帝都への旅
契約更新日から四週間が過ぎていた。
稜は夜明け前、アウリオンの王宮の西門の前で馬の手綱を握って立っていた。
春芽月の末から、次の月若葉月の初めへの変わり目。空気がわずかに温かくなっていた。空はまだ紫色だった。星がわずかに残っていた。風は穏やかで、東から吹いていた。アウリオンの街並みはまだ眠っていた。
稜の隣にブランが立っていた。
ブラン、二十八歳。十日前、フィオナの葬儀のために帝都から急遽戻ってきた。葬儀の後、霧峰の墓地への移動も稜と共にした。そしてカイルとの対話の後、稜はブランに告げた。「ブラン。──俺も帝都に行く。一緒に戻ってくれ」。ブランは深く頷いた。
ブランの横にレオナルドが立っていた。
レオナルド、二十歳。一ヶ月前、ブランが地下牢から救った若者。あれから一ヶ月、レオナルドはブランの副官として帝都とアウリオンを行き来していた。今朝、レオナルドはブランと共にアウリオンを出て帝都へ向かう。
二人は馬の装備を最後の確認をしていた。
「師匠」
ブランが稜に告げた。
「──馬三頭、荷物の確認終わりました」
稜は頷いた。
「ご苦労。──行こう」
稜は馬に跨った。ブランもレオナルドも馬に跨った。三頭の馬が、王宮の西門を静かに通り抜けた。アウリオンの街並みを抜けて北街道に出た。
空が、徐々に紫色から薄い金色へ変わっていた。
─── ─── ───
帝都ヴェルデンまでは、北街道を十日。
大陸の中央を、貫く街道。アウリオンから、ヴェルデンまで約二百五十里。最初の三日は、アウレリア王国の領内。次の五日が、サルマティアの北部ヴェロニアの運河沿いそしてハーゲン帝国の南部の丘陵地帯。最後の二日が、帝都ヴェルデンの近郊からヴェルデンの城門まで。
稜は、馬の上で街道の両脇の風景を見つめた。
北街道は、契約更新日の後に北の砦に向かった時の街道とは違う。北の砦への街道は、北西セイラン地方への街道だった。この北街道は、北東大陸中央への街道。アウレリア王国の北東の外れに出て、サルマティアとヴェロニアの境を抜けてハーゲン帝国の南部に入る。
ブランが、馬の上で稜に告げた。
「師匠。──最初の三日は平和です。アウレリア王国内の街道は、警備が行き届いています。──しかし四日目からサルマティアに入ります。サルマティアの北部の街道は、警備が薄い。ヴィスカルト派の雇った傭兵の襲撃の可能性があります」
稜は深く頷いた。
「ブラン。──覚悟して、いる」
レオナルドが、ブランの横で馬を進めた。
「ブラン殿。──俺も警戒します。ヴィスカルト派の私設警備隊の人員配置は、最近変わっている可能性があります。先月俺が帝都を離れる前の配置と違うかもしれない」
ブランは頷いた。
「レオナルド。──お前の内部情報、信じる」
─── ─── ───
最初の三日は、平和だった。
北街道は、アウレリア王国の北東の丘陵地帯を抜けていった。春の若葉が、街道の両脇に広がっていた。樫と、白樺の林。野の花が、地面に咲いていた。空気は、徐々に温かくなっていた。三人は、馬をゆっくりと進めた。一日に、約二十五里。
夜は、街道沿いの小さな村の宿屋に泊まった。宿屋の主人たちは稜とブランの王宮の紋章を見て深く一礼した。しかし誰も、稜の正体を追求しなかった。村人たちは、王家の誰かが街道を通ることに慣れていた。
二日目の夜、稜は宿屋の暖炉の前でブランとレオナルドと長く話した。
ブランが、稜に帝都の現状を告げた。
「師匠。──先月、俺とレオナルドが帝都に戻ってから神崎宰相は帝都の情報網の再構築を急速に進めておられました。三人の弟子団を、配置されています。副宰相ヘルマン・フォン・クラウス殿。元老院議員エリカ・ライヘンバッハ殿。帝都書記官長マルセル・ヴォルフ殿」
稜は頷いた。
「神崎の三人の弟子。──師の配置、としてよくできている」
「はい。──ヘルマン殿は改革派の先鋒。エリカ殿は、トレスト家と対立する旧貴族家出身の唯一の女性議員。マルセル殿は神崎宰相の最も古い同志書記官の頂点」
稜は深く考えた。
