国境の山の砦
春芽月、末日の朝。
馬車が、セイラン地方の北端の山道を登っていた。大陸の最北端に、近い場所。アウレリアと、サルマティアの国境の山。古代から、アウレリア王国の最初の防衛線として使われてきた場所。
山道は、細く曲がりくねっていた。馬車の四頭の馬は、ゆっくりと登っていた。フィオナは、馬車の中で静かに眠っていた。ミラベル医師が、脈を確認していた。アルデス公は、フィオナの手を両手で握っていた。
稜は、馬で馬車の先を行っていた。ジャスパーが、稜の半歩後ろを馬で進んでいた。
山道の途中、稜は一度馬を止めた。振り返って、南を見た。遠く、アウリオンの方角。春の青い空の下、広大な草原が広がっていた。アウレリア王国の中心の豊かな、土地。
(──千年、この土地を守るために多くの兵士が死んだ。霧峰の五百人も、その一部)
稜は、馬をまた進めた。
空気が、アウリオンより明らかに冷たくなっていた。春のしかし北の山の空気。標高が、徐々に上がっていた。風が、強くなった。樫と、白樺の林が徐々に減り代わりに松の針葉樹が増えてきた。冬の雪解けが、まだ終わっていない谷間に白い雪の塊が点々と残っていた。
─── ─── ───
砦が、見えてきた。
石造りの小さな、しかし堅牢な建物。三階建て。厚い、石壁。塔が、一つ。旗竿に、アウレリア王国の旗が風にはためいていた。金の鷲と、銀の剣の紋章。
砦の正門の前に一人の男が、立っていた。
オルヴァン。
灰色の髪。深い、皺。長身のしなやかな、体。五十二歳。二年半前、稜と初めて対面した男。「抜かない剣」の哲学を稜に語った、男。一ヶ月前、契約更新日の署名の後自ら希望して北の国境の砦の指揮官として赴任していた。
オルヴァンは、馬車を見ていた。馬車の両側の王家の紋章を、確認した。そして馬で、近づいてきた稜を見た。深く一礼した。
「稜殿。──ようこそ、北の砦へ」
オルヴァンの声は低くしかしはっきりしていた。
稜は、馬を降りた。オルヴァンに、深く一礼した。
「オルヴァン殿。──お久しぶり、です」
オルヴァンは、稜の目を長く見つめた。一ヶ月、見ていなかった稜の目。二年半前、見た目より深くなっていた。契約更新日から、二週間。稜は、戦時の参謀の目に変わっていた。
オルヴァンは、馬車に目を移した。
「アルデス公奥様ミラベル殿。──砦に、お入りください。フィオナ様のための最も静かな部屋を用意しております」
オルヴァンは、衛兵に短く指示を出した。馬車を、砦の中庭に迎え入れる手配。フィオナを、砦の最も静かな部屋に運ぶ手配。ミラベル医師の控えの部屋の手配。
全ての手配は、オルヴァンが既に一週間前から整えていたものだった。
─── ─── ───
砦の中庭に入った。
石畳の小さな、中庭。中央に、古い井戸。周りに、厩舎と兵舎。砦の奥に指揮官の執務室と、居住棟。オルヴァンが稜とアルデス公を執務室に案内した。
執務室は、狭かった。石壁の質素な、部屋。中央に、古い楢の机。机の周りに、三つの椅子。壁に、大陸全体の古い地図。地図の北端のこの砦の位置に、小さな赤い印がつけられていた。そして地図の中央の少し西、セイラン地方の一点にもう一つ赤い印がついていた。
霧峰の古戦場の位置。
稜は、その印を長く見つめた。
オルヴァンは、暖炉に火を入れた。三人は、机の周りの椅子に座った。外で、砦の鐘楼の鐘が十時を告げていた。春の冷たい、山風が窓の小さな隙間から流れ込んでいた。
オルヴァンは、机の抽斗から古い羊皮紙の束を取り出した。分厚い、束。一枚ずつ、オルヴァンの角ばった筆跡で書かれていた。年代の古い順に、整理されていた。
稜は、その束を見つめた。
(──二十年の執念の結晶)
─── ─── ───
「稜殿、アルデス公」
オルヴァンが、静かに口を開いた。
「お二人をこの砦にお招きした目的は二つあります。一つは、フィオナ様の最期のご願いのための休息所として。──そしてもう一つ私が二十年調べ続けてきたある事実をお二人にお告げするためです」
アルデス公が、同意の表情を浮かべた。
