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帝都ヴェルデン、神崎の公邸

 帝都ヴェルデンの城門が、開いた。

 稜は、馬の上で深く息を吸った。

 十日の旅の最後の朝。空気は、若葉月の初めの温かさを増していた。空は、淡い青。雲は、ほとんどない。城門の両脇に、巨大な石造りの塔が聳えていた。塔の高さは、四十メートルを超えていた。アウリオンの王宮の最も、高い塔の二倍。城門の上に、ハーゲン帝国の紋章が刻まれていた。双頭の鷲と、剣と月の組み合わせ。

 稜は長くその紋章を見上げた。

 (──ここが、神崎玲が二年半生きてきた街か)

 城門の警備の近衛兵が、稜の馬車を止めた。アウレリア王国の王宮からの公式の通行証を、確認した。神崎玲、宰相からの招聘状の写しも確認した。警備の兵士は深く一礼して、通行を許可した。

 四頭の馬が、城門を抜けた。

 稜の目の前に帝都ヴェルデンの街並みが、広がった。

            ─── ─── ───

 帝都ヴェルデン。

 大陸の最大の都市。アウリオンの三倍の規模。

 城門を、入るとすぐに広い石畳の大通りが始まっていた。大通りの両脇に、四階建て五階建ての石造りの建物が並んでいた。アウリオンの街並みより、明らかに高い。建物の壁の装飾もより、複雑だった。彫刻、レリーフ列柱。千年の帝都の富の蓄積が、街の隅々に反映されていた。

 大通りには、無数の人々が行き交っていた。商人、貴族兵士平民。様々な、階層の人々が交錯していた。馬車も、多かった。アウリオンの十倍はある、馬車の数。

 稜は、馬の上で街の規模に圧倒されていた。

 ブランが、馬の横で稜に告げた。

 「師匠。──宰相公邸まで、馬で二十分です。大通りを、まっすぐ進みます」

 稜は頷いた。

 四頭の馬は、大通りを進んだ。レオナルドが、後方を警戒した。カールも、その横で警戒した。二人とも、十日前と違う緊張感を持っていた。帝都に入った、瞬間からヴィスカルト派の視線が強くなったことを感じていた。

 稜は、街の人々を見つめた。

 千年、ハーゲン帝国の首都として君臨してきた街。三十万の人々。様々な、出身の貴族たち。商人たち。平民たち。──そしてその全ての上に、皇帝家バスタン家が君臨している。

 二十分、馬を進めた。

 大通りの奥、街の中央の丘の上に皇宮が見えてきた。巨大な、白い石造りの建造物。アウリオンの王宮の十倍の規模。皇宮の手前、丘の麓にいくつかの貴族の邸宅が並んでいた。

 その中の一つの邸宅の前で稜の馬は、止まった。

            ─── ─── ───

 神崎玲、宰相公邸。

 三階建ての白い、石造りの邸宅。皇宮よりは、小さい。しかし明確に、宰相の地位を示す規模だった。邸宅の正門の両脇に、二人の近衛兵が立っていた。神崎家の紋章——白い、月と銀色の剣——が邸宅の正面の上に掲げられていた。

 稜は、馬を降りた。

 ブラン、レオナルドカールも馬を降りた。

 正門の近衛兵が、深く一礼した。

 「稜殿。──お待ち、申し上げておりました」

 近衛兵が、正門を開けた。

 稜は、ブランと共に邸宅の中に入った。レオナルドと、カールは馬を邸宅の厩舎に預けるために別の入り口へ向かった。

 邸宅の中庭に出た。

 石畳の広い、中庭。中央に、白い大理石の噴水。噴水の水が、若葉月の朝の光の中で白く輝いていた。中庭の向こう、邸宅の本館の入り口に一人の男が立っていた。

 神崎玲。

 ハーゲン帝国、宰相。四十一歳。契約更新日の夜以来、二ヶ月ぶりの直接の対面。

 神崎は、宰相の青い礼服を着ていた。緻密な、銀の刺繍。両肩に、宰相の紋章。胸に、皇帝家から贈られた銀の徽章。──しかし神崎の姿は、二ヶ月前とほとんど変わっていなかった。痩身。中背。黒髪を、後ろに撫でつけていた。鋭い、目。

 稜は、神崎を長く見つめた。

 (──玲。──二ヶ月、生きていたか)

