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ヴィスカルト皇太子の少年時代

 帝都ヴェルデン、五日目の午前。

 神崎は、稜を皇宮の中のある部屋に案内していた。

 皇宮の東棟の最も、奥。三階の廊下の突き当たり。鉄の扉が、一つ。神崎は、その扉の鍵を自分の懐から取り出した。古い、鉄の鍵。複雑な、形。神崎は、鍵を鍵穴に差し込んだ。カチリ、という小さな音。扉が、開いた。

 稜は、神崎の後に続いて部屋に入った。

 部屋は、広かった。しかし薄暗かった。窓は、北側に一つだけ。そこから淡い、朝の光が差し込んでいた。空気は、冷たくしかし湿っていなかった。乾いた、空気。古い、紙の匂い。インクの固まった、匂い。

 部屋の中央に、長い楢の机。机の周りに、いくつかの木の椅子。壁の四方の書架には、無数の巻物と革の本が整然と並んでいた。

 「稜」

 神崎が、静かに告げた。

 「──ここが、皇宮の歴史記録室だ」

 稜は長く書架を見つめた。

 「玲。──ハーゲン帝国の千年の公式記録」

 「いや、稜」

 神崎は、首を横に振った。

 「公式の歴史記録室は別の場所にある。──ここは、皇室の私的な記録室だ。皇帝家の内部の出来事の記録。皇帝宰相副宰相そして皇太子しか入ることができない」

 稜は深く頷いた。

 神崎は続けた。

 「今日お前に見せたいのは、十九年前の皇室の内部のある記録だ。──ヴァレン皇太子、十九歳で死亡」

            ─── ─── ───

 神崎は、机の上にいくつかの書類を広げた。

 古い、羊皮紙の束。十九年前、皇室の内部の調査の記録。

 「ヴァレン・バスタン・ハーゲン」

 神崎は、最初の書類を指さした。

 「前皇帝フリードリヒ二世の長子。ヴィスカルトの七歳、年上の兄。──十九歳で亡くなった」

 稜は深く頷いた。

 「玲。──ヴィスカルトに、兄がいたことはお前から聞いていた。しかし詳細は、知らなかった」

 神崎は、書類を捲った。

 「ヴァレンは当時の皇太子だった。前皇帝、フリードリヒ二世の最初の子。──公式の記録ではヴァレンは狩猟中の事故で亡くなったと記されている」

 神崎は、書類のある頁を指さした。

 「十九年前晩秋。皇宮の北の森の狩猟場。ヴァレン皇太子、十九歳。狩猟の訓練中。──ヴァレンの馬が、獣を追って急斜面を下っていたその瞬間馬の鞍が外れた。ヴァレンは馬から落下。岩に、頭を強く打って即死した」

 稜は頷いた。

 「──公式では、馬の鞍の装着の不具合とされていると」

 「はい」

 神崎は、書類を捲った。

 「公式の記録ではヴァレンの当日の近衛兵の一人ハインリヒ・フォン・ハーマン二十二歳が馬の鞍の装着を確認した。彼の確認の不備が、事故の原因とされた。ハインリヒは皇帝の命令で即座に近衛兵から解任。三年後ある、事件で死亡」

 稜は、神崎を見つめた。

 (──ハインリヒも、口を塞がれた可能性)

 神崎は静かに頷いた。

 「稜。──私は、五年前宰相就任十年目の頃からこの事件の公式の記録に不自然さを感じていた。──ハインリヒの確認の不備と、されたその書類の記述に矛盾があった」

            ─── ─── ───

 神崎は、書類をもう一枚稜の前に広げた。

 「これが、当時の近衛兵の別の記録だ。──エリカの家、ライヘンバッハ家の当時の近衛兵ヘンリク・グロス五十歳の報告書」

 稜は、その書類を読んだ。

 「『ヴァレン皇太子の死の当日私ヘンリク・グロスは第二の近衛兵として現場に立ち会いました。──ハインリヒ・フォン・ハーマンが、ヴァレン皇太子の馬の鞍を装着する姿を私は自分の目で確認しました。装着は正確に行われました。ハインリヒの技術は、確かでした』」

