アルデス公と、北への旅
アウリオンを出発したのは春芽月二十九日目の朝だった。
四頭立ての馬車が、王宮の西門を静かに抜けていった。馬車の最も奥の席にフィオナが横たわっていた。クッションと毛布で体を支えられて。アルデス公がその隣に座っていた。向かい側の席に、医師のミラベル五十代がフィオナの脈を取っていた。
馬車の脇を稜とアルデス公の警備の若い騎士ジャスパー二十六歳が馬で進んでいた。ジャスパーは寡黙な男で、馬の上でほとんど口を開かなかった。
アウリオンから北街道、五日の旅。──霧峰の古戦場のあるセイラン地方への巡礼。──三十五歳の妻の最期の願い。
稜は馬の上で、遠くの北の空を見つめた。空気がアウリオンより少し冷たかった。
(──アルデス公の二十年の遺族訪問の最後の旅。──そしてフィオナ殿の最期の願い)
稜は手綱を静かに握り直した。
─── ─── ───
昼に街道沿いの小さな村で馬車が止まった。フィオナは馬車の中で少しだけパンと温かいスープを口にした。ミラベルがフィオナの脈を確認した。アルデス公はフィオナの手を両手で握っていた。
アルデス公が宿から出てきた。
「稜殿。──フィオナは少し疲れているようです。今日は予定の半分の距離で、夕刻宿に入りましょう」
アルデス公の目には深い疲労の影があった。三十八歳の若い男。しかし三ヶ月、妻の病に寄り添ってきた目の疲れ。
稜は頷いた。
「ご判断に従います」
アルデス公の口元が、微かに動いた。──何かを言おうとして、躊躇った。
そして低く呟いた。
「稜殿。──今夜の宿で、お時間をいただけますか。──私はあなたに、まだ話していないことがあります」
稜はわずかに頷いた。
昼食の後、馬車はまた出発した。午後の街道を、ゆっくりと進んだ。
─── ─── ───
夕刻、午後五時。
馬車は、街道沿いの小さな宿屋に着いた。二階建ての石と木の素朴な宿。アウリオンから、北街道二十里の地点。一階に、食堂と暖炉。二階に、四つの寝室。宿屋の主人は、五十代の男で名はレオポルド。アルデス公を、一目で見分けた。しかし主人は、何も聞かなかった。ただ、深く一礼して最上の部屋をフィオナに用意した。
フィオナは、二階の寝室に運ばれた。ミラベルが、付き添った。アルデス公は、フィオナの手をしばらく握った。フィオナは、疲労ですぐに眠った。アルデス公は、寝室を出た。
夕食の後、フィオナは二階で眠ったままだった。
アルデス公と、稜は一階の食堂の暖炉の前に残った。ジャスパーは、一足先に二階の自分の部屋に戻っていた。明日からの警備の準備のため、だった。
暖炉の赤い火が、静かに爆ぜていた。稜と、アルデス公は暖炉の前の二つの椅子に向かい合って座っていた。宿屋の主人が、二人の前に温かいエールの大きな杯を二つ置いて食堂から静かに退いた。
食堂にはもう誰も、いなかった。
外で、春の夜の風が吹いていた。雪解けの湿った土の匂いが、微かに窓の隙間から流れ込んでいた。
─── ─── ───
「稜殿」
アルデス公が、静かに口を開いた。
「──僕は、あなたにまだフィオナの全てを話していませんでした」
稜は、エールを一口飲んだ。ぬるい、しかし麦の優しい味だった。
「アルデス公。──急ぐ必要は、ありません」
「いいえ」
アルデス公は、首を横に振った。
「この旅で、私はあなたに話す必要があります。──あなたが、フィオナの最期の場所の意味を知っておいてくださる必要があります」
稜は深く頷いた。
アルデス公は、暖炉の火を長く見つめた。火の赤い光が、アルデス公の四十手前の顔に揺れていた。
「──十五年前、春のセイラン地方で僕はフィオナに出会いました」
アルデス公が、語り始めた。
