前皇帝の書簡
帝都ヴェルデン、三日目の夜。
稜は、神崎の公邸の奥の書斎に招かれていた。
書斎は、応接間より遥かに奥にあった。神崎の最も、私的な空間。中央に、楢の机。机の上に、一本の蝋燭が立っていた。橙色の炎が、静かに揺れていた。壁の書架には、千冊以上の本が並んでいた。歴史書、哲学書政治学戦略論。──多くの本に、付箋が挟まっていた。神崎が、二十年読み続けてきた本だった。
稜は、書架を長く見つめた。
(──玲は、二十年ここで考え続けてきた)
神崎は、机の向こう側で座っていた。今夜神崎は、宰相の礼服を脱いで簡素な白いシャツに紺の外套を羽織っていた。プライベートの姿。机の上に、一通の古い書簡が置かれていた。
書簡は、黄ばんでいた。封蝋は既に剥がされて、いた。古い、皇帝家の紋章——双頭の鷲——が封蝋の跡にわずかに残っていた。
神崎が、稜に目で合図した。
稜は、机の向かい側の椅子に座った。
「稜」
神崎の声は、静かだった。音楽的な、冷たさを保っていた。しかしその奥に深い緊張が、あった。
「──今夜お前に見せたい、ものがある」
神崎は、書簡を稜の方にゆっくりと押した。
稜は、書簡を両手で受け取った。指先に、古い紙の感触が伝わった。三十五年、保管されてきた紙の重み。
─── ─── ───
神崎は深く息を、吐いた。
「稜。──三日前、私は皇宮の古い書庫の最深部でこの書簡を見つけた」
稜は、書簡を見つめた。
「皇宮の古い書庫。──宰相、しか入れない場所か」
「いや」
神崎は、首を横に振った。
「皇宮の古い書庫の最深部は皇帝宰相副宰相そして皇太子しか入れない。──しかし皇太子のヴィスカルト殿下は、この書庫の存在を知らない。父帝フリードリヒ三世は皇太子に書庫の鍵を渡していない」
稜は深く頷いた。
「玲。──お前が宰相としてその書庫に入ったと」
「はい。──三日前、私はある目的で書庫を訪ねた。──過去、三十年の皇帝家の私的書簡の保管庫。──そこでこの書簡を見つけた」
神崎は、書簡を指さした。
「稜。──書簡を開いて、読んでほしい」
稜は、ゆっくりと書簡を開いた。
古い、しかし丁寧な筆跡。神崎の字とは、違う。前皇帝の字、だった。
稜は、ゆっくりと読んだ。
─── ─── ───
書簡の最初の一行。
「──カール・フォン・ツェッペリン、宰相へ」
稜は、その宛先で止まった。
カール・フォン・ツェッペリン。神崎の先代のハーゲン帝国の宰相。十七年前、神崎が宰相に就任する二年前まで宰相を務めた男。──その男に、宛てた前皇帝の私信。
稜は、続きを読んだ。
「カール宰相。──以下の件、極秘にご対応をお願いいたします。
アウレリア王国の現王アドラム・アウレリア・アルヴェリアの健康状態が近年悪化しております。アドラム王は、長年帝国に対して独立志向を強めて参りました。──このまま彼が生き続ければアウレリア王国の独立戦争が現実のものとなる可能性があります。
アドラム王の長子、ヴィルフレッド王太子はまだ政治的に未熟でございます。彼が即位した直後の数年間は帝国の影響が容易に及ぶ状態です。
従って、私は以下のご提案を申し上げます。
アドラム王の御命を自然な形で終わらせる措置をご検討ください。
帝国の国益のために、必要な選択です。
フリードリヒ二世皇帝
三十五年前、初秋」
稜の息が、止まった。
書簡を、両手で強く握った。
長くその文を見つめた。
(──前皇帝が、アドラム王の毒殺を宰相に依頼した。──三十五年前)
─── ─── ───
稜は、ゆっくりと書簡を机の上に置いた。
長く沈黙した。
神崎は、稜の反応を静かに見守っていた。
稜の頭の中で、半年前のカスパルの告白が蘇った。「稜殿。──四十年前、アドラム王の即位の時から何かが狂っていたと私はずっと感じておりました」。──カスパルの四十年の疑念の根源が、今稜の目の前にある。
稜は深く息を、吐いた。
「玲」
稜の声は、低かった。
「──三十五年前、アドラム王は実際に毒殺されたのか」
神崎は深く頷きを返した。
「稜。──私の先代の宰相、カール・フォン・ツェッペリンはこの書簡を受け取って二ヶ月考え続けたと皇宮の書庫の別の文書に記録されている。──カールは、最終的に皇帝の依頼を部分的に実行した」
