神崎の写真立て
帝都ヴェルデン、五日目の深夜。
神崎の公邸の書斎。
深夜、十一時を過ぎていた。蝋燭の橙色の炎が、机の上で揺れていた。書斎の空気は冷たく、しかし静かだった。窓の外で、帝都の夜の街並みが徐々に眠りに入りつつあった。皇宮の塔の頂でいくつかの灯がまだ輝いていた。──しかし街のほとんどは、闇に沈んでいた。
稜と神崎は、机の向かい合いに座っていた。
夕食の後、二人は書斎に移っていた。前皇帝の書簡。──そしてヴァレン皇太子の死の真相。──二日間であまりに多くのことが明らかになっていた。二人はそれらを整理するために、夜の長い対話を続けていた。
しかし今、その対話の途中で神崎がふと口を止めた。
稜は神崎を見つめた。
神崎の目は机の上の何かではない、別の場所を見ていた。──遠い過去の何かを思い出している目だった。
「玲」
稜は静かに声をかけた。
「──何かあるのか」
神崎はしばらく沈黙した。
そして低く口を開いた。
「稜。──実は、お前にまだ話していないことが一つある」
─── ─── ───
稜は深く、神崎を見つめた。
神崎は深く息を吸った。そしてゆっくりと語り始めた。
「稜。──前世の記憶。──二十五年前、お前と私がまだ二十代の初めの頃。──私は一度、お前の実家を訪ねたことがある」
稜は頷いた。
「ああ、玲。──覚えている。──お前が初めて俺の実家に来た夜。──父さんと母さんと四人で夕食を食べた。──俺の部屋にお前を案内した」
神崎は深く頷いた。
「稜。──お前の部屋に入ったその夜。──私はお前の机の上に置かれていた、一つの写真立てを見た」
稜は長く考えた。
(──写真立て)
遠い記憶。前世の二十代の初め。稜の実家の自分の部屋。机の上の写真立て。──稜はしばらく思い出せなかった。しかし徐々に記憶が戻ってきた。
「玲。──木製の古い写真立てか。──祖父の形見だったものだ」
神崎は静かに頷いた。
「稜。──そうだ。──お前はその写真立てを机の上に置いていた。──あの夜、私はお前が台所に行っている間その写真立てを手に取って見た」
稜は頷いた。神崎が若い二十代の頃、稜の家を訪ねた夜の光景。──しかし写真立てを神崎が手に取ったことは、稜は知らなかった。
「玲。──お前が写真立てを手に取っていたことは、俺は知らなかった」
「稜。──お前は知らなかった。──私はその夜、写真立てをひっくり返して裏側を見た」
稜は神崎を長く見つめた。
「玲。──写真立ての裏側」
─── ─── ───
神崎は深く息を吐いた。
「稜。──写真立ての裏側に小さな紋章が刻まれていた。──黒い木の表面に、銀色の細い線で彫られた紋章。──私はその紋章を見て不思議に思った。お前の家紋でもなく私が知っているどの企業や団体の紋章でもなかった。──しかし何か独特の形をしていた」
稜は長く考えた。
(──祖父の写真立ての裏の紋章)
稜は写真立てを何度か手に取ったことがあった。──しかし裏側をひっくり返して見た記憶は、稜にはなかった。
「玲。──その紋章は、どんな形だった」
神崎は長く考えた。
「稜。──二十五年前のことだ。記憶は薄い。──しかしその紋章の形は、なぜか私の頭の中に強く残っていた。──あの紋章を私は二十五年、忘れることができなかった」
神崎は机の抽斗から、紙とペンを取り出した。そしてゆっくりと紙の上に紋章を描き始めた。
書斎の蝋燭の橙色の炎が、神崎の手元を照らしていた。──羽ペンの先がインク壺に入る音。──そして紙の上で、銀色の細い線が形を成していく。神崎の手は二十五年前の記憶を辿るために、ゆっくりと、しかし確信を持って動いていた。
稜は神崎の手元を見つめていた。──蝋燭の光の中で、紙の上に徐々に浮かび上がる形。──幾何学的な紋様。──三つの円が重なり、その中央に古い文字が刻まれた形。