 稜は深く息を、吐いた。

 「玲。──ハインリヒの装着は、正確だったと」

 「はい、稜」

 神崎は頷いた。

 「ハインリヒは装着の不備ではなかった。──しかしヴァレンの馬は、走行中に鞍が外れた。──つまり装着の後誰かが鞍に細工をしたということになる」

 稜は長く考えた。

 「玲。──ハインリヒの装着の後、ヴァレン皇太子の出発の前。──その間に、誰かが馬の鞍に細工をした」

 「はい」

 神崎は続けた。

 「エリカ議員と共に二週間私は当時の皇宮の内部の人員配置を調査した。──結論。──馬の鞍に、細工をした可能性がある人物は二人だった。一人は当時の皇宮の馬丁長。──しかし彼は、事件の十日後自殺した」

 神崎は深く息を、吸った。

 「もう一人は、──前皇帝、フリードリヒ二世本人」

            ─── ─── ───

 稜は長く神崎を見つめた。

 長い、沈黙が流れた。

 歴史記録室の空気が、二人の頭の上で止まっていた。

 稜は深く息を、吐いた。

 「玲。──前皇帝が、自分の長子ヴァレンの死を命じたと」

 神崎は一度頷いた。

 「稜。──証拠は確定ではない。しかし状況証拠は、強い。──ヴァレンの死の当日前皇帝は狩猟場に向かうヴァレンの馬を自分の手で最後に確認したと複数の近衛兵の報告にある。──馬丁長は、その確認の後すぐに姿を消した。十日後自殺の形で死亡」

 稜はゆっくりと頷いた。

 「玲。──馬丁長の自殺は、口を塞ぐため」

 「おそらく」

 神崎は続けた。

 「稜。──私がエリカ議員と共に調査した結論。──ヴァレンの死は、計画的な皇位継承の調整だった。──前皇帝フリードリヒ二世がヴァレンを暗殺した。──そして次男、ヴィスカルトを新しい皇太子として立てた」

 稜は長く神崎を見つめた。

 「玲。──しかしなぜ、長子のヴァレンを殺したのか」

 神崎は深く息を、吐いた。

 「稜。──ヴァレンは当時十九歳。──しかし前皇帝の独立志向の政治の方針に、深く反対していた。──ヴァレンは改革派の若い皇太子として徐々に頭角を現しつつあった。前皇帝は、ヴァレンの政治的な独立を警戒した」

 「次男ヴィスカルトは当時十二歳。まだ子ども。前皇帝は、ヴィスカルトを自分の思い通りに教育できると判断した。──ヴァレンの暗殺とヴィスカルトの皇太子化は前皇帝の政治的な調整の結果だった」

            ─── ─── ───

 稜は長く考えた。

 歴史記録室の薄暗い、空気の中で十九年前の出来事の構造が、稜の頭の中で徐々に形を取りつつあった。

 (──前皇帝、フリードリヒ二世。──三十五年前、アウレリア前王アドラム王の毒殺を命じた男。十九年前、自分の長子ヴァレンの暗殺を命じた男。──そして罪の重みで、最後の十五年自滅した男)

 稜は、神崎に静かに問うた。

 「玲。──ヴィスカルトは、この真相を知っているのか」

 神崎は深く首を、横に振った。

 「公式の記録では知らないとされる。──ヴィスカルトは、当時十二歳。兄の死をただの狩猟事故として受け入れたと記録されている」

 神崎は続けた。

 「しかし稜。──私は十年ヴィスカルトの師として彼を間近で見てきた。──彼の目にはいつも深い悲しみが、ある。ただの兄の事故死では説明できない深さの悲しみだ」

 稜は深く頷いた。

 「玲。──ヴィスカルトは、何かを知っているとお前は感じている」

 「はい、稜」

 神崎は深く息を、吐いた。

 「私の十年の観察ではヴィスカルトは兄の死に関する何かを自分の目で見た可能性がある。──しかし彼は、それを誰にも話さない。十九年彼は自分の中にその何かを抱えている」

 稜は長く神崎を見つめた。

 「玲。──ヴァレンの死にはもう一層の真相がある気がする、と」

 神崎は黙って頷いた。

 「稜。──エリカ議員と、私が調査した結論は外形的な真相だ。前皇帝の鞍の細工。──しかしヴィスカルト本人しか、知らないもう一層の実相があるはずだ」

 稜は軽く首を傾けた。

 「玲。──それは、ヴィスカルト殿下自身が告げる時を待つしかない」

 神崎は長く稜を見つめた。

 そして深く頷きを返した。

 「稜。──そうだ。──私が、ヴィスカルトに父の罪を告げる日。──その日に、彼がもう一層の真相を私たちに告げる可能性がある」

            ─── ─── ───

 しばらく、二人は沈黙した。

 歴史記録室の北の窓から淡い、午前の光が机の上の書類を白く照らしていた。

 稜は、書類を捲り続けた。

 書類のある、頁に若いヴィスカルトの肖像画の複写があった。十二歳のヴィスカルト。兄、ヴァレンの葬儀の当日のヴィスカルトの姿。

 稜は、その肖像画を長く見つめた。

 十二歳の少年。父、フリードリヒ二世の横に立っていた。父は、四十代後半。既に罪の重みで、目が濁っていた。──しかしヴィスカルトの目は、違った。十二歳の少年の目。深い、深い悲しみ。そして何か別の感情。──恐怖でも、なく悲しみだけでもない。罪悪感のような、何か。

