フィオナの最期、アルデス公の覚悟
時を少し戻す。
霧峰の巡礼から四日後の夕刻。アルデス公の私邸。フィオナの病室。
春の夕暮れの光が、窓辺の白い薄絹のカーテンを淡く染めていた。フィオナはベッドの上に横たわっていた。霧峰の巡礼の後、フィオナは急速に衰えていた。三日前、アウリオンに戻った夜からフィオナは自力で起き上がることができなくなっていた。
ミラベル医師はベッドの横に座って、フィオナの脈を確認していた。脈は徐々に弱くなっていた。ミラベルは深く息を吐いた。三十年の王宮医師の経験で、彼女は知っていた。フィオナの命がもう長くないことを。
ミラベル医師は静かに立ち上がった。病室を出た。
扉の外でアルデス公が待っていた。
ミラベル医師は深く一礼した。
「アルデス公。──奥様のお時間が近づいております。──最後の時間をお一人でお過ごしください」
アルデス公の目に涙が滲んだ。しかし流さなかった。深く頷いた。
「ミラベル殿。──三ヶ月、ありがとうございました」
ミラベル医師はもう一度腰を折った。そして静かに廊下を退いた。
アルデス公は扉を開けた。
─── ─── ───
病室の中。
フィオナは目を開けていた。痩せた頬。薄い唇の色。しかし目はまだ、あの霧峰の古戦場で見せた深い光を持っていた。アルデス公がベッドの横の椅子に座った。フィオナの手を両手で握った。
「アルデス」
フィオナの声は小さかった。
「来てくれたのね」
「フィオナ」
アルデス公の声は震えていた。
「──ずっとここにいる」
フィオナは微かに笑った。
「アルデス。──私、もう長くないわ」
アルデス公は首を横に振ろうとした。しかし振らなかった。フィオナの目がそれを許さなかった。フィオナは自分の最期を既に受け入れていた。アルデス公はその受け入れに応える必要があった。
「フィオナ。──分かっている」
アルデス公はフィオナの手を強く握った。
「霧峰の巡礼、君を連れて行けて、僕は本当に良かった」
フィオナは無言で頷いた。
「アルデス。──ありがとう。父さんと母さんと、私の半分の兄弟たちと再会できた。──私の二十年の悲しみが今、静かに閉じている」
窓の外で、夕暮れの鳥が一度鳴いた。春の夕方の静かな声。フィオナはその声を聴いた。微かに笑った。
「アルデス。──今夜、私の命が終わるわ。──だから最後にいくつか頼みたいことがある」
─── ─── ───
アルデス公は何度か頷いた。
涙が流れた。しかしフィオナの目をまっすぐ見つめ続けた。
「フィオナ。──何でも聞く」
フィオナはゆっくりと口を開いた。
「アルデス。──まず一つ目」
「うん」
「私の葬儀は小さくしてほしい」
アルデス公は頷いた。
「フィオナ。──分かった」
「アウリオンの王宮の礼拝堂で、家族と稜殿、四人の弟子、カスパル殿、マテウス院長、オルヴァン将軍、ミラベル先生。──それだけで十分よ。盛大な葬儀はいらない。──私は王家の姫ではなく、ただの一人の女として送ってほしい」
「分かった、フィオナ」
フィオナは続けた。
「二つ目」
「うん」
「私の墓は、霧峰の古戦場の近くにしてほしい」
アルデス公の息が止まった。
フィオナは続けた。
「父さんの石碑の近くでいい。──私、父さんと五百人の仲間たちと共に千年の歪みを見つめ続けたい」
アルデス公はゆっくりと頷いた。涙が止まらなかった。しかし声はしっかりしていた。
「フィオナ。──分かった。霧峰の古戦場の近くに墓を建てる。父上の石碑の隣に君の石碑を」
フィオナはわずかに頷いた。
「アルデス。──ありがとう」
しばらく沈黙が流れた。
窓の外で、夕暮れの最後の光が薄くなっていた。空が紫から深い藍色へ変わっていた。星が一つ、二つ現れていた。
─── ─── ───
「アルデス。──三つ目」
フィオナの声は、少し弱くなっていた。
「うん」
「千年の五家の次の代を頼みます」
