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カイルとの二度目の対話

 契約更新日から三週間が過ぎていた。

 稜はクルビット家の屋敷の前で、馬を降りた。

 アウリオンの北の郊外、五家の屋敷の並ぶ地区。クルビット家の屋敷はそこに、千年立ち続けていた。古い石造りの二階建て。屋根は赤い瓦。庭は広く、しかし近年手入れの行き届かない部分が目立っていた。十年前、二十年前の繁栄の痕跡が屋敷の各所に残っていた。しかしそれらは徐々に色褪せていた。

 夕刻、午後五時。

 春の夕暮れの光が、屋敷の石壁を金色に染めていた。空は徐々に紫に変わりつつあった。庭の桜の若葉が、夕風に静かに揺れていた。

 稜は屋敷の扉の前で、立ち止まった。

 胸の内ポケットに、一通の手紙が入っていた。クロヴィスが昨日、稜に提出した判断の草案。「カイル殿に父の罪を告げることを提案いたします。──ただし罪を告げる目的は罪の追及ではなく、カイル殿が自分の家の千年の歴史と向き合い新しい千年を設計するための情報の提供として」。

 稜はその草案を長く読んだ。そして夜、決断した。クロヴィスの判断を尊重する。今夕、自分がカイル殿を訪ねて告げる。

 稜は屋敷の扉をノックした。

            ─── ─── ───

 扉が開いた。

 屋敷の執事が立っていた。六十代の痩せた男。エルマー・グレース。フェリクスの執事を三十年務めた男。フェリクスの自殺の夜、書簡をルクレティウスに見せた男。

 稜はエルマーを深く見つめた。

 (──エルマー殿。──あなたも二十五年、フェリクスの罪を知って生きてきた)

 しかし稜はその視線を、すぐに収めた。

 「稜殿」

 エルマーは深く一礼した。

 「カイル様、お待ち申し上げております」

 稜は頷いた。

 昨日、クルビット家に短い手紙を送っていた。「明日の夕刻、お時間をいただけますか」。カイルからはすぐに返事が届いた。「お待ちしております」。

 エルマーは稜を、屋敷の奥の応接間に案内した。

 応接間は古い、しかし磨かれた木の床。中央に木のテーブル。周りに四つの椅子。壁にはクルビット家の千年の家紋——獅子と蔓の組み合わせ。家紋の横に歴代の当主の肖像画。十二人の当主。最後の肖像画はフェリクス。その横にカイルの肖像画はまだなかった。

 カイルは暖炉の前で立っていた。

 二十九歳。背は稜より少し低かった。中肉。茶色の髪を後ろに撫でつけていた。穏やかな目。三ヶ月前、稜が対話した夜より少しだけ目に落ち着きが加わっていた。新しい議会の議員となって三週間。新しい立場を徐々に受け入れている姿だった。

 「稜殿」

 カイルは深く頭を下げた。

 「お越し、ありがとうございます」

 稜は深く一礼した。

 「カイル殿。──夕刻にお時間をいただき、ありがとうございます」

 二人はテーブルの向かい合いの椅子に座った。エルマーが二人の前に、温かい紅茶を置いた。そして静かに退いた。

            ─── ─── ───

 しばらく、二人の間に沈黙が流れた。

 窓の外で、夕暮れの風が桜の若葉を揺らしていた。屋敷の古い木の軋みが、微かに聞こえた。

 稜は紅茶の湯気を見つめた。

 (──どこから語り始めるべきか)

