 「ながい名前。……カンザキ、って、みんな呼んでる」

 「ハーゲンの、一番偉い人の下の人」

 ──神崎。

 俺は、その名を、口の中で転がさなかった。顔にも出さなかった。しかし指先が、もう一段、冷たくなった。

 この世界に、あいつもいる可能性がある。

 偶然としては、少し出来すぎている。

 しかし今は、その確認より先に、やるべきことがある。

 「もう一つ聞く。今日は毎月の満月の前か」

 ミラは頷いた。

 「きょう、サインの日」

 「王さま、広場に、もう、いる」

 俺の頭の中で、線が繋がった。

 物価は掴んだ。国の構造は掴んだ。王家の状況も掴んだ。今日、広場で何が起きているかも掴んだ。

(──最速で「何者か」になる方法)

 答えは、一つしかなかった。

 今日、広場で起きている儀式に、割り込むこと。

 十五年、腹を括れない経営者を俺は助け続けてきた。そして最後に俺自身が腹を括る機会も与えられずに切り捨てられた側になった。

 あの王──ミラの言う「はんぶんの王さま」は、まさに今、その状況にいる。

(──俺は、動けない人間を動かす仕事を、十五年やってきた)

(──この国で、俺にできる仕事は、それしかない)

 「ミラ」

 「ん」

 「広場まで、連れて行ってくれ」

 ミラは、こくん、と頷いた。

            ─── ─── ───

 ゴーン、と。地球の教会の鐘よりももう一段低く重い音が、空気を震わせる。

 黄昏の広場。石畳の中央、処刑台の跡。仮設の木の台。

 その上に、若い男が座っていた。

 淡い金色の肩までの髪。青い大きな目。磁器のような白い肌。しかしその目は、三日眠っていない顔をしていた。

(──あれが、王か)

