アウリオンへ、戻る次の段階へ
帝都ヴェルデン、若葉月半ば。
稜の帝都滞在は、約一ヶ月になっていた。契約更新日から、四週間後に帝都に到着。──そして最初の五日間で、神崎との対話の骨格が整った。──しかしその後、稜はすぐにはアウリオンに戻らなかった。
前皇帝の書簡。──エリカの二十年の調査。──ヴァレン皇太子の死の真相。──写真立ての紋章。──これらの情報を、整理するために稜はもう三週間帝都に滞在した。神崎の三人の弟子団と、深い議論を重ねた。──そして神崎が、ヴィスカルト皇太子にいつ父の罪を告げるかの戦略を共に設計した。
その間、稜はアウリオンに密書を送った。
「クロヴィス。──帝都に来てほしい。──神崎の弟子団と、共に千年の計画の最終段階の設計をするために」
クロヴィスは、書記官室の仕事をロッテに引き継ぎ二日後馬で帝都への街道を進んだ。──帝都の城門を、抜けたのは稜の密書から十日後。クロヴィスは、神崎の公邸で稜に合流した。
帝都での最後の二週間、稜とクロヴィスは神崎ブランヘルマンエリカマルセルと共に九人の弟子と二人の参謀の戦略を、深く議論した。──そして今稜と、クロヴィスはアウリオンへの帰路につく朝を迎えていた。
─── ─── ───
神崎の公邸の正門。
若葉月、半ばの朝の光が街並みを淡い緑色に照らしていた。空は、淡い青。空気はもう春の終わりの温かさを含んで、いた。風は、穏やかで東から吹いていた。
二頭の馬が、正門の前で待っていた。稜と、クロヴィスの馬。荷物は、ほとんどなかった。アウリオンへの帰路は、十日。──しかし二人だけの旅、だった。ブランと、レオナルドカールは帝都に残る。神崎の弟子団と、共に帝国内部の情報網を引き続き構築するためだった。
神崎が、公邸の正門の外に立っていた。今日の神崎は宰相の礼服ではなかった。簡素な、白いシャツに紺の外套。プライベートの姿。──稜を個人として見送るための姿、だった。
ヘルマン副宰相、エリカ議員マルセル書記官長も神崎の横に立っていた。三人の弟子団と、ブランレオナルドカールも。──九人の弟子と、神崎、稜クロヴィスの十二人。一ヶ月、共に戦略を議論した仲間たちだった。
稜は、神崎の前で立ち止まった。
「玲」
稜は頭を下げた。
「──一ヶ月ありがとう、ございました。──私はアウリオンに戻り、次の段階の調査を始めます」
神崎は深く目を伏せた。
「稜。──お前と、過ごした一ヶ月は私の十数年の参謀の孤独の最後の解放の時間だった。──ありがとう」
二人は長く互いを見つめた。
神崎は、稜の肩に軽く手を添えた。──短い、しかし深い温かさ。一ヶ月前の再会の瞬間と、同じ温かさ。──そしてそれ以上の何か。一ヶ月、共に過ごした深い信頼の温かさがその手のひとときに込められていた。
稜は深く頷いた。
─── ─── ───
ヘルマンが、深く頭を下げた。
「稜殿。──一ヶ月ありがとう、ございました。アウレリア王国の参謀の視野を私たち帝国の改革派にも共有していただき深く感謝、いたします」
稜は深く一礼を、返した。
「ヘルマン副宰相。──こちらこそありがとう、ございました。──ヴィスカルト派の最新動向のご提供引き続きお願い、いたします」
エリカが、一礼した。
「稜殿。──二十年私の戦いを共有していただき、本当にありがたいです。──セレネ王女殿下に私の伝言よろしくお願い、いたします」
稜は深く頷きを返した。
「エリカ議員。──必ず伝えます。──いつか、お二人を必ずお会わせします」
マルセルが、丁寧に一礼した。
「稜殿。──三十年の私の書記官人生で最も深い議論を稜殿と、共にいたしました。──次の段階でまたお会いできることを楽しみに、しております」
稜は深く一礼を、返した。
「マルセル書記官長。──ありがとう、ございました」
最後に、ブランが稜の前に来た。
ブランは、稜の目を長く見つめた。
「師匠」
ブランの声は、低かった。しかし深い温かさが、宿っていた。
「──師匠がアウリオンに戻られる間俺は帝都で、情報網の構築を続けます。──次の段階でご指示いただければいつでも、戻ります」
稜は一度頷いた。
「ブラン。──お前の十年の解放の後の新しい十年が、ここで始まる。──俺はお前を信頼している」
ブランは深く一礼した。
稜は、ブランの肩に手を置いた。