 稜は、神崎にその肖像画を見せた。

 「玲。──十二歳のヴィスカルトの目。──兄の葬儀の当日」

 神崎は長く肖像画を見つめた。

 「稜。──あの目」

 神崎の声は、低かった。

 「あの目を私は知っている。──ヴィスカルトの目には十年前私が彼の政治学の教師となったその日から変わらず宿っていた、悲しみだ。──しかし今改めて見るとただの悲しみではない。──罪悪感の影が、あるな」

 稜は静かに頷いた。

 「玲。──ヴィスカルトは、兄の死に自分が関係していると十二歳の時から感じている可能性がある」

            ─── ─── ───

 稜は、書類をもういくつか捲った。

 別の頁に、ヴァレンの肖像画の複写があった。十九歳。死の半年前の肖像画。──稜は、その顔を初めて見た。

 ヴァレン・バスタン・ハーゲン。十九歳。

 稜は長く見つめた。

 顔立ちは、ヴィスカルトに似ていた。──しかしヴァレンの目は、ヴィスカルトと違った。明るい、目。鋭い、しかし温かい目。改革派の若い、皇太子の目。

 稜の胸の中で、何かが動いた。

 (──ヴァレンが、生きていれば。──ヴァレンが、皇位を継いでいれば。──ハーゲン帝国の千年の計画は、別の形で進んだ可能性があった)

 稜は深く息を、吐いた。

 神崎は、稜の表情を見て静かに頷いた。

 「稜。──ヴァレンが、生きていれば千年の計画の最終段階はより滑らかに止められた可能性がある。──しかし運命は、そう進まなかった」

 稜は頷いた。

 「玲。──しかし運命は別の形でヴィスカルトを用意した。──十九年前、十二歳で兄を失った少年。──三十四歳の今皇太子の立場で千年の計画の最終段階に立っている」

 神崎は一度頷いた。

 「稜。──ヴィスカルトの内面の深い悲しみと、罪悪感の奥にもう一層の核心がある。──私は、それを私の十年の師としての責任でいつか彼から聞き出す必要がある」

 稜は何度か頷いた。

 「玲。──私たちは、待つしかない。──ヴィスカルト殿下、自身が告げる時を」

            ─── ─── ───

 稜は、神崎の横で立ち皇宮の廊下に出た。

 歴史記録室の扉を、神崎が鍵で閉めた。

 二人は、皇宮の廊下をゆっくりと歩き始めた。廊下の両脇の壁には皇帝家の千年の肖像画が整列して、いた。──歴代の皇帝。皇妃。皇太子。皇女。──その中の一枚に、稜の目が止まった。

 ヴィスカルトの最新の肖像画。三十四歳。皇太子の礼服。金髪、灰色の目。鋭い、しかし深い悲しみを宿した目。

 稜は長くその肖像画を見つめた。

 神崎が、稜の横で立ち止まった。

 「稜」

 神崎は低く告げた。

 「──ヴィスカルトの肖像画」

 稜はゆっくりと頷いた。

 「玲。──十年お前が彼を間近で見てきた目。──十二歳の肖像画と、三十四歳の肖像画の二つの目。──十九年の時の流れの中で変わっていない深い悲しみと罪悪感」

 神崎は深く目を伏せた。

 稜は続けた。

 「玲。──あの男の本当の痛みはまだ我々が知らない場所に、ある」

 神崎は長く稜を見つめた。

 そして静かに頷いた。

 「そう、だな稜。──それを知る、日が近い」

 二人は、しばらく肖像画の前で立っていた。

 ヴィスカルトの灰色の目が、千年の計画の最終段階に向かって無言で立っていた。──しかし稜と、神崎はその目の奥の深い闇を感じていた。

 稜は低く呟いた。

 「玲。──ヴィスカルト殿下が、いつか私たちの前で語る瞬間が来る。──その瞬間まで、私は待つ」

 神崎は小さく頷いた。

 「稜。──私も、待つ。──師として」

            ─── ─── ───

 二人は、皇宮を出て宰相公邸への馬車に乗った。

 馬車の中で、稜は長く考えた。

 (──ヴィスカルト殿下。──三十四歳。十二歳の時、兄を失った。十九年、罪悪感を抱えて生きてきた。──そして今皇太子として、千年の計画の最終段階に立っている。──彼が、いつか私たちの前で語るその時千年の計画の構造が完全に明らかになる)