 王の脇に、深紅のマントの男が立っていた。金のバッジ。帝国から派遣された属国監督官。

 男は二十代後半。金髪を後ろに撫でつけ、細い顎鬚を指でいじっていた。その指の親指の爪が、不自然に短く噛まれていた。

 手には黒い羊皮紙の束。ミラが囁いた。

 「あれ、ぞくこく、けいやくしょ」

 「まいつき、ちがうページが、ひらかれるの」

 俺は頷いた。

 監督官の声が、広場に響き渡った。若い男だった。二十代後半か。口上が、ゆっくりと、朗々と、広場の隅まで届いた。

 「契約書、第十四条、但し書き三項」

 「『緊急時、戦時に限り、宗主国は属国に対し、通常の徴用規定を超える人員供出を、要請することができる』」

 「──本日、この条項に基づき、今月の徴用人員として、追加で二百名を請求する」

 「陛下。署名を」

 王は黒い書類を見つめたまま、動かなかった。

 ミラが俺の袖を強く引いた。

 「あれ、王さま」

 「うごけない」

 俺はミラを見て、小さく頷いた。

 さっき路地で聞いた話が、頭に戻った。王の弟を殺した男の名。そしてその弟を殺した男と同じ側に、今、目の前の監督官も属している。

 この王が動けないのは当然だった。兄弟の片方が既に殺された王が、自国民の徴用書にサインをする。署名すれば民が鉱山に送られ、拒めば自分が弟と同じ道を辿る。

 王は動けないのではない。決めさせられたくないのだ。

 俺は監督官の口上を、頭の中で、もう一度、反芻した。

 読み上げられた言葉を、俺はそのまま覚えてしまう。前世で神崎に「兵器だ」と笑われた癖だ。

 「緊急時、戦時に限り」

 「通常の徴用規定を超える人員供出」

 二つの条件が、監督官の口上の中に明記されていた。

 つまり通常規定を超える人員供出は、戦時以外ではできないと、監督官自身が宣言した。

 しかしミラはさっき言った。「戦争はないのに、兵隊が帰ってこない」と。

 今、戦争がないのに、監督官は二百名の追加供出を請求している。

 これは監督官が、自分で読み上げた条文に、自分で違反している。

 広場の反対側に、鎖に繋がれた男たちが並んでいた。三十人ほど。痩せた肩、裸の足。

 その鎖の中に、若い女が三人混じっていた。

 女は徴用の対象外、とミラは言った。

 それなのに女が鎖の中にいる。

 監督官はこれを、どう説明するつもりだろうか。

 俺は監督官の顔を見た。

 彼は目を逸らした。女のことを、触れずに、署名を求めていた。

 つまり監督官自身も、女が含まれていることが、契約違反だと知っている。

 しかし属国の王の前では、触れずに押し通せると、踏んでいる。

 踏ん張る意味が、見えた。

 俺は、数歩、前に出た。

 「失礼」

 「──ただいまの徴用令、契約書の記述と、矛盾しております」

 広場が凍った。

 監督官の爪を噛む指が、止まった。

 王がゆっくりと顔を上げた。青い目で、まっすぐ俺を見た。

 「……続けろ」

            ─── ─── ───

 俺は深く息を吸った。

 転移してから、半日。文字は読めない。書類は見ていない。

 しかし監督官が、自分の口で、条文を読み上げた。

 それだけが、俺が持つ、唯一の材料だった。

 「監督官殿」

 「先ほどご自身で、読み上げられました」

 「緊急時、戦時に限り、と」

 監督官の眉が動いた。

 「しかし陛下、この広場の民にお尋ね申し上げます」

 「現在、この大陸に、戦争が、ございますか」

 広場の民が、顔を上げた。一人、また一人。

 「……ない」「戦は、ない」と、囁きが広がった。

 俺は続けた。

 「戦争がないのに、戦時に限る条項が発動されている」

 「これは、監督官殿ご自身のご発言と、矛盾しております」

 監督官の薄ら笑いが、固まった。

 自分がさっき読み上げた条文を、そのまま突き返されて、息が止まった顔。

 そしてもう一つ、俺は、見ていた。

 「さらに申し上げます」

 「あちらの鎖の中に、女性が三人、おられます」

 「──民の皆様、属国契約のもとで、女性は、徴用の対象で、ございましたか」

 広場の民が、ざわめいた。

 「女は、とられない、はずだ」「決まりだ」

 声が、波のように立ち上がった。

 監督官の頬の筋肉が、微かに引きつった。

 俺は王に、向き直った。

 「陛下」

 「本日の徴用令には、二つの矛盾がございます」

 「一、戦時ではない時期の、戦時条項発動」

 「二、対象外のはずの女性の、徴用」

 「──いずれも、契約違反でございます」

 王が息を呑んだ。

            ─── ─── ───

 ここで、監督官は動けない。

 俺は彼の選択肢を、頭の中で数えた。三つだけだ。

 一、俺を斬らせる──しかし広場の民の前で、契約違反を指摘された直後に使者を殺せば、帝国の体面が崩壊する。

 二、言い逃れる──しかし俺は、彼自身の読み上げを引用した。論理の逃げ場がない。