「ブラン。──また会おう」
─── ─── ───
稜と、クロヴィスは馬に跨った。
神崎が、最後に稜に近づいた。
「稜」
神崎の声は、静かだった。
「──次の段階。──お前はアウリオンで裏の冥書庫の最深部の調査を、進める。──私は帝都でヴィスカルトに父の罪を告げる、準備を続ける。──二人の参謀の視野は別の場所にあるが向く方向は、同じ」
稜は頷きを返した。
「玲。──そして私たちが、再会する時千年の計画の構造の全貌が明らかになっているはずだ」
神崎は黙って頷いた。
「稜。──私たちの次の再会まで、お互い生きていよう」
稜は、微かに笑った。
「玲。──二十年別れていた後に、また会えた。──次はもっと近いうちに、会える」
神崎も、微かに笑った。
稜は、馬の手綱を握った。クロヴィスも、その横で馬の手綱を握った。
「玲。──いつか、必ず」
稜は無言で頷いた。
神崎も何度か頷いた。
二頭の馬が、ゆっくりと動き始めた。
帝都ヴェルデンの大通りを、ゆっくりと進んだ。
稜は、馬の上で一度振り返った。
神崎の横に九人の弟子が、立っていた。──全員、稜の姿を見送っていた。一ヶ月、共に議論した仲間たち。──そしてその奥に皇宮の白い、塔が聳えていた。皇宮の奥のどこかに、ヴィスカルト皇太子が住んでいる。
稜は深く息を、吐いた。
(──玲。──私たちの次の再会の時、ヴィスカルト殿下は私たちの側に立っているかもしれない)
─── ─── ───
稜と、クロヴィスは帝都の城門を抜けた。
大陸中央の街道を、南西に向かって進んだ。──アウリオンへの十日の帰路。来た、時と同じ街道。──しかし来た、時と違う稜だった。一ヶ月の帝都での調査と、議論で稜の参謀の視野は明確に深まっていた。大陸全体の千年の計画の構造を、稜は今立体的に把握していた。
クロヴィスは、稜の半歩後ろを馬で進んだ。
四日目の夕刻。
稜と、クロヴィスは街道沿いの宿屋に泊まっていた。稜と、ブランが行きの旅で襲撃された森から二日分の距離。──しかし今回は、襲撃はなかった。神崎が、ヘルマンを通じて街道の警備を強化していたことが効いていた可能性もあった。
夕食の後、稜とクロヴィスは宿屋の暖炉の前で二人だけで座っていた。
暖炉の火が、静かに爆ぜていた。
稜は深く息を、吐いた。
「クロヴィス」
稜は静かに告げた。
「──アウリオンに戻ったら、俺たちは裏の冥書庫の最深部にもう一度行く」
クロヴィスの目が、稜を見つめた。
「師匠。──最深部、ですね」
稜はゆっくりと頷いた。
「お前が、最深部で祖父の手稿を見つけたその奥にもう一つの扉があるかも、しれない」
クロヴィスは、息を呑んだ。
「もう一つの扉……」
「玲が、私に教えて、くれた」
稜は続けた。
「玲は神崎家の千年の口伝で聞いたと言って、いた。──六百五十年前のトルメアスは自分の最後の予言書を書いた。──予言書は千年の計画の最終段階の設計図だ。──その予言書の完全版が、どこかに封じられている」
稜は深く息を、吸った。
「玲はトルメアスの第二の弟子の家系の口伝で予言書の一部の断片を知って、いる。──しかし完全版は誰も、知らない。──しかし玲の推測では完全版はアウレリア王国の裏の冥書庫の最深部の奥に封じられている可能性が、ある」
─── ─── ───
クロヴィスは長く稜を見つめた。
暖炉の火が、二人の間で揺れていた。
「師匠。──祖父の手稿には、予言書のことが書かれていませんでした」
稜はゆっくりと頷いた。
「祖父殿の手稿はフェリクス・クルビットの罪とルクレティウス殿の二十年の沈黙が中心、だった。──しかし祖父殿が若い書記官長として裏の冥書庫の最深部を整備したその過程でもう一つの扉の存在に気づいていた可能性が、ある」
クロヴィスは黙って頷いた。
「師匠。──マテウス院長は、ご存じでしょうか」
稜は長く考えた。
「マテウス院長は五十年最深部を守って、こられた。──もう一つの扉の存在を知っている可能性が、高い。──しかし彼は私たちにまだ告げて、いない。──おそらくまだ私たちにその扉に触れる準備ができていないと判断されている、のだろう」
クロヴィスは静かに頷いた。
「師匠。──マテウス院長のご判断を尊重しつつ、もう一つの扉の存在について伺います」
稜は頷いた。