稜の息が、ゆっくりと止まった。
(──この形を、俺は知っている)
稜の脳裏で、二十五年前ではなく、もっと古い時代の記憶が動いた。──祖父・玄一郎の家の応接間。──十二歳の稜が、祖父の机の上の古い書類を覗き込んだ夏の午後。──書類の一枚に、同じ三つの円の紋様が描かれていた。──祖父はそれを子供の稜から急いで隠した。「玄一郎、これは何の紋章?」「稜。──これはお前が大きくなったら、いつか分かることだ」。
稜の指先が、わずかに震えた。
稜は神崎の手元を見つめた。
神崎のペンが紙の上を、ゆっくりと動いた。中央に円。円の中に双頭の鷲のような形。鷲の上に剣。剣の横に月。──しかし月の形が特殊だった。月の半分だけ。──三日月ではなく、半月。
神崎はペンを置いた。
「稜。──これが二十五年前、お前の写真立ての裏に刻まれていた紋章。──私の記憶の中の形だ」
稜は長く、その紋章を見つめた。
─── ─── ───
稜の息が止まった。
その紋章。
稜は過去二日間、皇宮の廊下で何度も見た紋章。──ヴィスカルト皇太子家の家紋。
ハーゲン帝国の公式の紋章は、双頭の鷲と剣と月。しかしヴィスカルト皇太子家、特に母方のシモーネ皇妃の家系の独自の紋章は、それに加えて月が半月で刻まれていた。──公式のハーゲン家紋では月は満月。しかしシモーネ皇妃の家系——千年前のセレウス・ヴァランディンの血を継ぐ家系——では月は半月だった。
神崎が紙の上に描いた紋章は、ヴィスカルト皇太子家の母方の家紋と酷似していた。
稜は長く息を吐いた。
「玲。──これは──」
神崎は深く目を伏せた。
「稜。──三日前、私が皇宮の歴史記録室でシモーネ皇妃の家系の古い家紋を見た瞬間、私は二十五年前のお前の写真立ての裏の紋章を思い出した」
稜は長く神崎を見つめた。
「玲。──二つの紋章が酷似している」
「はい、稜」
神崎は一度息を吐いた。
「稜。──お前の祖父の形見の写真立ての裏に刻まれていた紋章は、千年前のセレウス・ヴァランディンの家系の紋章とほぼ同じだった」
─── ─── ───
稜は長く机の上の紋章の絵を見つめた。
書斎の蝋燭の炎が、静かに揺れていた。
稜の頭の中で、二十五年前の夜の光景が徐々に蘇っていた。
稜の祖父。父方の祖父。──稜が四歳の時に亡くなった。稜は祖父の顔をほとんど覚えていない。──しかし祖父の形見はいくつか、稜の家に残っていた。その中の一つが、木製の古い写真立てだった。写真立ての中には、祖父の若い頃の白黒の写真が入っていた。
稜はその写真立てを、二十代の頃まで自分の机の上に置いていた。──三十代になって引っ越しの時、写真立ては実家の両親に預けた。──そして二年半前、稜が異世界に転生するその夜稜は最後にその写真立てを見た記憶がある。
しかし稜は、写真立ての裏を見たことがなかった。
稜は静かに息を吐いた。
「玲。──祖父は何者だったのか」
稜は低く呟いた。
「祖父、村瀬玄一郎。──父方の祖父。明治末期の生まれ。職業は研究者と伝えられていた。専門は古代の宗教学と東洋哲学。──大学で長年教えていた。亡くなったのは五十年前。当時、稜は四歳。私は祖父の顔をほとんど覚えていない」
神崎は頷いた。
「稜。──研究者で、宗教学と哲学」
稜は続けた。
「祖父は若い頃、ヨーロッパに留学したと聞いている。一年か二年。何の研究であったかは、稜は知らない」
稜は長く考えた。
「祖父はまた、高樹の師でもあったと聞いている」
神崎の目が稜を見つめた。
「稜。──高樹。──お前の前世の師だった男。──お前の参謀の哲学の原点」
稜は深く頷いた。
「玲。──高樹は二十五年前まだ生きていた。──しかし亡くなったのは稜の大学院の頃。約二十二年前。──高樹が生前、稜にこう教えたことがある。『稜。──私の師はお前の祖父玄一郎先生だった。先生から私は研究と人生の両方を学んだ』」