「オルヴァン殿。──父ヴィルフレッド王が生きていた頃からあなたが霧峰の敗因についてご自分で調べ続けてこられたことを知っていました。──父は、最後の夜に僕にこう告げました。『アルデス。──オルヴァン将軍は二十年霧峰の答えを探し続けている。いつか、彼が答えに辿り着いた時お前は彼のその答えを聞いてやってほしい』」
オルヴァンは深く頷いた。
「アルデス公。──父王、ヴィルフレッド王のそのお言葉は私の二十年の最も大きな支えでした。──そして今日私は、ようやく答えに辿り着きました」
オルヴァンは、エールの小さな杯を口に運んだ。一口、飲んだ。そして続けた。
「霧峰の戦いでアウレリア軍の死者は五百三十七名。うち、二十年前の公式記録では『戦術的劣勢による敗北』とされています。──しかし私は戦闘の最前線に立っていた指揮官として納得がいきませんでした」
オルヴァンの目が、鋭くなった。
「戦闘の三日前。──私の参謀の一人が戦術計画の最終案を持って来ました。翌朝、王宮でその計画を最終承認する予定でした。しかし計画の最終承認の二日後。つまり戦闘の当日。──サルマティア軍の布陣が私の計画を完全に読み切ったものでした」
アルデス公が、息を呑んだ。
「オルヴァン殿。──サルマティア側が、進軍計画を事前に知っていたということですか」
「はい、アルデス公」
オルヴァンはゆっくりと頷いた。
「私は、戦闘のその日から疑念を持ち始めました。──誰かが、戦闘の直前に進軍計画をサルマティア側に漏らしていた」
「戦闘の後。父王が独立戦争の勝利の式典を行った日。私は、父王にこの疑念を個人的に申し上げました。しかし父王は『独立戦争は勝利した。敗北の細部を、今蒸し返すのは国の士気を下げる』と私の調査を公式には禁じました」
「しかし父王は私に個人的にこう告げました。『オルヴァン。──お前が、二十年一人で調査するなら私は止めない。しかし公式の調査にはしないでくれ』と」
稜は小さく頷いた。
(──父王ヴィルフレッドの政治家としての判断。勝利の影を、表に出さない。しかし息子のような将軍に、調査を許す)
─── ─── ───
「それ以来、二十年」
オルヴァンは続けた。
「私は個人的に調査を続けました。戦闘の生き残りの兵士たちを、訪ね証言を集めました。戦闘の情報の流れを追いました。王宮の書記官室の記録を一つ一つ確認しました」
オルヴァンは、机の上の羊皮紙の束に手を置いた。
「これらが二十年の調査の記録です。一つ一つ、書き溜めてまいりました。私の子はいません。妻も、いません。私の生涯の半分がこの束の中にあります」
稜は、その束を見た。
(──オルヴァン殿の二十年。この束に、凝縮されている)
「十年が、経った頃」
オルヴァンは続けた。
「私は漏洩の経路をほぼ特定しました。──情報は、王宮の高位にいた誰かからサルマティアの当時の軍の最高指揮官の使者に渡されていました。使者の名前は既に判明していました。──使者は十二年前に死亡していました。しかし生前ある、商人に依頼を残していました。『私が死んだ後この古い手紙を一人の男に届けてほしい。その男の名は、オルヴァン』」
稜の手が、一瞬止まった。
「オルヴァン殿。──その手紙を、受け取ったのですか」
「はい」
オルヴァンは、机の抽斗から別の古い封筒を取り出した。
「十二年前あるヴェロニアの商人が私の当時の駐屯地を訪ねてきました。そしてこの手紙を、私に渡しました。──手紙はサルマティアの使者が死ぬ前に書いた告白文でした」
オルヴァンは、封筒から二枚の古い羊皮紙を取り出した。一枚は、開かれていた。もう一枚はまだ封蝋で、封じられていた。
オルヴァンは、開かれた一枚を机の上に置いた。
─── ─── ───
羊皮紙の表面に、古い筆跡で文字が書かれていた。
サルマティアの言葉の筆跡。しかし丁寧にアウレリア語の翻訳が、横に添えられていた。オルヴァンが、この十二年で翻訳したものだった。
稜は、翻訳文を読んだ。
「オルヴァン殿へ。
私は、二十年前サルマティア軍の使者でした。アウレリア軍の進軍計画の情報を受け取り指揮官に届けました。──情報の出所は、アウレリア王宮の高位にいたある貴族でした。