(──ヘルマン、エリカマルセル。──三人の組み合わせは、神崎が長年設計してきた改革派の骨格だな)
稜は、ブランに尋ねた。
「ブラン。──三人の人物像を、もう少し詳しく」
ブランは、エールを一口飲んだ。
「ヘルマン殿四十五歳。中肉、銀色の目。改革派の貴族として議会で長年戦ってこられた。──しかし彼の家、フォン・クラウス家は保守派の貴族の中でも古い家。彼は自分の家との葛藤を抱えながら改革派に立つ」
「エリカ殿三十八歳。長身。鋭い、目。元老院唯一の女性議員。彼女の家ライヘンバッハ家はトレスト家と長年対立してきた旧貴族家。エリカ殿の母は、トレスト家の陰謀で二十五年前毒殺された可能性がある。彼女はその母の復讐を政治的な闘争で果たそうとしている」
稜の目が、わずかに止まった。
(──エリカ殿の母の毒殺。──二十五年前。──三十五年前のアウレリアの前王毒殺と、関係しているかもしれない)
「マルセル殿五十二歳。痩身。穏やかな、目。神崎宰相が帝都に来た二十年前から最も古い同志。書記官として、長年神崎宰相の戦略を文書で支えてきた男」
稜は静かに頷いた。
ブランは続けた。
「師匠。──三人は、それぞれ独立した強さを持っている。神崎宰相の配置の巧みさ、ですね」
稜は、長くエールを飲んだ。
(──玲。──十五年前のお前の参謀の戦略はまだ変わって、いない。──しかしその戦略は、今異世界の千年の計画と繋がっている)
─── ─── ───
三日目の夕刻。
国境の村に、到着した。アウレリア王国と、サルマティアの境の小さな村。村の外れの国境警備の詰所で、稜は王宮の通行証を提示した。警備の若い兵士は深く一礼して、通行を許可した。
国境を越えた。
サルマティアの北部の丘陵地帯。風景が、徐々に変わっていた。アウレリアの緑の丘陵から、サルマティアのより乾いた草原へ。樹木が、減り代わりに低い灌木が増えた。空気が、わずかに乾いていた。
稜は、馬の上で深く息を吸った。
(──異郷、だ)
異世界に来てから、二年半。稜は、アウレリア王国の領内をほとんど出たことがなかった。北の砦への旅で、初めて国境の近くまで行った。しかし国境を越えるのは、今日が初めてだった。
ブランが、稜に告げた。
「師匠。──ここから警戒レベルを上げます。レオナルド、お前は後方を見ろ。俺が前を見る」
レオナルドは深く頷きを返した。
「ブラン殿。──承知」
三頭の馬は、サルマティアの街道を進んだ。
─── ─── ───
四日目の夜。
街道沿いの森の開けた、場所で三人は野営の準備を始めていた。最寄りの村まで、まだ五里。日没までに、たどり着けない距離だった。ブランは、街道脇の森の開けた場所を選んだ。森の中ではなく、しかし街道からも少し離れた場所。
三人は、馬を繋いだ。小さな、焚き火を起こした。簡単な、食事を取った。
夜の九時。
ブランが、急に立ち上がった。
「師匠。──静かに」
稜は、すぐに応じた。剣に、手を添えた。レオナルドも、立ち上がった。三人は、焚き火の周りで静かに構えた。
森の向こうから、足音が聞こえた。
三人。慎重な、しかし訓練された足音。
ブランが、低く告げた。
「──三人。傭兵の訓練を、受けた男たち。賊ではない」
稜は頷いた。
ブランは、剣を抜かなかった。代わりに、地面に置いてあった長い木の枝を手に取った。直径、五センチ長さ二メートル。たき火のための薪、として用意していたもの。
ブランは、その枝を両手で握った。
森の影から、三人の男が現れた。剣を、抜いていた。顔を、布で覆っていた。しかし剣の構え方、足の運び方明らかに訓練を受けた傭兵だった。
ブランは、稜の前に立った。
「師匠は、後ろに。レオナルド、左を見ろ」
稜は、後ろに退いた。レオナルドが、左に回った。ブランは、長い枝を両手で構えた。剣を、抜かない構え。一ヶ月前、地下牢でレオナルドに見せた構えと同じ。
三人の男は、ブランを見て一瞬戸惑った。
予想と、違う構え。剣を、抜かない男。しかし戸惑いは、一瞬だった。三人は、ブランに向かって突進した。
─── ─── ───