 しばらく考えた。そしてゆっくりと口を開いた。

 「カイル殿。──今日、私がお訪ねしたのはある報告をするためです」

 カイルは静かに稜を見つめた。

 「報告、ですか」

 「はい」

 稜は深く息を吸った。

 「先月私は北の国境の砦に行きました。アルデス公の奥様、フィオナ殿の最期のご希望霧峰の古戦場への巡礼のためでした」

 カイルは深く頷いた。

 「フィオナ様のご逝去伺っております。──昨日アルデス公から、丁重な書簡をいただきました。私は葬儀には出られませんでしたが心からご冥福をお祈り申し上げます」

 「ありがとうございます」

 稜は続けた。

 「フィオナ殿の巡礼の前に、私は北の砦でオルヴァン将軍と対面しました」

 カイルの目にわずかな影が走った。

 「オルヴァン将軍。──父王、ヴィルフレッド王の独立戦争の最後の指揮官のお一人」

 「はい。──オルヴァン将軍は契約更新日の後、自ら希望して北の砦の指揮官に赴任されました。彼は二十年、ある調査を続けてこられた。──霧峰の戦闘の真の敗因の調査です」

 カイルの紅茶を持った手が、わずかに止まった。

 稜は静かに続けた。

 「カイル殿。──二十年前、霧峰の戦闘で五百三十七人の兵士が死にました。その敗因は公式には戦術的劣勢と記録されています。しかしオルヴァン将軍の二十年の調査の結果、別の真相が明らかになりました」

 「真相、ですか」

 「内部からの情報漏洩です」

            ─── ─── ───

 カイルの紅茶の茶碗が、テーブルに戻された。

 茶碗はわずかに音を立てた。

 稜はカイルの目をまっすぐ見た。

 「カイル殿。──戦闘の三日前、アウレリア軍の進軍計画がサルマティア側に漏れていました。漏らした男の名は明確に特定されています」

 稜は一度、深く息を吸った。

 「──フェリクス・クルビット殿です」

 カイルの目が、長く稜を見つめた。

 反応はすぐにはなかった。表情もほとんど変わらなかった。しかしカイルの両手が、テーブルの上で静かに組まれた。指が白くなるほど、強く握られていた。

 長い沈黙が流れた。

 応接間の暖炉の炎が、わずかに爆ぜた。

 ようやくカイルが口を開いた。

 「稜殿。──父が、霧峰の漏洩を行ったと」

 稜は頷きを返した。

 「はい。──三十年前家の財産が底をつきかけた頃、フェリクス殿はサルマティアの商人と出会い取引を開始されました。提供した情報はアウレリア軍の進軍計画。受け取ったものは家の維持のための資金。──金貨五百枚」

 「五百枚」

 カイルは低く繰り返した。

 「霧峰の五百三十七人の死。──そして五百枚の金貨。父はその計算を毎晩、自分の心の中でしていたはずだ」

 カイルの声は静かだった。しかし奥に深い震えがあった。

 稜は続けた。

 「フェリクス殿は漏洩の五年後、自殺されました。書斎でご自分の首を吊られました」

 カイルの両手がテーブルの上で、強く握られた。指の骨が白く浮かんだ。

 長い沈黙の後、カイルは低く呟いた。

 「──私は父の姿を、自分の目で見ました」

 稜は息を止めた。

 (──カイル殿は自分から、そのことを語った)

 「私が十一歳の夏でした」

 カイルは続けた。

 「父はその日の夕刻書斎に入りました。夕食の時間になっても、出てきませんでした。母が私に『父さんを呼びに行きなさい』と言いました。私は書斎の扉をノックしました。返事がありませんでした。私は扉を開けました。──そこに父がいました。天井から首を吊って、ぶら下がっていました」

 カイルの声がわずかに震えた。

 「私は声を出すことができませんでした。書斎を出て廊下を走ってエルマーを呼びに行きました。エルマーは書斎に駆けつけて、私を書斎の外に出しました。エルマーは母にも後で告げました。──公式には父の死は急な心臓の発作とされました」

 「私は十一歳から、その姿を胸の中に抱えて生きてきました」

            ─── ─── ───

 カイルの目から、初めて涙が流れた。

 一筋だけだった。

 しかしそれは、十八年抱えてきた涙だった。

 稜は長く、カイルを見つめた。

 そして静かに口を開いた。

 「カイル殿。──十八年、お一人で抱えてこられたのですね」

 カイルは深く頷きを返した。涙を拭わずに。

 「私は父の自殺を誰にも語ってこなかった。──エルマーと母だけが真相を知っていた。母は十年前、亡くなった。──エルマーと私だけが生きている唯一の目撃者でした」

 カイルは深く息を吐いた。

 「父の自殺の理由を私は二十九年、考え続けました。──父は何かに苦しんでいた。書斎で夜長く何かを書いていた。母は父のその姿を見ながら、何も聞かなかった。母は父を信じていた。──しかし私は感じていた。父の何かが家族を超えた何かに関係している、と」