アルデス公の目がフィオナを見つめた。
「五家の次の代、と」
フィオナは黙って頷いた。
「カイル殿を助けてあげて」
アルデス公の息が止まった。
フィオナは続けた。
「カイル殿はまだ二十九歳。父の罪を引き受ける若い当主。──私は霧峰で彼の父の罪を受容した。受容した私の責任として、彼をこれから助けたい。──しかし私はもうその責任を果たせない。──だからアルデス。あなたに私の責任を託す」
「父王の独立戦争の遺族訪問を、あなたは二十年続けてきた。──これからは私の遺志として、五家の再建を支えてほしい。父王の二十年の訪問の続きを、五家への訪問の形で続けてほしい」
アルデス公は長くフィオナを見つめた。
涙が流れていた。しかし目は、深くフィオナの目を受け止めていた。
「フィオナ。──分かった」
アルデス公の声は震えていた。しかし覚悟を宿していた。
「父王の二十年の遺族訪問の続きを、フィオナの遺志として五家への訪問の形で続ける。──カイル殿を助ける。これは僕のこれからの人生の軸になる」
フィオナは黙って受け止めた。
「ありがとう、アルデス」
─── ─── ───
しばらく沈黙が流れた。
フィオナの呼吸が徐々に浅くなっていた。しかし目はまだ、強い光を持っていた。アルデス公はフィオナの手を両手で握り続けた。
「アルデス。──最後に一つだけ」
フィオナの声は囁きだった。
「うん、フィオナ」
「あなたと十五年。──最高の時間だった」
アルデス公の目から涙が激しく流れた。
「フィオナ。──僕もだ。君と十五年生きられて、僕は本当に幸せだった」
フィオナは微かに笑った。
「アルデス。──私がいなくなった後、あなたがまた誰かを愛していいのよ」
アルデス公は首を横に振った。
「フィオナ。──僕は君だけを愛した。これからも君だけを愛し続ける」
フィオナは目に涙を滲ませた。微笑んだ。
「アルデス。──分かった。──でも、もしいつかあなたの心が変わったら私は許すわ」
「フィオナ……」
「私の許しは、あなたを縛るためではない。あなたの自由を守るためよ」
アルデス公はフィオナの額に、自分の額を押し付けた。涙が二人の額の間で混じった。
「フィオナ。──ありがとう。──愛している」
「アルデス。──私も愛している」
フィオナの手がアルデス公の手を、ゆっくりと握り返した。最後の力で。
そしてフィオナの目がゆっくりと閉じていった。
息が徐々に浅くなり、やがて静かに止まった。
アルデス公の額が、フィオナの額についていた。動かなかった。
部屋の外で、星が空に増えていた。
春の夜が静かに深まっていた。
─── ─── ───
翌朝。
アウリオンの王宮の礼拝堂。フィオナの葬儀。
フィオナの希望通り、葬儀は小さかった。アルデス公、レオン王、稜、四人の弟子(セレネ、ロッテ、クロヴィス、ブラン)、カスパル、マテウス院長、オルヴァン将軍、ミラベル医師、エルマー執事──総勢十数人。王家の公式の葬儀の規模ではなかった。一人の女性の最期を家族と近しい者たちで送る形だった。
ブランは昨日、急遽帝都から戻ってきていた。レオナルドと共に帝都の情報網の構築を進めていたが、フィオナの訃報を受けて馬を急がせて戻ってきた。葬儀の後、再び帝都に戻る予定だった。
礼拝堂の中央に、フィオナの棺が置かれていた。白い木の棺。蓋の上に、白い忘れな草の花束。霧峰の巡礼の日、フィオナが父の石碑に置いた同じ花。アルデス公が夜のうちに、自分で摘んできたものだった。
マテウス院長が葬儀の祈りを捧げた。深い青い目。穏やかな声。フィオナの十五年の人生を、簡潔にしかし深く語った。「フィオナ・ヴィレーヌ・アウレリアは、十五歳で両親を失い、二十歳でアルデス公と出会い、八年前に結婚し、三十五歳で霧峰の巡礼の後、静かに息を引き取りました。彼女の人生は二十年の悲しみと、十五年の愛と最後の巡礼の受容で構成されていました。──彼女の魂が、千年の歪みの向こうの安らぎへと向かうことを私たちは祈ります」
