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セレネ、ヴィスカルトへの最初の手紙

 夜、午後十一時。

 セレネは自分の私室の机の前で一人、座っていた。

 私室の窓の外で、若葉月半ばの満月が出ていた。──三十日月の月が、ようやく満月に達していた。月光が窓辺の白い薄絹のカーテンを、淡く染めていた。

 机の上に、ランプが一つ置かれていた。橙色の炎が机の上を、淡く照らしていた。──そして机の上に、新しい白い羊皮紙が一枚。羽ペンと、インク壺。

 セレネは深く息を吸った。

 二日前、稜からトレスト家の全貌を聞いた。──そして稜と神崎の夏萌月半ばの、ヴィスカルト対面の計画を知った。──しかしセレネは対面を待つだけではなかった。

 今夜セレネはヴィスカルト皇太子に、生まれて初めて直接の手紙を書くことを決めていた。

 稜には夕方、密かに相談していた。──「師。──私はヴィスカルト殿下に手紙を書きたいと思います。──夏萌月半ばの対面の前に、私のお気持ちをお伝えしておきたい」。──稜は長く考えた。──そして深く頷いた。「殿下。──手紙の内容を明朝私と神崎、両方にお見せください。──私たちの確認を経てから神崎の使者でお送りします」。

 セレネは深く頷いた。

 今夜手紙を書く。──明朝、稜と神崎に内容を見せる。──そして夏萌月の初めの頃に、ヴィスカルト殿下に手紙が届く。

 セレネは深く息を吐いた。──そして羽ペンを取って、インクに浸した。

            ─── ─── ───

 セレネは長く考えた。

 羽ペンの先が、白い羊皮紙の上で長く止まっていた。

 (──ヴィスカルト殿下、三十四歳。──私の十八歳年上の男性。──ハーゲン帝国の皇太子。──そして私の母を、毒殺したトレスト家を利用してこられた男性)

 セレネの胸の中で、五年前の母の最後の朝の光景が蘇った。

 ──十一歳のセレネ。母の寝室の扉の前。母エリナは前夜の夕食の後、急に倒れた。医師が一晩中付き添った。しかし朝、母の呼吸はもう浅くなっていた。セレネは扉の前で、震えていた。父王ヴィルフレッドが扉を開けて、セレネを母の元に呼んだ。母の手は冷たかった。──しかし母は最後の意識で、セレネに微笑んだ。

 「セレネ。──母さんはね──」

 母の声はもう細かった。

 「──二十年ある仕事を続けてきた。──いつかあなたが大きくなったら、母さんの仕事の意味を知るかもしれない。──しかしそれはあなたの選択。──母さんはあなたに何も継がせない。──ただ、あなたが自分の道を自分で選びなさい」

 母の手が、セレネの頬に触れた。──それが最後だった。

 セレネは羊皮紙を見つめながら、五年ぶりにその朝の母の顔を心の中で見た。

 (──母さん。──私は今、母さんが二十年戦っていた相手の中心に手紙を書こうとしている。──母さんは、私に何も継がせないと仰った。──しかし私は、自分の選択で母さんの未完の物語の続きを引き受けようとしています)

 セレネの目に涙が滲んだ。──しかし涙は流さなかった。羊皮紙が濡れてしまうから。

 セレネは深く息を吸った。

 政治的な交渉の手紙なら、書ける。──「ヴィスカルト皇太子殿下。──アウレリア王国の王女として、対外交渉のためにこうしてお手紙を差し上げます」。──しかしセレネは、それを書きたくはなかった。

 稜の夕方の言葉を思い出した。

 「殿下。──手紙は、政治の手紙ではない方が良いと思います。──殿下のお気持ちのままにお書きください。──ヴィスカルト殿下は政治の手紙には慣れておられるはず。──しかし政治を超えた個人の手紙を、十六歳の少女から受け取ったことはないはず」

 セレネは小さく頷いた。

 羽ペンを白い羊皮紙の上に置いた。──手が、わずかに震えていた。──しかしセレネは、その震えを止めようとしなかった。震えたままで書く。──震えることが、十六歳の少女の真実だから。

 満月の光が、窓の外から羊皮紙を青白く照らした。

 セレネはゆっくりと書き始めた。

            ─── ─── ───

 最初の一行。

 「──ヴィスカルト殿下、へ」

 セレネは長くその一行を見つめた。

 通常の王家の女性が、皇太子に手紙を書く時宛先は「殿下ヴィスカルト・バスタン・ハーゲン皇太子閣下」と、なる。──しかしセレネは、簡素に「ヴィスカルト殿下へ」と、書いた。──稜の助言の通り、政治を超えた個人の手紙として。