「クロヴィス。──お前は、祖父殿の手稿を受け継いだ孫としてもう一つの扉の調査を私と共に進めてほしい」
クロヴィスは頷きを返した。
「師匠。──僕は、祖父の手稿を受け継いだ者としてその調査に全力を尽くします」
─── ─── ───
稜は長く暖炉の火を見つめた。
胸の中で、これまでの二ヶ月の出来事が整理されていった。
契約更新日からの、神崎の暗殺未遂と戦時体制の骨格作り。
霧峰の二十年の真相、フィオナの最期、ルクレティウスの手稿、カイルとの和解。
帝都での神崎の弟子団との出会い、ブランの解放、前皇帝の書簡、エリカの調査、ヴァレンの死の外形的真相、写真立ての紋章。
そして次の段階——アウリオンに戻り、裏の冥書庫の最深部の奥のもう一つの扉を調べる。トルメアスの予言書の完全版を、探す。
稜は深く息を、吐いた。
(──次の段階。──物語の構図の最も、深い層に稜とクロヴィスは踏み込む)
稜は、クロヴィスを見つめた。
「クロヴィス。──お前は十六歳。──二ヶ月前、お前は祖父様の手稿の扉の前で迷っていた。──しかし今お前は、祖父様の手稿を受け継いだ孫として次の扉の前に立つ覚悟を持っている。──お前の成長を、私は深く感じる」
クロヴィスはわずかに頷いた。
「師匠。──ありがとう、ございます」
稜は続けた。
「クロヴィス。──祖父様の最後のメッセージを覚えて、いるか。『沈黙は時に罪を、覆う。しかし沈黙は時に愛を、守る。我が孫よ君はどちらの沈黙を、選ぶのか』」
クロヴィスは頷きを返した。
「師匠。──毎日、思い出しています」
稜は一度頷いた。
「クロヴィス。──トルメアスの予言書の完全版を見つけた後私たちはもう一つの選択をする必要が、ある。──予言書の内容を公にするか、しないか。──六百五十年誰も知らなかった千年の計画の設計図を私たちはどう、扱うか」
クロヴィスは長く稜を見つめた。
そして深く頷いた。
「師匠。──祖父様の選択を糧として私たちの選択を、しましょう」
稜は深く目を伏せた。
─── ─── ───
翌日からの帰路は、平穏だった。
稜と、クロヴィスはゆっくりと馬を進めた。街道は、若葉月の半ばの緑で満ちていた。野の花が、地面に咲いていた。空気は、温かくしかし爽やかだった。
稜は、馬の上で革の手帳を何度か開いた。最初の頁の裏に、いくつもの紙が挟まれていた。──セレネの覚悟。クロヴィスの判断。フィオナの最期の言葉。前皇帝の書簡のメモ。──エリカの調査のメモ。──ヴァレン皇太子の死のメモ。──写真立ての紋章のメモ。
革の手帳は、千年の計画を止めるための地図になっていた。
稜は深く息を、吐いた。
九日目の夕刻。
稜と、クロヴィスはアウレリアとサルマティアの国境の村に到着した。──アウレリア王国の領内に入る、最後のステップ。
国境警備の兵士が、稜の王宮の通行証を確認した。深く一礼して、通行を許可した。
稜は、馬の上で深く息を吸った。
(──アウレリア王国に戻った)
クロヴィスも深く息を、吸った。
「師匠。──アウリオンまであと、一日です」
稜は静かに頷いた。
「クロヴィス。──明日王宮に入る前四人の弟子とカスパル殿、マテウス院長アルデス公に会いに、行く。──一ヶ月の帝都の調査の報告と次の段階の計画の共有」
クロヴィスは黙って頷いた。
─── ─── ───
十日目の夕刻。
稜と、クロヴィスはアウリオンの王宮の西門の前に到着した。
王宮の近衛兵が、稜を見て深く一礼した。
「稜殿。──お帰りなさい、ませ。──陛下と四人の弟子の皆様が王宮の執務室で、お待ちです」
稜はわずかに頷いた。
馬を、降りた。クロヴィスも、馬を降りた。──二人は、王宮の馬丁に馬を預けた。──そして稜と、クロヴィスは王宮の廊下をゆっくりと歩いた。
王宮の廊下の石の床に、夕陽の最後の光が斜めに落ちていた。
稜は深く息を、吐いた。
(──一ヶ月、ぶりだ)
執務室の扉の前で稜は、立ち止まった。クロヴィスも、その横で立ち止まった。──稜は、扉をノックした。
扉が、開いた。
レオン王、二十八歳が扉を開けていた。──そしてその奥にセレネ、ロッテブランの代理としてセヴィンカスパル、マテウス院長アルデス公ヴァルド副宰相が執務室の机の周りに立って、いた。
全員が、稜を見て深く一礼した。
「稜殿」
レオン王が、深く告げた。