 「今日、稜殿のお言葉で、私は父の苦しみの理由をようやく知りました」

 カイルは目を上げた。

 「霧峰の五百三十七人の死」

 カイルは長く、その数字を口の中で繰り返した。

 稜は静かに続けた。

 「カイル殿。──オルヴァン将軍の調査の突破口は、ある書簡の原本でした。その書簡を最初に見つけた男の名は、ルクレティウス・モク」

 カイルの顔が上がった。

 「クロヴィス殿のお祖父様」

 稜は何度か頷いた。

 「ルクレティウス殿は五十五歳の年フェリクス殿の自殺の後、書簡を発見されました。書簡には漏洩の事実が自白として書かれていました。──ルクレティウス殿は二十年、その書簡を保管されました」

 「二十年、沈黙された」

 「はい。──ルクレティウス殿は書簡を王家に提出しなかった。理由は一つでした。──当時十一歳だったあなたを守るためです」

 カイルの息が止まった。

            ─── ─── ───

 稜は続けた。

 「ルクレティウス殿の最後の手稿にこう書かれていました。『──カイルは十一歳。父の罪を知らずに家を継ぐ資格があった。私は書簡を提出すれば、家は即座に断絶する。家には十一歳の息子と母が残されている。私はその二人の人生を守る沈黙を選んだ』」

 「ルクレティウス殿は二十年その沈黙の重みを一人で抱えました。沈黙の重みは、彼の心臓を徐々に蝕みました。十年前彼は亡くなりました。──しかし最後の手稿に、彼は孫へのメッセージを残しました。『沈黙は時に罪を覆う。しかし沈黙は時に愛を守る。我が孫よ君はどちらの沈黙を選ぶのか』」

 カイルは長く、稜を見つめた。

 涙がもう一度流れた。

 ──カイルの右手が、机の上で軽く拳になった。──しかし力は入っていなかった。──二十九歳の若い当主の手。──父フェリクスが二十年前、家を救うためにサルマティアの商人と契約書を交わした、まさに同じ手。──同じ血の手で、カイルは今、父の罪の重みを引き受けようとしていた。

 部屋の窓辺で、若葉月の風が一度カーテンを揺らした。──春の終わりの風。──二十年前、フェリクスがこの同じ書斎で自殺した季節と、おそらく近い時期だった。──カイルの目は、ふと窓の方を向いた。──二十年、家の書斎には父の影があった。──しかし今夜、父の影に新しい意味が加わった。

 「ルクレティウス殿は、私の人生を守る沈黙を二十年続けてくださった。──私は知らずに、その沈黙の上で二十九年を生きてきた」

 「はい」

 稜は頷いた。

 「クロヴィスは昨日、私に判断を提出しました。──祖父の沈黙の上に、新しい開示を選ぶ。それが彼の判断でした」

 カイルは一瞬の沈黙の後、頷いた。

 「クロヴィス殿の判断を、私は受け入れます」

 カイルは静かに息を吸った。

 「稜殿。──父の罪は許されるものではありません。私は父の罪を否定しません。五百三十七人の死を、家の維持と引き換えに選んだ父の判断を私は子として認めます。それは正しくない判断でした」

 「しかし」

 カイルは続けた。

 「私は父を憎みません。父は家を守るために自分の魂を犠牲にしました。──そして最後に自分の命を犠牲にしました。父は罪を犯した後、五年その罪の重みを一人で抱え自ら命を絶ちました。父は自分の罪の責任を自分の命で引き受けたのです」

 「私は父の罪を引き受けません。父の罪は父の罪です。──しかし私は父の選択の土台になった、家の千年の歴史を引き受けます。私は家を守るために父が行った、漏洩の決めを別の形で書き直す責任があります」