「当時僕は二十三歳でした。父、ヴィルフレッド王が独立戦争の後家族との時間を失っていた時期でした。父は勝者でした。しかし勝利の代償として、父は日々多くの遺族との謝罪の対話を抱えていました。──僕はその父をどう支えるべきか分からない若い王子でした」
稜は静かに聞いていた。
「ある日父がセイラン地方の小さな教会で遺族への謝罪の式を行うことになりました。僕は、父の付き添いとして同行しました。教会の裏の小さな庭で僕は一人の若い女性に出会いました。──それが、フィオナでした」
アルデス公の目に、十五年前のその日の記憶が蘇っていた。
「フィオナは当時二十歳でした。教会の下働きを、していました。両親を失って一人で生きていました。父は、──二十年前の霧峰の戦いで死んだ兵士でした」
稜のエールを、持った手が少し止まった。
(──フィオナ殿の父は、霧峰で死んだ)
「僕はその事実をフィオナに最初告げられた時──何も、言えませんでした。僕の父の独立戦争の勝利の代償でフィオナの父は死んでいた。僕と、フィオナの関係は最初からその重みの上に立っていました」
─── ─── ───
アルデス公は、エールを一口飲んだ。杯を、静かに両手で握った。
「しかし僕はフィオナに恋をしました。──それは、政治でも同情でもありませんでした。ただの一人の若い男の一人の女性への恋でした」
稜は静かに頷いた。
(──アルデス公の人間としての最初の選択)
「フィオナも僕を受け入れてくれました。──ただし、条件が一つありました。『アルデス殿下。──私はあなたの父の敵の娘です。私たちが、結婚するならそれは公式な政略としてではなく二人の個人の選択として』。フィオナはそう言いました」
「僕は父と三ヶ月話し合いました。最初、父は反対しました。『王子が敵兵の娘と結婚するのは政治的に難しい』と。しかし三ヶ月の間に、父は徐々に受け入れました。──父は最後にこう言いました。『アルデス。──お前が、愛する者を守れ。父王の政治はお前を縛ってはいけない』」
「八年前僕はフィオナと結婚しました。アウリオンの王宮の小さな、礼拝堂で。父と弟レオンと数人の親しい者だけが立ち会いました。公式の式典は、一切行いませんでした。──それがフィオナの望みでした」
稜はゆっくりと頷いた。
「アルデス公。──あなたの静かな、結婚式は本当の意味で二人の尊重の式でした」
アルデス公は、微かに笑った。
「稜殿。──ありがとうございます」
─── ─── ───
暖炉の火が、また爆ぜた。
アルデス公は、少し沈黙した。そして続けた。
「しかし──僕は、フィオナに長く告げられなかった秘密が一つありました」
稜は、顔を上げた。
「結婚の十年後。──五年前の冬の夜に僕は初めてフィオナに告げました。『フィオナ。──父王は、独立戦争の勝利の代償として百人以上の遺族家族を二十年個人的に訪問してきました。しかし父はその間一度もあなたの父の名を口にしたことがありません。──それは、あなたの父が霧峰の戦いで特に若かったからです。二十二歳で戦死した。父は、二十二歳の若い兵士の遺族に会うのが最も辛かった』」
アルデス公は深く息を、吐いた。
「僕はフィオナに告げました。『父は、あなたの父の名前を僕に託しました。父は自分では会いに行けなかった。しかし息子の僕が、いずれあなたの父の遺族に謝罪に行くべきだと僕に名前を渡した。──フィオナ。僕は最初からあなたの父の名を知っていた』」
稜は、息を呑んだ。
「アルデス公。──それは、重い秘密でした」
「はい」
アルデス公は頷いた。
「僕は十年妻にその秘密を告げられませんでした。──なぜなら、フィオナは結婚の前にこう言ったからです。『アルデス殿下。──私の父の名はあなたの父王にご存じない名前です。私は、一人の下働きの女としてあなたの前に立っています』。フィオナは自分の父が父王に知られていないと思っていた。しかし実際は、父はフィオナの父の名を知っていた。ただ会いに行けなかった」