神崎は続けた。
「カールはトレスト家の当時の若い当主ハインツ・トレストに依頼した。トレスト家は、当時から毒物の調合の技術を保有していた最も信頼できる家。──ハインツは依頼を受け毒を調合した。──そして毒は、アウレリアのある貴族の手を経由して王宮に運ばれた」
稜の目が、神崎を見つめた。
「玲。──アドラム王は」
「三十四年前初冬。アドラム王は、王宮の晩餐会の後急死しました。公式には心臓発作。──しかし毒物の痕跡は、検出された。アウレリア王宮の当時の医師団の内一人が毒の可能性を感じた。──しかしその医師は、半年後別の原因で死亡した。死は口を塞がれた」
稜は深く息を、吐いた。
「ヴィルフレッド王太子の即位は、その結果か」
「はい」
神崎は深く頷いた。
「ヴィルフレッドは二十六歳で王位に就いた。──若く、未熟。帝国は彼の即位の最初の五年政治的に容易に影響を与えた。──しかしヴィルフレッドは、徐々に独立志向を自分でも強めていった。──結果的に二十五年前彼は独立戦争を決行した。前皇帝の計画は、表面的には成功ししかし長期的には失敗した」
─── ─── ───
稜は長く神崎を見つめた。
書斎の蝋燭の炎が、静かに揺れた。
「玲」
稜の声は、低かった。
「──カスパル殿が、四十年抱えてきた疑念の真相がこれだったのか」
神崎は頷きを返した。
「カスパル殿は当時まだ副宰相だった。アドラム王の急死の夜の晩餐会に出席していた、可能性がある。──カスパル殿は感じていたのだろう。何かが、狂っていたと。しかし証拠はなかった。彼は、四十年その疑念を抱えながら王国の宰相として生きてきた」
稜は深く息を、吐いた。
(──カスパル殿に、いつか伝えなければならない。──カスパル殿の四十年の疑念は、正しかったと)
稜は、神崎に尋ねた。
「玲。──前皇帝、フリードリヒ二世はその後どのような人生を送ったのか」
神崎は長く考えた。
「フリードリヒ二世は三十年前即位の十年後徐々に精神的に崩壊し始めた。──公式には、酒の過剰摂取のせいと言われた。しかし皇宮の内部の記録では彼は毎晩悪夢に苦しめられていた。アドラム王の毒殺の依頼の罪の重みが、彼を徐々に蝕んだ」
「最後の十年彼は皇宮の奥の私室からほとんど出なかった。アルコール依存の状態。──そして二十年前、フリードリヒ二世は五十二歳で亡くなった。死因は肝臓の衰弱。アドラム王の毒殺の依頼から、約十五年後のことだった」
稜は長く沈黙した。
(──フィオナ殿の肝臓の病と、同じ構造。──罪の重みが、肝臓を蝕む。──フィオナ殿は、自分の罪ではなく千年の歪みの罪を背負った。──前皇帝も、自分の罪を背負った)
稜は深く息を、吐いた。
神崎は続けた。
「稜。──そしてフリードリヒ二世の息子ヴィスカルト皇太子は当時十二歳だった。父帝の最後の十年、ヴィスカルトは父の悪夢に苦しむ姿を間近で見て育った。──ヴィスカルトは父の罪を知らない。しかし父の何かに、苦しむ姿を深く目に焼き付けて育った」
─── ─── ───
稜は長く神崎を見つめた。
神崎の目は深く何かを含んで、いた。
(──玲は、ヴィスカルトを深く知っている)
稜は静かに尋ねた。
「玲。──お前は、ヴィスカルトをいつ知ったのか」
神崎は長く考えた。そして答えた。
「私が宰相に就任した十五年前。──ヴィスカルトは、当時十九歳。皇太子としての教育を受けていた。──私は宰相として彼の政治教育の一部を担当した。週に二回二時間彼に政治学と戦略論を教えた。──十年続けた」
稜は頷いた。
「玲。──十年、お前はヴィスカルトの師だったと」
「はい。──私は彼の若き知性の形成に関わった。──彼は、優秀だった。鋭い論理。深い、思考。──しかし彼の目にはいつも深い悲しみがあった。父帝の最後の十年の苦しむ姿を見続けた、子の目」
神崎は続けた。
「五年前フリードリヒ三世が即位した時ヴィスカルトは二十九歳。皇太子の立場で、新しい時代の始まりを迎えた。──しかしヴィスカルトは徐々に変わっていった。父帝、フリードリヒ三世がヴィスカルトの政治的な位置を抑え始めた。フリードリヒ三世は自分の息子の改革派的な傾向を警戒した」