            ─── ─── ───

 稜は長く、カイルを見つめた。

 そしてわずかに頷いた。

 「カイル殿。──あなたのお言葉を私は深く受け止めます」

 稜は続けた。

 「先週フィオナ殿の霧峰での最期の巡礼を、私は見守りました。フィオナ殿は亡くなる前霧峰の古戦場の父の石碑の前でこう祈られました」

 稜はフィオナの言葉を、ゆっくりと伝えた。

 「『父さん。──私怒らない。許さない、けど怒らない。父さんを殺したのは、アルデスでもヴィルフレッド王でもない。──千年の大陸の歪みだった。私は父さんの死を憎しみではなく受容で背負う』」

 カイルは目を閉じた。涙がまた流れた。

 「カイル殿。──フィオナ殿は漏洩の真相を三年前から知っておられました。そしてあなたの父の罪を許しではなく受容されました。──フィオナ殿の最期の巡礼は、あなたの父の罪の被害者が加害者の家族の人生を認める巡礼でした」

 「私は父の罪の許しを求めません」

 カイルの声は震えていた。

 「フィオナ様の受容は、私の家族を超えた慈悲です。──私はその受容に値する生き方を、これからしなければなりません」

 稜は深く頷いた。

 「カイル殿。──あなたは父の決断を別の形で書き直す機会を持っています。父は家を守るために国を裏切りました。あなたは新しい議会の議員となりました。──あなたは父が守りたかった家を、千年先まで続く議会の中で別の形で守れば良いのです」

 カイルは黙って頷いた。

 「稜殿。──私は新しい議会の中で、五家の代表として自分の家の千年と、新しい王国の千年を共に設計する覚悟があります」

            ─── ─── ───

 稜は暖炉の火を、しばらく見つめた。

 そしてもう一つ、伝えるべきことを思い出した。

 「カイル殿。──最後に、もう一つお伝えします」

 カイルは稜を見た。

 「アルデス公がフィオナ殿の葬儀の後、私にこう告げられました。『稜殿。──フィオナが最期に私に頼んだことが一つありました。「アルデス。──千年の五家の次の代を頼みます。カイル殿を助けてあげて」と』」

 カイルの目が大きくなった。

 「フィオナ様が、私のことをご存知に……」

 「フィオナ殿は王宮の図書室で密かに、二十年前の霧峰の関連書類を調べておられました。あなたのお父様の名前をご存知でした。そしてあなたが父の罪を知らずに、家を立派に継いでいることもご存知でした」

 稜は続けた。

 「アルデス公はフィオナ殿の遺志としてこれから五家の再建を支えるとおっしゃいました。父王ヴィルフレッド王の二十年の遺族訪問の続きを、五家への訪問の形で続けると」

 カイルの目に深い感謝の光が宿った。

 「アルデス公のご厚意を、私は深く受け止めます。──そしてフィオナ様のご遺志を、私は生涯忘れません」

 長い沈黙が流れた。

 窓の外で、夕暮れが徐々に深くなっていた。空の紫が濃くなっていた。最初の星が空に現れた。応接間の暖炉の炎が、静かに揺れていた。

            ─── ─── ───

 カイルは立ち上がった。

 稜の横に来た。

 そして稜の手を両手で握った。

 「稜殿」

 カイルの声は震えていた。しかし深い安らぎが宿っていた。

 「──私は今、初めて父の魂と和解したかもしれません」

 稜は頷きを返した。

 「カイル殿。──父上は最後に、自分の命で罪の責任を引き受けられました。父上の魂は十八年、あなたの和解を待っていたのかもしれません」

 カイルは深く頷きを返した。

 「父さん」

 カイルは低く呟いた。

 「──父さんが家を守るために選んだ道は間違っていた。しかし父さんはその間違いの責任を、自分の命で引き受けました。父さんの五年の苦しみと最後の選択を私は認めます。──父さんが守りたかった家を、私は別の形で守ります。新しい議会の議員として千年先まで続く家として」