稜は、静かにエールを一口飲んだ。
「アルデス公。──それで、十年後あなたは秘密を告げた。フィオナ殿は、どう反応されましたか」
アルデス公は、暖炉の火を静かに見つめた。
「フィオナは──三日間、口を利きませんでした。三日目の夜に初めて口を開いてこう言いました。『アルデス。──私は、十年あなたの父王が私の父を知らないのだと思い込んで結婚生活を送ってきました。しかし今分かりました。あなたの父王は私の父を知っていました。そして父王は、自分の罪の重みで会いに来ることができなかった。──それは私にとって父王を憎む理由ではありません。むしろ、父王を理解する最初の一歩です』」
稜の胸の中で、フィオナの声が響いた。十五歳で、父を失い二十歳でアルデス公と出会い三十歳で夫の秘密を受け止めた一人の女性。強い、女性。
「アルデス公。──フィオナ殿は、稀有な方です」
アルデス公は、目を細めた。
─── ─── ───
暖炉の火が、また爆ぜた。
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。
アルデス公は、暖炉の火に両手をかざした。手の指先が、少し震えていた。三ヶ月、妻の病に寄り添ってきた夫の指。稜は、その指を静かに見ていた。
「稜殿」
アルデス公は、呟いた。
「──父、ヴィルフレッド王のことをもう少しお話ししてもいいですか」
稜は頷いた。
「父は」
アルデス公の声は、低かった。
「独立戦争の勝者でした。しかし戦後父は家族との時間をほぼ失いました。──父の毎日は遺族訪問と王国再建の二つで埋まっていました。母エリナ妃がまだ生きていた頃も父は一日十時間執務室にいました。家族の夕食に、間に合うことは稀でした」
「弟レオンはまだ五歳。僕は、二十一歳。母は四十歳。──家族の夕食は、しばしば母と僕とレオンの三人だけでした」
アルデス公の声が、少し震えた。
「父は家族を愛していました。──しかし勝者の責任の重みで、家族との時間を失いました。父の息子たちへの愛情表現は歪んでいました。父は、僕を王太子として厳しく育てました。一度も抱きしめなかった。母が、僕に優しさを教えました」
「五年前父が亡くなる最後の夜。──僕は、父の寝台の横で一晩付き添いました。父は最後の数時間初めて僕に息子としての言葉を語りました。『アルデス。──お前は、王位を継ぐよりもフィオナと共に静かな人生を選んだ。──それは父ができなかった選択だ。父は、お前を誇りに思う』」
アルデス公の目に、涙が滲んだ。しかし流れなかった。三十八歳の男。深い、内省の目。
稜は長く沈黙した。
(──アルデス公の王位辞退の選択は、父王ができなかった選択。──父王の最後の言葉が、アルデス公の人生の芯になっている)
「アルデス公」
稜は静かに口を開いた。
「──父王の最後の言葉は、あなたの人生の最も深い贈り物ですね」
アルデス公は深く頷いた。
「稜殿。──そうです。父のその一言が、なければ僕は五年前から今までの自分を保てなかったかもしれません」
─── ─── ───
二人は、しばらく暖炉の火を見つめていた。
外で、春の夜の風がまた強くなった。窓の木の枠が、微かに軋んだ。
時刻は、午後十時に近かった。宿屋の主人レオポルドが、二人の前にまた温かいエールを注ぎに来た。アルデス公が、礼を述べた。レオポルドは深く一礼して、退いた。
アルデス公は、暖炉の火に目を戻した。
「稜殿」
アルデス公は、呟いた。
「──三ヶ月前フィオナの病の診断を受けた時。──ミラベル医師が、僕に告げました。『アルデス公。──奥様の肝臓の病は進行が速いです。残された、時間は半年から一年』」
稜は深く息を、吐いた。
「半年から、一年……」