「ヴィスカルトは五年前から徐々に孤立した。──そして彼の母方の家系の影響で、トレスト家との繋がりが強まっていった。──私は彼の変化を悲しく見守ってきた」
稜は一度頷いた。
「玲。──ヴィスカルトの暗殺の命令は、トレスト家の影響なのか」
「おそらく」
神崎は何度か頷いた。
「ヴィスカルトは私を個人的にはまだ敵と見なしていない。──しかしトレスト家は、私を改革派の最大の障害と見なしている。トレスト家はヴィスカルトに私の暗殺を提案した。──ヴィスカルトは、その提案を受け入れた」
─── ─── ───
稜は長く考えた。
書斎の蝋燭の炎が、また揺れた。
稜は、神崎に静かに問うた。
「玲。──この書簡を、ヴィスカルト殿下は知っているのか」
神崎は深く首を、横に振った。
「知らない。──ヴィスカルトは、父帝の罪を知らない。父帝の最後の十年の苦しみが、何によるものなのか知らない」
稜は続けた。
「玲。──いつか、ヴィスカルト殿下に告げる必要があるのか」
神崎は長く稜を見つめた。
「稜。──近いうちに告げる必要がある。父の罪を、息子が知らないまま私たちと対峙することは公正ではない。──私が十年彼の師として彼の知性の形成に関わったその責任から私は彼に真実を告げる。それが師としての最後の責務だ」
稜は静かに頷いた。
「玲。──お前の覚悟、深い」
神崎は深く息を、吐いた。
「しかし稜。──告げた後ヴィスカルトはどうなるか。彼の心は深く傷つく。──十年、私は彼の師だった。彼は私を信頼してきた。私が、彼に父の毒殺の罪を告げる瞬間彼の心は私に向かって開くか閉じるか分からない」
神崎は静かに書簡を閉じた。
「稜。──父の罪を、ヴィスカルトに告げる日が来る。その時、俺はあいつを守れるか」
稜は、神崎を長く見つめた。
神崎の目に、十年の師としての責任の影が深く宿っていた。──そしてその奥にヴィスカルトへの深い、情愛が見えた。十年、週に二回二時間神崎は若い皇太子に政治学を教えた。教師と、生徒の関係。──しかしそれ以上の何か。
(──玲は、ヴィスカルトを自分の息子のように思っているのかもしれない)
稜は深く目を伏せた。
「玲」
稜の声は、静かだった。
「──お前が、守る必要はない。──お前が、傍にいるそれだけでいい」
神崎は長く稜を見つめた。
─── ─── ───
神崎の目から、初めて涙が滲んだ。
しかし流れなかった。
神崎は深く息を、吐いた。
「稜。──ありがとう」
稜は深く頷いた。
「玲。──十年お前がヴィスカルトに与えた知性は消えない。お前が、彼の傍にいる限り彼は自分の心の中でお前の教えを思い出す。──父の罪を知った後ヴィスカルトは苦しむ。深く苦しむ。──しかしその苦しみの底で、彼はお前の十年の教えを思い出すはずだ」
神崎は長く頷いた。
稜は続けた。
「玲。──お前は参謀として十五年孤独に戦ってきた。今お前は、参謀から師になっている。──三人の弟子と一人の皇太子の師。お前の新しい、人生の軸がここにある」
神崎は小さく頷いた。涙を、拭わずに。
「稜。──十五年私は参謀の孤独を抱えて生きてきた。──しかし二年前、お前を嵌めた私の罪が私の孤独の根だった。お前を失った孤独が私を参謀の冷たさに閉じ込めた。──今お前と、再会して私はようやく参謀の冷たさから出ることができる」
神崎の声は、震えていた。
「私はヴィスカルトの師として彼に真実を告げる。──そして彼が、私から離れるならそれも彼の自由だ。──しかし私は彼を捨てない。彼が、私から離れても私は遠くから彼を見守り続ける。──それが師としての私の覚悟だ」
稜は頷きを返した。
─── ─── ───
しばらく、二人は沈黙した。
書斎の蝋燭の炎が、二人の間で静かに揺れていた。
稜は、机の上の書簡をもう一度見つめた。
三十五年前の前皇帝の書簡。アドラム王毒殺の依頼。前王ヴィルフレッドの即位の裏の計画。──そして前皇帝の最後の十五年の罪の重荷での崩壊。
稜は低く呟いた。
「玲」
神崎は、稜を見た。