セレネは棺の前で長く立ち止まった。十六歳の王女は、二十歳離れた義姉の棺を深く見つめていた。母の真珠のネックレスを、指先で撫でながら。
ロッテは静かに涙を流していた。
クロヴィスも深く頭を下げていた。
ブランは無言で棺の横に立っていた。剣は外していた。
稜は礼拝堂の後ろの列で、深く頭を下げていた。
葬儀は約一時間で終わった。
─── ─── ───
葬儀の後。
フィオナの棺は馬車で、霧峰の古戦場の近くに運ばれた。アルデス公が付き添った。フィオナの墓地は、霧峰の古戦場の入り口に近い小さな丘の上に用意されていた。父マルティンの石碑から、徒歩で十分の距離。アルデス公が急遽用意した場所だった。
稜と四人の弟子、カスパル、マテウス、オルヴァンも馬車で続いた。
霧峰への半日の旅。フィオナの最期の旅。
夕刻、墓地に到着した。
春の夕陽が、霧峰の谷間を金色に染めていた。フィオナの墓は小さな丘の上に用意された。墓の横に白い大理石の石碑。「フィオナ・ヴィレーヌ・アウレリア、三十五歳。マルティン・ヴィレーヌの娘、アルデス・アウレリアの妻。──二十年の悲しみと十五年の愛と、最後の巡礼の受容を生きた女」。アルデス公が葬儀の前夜、自分で考えた言葉だった。
石碑の向こう、谷間に五百の白い石碑の列が見えた。フィオナの父の石碑も、その列の中にあった。フィオナの墓は五百の石碑を見下ろす位置に、置かれていた。
棺が墓に収められた。
アルデス公が最初に土をかけた。
次に稜が、四人の弟子がそれぞれ土をかけた。
最後にアルデス公がもう一度、土をかけた。
夕陽が墓の上の最後の土を、金色に染めた。
アルデス公は長く墓の前で立っていた。
稜と他の人々は、少し離れて見守った。
─── ─── ───
夕陽が霧峰の地平線に沈む頃。
アルデス公は稜のところに来た。
「稜殿」
アルデス公の声は低かった。しかし震えてはいなかった。
「──フィオナが最期に私に頼んだことが、一つありました」
稜は深く頷いた。
「アルデス公。──昨夜お話いただきました。五家の次の代を頼むと」
「はい。──カイル殿を助けてあげて、と」
アルデス公は続けた。
「稜殿。──私は父王の独立戦争の遺族訪問を、二十年続けてきました。父王が亡くなって十五年、私は一人でそれを続けてきました。──しかし二十年の訪問が、霧峰の古戦場の五百の石碑である程度形になりました。私は次の二十年を何に捧げるべきか、考えていました」
「フィオナの最期の遺志が、その答えを私に与えてくれました」
アルデス公の目に深い決意が宿っていた。
「これからの二十年、私はフィオナの遺志として五家の再建を支えたい。──父王の二十年の遺族訪問の続きを、五家への訪問の形で続けたい。アウレリア王国の千年の五家のそれぞれの家を訪ね、それぞれの家の千年の歴史を聞き、それぞれの家の新しい千年を共に設計したい」
稜は小さく頷いた。
「アルデス公。──素晴らしいご決意です」
アルデス公は続けた。
「最初の訪問はクルビット家です。カイル殿に私の決意を伝えに行く。フィオナの遺志を伝えに行く」
稜は頷いた。
「カイル殿は深く感謝されるでしょう」
アルデス公はゆっくりと頷いた。
「稜殿。──これは私の新しい人生の軸です。父王の王太子としての王位は、私は若い日に辞退しました。フィオナと二人の静かな人生を選びました。──十五年、フィオナと生きました。──そして今、フィオナを失った。私のこれからの二十年はフィオナの遺志の上に立つ」
稜は長く、アルデス公を見つめた。
(──アルデス公は公人としての王太子の選択を捨てて、夫としての選択を生きた。──そして今、夫としての選択を超えてフィオナの遺志の継承者として新しい公的な選択をする)
稜は深く頷いた。