その貴族の名は本書で明示することはしません。なぜなら、私の死後この手紙が悪用される可能性を避けたいからです。しかしあなたがこの手紙と共にもう一通私が残した封筒を受け取る日が来ます。もう一通の封筒には、情報提供者の名前が書かれています。
その封筒の開封の条件は三つです。
一、情報提供者の死亡の確認
二情報提供者の家族の成人の完了
三、あなたの十年以上の調査の完結
三つの条件が揃った時もう一通の封筒を開いてください。そこに、真相があります。
私マルクス・ヴィーデン」
稜は、読み終えた。
そしてオルヴァンを見た。
「オルヴァン殿。──もう一通の封筒は、どこに」
オルヴァンは静かに机の上のもう一枚の封筒を、指さした。封がされた、ままの小さな封筒。封蝋は、サルマティアの紋章。
「二年前、三つの条件が、揃いました」
オルヴァンは静かに告げた。
「情報提供者は十年前に死亡。その息子が、成人し家を継ぎました。そして私の調査が一定の結論に到達しました。──しかし私は、二年この封筒を開きませんでした」
「なぜ、ですか」
稜は、問うた。
オルヴァンは深く息を、吐いた。
「私が二十年調査した結論とこの封筒の中身が一致するかどうか。一致しなかった、場合私の二十年は誤りだったことになります。──私は二十年を誤りだと認める覚悟ができませんでした」
オルヴァンの声が、少し震えた。
「しかし」
オルヴァンは続けた。
「契約更新日で千年の属国条約が新しい形に移行しました。王国が、新しい時代に入りました。──今真相を封印しておく理由はもうありません。今日稜殿と、アルデス公の前で私はこの封筒を開きます」
─── ─── ───
オルヴァンは、封筒を机の上に置いた。
三人の男の沈黙。
暖炉の火が、静かに爆ぜていた。
オルヴァンは、ゆっくりと封蝋を指で剥がした。封筒を開いた。中から、一枚の小さな紙を取り出した。
紙を、机の上に置いた。
稜と、アルデス公が紙を見つめた。
しかしオルヴァンは、すぐには紙を開かなかった。
オルヴァンは稜とアルデス公の目を順に見た。そして低く告げた。
「稜殿、アルデス公。──この紙を開く、前にお二人にお伝えしなければならないことが一つあります」
稜と、アルデス公はオルヴァンを見た。
「二十年前、霧峰の戦いで死んだ五百三十七名の中に私の弟の部下が三十人、いました」
オルヴァンの声は、低かった。しかし震えていた。
「私の弟エイブは当時二十六歳。霧峰の戦闘の副指揮官、でした。エイブの部下三十人。──全員、霧峰で死にました。エイブも」
アルデス公の息が、止まった。
稜は、長くオルヴァンを見つめた。
(──二年半前の対面では、語られなかった個人的な喪失)
「私は二十年その三十人の弟の部下と私の弟エイブの死の真相を調べてきました。彼らは、戦術的な劣勢で死んだのではない。情報漏洩で死んだ。──私は、それを確信しています」
オルヴァンは深く息を、吐いた。
「今日開く、この紙の中身が私の確信を裏付けるはずです。──そうで、なければ私の二十年は誤りだったことになります」
オルヴァンの手が、紙の上で止まった。
しばらく、沈黙が流れた。
稜は、静かにオルヴァンに告げた。
「オルヴァン殿。──開いて、ください」
オルヴァンは深く頷いた。
そして紙を、ゆっくりと開いた。
─── ─── ───
紙の上に、短く書かれていた。
情報提供者の名前。
サルマティア語の筆跡と、アウレリア語の翻訳が並んで書かれていた。
名前は、一つだった。
オルヴァンは、その名前を見た。
じっと見つめた。
そして深く息を、吐いた。
「──私の二十年の調査の結論と、一致しました」
オルヴァンの声は、低かった。しかし安堵ではなかった。重い、確認の声だった。
オルヴァンは稜とアルデス公の方に紙をゆっくりと回した。
稜と、アルデス公が紙を見た。
名前は、書かれていた。
しかしその名前はまだ声に出されない。
稜は静かにその名前を読んだ。
アルデス公の手が、一瞬震えた。アルデス公は、その名前を知っていた。アルデス公の家族の二十年の訪問の中で、その名の家を訪ねたことがあった。
アルデス公の目に深い衝撃が、走った。
「──オルヴァン殿」
アルデス公の声は、震えていた。
「この家は、──」