 セレネは続けた。

 「──私の名はセレネ・アウレリア・アルヴェリア。アウレリア王国、レオン王の妹王女です。──十六歳に、なったばかりです」

 セレネは頷いた。

 「殿下。──私は生まれて初めて皇太子のご身分の男性に、手紙を書きます。──書き方が不慣れであること、お許しください」

 セレネは長く考えた。

 「殿下。──私の母エリナ・アウレリアは五年前四十八歳で、亡くなりました。──公式には心臓発作。──しかし最近、私は母の死の真の原因を知りました」

 セレネは深く息を、吸った。

 「母はハーゲン帝国のトレスト家の毒物で、毒殺されました。──そして母は亡くなる直前まで二十年ヴィスカルト皇太子家の傍系の男性フリードリヒ・フォン・ヴァランディン様と密かに文通して、おりました。──二人は千年の計画の内部の改革派の活動を共に続けておられたと母の書簡の写しから判明、いたしました」

 セレネは、頁を捲った。新しい、羊皮紙を机の上に置いた。続きを書いた。

 「殿下。──私は母の二十年の活動の続きを十六歳で引き受ける、覚悟があります。──しかし私は母のように密かな文通ではなく直接の対面を希望、いたします」

 「殿下と、お会い、したいのです」

            ─── ─── ───

 セレネは、ペンを置いた。

 長く書いた、文を見つめた。──ここまで、ではまだ政治的なニュアンスが強い。──稜の助言の通り、政治を超えた個人の感情をもっと書く必要があった。

 セレネは深く息を、吸った。──そして再びペンを、取った。

 「殿下。──私がお会いしたいのは政治的な交渉、ではありません。──私は稜殿と神崎閣下から殿下のご家族のご事情を、伺いました」

 セレネは長く考えた。──そして続けた。

 「殿下のお父上フリードリヒ二世皇帝は若い頃の稜殿の世界の人物のご名前と似て、おりますね。──稜殿が不思議なご縁とおっしゃって、おられました」

 セレネは続けた。

 「殿下のお父上は最後の十五年何かに苦しんでおられたと、伺いました。──そして殿下が十二歳の時お兄上ヴァレン皇太子様が、十九歳で亡くなられた」

 セレネは深く息を、吸った。

 「殿下。──私は五歳の時、母を失いました。──正確には十一歳の時です。──しかし母の死の真相を知ったのは、最近です。──十一年母の死の本当の意味を知らずに生きて、参りました」

 セレネは続けた。

 「殿下も十二歳の時お兄上を失われその後お父上の苦しまれる姿を十五年見続けてこられたと、伺いました。──十二歳から二十七歳まで長い間何かに苦しまれたお父上の傍で生きてこられたことの重みを私は想像するしか、ありません」

 「殿下。──私は母の書斎で母の書簡の写しを見つけ母の二十年の活動の意味を知り、ました。──そして私は深く思いました。──母の活動は千年の歪みを内部から止める、ためでした。──そしてその活動の相手フリードリヒ・フォン・ヴァランディン様も同じ活動を続けて、おられました」

 「殿下。──私は母の活動の続きを引き受けます。──しかし母の活動は、文通でした。──私は、文通ではなく直接の対面で活動を続けたいと考えております」

            ─── ─── ───

 セレネは、ペンを置いた。

 長く書いた、文を見つめた。──まだ何かが、足りない。──十六歳の王女の個人の感情の芯の部分が、まだ表現されていない。

 セレネは深く息を、吸った。

 窓の外で、満月の光が徐々に強くなっていた。──月光が、机の上の羊皮紙を青白く淡く照らしていた。

 セレネは、再びペンを取った。

 「殿下。──私は十六歳に、なったばかりです。──皇太子の殿下の十八歳年下です。──しかし私は十一年母を失った寂しさを抱えて、生きて参りました」

 セレネは続けた。

 「殿下も十二歳からお兄上を失った寂しさを抱えて生きてこられたと想像、いたします。──私たちは年齢が十八離れていますが同じような喪失を抱えて生きてきた二人の人間、かもしれません」