 三、沈黙する──これが唯一、彼が生き残る選択肢。

 監督官は三を選んだ。三秒、目を閉じた。敗北を認める前の癖だった。

 その時、鎖の中の男たちが、顔を上げた。

 まず一人。次に隣。次々と。鎖の音が、広場に連鎖した。

 女たちも顔を上げた。三人の女が互いの顔を見合わせた。一人がもう一人の肩に、震える手を置いた。何も言葉はなかった。ただ手が震えていた。

 群衆の中からも、女の声が一つ、漏れた。「うちの、人も……」

 次々と声が上がる。「うちの兄も」「息子も」──広場に、沸騰が始まった。

 王は息を呑んだ。

 王の脇に立っていた老宰相が、初めて、動いた。

 四十年、この場で毎月、徴用令を黙って見送ってきた老人だった。

 その老人が、震える手で、口を押さえた。

 皺の深い頬に、一粒、透明なものが光った。

 四十年、難しい選択をいつも王一人の責任にしてきた。自分は帝国の書類を読み上げるだけ。そういう自分で在り続けた老人の、悔悟の涙だった。

            ─── ─── ───

 王が俺を見た。

 「お前、何者だ」

 俺は王を見た。

 まだ前世のことは話せない。話せばただの狂人扱いだ。

 しかし、この王は、もう一歩、俺に踏み込んでもらいたがっている。

 「陛下」

 「私は、高木稜と申します」

 「決められない君主の、決断を支える仕事を、長くやってまいりました」

 「君主が動けないのは、往々にして判断の材料が足りぬからではなく、判断の重みを共に負う者がいないからでございます」

 「私は、その共に負う者として、陛下のお側に、立たせていただきたい」

 「この国の言葉で近いものを当てるなら、参謀、と申すべき立場でございましょう」

 「期間は三ヶ月。報酬は、この街の職人の一日の稼ぎを倍にした程度で結構。銀貨五枚、一日あたり」

 「──三ヶ月で結果が出なければ、私は黙って消えます」

 王の青い目が、俺を見つめた。

 それから、老宰相を見た。

 老宰相は、涙の残る顔で、一度、頷いた。

 王の目に、初めて、光が戻った。

 三日眠っていない男の目に、意思が戻る瞬間だった。

 「──雇う」

 老宰相が、震える手で、羊皮紙を差し出した。王宮の契約書の様式だった。

 俺が契約書を書き始める前に、三案の話を、最後に一つだけ、王に伝えておく必要があった。

 これから三ヶ月、王と俺の関係を規律する、約束事として。

 「陛下」

 「最後に、私の仕事の流儀を、一つだけ、お伝えさせていただきます」

 「──三つの案を持ってくる参謀は、信用なさってはいけません」

 王が俺を見上げた。

 「三案を並べるのは、決断を王に丸投げするため」

 「失敗したとき、『陛下がお選びになった案』と、責任を逃れるように」

 「本物の参謀が持ってくるべき案は、一つだけ」

 「そして、その案には──撤退する条件を、添えておく」

   十一年前。

   木下建材、会長、六十二歳。

   「この案しかございません」と迫った三十一歳の俺。

   数日後、破産。一ヶ月後、会長の娘、二十七歳、自死。

   葬儀の帰り道。白髪が増えた会長の肩に置かれた震える手。

   「タカギ君。君は、決めさせてくれれば、よかった」

 あの夜の血の教訓が、今、俺の背骨を支えていた。

 一案を押し付ける者は、相手から決める力を奪う。

 三案を並べる者は、相手に決断を丸投げする。

 俺が王に差し出すのは、その中間──一案と、撤退条件。

 「陛下」

 「私は、陛下に決めさせます」

 「そして、決めた後の結果を、私も、陛下と、同じ重さで背負います」

 「それが、私の仕事の、流儀でございます」

 王は、深く、頷いた。

 「書け」

 「契約書を」

 俺は父の万年筆を抜いた。インクをつけた。

 羊皮紙の上から順に、条項を書いていく。

   革張りの椅子。

   向かいの席。書類の束。

   「タカギさん、処分は、変更できません」

   同じ声。違う意味。

 ペン先が一瞬止まった。

(──今は、書くことだ)

 深く息を吐く。最後の一文字を書き、ペンを置いた瞬間。

 羊皮紙が──微かに光った。

 青白い光。ろうそく一本の輝き。しかし黄昏の広場では、気づく者は少ない。

 ただ老宰相と、マテウス院長と、王の傍に控えていた一人の少女だけが、その光を見た。

 少女は十六歳ほど。金色の長い三つ編み。王の妹か、と稜は初めて気づいた。

 しかしこの時点では、まだ名前を知らない。

 光は羊皮紙の縁から、書かれた文字の輪郭へと、ゆっくりと走った。

 稜の筆跡に沿って光が伸びていく。

 黄金色の細い線が、文字の谷に落ちて、消えていった。

 広場の奥、王の脇に控えていた一人の老人が、歩み出てきた。いつの間にかそこにいた。茶色の修道服に白い長い髭、青い遠くを見るような目。王宮に隣接する修道院の院長。後にマテウスと教えられる。