 暗殺未遂以来、密書だけの連絡。神崎の無事を、文字で確認していた。しかし目で、見ることはできなかった。今稜は、神崎の生きた姿を目の前で見ていた。

            ─── ─── ───

 稜は、中庭をゆっくりと横切った。

 神崎の前で立ち止まった。

 二人は長く互いを見つめた。

 神崎が、最初に口を開いた。

 「稜」

 神崎の声は、音楽的な冷たさを保っていた。しかしその奥にわずかな、温かさが混じっていた。

 「──二ヶ月、ぶりだ」

 稜は深く頷いた。

 「玲。──生きて、いてよかった」

 神崎は、微かに笑った。

 「お前の密書での心配の声毎日受け取っていた。──しかし文字では、伝わらないものがある。今日お前がここに来てくれて俺は安堵した」

 稜も、微かに笑った。

 「お前の無事の確認に来た。──そしてもう一つ千年の計画の次の段階の相談、だ」

 神崎はわずかに頷いた。

 「稜。──公邸に入れ。三人の弟子が、お前を待っている」

 神崎は、稜の肩に軽く手を添えた。──二人だけの瞬間の接触。月の庭の夜以来、初めて神崎が稜に触れた。短い、しかし深い温かさが稜の肩に伝わった。

 稜は、その温かさを長く受け止めた。

 神崎は、すぐに手を離した。そして稜を、邸宅の本館の中に案内した。

 ブランは、二人の五歩後ろを歩いていた。

            ─── ─── ───

 邸宅の本館の応接間。

 白い、石造りの広い部屋。アウリオンの王宮の応接間より、明確に広かった。中央に、長い楕円形の楢の机。机の周りに、八つの椅子。壁には帝国の千年の歴史を描いた、油絵。窓は大きく中庭に、面していた。中庭の噴水が、窓越しに見えた。

 応接間に、三人の人物が立っていた。

 一人は、四十五歳の男。中肉。短い、銀色の髪。鋭い、しかし穏やかな目。帝国の副宰相の青い、礼服を着ていた。──ヘルマン・フォン・クラウス。

 もう一人は、三十八歳の女性。長身。栗色の髪を、後ろで束ねていた。緑の鋭い目。元老院議員の白い、礼服。──エリカ・ライヘンバッハ。

 最後の一人は、五十二歳の男。痩身。白髪交じりの黒髪。穏やかな、顔。しかし目には三十年の書記官の観察眼が、宿っていた。書記官長の灰色の礼服。──マルセル・ヴォルフ。

 三人は稜と神崎の入室を見て深く一礼した。

 神崎は、稜を机の奥の席に案内した。神崎は、その隣に立った。三人は、机の向かい側に整列して立っていた。

 「稜」

 神崎が、静かに告げた。

 「紹介する。──私の帝都での弟子たちだ。お前の四人に、対応する私の三人」

 稜は深く三人を見つめた。

            ─── ─── ───

 最初に、ヘルマンが丁寧に一礼した。

 「稜殿」

 ヘルマンの声は、はっきりとしていた。中程度の高さ。決断の早い、印象。

 「ハーゲン帝国副宰相ヘルマン・フォン・クラウスと申します。神崎閣下の副官として、十年お仕えしております。──稜殿のお噂は神崎閣下よりかねがね伺っております」

 稜は深く一礼を、返した。

 「ヘルマン副宰相。──お会い、できて光栄です」

 次に、エリカが頭を下げた。

 「稜殿」

 エリカの声は、中低音の芯のある声だった。落ち着いて、いた。

 「ハーゲン帝国、元老院議員エリカ・ライヘンバッハと申します。──稜殿が、契約更新日で千年の属国条約の新しい形を設計されたこと深い敬意を抱いております」

 稜は深く一礼を、返した。

 「エリカ議員。──ありがとう、ございます」

 最後に、マルセルが深く頭を下げた。

 「稜殿」

 マルセルの声は、ゆっくりとした書記官らしい正確さだった。

 「帝都書記官長マルセル・ヴォルフです。神崎閣下の古い、同志です。──二十年前神崎閣下が帝都に来られた最初の夜からお仕えしております。稜殿、お会いできる日を長くお待ちしておりました」

 稜は深く一礼を、返した。

 「マルセル書記官長。──二十年、神崎をお支えいただきありがとうございます」

 三人は、それぞれの口調と姿勢で明確に神崎の参謀の配置の巧みさを示していた。改革派の先鋒ヘルマン、議会の代表エリカ書記官の頂点マルセル。──三人で、帝都の政治の三つの軸を押さえていた。