神崎はゆっくりと頷いた。
「稜。──お前の祖父玄一郎先生は、高樹の師。──高樹はお前の師。──そして稜は私の師に近い存在になった二人組の参謀の片方」
─── ─── ───
稜は長く、神崎を見つめた。
書斎の空気が、二人の頭の上で静かに止まっていた。
稜は深く息を吐いた。
「玲。──祖父は研究でヨーロッパに留学した。──その時、何かを入手したのかもしれない。──千年前のトルメアスの計画の痕跡を含む何かを」
神崎は無言で頷いた。
「稜。──写真立ての裏の紋章はその何かの痕跡だ。──祖父はヨーロッパのどこかで、シモーネ皇妃の家系の千年の伝承に触れたのかもしれない。──そして何らかの形でその紋章を自分の写真立てに刻んだ」
稜は長く考えた。
「玲。──祖父はなぜ、そんなことをしたのか」
神崎は首を横に振った。
「稜。──分からない。──しかし一つ、確実に言えることがある。──私たちの転生は偶然ではない」
稜の目が神崎を見つめた。
神崎は続けた。
「稜。──二十五年前私がお前の家を訪ねた夜、私はその紋章を見た。──そして二年半前私たちは共に転生した。アウレリア王国の参謀と、ハーゲン帝国の宰相として千年の計画の最終段階の舞台に立った。──そして今、私たちはその紋章の家系——シモーネ皇妃の家系ヴィスカルト皇太子の母方——をめぐって戦っている」
「稜。──お前の祖父玄一郎先生が若い頃、ヨーロッパで何かを入手したその何かが、私たちの転生の原因の一部かもしれない」
稜は小さく息を吐いた。
「玲。──私たちの転生は、千年前に既に予定されていたのかもしれない」
神崎は深く頷きを返した。
─── ─── ───
長い沈黙が流れた。
書斎の蝋燭が燃え続けていた。
稜は紙の上の紋章の絵を、じっと見つめた。
二十五年前、神崎が稜の部屋で見た紋章。稜の祖父の形見の写真立て。その裏側の紋章。──千年前のセレウス・ヴァランディンの家系の紋章。
稜は低く呟いた。
「玲。──祖父は何かを知っていたのかもしれない」
神崎は頷いた。
「稜。──玄一郎先生が若い頃ヨーロッパで入手したその何かを、彼は自分の研究の対象として扱った。そしていつかその研究の何かを自分の孫に引き継ぐつもりだったのかもしれない」
「しかし玄一郎先生は稜が四歳の時に亡くなった。──研究の引き継ぎはできなかった。──写真立ての裏の紋章は、その未完の引き継ぎの痕跡」
稜は一度頷いた。
「玲。──しかし引き継ぎは別の形で行われた」
稜は続けた。
「祖父の弟子高樹。高樹は稜の師となった。──高樹は稜に参謀の哲学を教えた。──その哲学が今、千年の計画を止めるための参謀の技術として生きている」
神崎は感謝を込めて頷いた。
「稜。──祖父、高樹稜。──三世代の参謀の系譜」
稜は長く考えた。
「玲。──そしてお前。──二十年前私の相棒になって十五年、共に戦ってお前は稜の参謀の哲学を最も深く知る男になった。──二人の参謀」
神崎は深く頷いた。
「稜。──二人の参謀の転生は千年前に予定されていた可能性がある。──そしてお前の祖父、玄一郎先生も何らかの形でこの物語に関わっていた」
─── ─── ───
稜は神崎を長く見つめた。
二人の参謀の視野の中で、物語の構造が徐々に形を取りつつあった。
二十五年前、神崎が稜の部屋で紋章を見た夜。──それが千年の計画の最終段階の最初の糸だった可能性。──二年前、神崎が稜を嵌めた夜。──それも糸の一部。──そして二年半前、二人の転生。──全てが千年前の予定の上に立っていた可能性。
稜は小さく息を吐いた。
「玲」
稜の声は静かだった。
「──お前は二年前私を嵌めた、その罪をずっと背負ってきた。──しかしもしかしたらお前のその罪も千年前から予定されていた可能性がある」