「俺は、明日もう一度エリカ議員と会う。彼女の母の毒殺事件と、この書簡の内容を繋げる必要がある」
神崎は静かに頷いた。
「稜。──エリカはすでに推測している可能性がある。彼女は、二十年トレスト家を追跡してきた。──三十五年前のアドラム王の事件と二十年前の自分の母の事件は同じトレスト家の毒の技術が関わっている可能性。──エリカは、それを感じているはずだ」
稜は無言のまま視線を返した。
「玲。──そしてその奥にはトルメアスの第二の弟子の系譜の千年の計画が、ある」
神崎は長く稜を見つめた。
「稜。──トルメアスの千年の計画は第一の第二の第三の弟子の血を通じて千年継承されてきた。──第二の弟子の系譜は、ヴィスカルト皇太子の血とトレスト家の技術の二つに分かれた。両者が千年の間に徐々に絡み合い今最終段階で強く連動して動いている」
稜はゆっくりと頷いた。
「玲。──第二の弟子の系譜の千年の最終段階を止める、ためにはヴィスカルトをトレスト家から引き離す必要がある」
「はい」
神崎は感謝を込めて頷いた。
「そしてそれが、私の最後の師としての仕事、だ」
─── ─── ───
夜が、深まっていた。
書斎の蝋燭が、半分燃えていた。橙色の炎が、二人の男の顔を照らしていた。
稜は、立ち上がった。
「玲。──今夜は、ここまでとしてお休みいただこう。明日エリカ議員と、対面する」
神崎は一度頷いた。
稜は、書斎の扉に向かった。扉の前で一度、振り返った。
神崎は、机の前でまだ座っていた。書簡を、両手で握っていた。三十五年、皇宮の書庫の最深部に眠っていた書簡。今夜神崎の机の上で、再び開かれた書簡。
稜は、扉から低く告げた。
「玲。──十年、お前がヴィスカルトに与えた知性は消えない。──お前は、いずれ彼にそれを思い出させることができる」
神崎は長く稜を見つめた。
そして静かに頷いた。
「稜。──ありがとう」
稜は、書斎を出た。扉が、静かに閉まった。
─── ─── ───
稜は、自分の客室に戻った。
窓辺に、立った。
帝都ヴェルデンの夜空。星が、無数に輝いていた。皇宮の白い、壁が月明かりで淡く照らされていた。──その皇宮の奥のどこかに、ヴィスカルト皇太子が住んでいる。三十四歳。父帝の最後の十年の苦しむ姿を見て、育った男。神崎の十年の弟子。トルメアスの第二の弟子の血を、継ぐ男。
稜は長く皇宮を見つめた。
(──ヴィスカルト殿下。──あなたはまだ知らない。──父の罪も、千年の計画も自分の血の意味も)
稜の胸の中で、神崎の覚悟の声が響いた。「父の罪を、ヴィスカルトに告げる日が来る。その時、俺はあいつを守れるか」。
稜は深く息を、吐いた。
(──玲は、近いうちにヴィスカルトに書簡を見せる。──そしてその瞬間、千年の計画の最終段階が本格的に動き始める)
窓の外で、夜風が静かに吹いていた。若葉月の夜。星空の下、千年の計画の構造が、稜の頭の中で徐々に形を取りつつあった。
稜は革の手帳を開いた。
最初の頁の裏に、セレネとクロヴィスの覚悟の二枚と、フィオナの最期の言葉の紙が挟まれていた。稜はその隣に新しい紙を添えた。
書いた、一行。
「──三十五年前、アドラム王毒殺。フリードリヒ二世の書簡、確認。カスパル殿の四十年の疑念、正しかった」
稜は紙を革の手帳に挟んだ。
──しかし稜の指先が、その上で一瞬止まった。
(──三十五年前、アドラム王。──二十年前、エリカの母アンナ。──五年前、セレネの母エリナ。──三人の毒殺事件は、十五年と十五年の間隔で起きている。──次の十五年後、つまり十年後の毒殺の予定が、既に動いているのか)
稜の胸の中で、新しい予感が動いた。
神崎の書斎の奥で、まだ蝋燭が燃えていた。三十五年の書簡の上で、橙色の炎が静かに揺れていた。──そして次の毒の準備が、どこかで密かに進んでいるかもしれなかった。
前皇帝の書簡。
三十五年前のアウレリア前王アドラム王の毒殺の依頼書。
第一部のカスパルの「四十年前から狂っていた」疑念が、ここでようやく真相に到達します。
前皇帝の最後の十五年の罪の重み、ヴィスカルト12歳から父の苦しむ姿を見て育った事実。
ここから、ヴィスカルトの物語の核心に向かいます。