「アルデス公。──私は参謀として、あなたの新しい人生の軸をお支えします」
─── ─── ───
夕陽が完全に沈んだ。
空が紫から深い藍色へ変わっていた。星が徐々に増えていた。
稜と四人の弟子、カスパル、マテウス、オルヴァンは馬車でアウリオンへ戻る準備を始めた。アルデス公はもう一晩、墓の近くの小さな宿屋に泊まる予定だった。
稜は馬車に乗る前、もう一度アルデス公の前に立った。
「アルデス公。──お一人で大丈夫ですか」
アルデス公は一瞬の沈黙の後、頷いた。
「稜殿。──今夜フィオナと、最後の一晩を過ごします。明日アウリオンに戻ります」
稜は深く一礼した。
「アルデス公。──ありがとうございます」
馬車がゆっくりと出発した。霧峰の墓地が徐々に後ろに遠ざかった。
稜は馬車の窓から振り返った。
夕暮れの薄い光の中で、アルデス公がフィオナの墓の前で一人立っていた。背中のシルエットが、星空の下に静かに浮かんでいた。
稜は長く、そのシルエットを見つめた。
(──アルデス公の新しい二十年が、今夜始まる)
馬車は静かに進んだ。アウリオンへの夜の街道を。
─── ─── ───
夜、稜は王宮の書斎に戻った。
長い、一日だった。葬儀。霧峰の墓地。アルデス公の決意。──全てが、静かに終わった。
稜は、机の前に座った。
机の上に、二枚の紙が置かれていた。
一枚は、ルクレティウスの手稿の最後の頁の写し。マテウス院長が、稜のために写してくれたものだった。「沈黙は時に罪を、覆う。しかし沈黙は時に愛を、守る。我が孫よ君はどちらの沈黙を、選ぶのか」。
もう一枚は、稜がフィオナの最期の言葉を書き留めた紙だった。アルデス公から、葬儀の前夜フィオナの最期の言葉を聞いた稜が自分の革の手帳に書き留めたものだった。「アルデス。──千年の五家の次の代を頼みます。カイル殿を、助けてあげて」。
稜は、二枚の紙を長く見つめた。
ルクレティウスの二十年の沈黙。フィオナの最期の遺志。──二つの世代の女と、男の千年の歪みへの最後の応答。
稜は深く息を、吐いた。
窓の外を見た。春の夜空。星が、無数に瞬いていた。三十日月の月はまだ出ていなかった。三十日月の新月の夜。アウリオンの王宮の暗闇の上に、星だけが輝いていた。
稜は低く呟いた。
「──霧峰の二十年が、今ようやく静かに閉じた」
声は、書斎の石壁に静かに反響した。
稜は続けた。
「──しかし千年の闇はまだ続いて、いる」
稜は、革の手帳を開いた。最初の頁の裏に、セレネとクロヴィスの覚悟の二枚が挟まれていた。稜は、その隣にフィオナの最期の言葉を書いた紙を新しく添えた。
三枚の覚悟と、遺志が革の手帳の中で並んだ。
稜は、革の手帳を閉じた。
窓の外の星空を、長く見つめた。
胸の中で、次の章の輪郭が静かに立ち上がりつつあった。
(──次は、帝都だ)
稜は深く息を、吸った。
神崎玲。ヴィスカルト皇太子。前皇帝の毒殺の真相。トルメアスの第二の弟子の系譜。──次は、稜が帝都ヴェルデンに向かう番だった。神崎の所に、行く。霧峰の二十年が、閉じた今千年の計画のもう一つの闇——ハーゲン帝国の構造に踏み込む。
稜は、立ち上がった。書斎の窓辺に、立った。
春の夜風が、書斎の窓を軽く叩いていた。
窓の外の星空の向こうに、北の霧峰の夜が見えた。
胸の中で、フィオナの最期の微笑みがもう一度蘇った。痩せた、頬。三十五歳の女性の深い安らぎ。
「フィオナ殿」
稜は低く呟いた。
「──二十年の悲しみは今閉じました。──そしてあなたの遺志は、アルデス公が継ぎます。──私も、参謀としてあなたの遺志の上に新しい千年を設計します」
風が、静かに答えた。
春の夜が、深まっていた。
フィオナの最期。
「あなたと、十五年。最高の時間だった」
このセリフだけで、第二章を終わらせたくて、ずっと温めていた場面でした。
第二章、ここで閉じます。次回から第三章「帝都の地下」です。