神崎は長く稜を見つめた。
「稜」
神崎の声は震えていた。
「──お前が私の罪を千年前の予定として解釈することは、私への慰めになる」
稜は首を横に振った。
「玲。──私はお前を慰めるためにこれを言っているのではない。──ただ千年の計画の構造の奥に、私たち自身が組み込まれていた可能性を共有しているだけだ」
「お前が二年前私を嵌めた、その行動はお前の自由意志だった。──しかしその自由意志が千年前の予定の上に立つ流れの一部だった可能性がある」
稜は続けた。
「玲。──私たちは千年の計画の駒ではない。──しかし千年の計画の上で踊っている踊り手ではある。──駒ではなく踊り手として、私たちは自分の足の運びを自分で選ぶことができる」
神崎は長く稜を見つめた。
「稜。──お前は本当に参謀だ」
稜は微かに笑った。
「玲。──お前も参謀だ。──そして私たちは二人で踊っている」
─── ─── ───
深夜、零時を過ぎた。
書斎の蝋燭が半分、燃えていた。
稜は立ち上がった。窓辺に立った。窓の外で、帝都ヴェルデンの夜が深く深まっていた。皇宮の塔の上で、最後の灯が消えていた。──皇宮の奥で、ヴィスカルト皇太子も眠っているはずだった。
稜は長く皇宮を見つめた。
神崎が稜の横に来た。二人は窓辺に並んで立った。
「玲」
稜は低く告げた。
「──私の祖父玄一郎先生の形見の写真立ては、今どこにあるのだろう」
神崎は首を横に振った。
「稜。──二年半前私たちが転生したその夜、写真立てはお前の実家にあった。──その後現代日本の私たちの世界で何が起こっているか、私たちは知らない」
稜はわずかに頷いた。
「玲。──しかし写真立ての裏の紋章は、二人の頭の中に残っている。──そしてシモーネ皇妃の家系の紋章と酷似している。──物理的な写真立てがなくとも、紋章の繋がりは残っている」
神崎は頷きを返した。
稜は続けた。
「玲。──二人の転生は千年前に予定されていたのかもしれない。──そして私の祖父、玄一郎先生も何らかの形でこの物語に関わっていた」
神崎は小さく頷いた。
「稜。──私たちの参謀の視野は、千年の枠の奥の奥まで届く必要がある。──そして私たちは、自分自身がその構造の内部の一部であることを引き受けつつ戦う」
稜は頷いた。
窓の外で、帝都の夜が深まっていた。星空の下、皇宮の白い壁が月明かりで淡く照らされていた。
稜は低く呟いた。
「玲。──俺たちの転生は、千年前に既に予定されていたのかもしれない。──そして俺の祖父も、何らかの形でこの物語に関わっていた」
神崎は深く頷きを返した。
二人は長く窓辺に立っていた。
─── ─── ───
深夜、一時。
稜は客室に戻った。
革の手帳を開いた。最初の頁の裏にいくつかの紙が挟まれていた。──そして稜は新しい紙を添えた。
書いた一行。
「──祖父、村瀬玄一郎。形見の写真立ての裏に、千年前の紋章。我々の転生の根本に何かがある。──まだ開示されない層の真相」
稜は紙を革の手帳に挟んだ。
窓の外で、帝都ヴェルデンの夜が最も深くなっていた。星空の下、皇宮のシルエットが静かに立っていた。
稜は寝台に戻った。──しかしすぐには眠れなかった。
二十五年前の神崎が見た紋章。祖父、玄一郎の形見の写真立て。──二人の参謀の転生の根本の糸。
稜の頭の中で、千年の体系の奥の奥が徐々に見えつつあった。
しかしまだ全ては見えていなかった。
窓の外で、若葉月の夜が深く深まっていた。
神崎の二十五年前の記憶。
稜の祖父・村瀬玄一郎の写真立ての裏の紋章。
三世代の参謀の系譜(祖父→高樹→稜)が、ここで初めて読者に開示されます。
この回、書きながら胸が熱くなりました。
神崎が二十五年抱え続けてきた記憶、ようやく言葉にできました。