 カイルの目から、涙が止まらなくなった。しかし目は深い安らぎを宿していた。十八年抱えてきた重みが、今徐々に別の形に変わっていた。

 稜はカイルの肩に手を置いた。

 「カイル殿。──あなたの新しい千年を、私は参謀としてお支えします」

 カイルは小さく頷いた。

 「稜殿。──私は新しい議会で、あなたの参謀の哲学を深く信じて進みます」

            ─── ─── ───

 稜は屋敷を辞した。

 扉の外で、エルマーが腰を折った。

 稜はエルマーに静かに告げた。

 「エルマー殿。──二十五年、よくお守りくださった」

 エルマーの目に、初めて涙が滲んだ。六十代の痩せた男。フェリクスの自殺の夜から二十五年、罪の秘密を抱えて生きてきた男。

 エルマーは深く腰を折った。

 「稜殿。──カイル様の新しい人生を、よろしくお願いいたします」

 稜は深く頷いた。

 屋敷の扉が、静かに閉まった。

 稜は馬のところに戻った。馬の手綱を取った。

 屋敷の前から振り返った。

 夕暮れの紫の空の下で、クルビット家の千年の屋敷が静かに立っていた。屋根の瓦の赤が、夕陽の残光に淡く染まっていた。庭の桜の若葉が、夕風に揺れていた。

 稜は長く屋敷を見つめた。

 (──千年の五家。──カイル殿は新しい千年を引き受けた)

 稜は馬に乗った。アウリオンの王宮の方向へ、馬を進めた。

 夕暮れの街道をゆっくりと進んだ。空の星が、徐々に増えていた。

 稜の胸の中で、フィオナの声が響いた。「私は父さんの死を、憎しみではなく受容で背負う」。そしてルクレティウスの声。「沈黙は時に罪を覆う。しかし沈黙は時に愛を守る」。そしてカイルの声。「私は父さんの五年の苦しみと、最後の選択を認めます」。

 三つの声が、稜の胸の中で一本の糸として繋がっていた。

 千年の歪みは、許しでは解けない。受容で解ける。

 受容は罪を認めることではなく、罪の構造の全体を見つめることだった。フィオナもルクレティウスもカイルも、それぞれの立場でその構造を見つめていた。

 アウリオンの王宮の灯火が、遠くに見えてきた。

 稜は馬を進めた。

            ─── ─── ───

 夜、稜は王宮の書斎に戻った。

 窓辺で立った。クロヴィスが提出した判断の草案を、もう一度読んだ。「祖父様の二十年の沈黙はカイル殿の土台を作りました。今、その土台の上に立ったカイル殿は父の罪を知り自分の千年を引き受ける力を持っています」。

 稜は革の手帳を開いた。

 最初の頁の裏に、セレネの覚悟の一枚が挟まれていた。「私は道具ではありません。私自身の意志で立ちます」。

 稜はその横に新しく、クロヴィスの判断の草案の写しを添えた。

 二つの十六歳の覚悟が、革の手帳の中で並んだ。

 稜は息を細く吐いた。

 ──しかし稜の胸の中で、もう一つの影が動いていた。──カイル・クルビット二十九歳。先代フェリクスの息子。父の罪を引き受ける若い当主。──彼が今夜、自分の家に戻った後、何を始めるのか。──二十年の沈黙を破ったフィオナの最期の微笑みが、カイルの中で別の形に変わるのを、稜は予感していた。

 胸の中で、フィオナの最期の微笑みが蘇った。

 「──父さん。私、もう行くね」

 稜は窓辺に立ち続けた。三十日月の月が、空に浮かんでいた。──春の夜風が、静かに書斎の窓を叩いていた。──風の中に、何か新しいものが混じっている気がした。

カイルとの二度目の対話。

父の自殺を11歳で発見した男が、十八年抱えてきた記憶を語る場面。

「私は、父さんの、五年の、苦しみと、最後の、選択を、認めます」

このセリフ、書き終わって長く椅子から立てませんでした。

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