 セレネは長く考えた。──そして続けた。

 「殿下。──私は殿下にお会いしたいのは同じ喪失を抱える者としてお会い、したいのです。──政治の交渉のためではない。──互いの悲しみを共有する、ために」

 セレネは深く息を、吐いた。

 「殿下。──私は母の書簡の写しの中にフリードリヒ・フォン・ヴァランディン様の書簡をいくつか、読みました。──彼の書簡には殿下のご家族への深い愛情が、書かれておりました。──彼はシモーネ皇妃様のいとことして殿下を幼い頃から見守ってこられた、と。──そして殿下のご成長を深く誇りに思っておられた、と」

 「殿下。──フリードリヒ様も五年前、ご逝去されました。──彼の二十年の活動の続きを私は、引き受けます。──そしてその続きの形で殿下とお会いしたい、のです」

            ─── ─── ───

 セレネは、ペンを置いた。

 手紙の続きを、長く考えた。

 窓の外で、満月の光が最も強い時間に達していた。──夜半、過ぎ午前零時近く。

 セレネは、ペンを再び取った。

 「殿下。──最後に、私の希望をお伝えします」

 セレネは深く息を、吸った。

 「殿下がよろしければ半年後の晩秋私は帝都を訪問したく、思います。──夏萌月半ばの稜殿と神崎閣下と殿下のご対面の後私と殿下の対面の時期を改めてご相談させて、いただきたい」

 セレネは続けた。

 「殿下。──訪問の形は政治的な外交ではなく私的な、訪問で結構です。──訪問の間殿下と二三回ゆっくりとお話できる時間をいただけ、ましたらありがたい」

 セレネは深く息を、吐いた。

 「殿下。──不慣れな十六歳の王女の初めてのお手紙お読みいただきありがとう、ございました。──ご返信は急ぎませんがもし私の希望にご賛同いただけましたら神崎閣下を通じて、お知らせください」

 セレネは、最後に署名を書いた。

 「アウレリア王国王女、セレネ・アウレリア・アルヴェリア。──若葉月半ば満月の夜に」

 セレネは、ペンを置いた。

 長く深く息を、吐いた。

 書き終えて、いた。──四枚の羊皮紙、約千五百字の手紙。──十六歳の王女が、生まれて初めて皇太子に書いた個人の手紙。

 セレネは、目を閉じた。──そして母、エリナ前王妃の声を心の中で聞いた。

 (──娘、セレネ。──私の二十年の文通の続きを、あなたが十六歳で始める瞬間。──私の魂は、あなたの傍にいる)

 セレネの目に、涙が滲んだ。──しかし流さなかった。深い安らぎ。

            ─── ─── ───

 翌朝、午前九時。

 セレネは、稜の書斎を訪ねた。手紙の束を、両手で持っていた。

 稜は、扉を開けた。セレネを書斎に、招き入れた。

 稜の書斎には、神崎閣下の密書が机の上にいくつか置かれていた。──稜は、毎日神崎との密書のやり取りを続けていた。

 セレネは、稜の机の向かい合いに座った。──手紙の束を、机の上に置いた。

 「師。──昨夜書きました。──ヴィスカルト殿下への最初の手紙、です」

 稜は深く頷きを返した。

 「殿下。──拝読、いたします」

 稜は、手紙を両手で取った。──そしてゆっくりと読み始めた。

 稜は長く長く読んで、いた。──三十分、ほど稜は机の前で長く考えながら手紙を読んでいた。──最初の一行から、最後の署名まで。

 読み終えた、後稜は深く息を吐いた。

 「殿下」

 稜の声は、静かだった。

 「──素晴らしい、お手紙です」

 セレネは長く稜を見つめた。

 「師。──ご感想を、伺ってもよろしいですか」

 稜は深く頷いた。

 「殿下。──この手紙は政治の手紙、ではありません。──しかし政治的な影響は極めて大きい、はずです。──ヴィスカルト殿下は政治の手紙には、慣れておられる。──しかし十六歳の少女から個人の感情の共有の手紙を受け取ったことはおそらく初めてで、しょう」

 稜は続けた。

 「特にフリードリヒ・フォン・ヴァランディン様の書簡から殿下のご家族への深い愛情を読み取りそれをお伝えしている、部分。──ヴィスカルト殿下は深く衝撃を受けるはずです。──ヴィスカルト殿下、ご自身が知らない可能性があるシモーネ皇妃様のいとこフリードリヒ様の二十年の活動と彼の殿下への愛情」