戦闘は、五分で終わった。
ブランは、長い枝で最初の男の剣を弾き二人目の男の足を払った。三人目の男は、レオナルドが左から剣の柄で後頭部を打った。──レオナルドも、剣を抜かなかった。柄の衝撃で、男を気絶させた。
ブランは、最初の男の剣を二度目に弾いた。男が、よろめいた。ブランは、長い枝で男の肩を打った。男は、剣を落とした。ブランは、長い枝の先端で男の胸を押した。男は、地面に倒れた。
二人目の男は、足を払われて倒れていた。ブランは、その男の剣を足で踏んだ。男は、剣を手放した。
三人の男たちは、地面に転がっていた。三人とも、生きていた。
稜は深く息を、吐いた。
(──ブランの剣を、抜かない技。──十年の傭兵経験の結晶)
ブランは、稜に告げた。
「師匠。──三人とも、生かして捕えました。一人は、レオナルドが気絶させた。──情報を引き出します」
稜は小さく頷いた。
「ブラン。──頼む」
─── ─── ───
ブランと、レオナルドは三人の男を縛った。気絶させた、一人を起こした。
最初に、起きた男は最も若かった。二十二歳、くらい。顔の布を、外したブランはその若い顔を見た。
「お前」
ブランの声は、低かった。
「ヴィスカルト派の私設警備隊、か」
若い、男は答えなかった。睨んだ。
ブランは、男の前にしゃがんだ。
「俺の名はブラン・マレン・モクス。十年、傭兵をやった。──お前と同じく」
男の目が、わずかに動いた。
「お前の父か、兄は誰かに殺されたのか。──家族を失って、復讐のためにヴィスカルト派の組織に入ったのか」
男は、長くブランを睨んだ。そして低く答えた。
「──兄だ。十年前、俺が十二歳の時兄がヴィスカルト派と敵対する貴族の家臣として暗殺された」
ブランはわずかに頷いた。
「俺の副官レオナルドも同じだ。父を失って、復讐のためにヴィスカルト派の組織に入った。──しかし組織はお前を駒として使い続ける。お前の兄を、殺した敵ではなく別の誰かを殺すための駒として」
男の目が、揺れた。
「俺は、──」
ブランは続けた。
「お前の名は」
「──カール」
「カール。──お前は、駒だ。今夜俺が、お前を駒から外す選択を提示する」
稜は、少し離れた位置でブランの対話を見ていた。
(──ブランは、一ヶ月前のレオナルドと同じ対話をまたしている。──駒を、駒から外す)
稜は一度頷いた。
長く対話が、続いた。三十分、ほど。最終的にカールは、ヴィスカルト派の現在の配置についてのいくつかの情報をブランに提供した。レオナルドが、それらの情報をメモに書き留めた。
稜は、ブランに近づいた。
「ブラン」
稜の声は、静かだった。
「──三人を、どうするか」
ブランは、稜を見た。
「師匠。──三人のうちカールは駒から外れる可能性があります。レオナルドのように。残りの二人は、明日の朝起きた時もう一度対話します。しかし駒から外れない可能性もあります」
稜は何度か頷いた。
「ブラン。──お前の判断に、任せる」
─── ─── ───
その夜。
稜と、ブランとレオナルドは三人の捕虜と共に野営した。三人の捕虜は、縛られたまま焚き火の周りに座らされていた。一人が、カール。彼は、徐々にブランの対話を受け入れていた。残り、二人はまだ口を開かなかった。
ブランが、夜半稜の隣で火の番をしていた。
「ブラン」
稜は低く告げた。
「──お前の十年は、今この旅の最大の財産だ」
ブランは、稜を見た。
稜は続けた。
「お前が十年前に傭兵にならず農家の息子として家を継いでいたら──今夜俺たちは、三人の男に殺されていたかもしれない。お前の十年が今夜俺たちを生かした」
ブランは長く火を見つめた。そして低く答えた。
「師匠。──俺の十年の傭兵経験は俺にたくさんの悲しみを与えました。サンミール渓谷で、十一人の仲間を失った。──しかしその悲しみが今別の形で誰かを救う力に変わっている」
稜は頷いた。
「──十年は、無駄ではなかったな」
「はい、師匠」
ブランは、火の上に新しい薪を足した。火が、再び明るく燃えた。火の橙色の光が、ブランの顔を照らした。