 言葉の前に、長い沈黙があった。

 「……六百五十年前」

 「この国には一人の老師がいた」

 「名を、トルメアス」

 「このアウレリアが世界を統べていた、黄金期の最後の軍師」

 修道院長の声は低く深かった。

 「彼が記した契約書の羊皮紙は、正しく血を継ぐ者の手で書かれた時のみ、微かに光る」

 「六百五十年、誰もこの光を見ていない」

 そして俺を見て深く一度頭を下げた。

 「お待ちしておりました」

 老宰相が震える手で俺の羊皮紙を両手で受け取った。四十年、王家のために羊皮紙を書き続けてきた老人の手だった。

 その手が今自分より若い男の書いた契約書を、押し頂くように受け取っていた。

 修道院長が続けた。

 「稜殿。明日の朝第一の間でのご相談に、殿下もお加わりになるはずでございます」

 「王家の中で、殿下お一人だけが八年間、恐怖の中で考え続けてこられた」

 「殿下、と申しますと」

 「セレネ殿下。陛下の妹姫でございます」

 「十六歳。八年を四大国で人質としてお過ごしになり、半年前に帰還されました」

 俺は頷いた。

 そして胸ポケットの革の手帳に、もう一行書き加えた。

   明日、第一の間。王女セレネ。

            ─── ─── ───

 黄昏の広場を出た。

 ミラが俺の袖の裾を握っていた。広場の騒ぎの間、ずっと離さなかった。

 「おにい、ちゃん」

 「お腹、すいた」

 俺はミラを見た。

 「俺も、だ」

 広場の北西、港湾区に近い路地の、小さな食堂。軒先にかもめの形の木彫りが一つ。文字の看板はない。

 中から湯気と潮の匂いがする。

 扉を押した。長い木の卓の奥、親父の大きな背中が鍋をかき混ぜていた。

 「二つ、頼む」

 「銀貨、二枚で足りるか」

 親父が振り向いた。日焼けした顔に白い髭。

 「稜さんだって? 広場の話、聞いたよ」

 「釣りはいらんよ、広場のヒーロー様」

 俺は少し笑った。この体になってから、二度目の笑い。

 「では二枚、置いておく」

 「鍋の具を、すこしいい物にしてくれ」

 親父の顔が少し緩んだ。

 「わかった」

 それから親父は少し考えて、付け加えた。

 「ただな、ヒーロー様。うちの鍋は、ヒーロー用の値段じゃねえ。客の値段だ」

 「俺の鍋で金持ちを気取ろうなんて、百年早い」

 厨房の奥で、娘らしい女の子が吹き出した。

 俺も、思わず、笑った。この街の親父は俺が広場で何をしたかを知りながら、それを理由に俺を特別扱いしないことをわざわざ宣言した。

 商人の矜持だった。それ以上に、人間の矜持だった。

 ミラは長椅子の奥に身を小さくして座った。

 親父の娘らしい女の子が、麦茶のようなものを二つ運んできた。

 湯気の向こうから、魚の骨と野菜の煮込みの匂い。

 鍋が置かれた。白く濁った汁に、魚の切り身とごろごろした野菜。ミラは自分の器を両手で抱えた。湯気が顔にかかる。

 「……あつい」

 「ゆっくり、食え」

 ミラは息を吹いてから一口。目が一度大きくなった。二口、三口。

 俺も自分の器を持った。汁を口に運ぶ。

 前世で何度も食べた、塩と魚の味。しかし知らない香辛料が一つ、二つ混じっている。

 異世界の味だった。

(──うまい)

 ミラが小さく声を漏らした。

 「おかあさんの、鍋」

 俺は視線を落とした。親父は聞こえないふりをして、鍋の残りを大きな椀に追加で盛った。ミラの前に置いた。

 「余ったから、食え」

 ミラは親父を見上げた。そしてこく、と一度頷いた。それから小さな声で、親父に言った。

 「おじちゃん、ひげ、しろい」

 親父が、「うるせえ」と笑った。娘が厨房の奥で吹き出した。

 俺はこのかもめ亭の親父を覚えておくことにした。

 十五年、俺は会議室で人間の計算を見てきた。

 しかしこの街の親父の「余った鍋」の動きは、計算ではない。

 人が人を生かす古い仕組みだった。

 器の底にはまだ具が残っていた。俺は最後の一切れを箸で拾った。

 胸ポケットの革の手帳が微かに温かかった。

 先ほど契約書を書いた時ほど強くない。しかし確かに、温かい。

(──昨日より、少し)