 セレネは一度頷いた。

 「師。──この手紙、ヴィスカルト殿下にお送りいただいてよろしいでしょうか」

 稜は長く考えた。

 そしてわずかに頷いた。

 「殿下。──しかし神崎にも見せて、判断いたします。──神崎の十年のヴィスカルト殿下の師としての視野で確認が、必要です」

            ─── ─── ───

 稜は、神崎への密書を書き始めた。

 「玲。──セレネ殿下がヴィスカルト殿下への最初の手紙を書かれた。──手紙の写しを、添えてお送りする。──お前のご感想と、判断を伺いたい」

 稜は、密書を丁寧に折り畳んだ。──そしてセレネの手紙の写しを書記官に、依頼した。──午後までに、写しが完成するはずだった。

 午後、二時。

 セレネの手紙の写しが、完成した。稜は、写しを密書と共に神崎の使者に託した。──使者は、最も速い馬で帝都に向かった。──十日後、帝都に到着するはずだった。

 セレネは、稜の書斎で長く待っていた。

 「師。──神崎閣下のご返信は、いつ頃でしょうか」

 稜は深く考えた。

 「殿下。──使者は十日後帝都に到着、します。──神崎が手紙の写しを読み判断するのに二、三日。──そして神崎の密書のご返信がこちらに届くまでまた十日、ほど。──合計約二十三日ほど、かかります」

 セレネは何度か頷いた。

 「師。──夏萌月、初めの頃ですね」

 稜は頷きを返した。

 「殿下。──そうです。──神崎のご返信を待ちます。──ご返信で、神崎が賛同すればすぐにヴィスカルト殿下に手紙をお届けする手配をいたします」

 セレネは無言で頷いた。

            ─── ─── ───

 二十三日後。

 夏萌月、初めの夜。

 稜は、王宮の書斎で神崎から届いた密書を読んでいた。

 「稜。──セレネ殿下のお手紙拝読、した。

 稜。──これは政治を超えた、手紙だ。──ヴィスカルトは深く衝撃を受けるはず。──私の十年のヴィスカルトの観察、では彼は十二歳の時兄ヴァレンの死以来深い孤独を抱えて生きてきた。──そして過去、五年トレスト家との関係の中でその孤独がより深まっていた。

 セレネ殿下の手紙は、その孤独に十六歳の少女の共感が届く最初の瞬間になる可能性がある。──ヴィスカルトは、政治の手紙には慣れている。しかし個人の感情の共有の手紙は、彼の人生で初めての可能性が高い。

 私の判断:──手紙を、ヴィスカルトにお届けすることに賛同する。──私の使者を通じて、夏萌月半ばの対面の前にヴィスカルトにお渡しすることが適切と考える。

 稜。──セレネ殿下の十六歳の覚悟の深さに、私は深く敬意を表する。──そしてその覚悟をこうしてお手紙の形で結晶されることを、お助けされたお前の参謀の視野にも。

 玲」

 稜は長く密書を見つめた。

 静かに頷いた。

 扉が、ノックされた。

 「師。──セレネです」

 稜は、扉を開けた。──セレネが、立っていた。──二十三日、ぶりの訪問。──神崎のご返信を、待っていた間セレネは母の書簡の整理と自分の覚悟の深化に時間を使っていた。

 稜は無言のまま視線を返した。

 「殿下。──神崎のご返信が、参りました。──賛同、です」

 セレネの目に深い安らぎが、宿った。

            ─── ─── ───

 稜は、神崎の密書をセレネに見せた。──セレネは長く神崎のご返信を読んだ。──そして深く頷きを返した。

 「師。──神崎閣下のご賛同、ありがたいです」

 稜はわずかに頷いた。

 「殿下。──手紙を神崎の使者でヴィスカルト殿下にお届け、する手配を進めます。──夏萌月半ばのヴィスカルト殿下と神崎、稜の対面の前にお届け、されるはずです」

 セレネは一度頷いた。

 「師。──そしてもう一つお伺い、したいことがあります」

 稜は頷いた。

 「殿下。──何でしょうか」

 セレネは長く考えた。

 「師。──手紙の最後にもう一行、書き加えたいと思います。──手紙の本体ではなく手紙の裏面に、小さく一行だけ」

 セレネは深く息を、吸った。

 「『──殿下の兄上のために、祈らせてください』」

 稜の息が、わずかに止まった。

 長くセレネを見つめた。

 ヴァレン皇太子。十九歳で、亡くなったヴィスカルトの兄。──公式には、狩猟事故。──しかし稜と、神崎の調査では前皇帝フリードリヒ二世が暗殺を命じた可能性が高い。──そしてヴィスカルト、自身はまだその真相を完全に知らない。──しかし十二歳の時、ヴァレンの葬儀の肖像画の彼の目には深い悲しみと罪悪感の影があった。