「僕はその夜フィオナに告げました。『フィオナ。──もし、残された時間が限られているなら君が最後に見たいものがあれば教えてほしい。僕は君をどこへでも連れていく』」
アルデス公は続けた。
「フィオナはその夜は答えませんでした。三ヶ月、答えませんでした。──しかし一昨日。フィオナがようやく答えました」
稜は、長くアルデス公を見つめた。
「アルデス公。──フィオナ殿が、ご所望されたその場所は」
アルデス公は、暖炉の火を見つめた。火の赤い光が、アルデス公の目に映った。
アルデス公は静かに呟いた。
「稜殿。──セイランで、フィオナが見たいと言った場所それがどこかご存じですか」
稜は、首を振った。
アルデス公は静かに続けた。
「──霧峰の古戦場、です」
─── ─── ───
稜は長く沈黙した。
暖炉の火が、また爆ぜた。
窓の外で、春の夜の風が一瞬強くなった。
(──フィオナ殿の最期の願いが、霧峰の古戦場。父が、死んだ場所)
稜は静かに考えた。
二十年前、父が死んだ場所。二十年、フィオナはその場所を訪ねたことがないのだろうか。あるいは訪ねたことが、あっても最期にもう一度見たいのか。
稜は、アルデス公に尋ねた。
「アルデス公。──フィオナ殿は、これまで霧峰の古戦場を訪ねたことがおありなのですか」
アルデス公は、首を横に振った。
「一度もありません。──父、ヴィルフレッド王が二十年前霧峰の古戦場の跡地に五百の石碑を建てました。一つ一つに戦死した兵士の名前を刻みました。フィオナの父の名前も、そこに刻まれています」
「しかしフィオナはこれまで一度もそこに行きたいと言いませんでした。二十年。──なぜ、今最期にそこをご所望されたのか。──僕には分かりません」
稜は静かに考えた。
(──偶然ではない)
稜は、何かを感じていた。フィオナの病の発症と、霧峰への巡礼の願いの時期の一致。何か構造的な繋がりがあるようにも、思えた。しかし稜は、それをまだアルデス公に告げなかった。
明日北の砦で、オルヴァン将軍と合流する予定だった。オルヴァンは、契約更新日の署名後自ら希望して北の砦の指揮官として赴任していた。稜は、オルヴァンに何かの報告を求められていた。明日その報告を聞いた後、フィオナの最期の願いの意味ももう少し明らかになるかもしれないと稜は感じていた。
稜は、アルデス公に静かに告げた。
「アルデス公。──明日砦で、オルヴァン将軍から何かの話を聞きましょう。──その後、フィオナ殿のご願いの意味がより明らかになるかもしれません」
アルデス公は、稜の目を長く見つめた。稜の静かな目の奥に何かがあることを感じ取った。しかしアルデス公は、何も問わなかった。
「稜殿。──分かりました」
アルデス公はエールの杯を置いた。
暖炉の火を、無言で見つめた。
火の赤い光が、二人の男の肩を静かに照らしていた。
──しかし稜の胸の中で、ある一行の文字が静かに反復していた。──「フィオナ殿の父、マルティン・ヴィレーヌの死は、戦闘の指揮の失敗ではない」。──オルヴァン将軍が二十年抱えてきた可能性。──そして明日、それを直接聞く。
アルデス公の沈黙の隣で、稜は気付いていた。──この旅の本当の重みは、まだ始まっていない。──二十年の真相を、フィオナが死ぬ前に最後にどう受け止めるのか。──稜には、まだ予感しかなかった。
春の夜の風が、宿屋の窓を軽く叩いた。──二人の男は、それぞれの胸の中で別の重みを抱えながら、暖炉の前で長く座り続けた。
息抜きの旅回です。
アルデス公が稜にフィオナとの十五年を語る。書きながら、自分も宿屋の暖炉の前にいる気持ちでした。
十五年前のセイランでの偶然の出会い、結婚十年後の秘密の告白。
アルデス公の声で、ゆっくり、丁寧に語ってもらいました。
ここから少しずつ、フィオナの最期の物語に向かっていきます。