「──お帰り、なさいませ」
稜は深く腰を折った。
「陛下皆様。──ただ、いま戻りました」
稜の目に深い温かさが、滲んだ。
一ヶ月、帝都で九人の弟子と共に戦略を議論していた。──しかしアウリオンの執務室の皆と、再会した瞬間稜の胸の中で別の温かさが流れた。──最初の四人の弟子と、二人の老兵と二人の王族と一人の副宰相。──稜の最も、近い家族のような仲間たち。
セレネが、稜の前に近づいた。十六歳の王女。母の真珠のネックレスを、指先で撫でていた。
「師」
セレネの声は、静かだった。
「──お帰り、なさいませ」
稜は深く頷きを返した。
「殿下。──エリカ・ライヘンバッハ議員からご伝言いただいて、参りました。『帝都に殿下の同志が一人、おります』」
セレネの目が、深く光った。
「──師。──ありがとう、ございます」
─── ─── ───
稜は、執務室の長机の奥の席に座った。
一ヶ月、ぶりの自分の椅子。──稜は深く息を、吐いた。
稜は、皆の前で一ヶ月の帝都の調査の要点を簡潔に報告した。
神崎の三人の弟子団。エリカの二十年の調査。トレスト家の二十一件の毒殺事件、リスト。前皇帝の書簡。ヴァレンの死の真相。──そして写真立ての紋章。
報告が、続く間皆は静かに聞いていた。
報告の最後に、稜は告げた。
「皆様。──次の段階。──アウリオンの裏の冥書庫の最深部の奥にもう一つの扉があるかも、しれません。──六百五十年前のトルメアスの予言書の完全版がその奥に封じられている可能性が、あります」
マテウス院長の深い青い目が、稜を見つめた。
稜は、マテウスを見た。
「マテウス殿。──院長はもう一つの扉の存在をご存知、でしょうか」
マテウスは深く頷いた。
長い、沈黙が流れた。
「稜殿。──私は五十年最深部を守って、まいりました。──最深部の奥にもう一つの扉があることを私は知っています。──しかし私は、その扉の奥には一度も入ったことがありません。──ルクレティウスも、入っていないと思います」
マテウスは続けた。
「もう一つの扉は千年前のトルメアスの時代の扉です。──開ける、ための鍵は私の手元にはありません。──開ける、ための条件も私は知りません」
稜は頷いた。
「マテウス殿。──次の段階の調査はその扉の調査から、始めます。──院長とクロヴィスと私の三人でまず、その扉の前に立ちましょう」
マテウスは小さく頷いた。
─── ─── ───
夜、稜は王宮の書斎に戻った。
一ヶ月、ぶりの自分の書斎。──机の上に、革の手帳がまだ開いていた。最初の頁の裏に、いくつもの紙が挟まっていた。
稜は、机の前に座った。
革の手帳に、新しい紙を添えた。
書いた、一行。
「──次の段階。──裏の冥書庫の最深部の奥のもう一つの扉。──トルメアスの予言書の完全版」
稜は、紙を革の手帳に挟んだ。
窓の外で、若葉月半ばの夜が深まりつつあった。──三十日月の月が、徐々に満ちつつあった。あと、数日で満月。
稜は深く息を、吐いた。
その時、書斎の扉がノックされた。
「稜殿。──マテウス院長から、密書が届きました」
書記官の若い、声。
稜は、立ち上がった。扉を開けた。書記官が、両手で密書を差し出した。稜は、密書を受け取った。書記官は深く一礼して、退いた。
稜は、扉を閉めた。書斎に戻った。机の前で密書を開いた。
密書には、たった一行だけ書かれていた。
「裏の冥書庫の最深部の扉の鍵が、動き始めた」
稜の目が、鋭く光った。
長くその一行を見つめた。
「鍵が、動き始めた」。──マテウスが、五十年守ってきた最深部。──しかし何かが、変わっていた。鍵が、動き始めたということは何かの構造的な変化が起こっているということだった。
稜は深く息を、吐いた。
(──予言書が、俺たちを呼んでいる)
窓の外で、夜空が深く深まっていた。
星が、無数に輝いていた。三十日月の月が、淡く皇宮の塔のシルエットを照らしていた。アウリオンの夜が、二ヶ月の旅の終わりを告げていた。
次の段階——「千年の予言書」を、探す。
稜の胸の中で、新しい決意が宿っていた。
第三章、ここで閉じます。
帝都での一ヶ月、稜の物語の大きな転換点でした。
「予言書が、俺たちを、呼んでいる」——次回から第四章「裏の冥書庫の最深部」。
ここからまた、別の場所への旅が始まります。