 セレネが、ヴァレンのことに触れるということはヴィスカルトの人生の最も深い痛みに十六歳の王女が共感の手を差し伸べることを意味、していた。

 稜は深く息を、吐いた。

 「殿下。──書き加えて、ください」

 セレネは一瞬の沈黙の後、頷いた。

 手紙の裏面に、小さく一行を書き加えた。

 「──殿下の兄上のために、祈らせてください」

 ペンを、置いた。

 深く息を、吐いた。

            ─── ─── ───

 夕方、五時。

 セレネは、稜の書斎で手紙を密封する準備をしていた。

 稜が、机の上に印章を用意していた。──アウレリア王家の紋章——金の鷲と、銀の剣——の印章。──そしてセレネの個人の署名の印章。

 セレネは、両方の印章を手紙に押した。

 手紙は、密封された。

 稜は、神崎の信頼できる使者を呼んだ。──若い、騎士ジェラール二十六歳。──過去、何度も稜と神崎の間の密書を運んだ男。

 ジェラールは深く一礼した。

 「殿下。──謹んで、お預かりいたします」

 セレネは、手紙を両手でジェラールに託した。

 「ジェラール殿。──神崎閣下のご手配の形でヴィスカルト殿下に、お届けください。──急ぎませんが夏萌月半ばの対面の前にお届けできるよう、お願いいたします」

 ジェラールは頷いた。

 「殿下。──十日で帝都に、到着いたします。──そして神崎閣下のご判断でヴィスカルト殿下に、お渡しします」

 ジェラールは深く一礼した。──そして書斎を、出ていった。

 セレネは長く扉を見つめて、いた。──手紙が、出発した。──ヴィスカルト殿下に向かって、十日の旅が始まっていた。

 稜は、セレネを長く見つめた。

 「殿下」

 稜の声は、静かだった。

 「──ご決断、深いです」

 セレネは小さく頷いた。

 「師。──手紙が出発、しました。──私の十六歳の覚悟がヴィスカルト殿下に届く瞬間が、来ます」

 稜は無言で頷いた。

            ─── ─── ───

 夜、稜は王宮の書斎で一人机の前に座っていた。

 革の手帳を開いた。最初の頁の裏に、新しい紙を添えた。

 書いた、一行。

 「──セレネ殿下十六歳ヴィスカルト殿下への最初の手紙。──同じ、喪失を抱える者として対面を希望。──手紙の裏に、ヴァレン皇太子への祈り。──夏萌月半ばの対面の前にヴィスカルト殿下に、届く」

 稜は、紙を革の手帳に挟んだ。

 窓辺に、立った。

 夏萌月、初めの夜空。──若葉月の満月から、一週間。月は、徐々に欠けつつあった。──しかし星が、夜空に無数に輝いていた。

 稜は長く星空を見つめた。

 胸の中で、セレネの十六歳の覚悟とヴィスカルトの十二歳から十九年抱えてきた孤独がぶつかる瞬間が、徐々に近づいていた。

 (──夏萌月、半ば。──玲が、ヴィスカルト殿下と対面する。──そしてその対面の前、または後にセレネ殿下の手紙がヴィスカルト殿下に届く。──二つの衝撃が、同時にヴィスカルト殿下を襲う)

 稜は深く息を、吐いた。

 夜空の星が、稜の書斎の窓辺で静かに瞬いていた。──夏萌月の夜が、徐々に深まりつつあった。

 稜の胸の中で、十六歳の王女と三十四歳の皇太子の最初の出会いの瞬間が徐々に立ち上がりつつあった。

 稜は長く夜空を見つめて、いた。

セレネからヴィスカルトへの最初の手紙。

最後の一行「殿下の、兄上のために、祈らせてください」

このたった一行を書くために、ここまで来た気がします。

十六歳の少女が、三十四歳の皇太子の最も深い痛みに、共感の手を差し伸べる。

書きながら自分でも、何度も読み返した一行です。

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