            ─── ─── ───

 食堂を出た時、月が既に空に出ていた。

 淡い月影の下、俺はミラを路地の入口まで送った。

 「おにい、ちゃん」

 「また、くる?」

 「明日の朝、王宮に行く。昼過ぎには戻る」

 「戻ったら、銀貨の残りでパンを買おう」

 ミラは頷いた。そして俺の指を小さな指で握った。

 強く。離さなかった。

 俺はしゃがんだ。ミラの目線に。

 「大丈夫だ」

 「必ず、戻る」

 ミラはもう一度、強く頷いた。それからやっと指を離した。

 その時、柱の陰に、もう一つの視線があった。

 金色の長い三つ編み。白い細い肩。

 月明かりに、首筋の白が光っていた。金の髪が一筋そこに落ちていた。

 目が合う。

 十五歳か十六歳。深い青の目。ラピスラズリに、月の銀を一滴、溶かした色。俺の娘ほどの年齢。

 先ほどマテウス院長から名を聞いたばかりの、王の妹姫──セレネ殿下。

 やはり広場に、いたのだ。契約書の光を最初に見た三人のうちの一人。

 敵意はなかった。

 ただ一つだけ──こちらを見定めようとする、目の強さがあった。

 視線が、俺の目から胸の手帳へ、そしてまた目へ戻った。

 一瞬、その青い瞳が、僅かに濡れたように見えた。

 そして少女の薄い唇が、声のない言葉で、何かを形作った。

 俺には読めなかった。

 しかしその口の形は、「ありがとう」と、「お願いします」のどちらかに、似ていた。

 次の瞬間、柱の陰からもう姿はない。しかし少女が消える直前三つ編みが肩越しに一瞬、浮いた。

 風ではなかった。少女自身が振り返った時に動いた髪だった。

 空気がわずかに甘かった。名も知らぬ花の香りに、少女自身の肌の匂いが混じったような、若い香り。

(──あれは王とは違う種類の人間だ)

(──明日、会うことになる、か)

 修道院長がずっと先で杖を止めていた。振り向いた。俺に頷いた。

 俺も頷き返した。

 ミラが路地の奥に小さな影として消えていった。

            ─── ─── ───

    【帝都ヴェルデン、皇宮】

 暖炉で白樺の薪がゴウゴウと燃えていた。巨大な黒檀の机。表面に金の象嵌で、大陸全土の地図が埋め込まれている。

 窓際に、一人の男が立っていた。深紫のマントを羽織った宰相装。黒い艶やかな髪。灰色がかった茶の目薬で湿した目。

 机の上、大陸の地図。いくつかの都市に赤いインクで小さな×印が付けられていた。男は年に一度、こうして地図を見る。自分が次に呑み込もうと考えている国に、×印を打つ。制圧の予告だった。

 中央、アウレリアの首都アウリオン。昨日までは×印はなかった。

 しかし今日、何かが男の背筋を撫でた。遠い、懐かしい気配。

 男は静かに、赤いインクの瓶を取った。細い筆を浸した。

 そしてアウリオンに、×印を打った。

 副官が扉の外から声をかけた。

 「閣下。何か異変が」

 男は窓の外を見たまま呟いた。

 「……いや。懐かしいものが南で目を覚ました」

 それから目薬の瓶を指で転がした。落とさなかった。差さなかった。

 本心を言う時だけ、差さない癖。

 しばらくして、男は副官を振り返った。表情は、すでに宰相のものに戻っていた。

 「副官。南の視察官ヴィスカルトに、偽の速達を一通」

 「『帝国本国は、徴用令の件について、強硬路線の継続を支持する』と」

 「──本国はそんなことを言っていない。しかし彼は、それを信じるだろう」

 副官は深く一礼した。扉の向こうへ消えた。

 男は一人、笑った。優雅に、声もなく。

 「稜」

 「お前が相手にするのは、俺が崩しておいたヴィスカルトだ」

 「俺を、わざわざ出張らせるほどのことかを、試させてもらう」

 砂時計を静かに返す。金の砂が落ち始めた。

 それから男は机の引き出しを、ゆっくりと開けた。

 底に小さな円の中に一本の縦線の印章があった。

 二十年、机の底で眠っていた印章。

 破門の夜、師に「返せ」と言われて、しかし返さなかった印章。

 男は印章を一度、指で撫でた。

 撫でて、撫でて、撫で続けた。

 「先生」

 声に二十年ぶりに敬語が戻った。誰にも聞こえない、執務室の誰もいない場所で。

 「先生の弟子が、二人とも、揃いました」

 「盤は、ようやく、整いました」

 目薬の瓶が机の上で、転がって止まった。

 男は今夜一度もそれを指に取らなかった。

ついに、始まりました。

王に向かって「三つの案を持ってくる参謀は、信用なさってはいけません」と言い切る稜の姿を、書きたかったのです。

ミラの「おにいちゃん、くさい」「ひげ、しろい」──

この小さな女の子は、これからも稜の肩越しに、物語を見続けてくれます。

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次話もよろしくお願いいたします。

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