稜は、星空を見上げた。
(──玲。──俺は、お前の街に近づいている)
─── ─── ───
翌朝。
ブランはもう一度三人の捕虜と、対話した。カールは、駒から外れる選択を受け入れた。残りの二人は、最後まで口を開かなかった。──ブランは、二人を縛ったまま街道脇の見つかりやすい場所に置いた。彼らの組織が、彼らを見つけるまで生きていられる場所だった。「俺は、お前たちを殺さない。──しかし俺の選択を、受け入れない限りお前たちを解放することもできない」。
カールは、ブランの副官としてレオナルドと共に帝都への旅に加わった。
稜は、三頭から四頭になった馬の列を見た。
(──また一人、駒から外れた。──ブランの力だ)
四頭の馬は、サルマティアの丘陵地帯を進んだ。
残り、六日の旅。
ヴェロニアの運河を越えて、ハーゲン帝国の南部に入り最後に帝都ヴェルデンに到着する。
─── ─── ───
九日目の夕刻。
稜は、ハーゲン帝国の南部の街道沿いの宿屋に泊まっていた。帝都ヴェルデンまで、あと一日。宿屋の二階の窓から、稜は北東の方向を見ていた。空が、徐々に紫色に変わっていた。
遠く、地平線の向こうに無数の明かりが見えた。
帝都ヴェルデン。大陸の最大の都市。アウリオンの三倍の規模。三十万の人々が、住む巨大な城塞都市。
稜は長くその明かりを見つめた。
神崎玲が、住む街。
二年半前、稜が異世界に来てからずっと、神崎はその街の奥にいた。そして契約更新日で、月の庭で二人が再会した。今、稜は神崎の街に向かっている。
稜の胸の中で、二年前の前世の最後の夜が静かに蘇った。
──午前二時。月影亭。神崎が稜の前で笑っていた。「稜。──また明日、続きを話そう」。──しかしその「明日」は来なかった。──翌朝、稜は会社のメールボックスに不正な数字を見つけ、午後には自分が会社を追われていた。──神崎の名前は、その不正の指示書に署名されていた。──二年前のあの夜、神崎は最後の笑みの裏で、稜を嵌める計画を既に動かしていた。
そして稜は異世界に転生し、神崎もこの異世界に転生した。──二人とも参謀の仕事に戻った。──二年半の沈黙の後、月の庭の夜に二人は再会した。
(──玲。──二年前の月影亭の最後の夜から、二年。そして転生から二年半。──俺はお前の街にようやく辿り着く)
稜は深く息を吐いた。
そして低く呟いた。
「玲」
声は、宿屋の部屋に静かに響いた。
「俺は、お前の街に行く。──二年前の月影亭の続きを、お前の街で書く」
遠くの帝都の明かりが、紫色の空の下で淡く輝いていた。──三十万の人々の生活の灯。──そして神崎玲、宰相の公邸の灯。
稜は窓辺で長く立ち続けた。
ブランが扉をノックした。
「師匠。──夕食の用意が、できました」
稜は、振り返った。ブランが、扉のところに立っていた。レオナルドと、カールもその後ろにいた。三人とも、警戒の目を緩めていなかった。明日帝都に入る。最後の警戒の夜だった。
稜はゆっくりと頷いた。
「ブラン。──ありがとう」
稜はもう一度窓の外の帝都の明かりを見た。
夕陽が沈み、空の紫が深くなっていた。星が徐々に現れていた。帝都の明かりが星と混ざって、地平線の向こうで輝いていた。
(──玲。──明日、会う)
稜は窓を閉めた。部屋を出た。
階段を降りて宿屋の食堂に向かった。ブランの足音が、後ろに続いた。レオナルドとカールも。
──しかし食堂への階段の途中で、稜は一瞬、足を止めた。
(──玲。──二年前のあの最後の夜、お前は何を思って俺を嵌めたのか。──明日、その答えを直接聞くのか)
十日の旅の最後の夜が、稜の胸の中で深い問いを宿していた。──二年半の沈黙が、明日朝に終わる。
第三章開幕、稜とブランの帝都への旅。
書きながら、自分も馬車に乗っているような気持ちでした。
サルマティアの丘陵地帯の襲撃、若い刺客カール22歳との対話。
「駒の二つの道」のテーマが、ブランの形で繰り返されます。
地平線の向こうに帝都の明かりを見る稜の一行、書けて良かったです。