オルヴァンは頷きを返した。
「アルデス公。──二十年前の霧峰の真の敗因。──それは、内部からの情報漏洩でした」
アルデス公の手が、再び震えた。紙の上の名前を、もう一度確認した。
稜は静かにその名を、口に出した。しかしその名は、この夜の章ではまだ読者の前に明かされない。
外で、春の山風が砦の石壁を静かに叩いていた。
─── ─── ───
しばらく、三人の間に沈黙が流れた。
アルデス公は、紙を長く見つめていた。指先で、紙の端を握っていた。震えは、徐々に収まっていった。しかし目の奥に深い衝撃が、残っていた。
オルヴァンは、両手を机の上で組んだ。
「アルデス公稜殿。──明日私の二十年の調査の全体を、お話しいたします。情報提供者の家の千年の歴史。三十年前の家の状況。サルマティアとの取引の詳細。情報提供者のその後。──全てお話しいたします」
稜は無言のまま視線を返した。
「オルヴァン殿。──ありがとうございます。──今夜は、ここまでとしてお休みください」
アルデス公も黙って頷いた。
しかしアルデス公はまだ立ち上がらなかった。紙を、長く見つめていた。そして低く呟いた。
「フィオナの父は、霧峰で死んだ。──そしてその死を、もたらした漏洩の出所はこの家だった」
アルデス公の声は、震えていた。
「フィオナはこの二十年自分の父の死の核を知らずに生きてきた。──そして今最期に、霧峰の古戦場を見たいと願っている。──その願いの意味を僕は今ようやく理解しつつある」
稜は、アルデス公の肩に静かに手を置いた。
「アルデス公。──フィオナ殿が、霧峰をご所望されたその深い理由は明日オルヴァン殿の調査の全貌を聞いた後で考えましょう」
アルデス公は何度か頷いた。
オルヴァンは、立ち上がった。執務室の扉まで、稜とアルデス公を見送った。
「アルデス公稜殿。──二階の客室に、ご案内いたします。今夜はゆっくりお休みください」
二人は、執務室を出た。砦の二階の客室に向かった。
─── ─── ───
稜は、客室に入った。
質素な、石造りの部屋。木の寝台、木の机木の椅子。窓は、北を向いていた。窓の外に、サルマティアの草原が遠く見えた。夜の闇の中で、星が無数に輝いていた。北の夜空は、アウリオンより星が多かった。
稜は、窓辺に立った。
胸の中で、紙の上の名前をもう一度思い浮かべた。
(──二十年前、家の没落を恐れてある家が国を売った。──そしてその家の息子は、今五家の若き当主として王宮にいる)
稜は、目を閉じた。
かつて稜が対話した若き五家の当主の顔が胸の中に浮かんだ。父の罪を知らずに、家を継いだ若き男。
(──カイル殿。──あなたはまだ知らない。明日オルヴァン殿の全貌を聞いた後、私はアウリオンに戻りあなたに伝えなければならないかもしれない)
稜は深く息を、吐いた。
明日。
オルヴァンが、二十年の調査の全貌を語る日。アウレリア王国の千年の五家の一つの二十年前の罪。フィオナの父の死の真相。そして霧峰の古戦場で、フィオナが最期に何を見ようとしているのか。
全てが、明日明らかになる。
稜は、寝台に戻った。しかしすぐには、眠れなかった。窓の外の北の星空を、静かに見つめた。サルマティアの草原の向こうから、夜の風が砦の石壁を静かに叩いていた。
オルヴァンの二十年の沈黙が、今破られようとしていた。
明日、もう一つの真相が明らかになる。
──稜は窓辺に立ち続けた。北の星空の下、霧峰の古戦場の方角を、深く見つめた。
(──五百三十七人の兵士。──二十年前、彼らは何を見ながら死んだのか。──そして誰の名前を、最後に呟いたのか)
遠くで、北の風がサルマティアの草原を渡る音が、稜の耳に届いた。──二十年、その風は同じ草原を渡り続けていた。──しかし明日、その風の中の二十年の真実が、初めて言葉になる。
稜は窓辺から離れず、夜明けまで星空を見つめ続けた。
オルヴァン将軍との再会。
契約更新日の後、自ら国境の砦に志願した男との、二十年ぶりの腰を落ち着けた対話。
封筒に書かれた情報提供者の名前。読者にはまだ明かさない、ここの引きが書きたくて、ずっと温めてきました。
次回、ついに全貌が開きます。