 神崎は、馬車の中で稜の横で静かに座っていた。

 「玲」

 稜は低く告げた。

 「──私はヴィスカルト殿下にまだ会っていない。暗殺の命令で、表面的には敵。しかし私は彼を敵と思っていない」

 神崎は頷いた。

 「稜。──お前の参謀の視野は敵を敵と見ない。──敵を、敵に追い込んだ構造を見る。──それがお前の参謀の哲学」

 稜は黙って頷いた。

 「玲。──私はヴィスカルト殿下を千年の計画の被害者の一人と見ている。父、フリードリヒ二世の罪。兄ヴァレンの死。──それらの構造的な、結果として彼は皇太子の立場に立たされている」

 神崎は一度目を伏せた。

 「稜。──ヴィスカルトを、私たちの側に引き寄せることができれば千年の計画の最終段階を止める最も強い手段になる」

 稜は頷きを返した。

 「玲。──そのために、私たちは待つ。──ヴィスカルト殿下、自身が私たちに心を開く瞬間まで」

            ─── ─── ───

 夕刻、稜は神崎の公邸の客室で一人窓辺に立っていた。

 帝都ヴェルデンの夕陽が、皇宮の白い壁を金色に染めていた。──皇宮の奥のどこかに、ヴィスカルト皇太子が住んでいる。三十四歳。父の罪も、自分の血の千年の計画もまだ完全には知らない男。──しかし彼の目には十九年の深い悲しみと罪悪感が、宿っている。

 稜は長く皇宮を見つめた。

 (──殿下。──私は、あなたにまだ会っていない。しかし私は、あなたの痛みを感じている)

 稜は、革の手帳を開いた。

 最初の頁の裏に、いくつかの紙が挟まれていた。セレネの覚悟。クロヴィスの判断。フィオナの最期の言葉。前皇帝の書簡のメモ。エリカの二十年の調査のメモ。──そして稜は、新しい紙を添えた。

 書いた、一行。

 「──ヴィスカルト皇太子、三十四歳。十二歳で、兄を失った少年。十九年の罪悪感。本当の痛みはまだ開示されない」

 稜は、紙を革の手帳に挟んだ。

 夕陽が、徐々に沈んでいた。空が、紫に変わりつつあった。皇宮の塔の上で、最初の星が現れた。

 稜は深く息を、吐いた。

 扉が、ノックされた。

 「稜。──私だ。夕食の用意が、できた」

 神崎の声、だった。

 稜は、振り返った。扉を開けた。神崎が、扉の外に立っていた。

 「玲」

 稜は黙って頷いた。

 「──行こう。──六日目以降の調査の計画を相談しよう」

 神崎は一度頷いた。

 二人は廊下をゆっくりと歩き始めた。夕陽の最後の光が、廊下の石の床に斜めに落ちていた。神崎の影と、稜の影が重なって進んでいた。

 稜の胸の中で、ヴィスカルトの灰色の目がまだ残っていた。十二歳の少年の肖像画の目。──そして三十四歳の皇太子の目。十九年の時の流れの中で、変わっていない深い悲しみ。

 (──殿下。──いつか、あなたが私たちに語るそのひとときを、私は待ちます)

 ──しかし廊下を歩きながら、神崎が一度、稜の方を向いて低く呟いた。

 「稜。──もう一つ、お前に共有しなければならないことがある。──十年前、私の妻が亡くなった夜のことだ」

 稜の足が、わずかに止まった。

 (──玲。──お前の妻のことを、二十年で初めて、お前は俺に話そうとしているのか)

 神崎の目に、過去二ヶ月、稜が見たことのない深さが宿っていた。──二十年の宰相の立場の奥に、もう一つの個人的な重みがあった。

ヴァレン皇太子の死の真相。

十九年前、19歳の兄の落馬事故の細工。

しかし——これは外形的な真相だけ。もう一層の真相が、まだ残っています。

その「もう一層」がいずれ明かされる時、第二部の最高点に到達します。

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