            ─── ─── ───

 神崎は稜と机の向かい合いの椅子に座った。三人の弟子は、神崎の横に立った。ブランは、稜の後ろに立っていた。

 神崎は、机の上に一つの地図を広げた。

 帝都ヴェルデンの詳細な、地図。皇宮を、中心に貴族の邸宅議会書記官庁傭兵管理庁軍隊の駐屯地。──そして地図のいくつかの場所に、赤い印がつけられていた。

 神崎は、地図の最初の赤い印を指さした。

 「稜。──ここが、ヴィスカルト皇太子の私邸。皇宮の東側、徒歩で十分の位置」

 次の赤い印。

 「ここが、トレスト家の邸宅。皇宮の北側、徒歩で十五分」

 次の赤い印。

 「ここが傭兵管理庁。皇宮の南、馬車で二十分。──ブラン殿お前の十年前のサンミール渓谷の戦闘の記録がここにある」

 ブランの目が、動いた。

 神崎は続けた。

 「稜。──お前が、十日かけてここに来た目的は四つあると思っている」

 神崎は、地図の上で四つの目的を整理した。

 「一ヴィスカルト派の帝都での最新の動向の確認。二、ブラン殿の傭兵時代の記録の調査。三エリカ議員の母君の毒殺事件の再調査──三十五年前のアウレリア前王毒殺との繋がりの確認。四、ヴィスカルト皇太子家の系譜の調査──トルメアスの第二の弟子の血統との繋がり」

 稜は頷きを返した。

 「玲。──全て、その通りだ。お前は、密書で既に私の目的を把握していた」

 神崎は、微かに笑った。

 「稜。──二十年、私はお前を知っている」

            ─── ─── ───

 ヘルマンが、机に一歩近づいた。

 「稜殿、神崎閣下。──四つの目的、それぞれの進捗ご報告いたします」

 ヘルマンは、机の上の地図の横に四つの書類の束を並べた。

 「一つ目ヴィスカルト派の最新動向。──過去、三週間ヴィスカルト派の私設警備隊の配置に変化がありました。三人の新しい副官が起用されました。三人とも、若い貴族の子弟。──私の調査では三人の起用はヴィスカルト皇太子の個人的な判断ではなくトレスト家の推薦によるものです」

 稜は深く頷いた。

 「ヘルマン殿。──トレスト家の影響が、皇太子家に増していると」

 「はい、稜殿。──過去、半年でその傾向が強まっております」

 ヘルマンは続けた。

 「二つ目ブラン殿の傭兵時代の記録。──昨日傭兵管理庁の十年前の記録の保管庫の入場の許可を、神崎閣下のご要望で確保いたしました。明日の午前ブラン殿は自分の傭兵団の記録を確認できます」

 ブランの目に深い光が、宿った。十年、抱えてきたサンミール渓谷の戦闘の真相。明日その真相が、文書で確認される。

 稜は、ヘルマンに静かに頷いた。

 「ヘルマン殿。──ありがとう、ございます」

 次に、エリカが机に近づいた。

 「稜殿。──三つ目、私の母の毒殺事件の再調査についてご報告いたします」

 エリカは、机の上に古い書類を広げた。二十年前のライヘンバッハ家の記録。

 「私の母アンナ・ライヘンバッハは二十年前私が十八歳の時皇宮の晩餐会の後急死いたしました。公式には、心臓発作。──しかし母はその晩餐会の前まで健康でした。母の死の当日の出席者のリストは、ライヘンバッハ家に保管されております」

 エリカは、書類の一枚を指さした。

 「出席者の中に、トレスト家の当主二十年前の当時のヘルツォーク・トレストの名前がありました。──そしてトレスト家の毒物使用の噂は、当時からありました」

 稜は深く目を伏せた。

 「エリカ議員。──三十五年前、アウレリア王国の前王アドラム王の毒殺の可能性についても神崎の密書で伺いました。トレスト家が、両方に関係している可能性ですか」

 エリカは静かに頷いた。

 「稜殿。──私の二十年の調査では、トレスト家は過去五十年に渡り複数の政敵を毒殺した可能性があります。アウレリアの前王、アドラム王の毒殺はその最も古い事件の一つかもしれません」

 稜は、長くエリカを見つめた。

 (──エリカ議員の二十年の調査の深さ)

 最後に、マルセルが机に近づいた。

 「稜殿。──四つ目、ヴィスカルト皇太子家の系譜についてご報告いたします」

 マルセルは、机の上に巻物を広げた。古い、皇太子家の系譜。バスタン家の千年の家系図。

 「ヴィスカルト皇太子は現皇帝フリードリヒ三世の長子。──しかし皇太子の母、シモーネ皇妃は特殊な家系の出身です。シモーネ皇妃の母方の家系は千年以上前まで遡ることができる古い貴族の家系。──そしてその家系の最も、古い祖先はトルメアスの時代に生きていた人物の一人です」

 マルセルは、巻物の最も古い部分を指さした。

 「セレウス・ヴァランディン。──六百五十年前、トルメアスの三人の弟子の二人目と伝承されている人物。シモーネ皇妃の母方の最も、古い祖先」

 稜の息が、止まった。

 (──ヴィスカルト皇太子は、トルメアスの第二の弟子の血を継いでいる)

 神崎は、稜を見て深く頷きを返した。

            ─── ─── ───

 しばらく、稜は長く巻物を見つめた。

 千年の計画の構造が、徐々に稜の頭の中で立体的に立ち上がりつつあった。

 トルメアスの三人の弟子。第一の弟子は、アウレリア王国の王家に繋がっている可能性。第二の弟子は、ヴィスカルト皇太子家に繋がっている。第三の弟子は、ロッテの祖母(書記官系の直感力の家系)に繋がっている可能性。

 千年の計画は、三人の弟子の血を通じて千年継承されてきた。──そして今三人の弟子の血が、それぞれ異なる立場で千年の計画の最終段階に向かって動こうとしていた。

 稜は深く息を、吐いた。

 神崎が、稜を見つめた。

 「稜」

 神崎の声は、静かだった。

 「お前の四人の弟子、私の三人の弟子。──七人の弟子が、千年の闇に立ち向かう時が来た」

 稜はわずかに頷いた。

 「玲。──七人の弟子。──そしてお前と、俺二人の参謀」

 神崎は、微かに笑った。

 「──九人」

 稜は頷いた。

 「九人で、千年を書き直す」

 ヘルマン、エリカマルセルの三人がそれぞれ一度頷いた。三人の目に、新しい決意の光が宿っていた。アウレリア王国の四人の弟子と、ハーゲン帝国の三人の弟子はまだ直接出会っていなかった。しかし稜と、神崎二人の参謀の視野の中で九人は既に同じ目的のために立っていた。

            ─── ─── ───

 夕刻。

 稜は、神崎の公邸の客室で一人窓辺に立っていた。

 帝都ヴェルデンの夕陽が、皇宮の白い石造りの壁を金色に染めていた。空は、徐々に紫に変わりつつあった。中庭の噴水の水が、夕陽の光でピンク色に輝いていた。

 稜は長く皇宮を見つめた。

 (──ヴィスカルト皇太子は、あの皇宮の奥にいる)

 巨大な、帝都。皇宮の奥の皇太子。トルメアスの第二の弟子の血を、継ぐ男。──稜は、まだヴィスカルトに会っていなかった。ヴィスカルトは、神崎の暗殺を命じた。表面的には、敵。しかし稜は、感じていた。ヴィスカルトの敵対の奥に別の何かがあることを。

 扉が、ノックされた。

 「稜殿」

 神崎の声、だった。

 「──夕食の用意が、できました。ご一緒、いかがですか」

 稜は、振り返った。

 「玲。──ありがとう。──行く」

 稜は、扉を開けた。

 神崎が、扉の外に立っていた。宰相の礼服を、脱いで簡素な白いシャツに紺の外套を羽織っていた。プライベートの姿。

 神崎は、稜を見て微かに笑った。

 「稜。──久しぶりに、二人で酒を飲もう。──十日の長旅、お疲れ様」

 稜は小さく頷いた。

 「玲。──ありがとう。──二ヶ月分、話したいことがたくさんある」

 二人は、一緒に廊下を歩き始めた。夕陽の光が、廊下の石の床に斜めに落ちていた。神崎の影と、稜の影が重なるように進んでいた。

 稜の胸の中で、温かい何かが流れていた。

 (──二ヶ月ぶりだ。──玲と、二人だけで夕食をする。──月の庭の夜の続きが、ようやくここで再開する)

 帝都ヴェルデンの夕陽が、徐々に沈んでいった。

 空が、紫から深い藍色へ変わっていた。

 ──しかし廊下を歩きながら、神崎が一度だけ、稜の方を向いて低く呟いた。

 「稜。──実は、お前にまだ話していないことが一つある。──食事の後で話そう」

 稜の足が、一瞬止まった。

 神崎の目が、廊下の暗がりの中で深い色をしていた。──過去二ヶ月、稜が見たことのない深さ。──二十年の宰相の立場の奥に、神崎がまだ抱えていた何か。

 稜は、無言で頷いた。

 (──玲。──お前が今夜、それを話す覚悟をしたのか)

二年半ぶりの神崎との直接対面。

そして神崎の三人の弟子団との初対面。

「九人で、千年を書き直す」——この一行を書きたくて、ここまで来ました。

第二部の主軸が、ここで完全に確立します。

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