祖父の名前
契約更新日から、二週間が過ぎていた。
王宮書記官室の最も、古い棚の前でクロヴィスは長く立っていた。朝の光が、斜めに棚の間を照らしていた。棚には、二十年前から三十年前の書記官長室の公式記録の束が丁寧に並んでいた。石造りの壁の冷たい空気。古い、羊皮紙の微かな黴の匂い。クロヴィスは、マテウス院長の細く痩せた背中を見つめていた。院長は、棚の下から二番目の段の一冊の厚い台帳を静かに取り出していた。深い青い目が、台帳の表紙を長く見つめていた。
(──院長は、何を僕に見せようとしているのか)
クロヴィスの袖には、昨日の冥書庫の古い羊皮紙の屑がまだついていた。三日前の朝。マテウスに、裏の冥書庫の最深部の扉まで連れて行かれた。黒い、樫の扉。金色のトルメアス時代の文字。「孫の準備が、整った時扉は自ら、開く」。
しかし扉は、開かなかった。
クロヴィスの覚悟が、まだ整っていなかった。
その三日間、クロヴィスは書記官室の自分の机で書類の整理を続けながら考えていた。祖父と、向き合うということが何なのか。母さえ、知らない祖父の深い秘密に自分が近づくということが何なのか。三日間の思考の果てに、クロヴィスはまだ答えを得ていなかった。
今朝マテウスが、書記官室を訪ねてきた。短く告げた。
「──クロヴィス。今朝私と、一緒に来なさい。書記官室の最も、古い棚の前まで」
マテウスの深い青い目が、昨日より一段深かった。クロヴィスは、その目の色を見て何かが動き始めていることを感じた。
─── ─── ───
マテウスは、台帳を両手で持って振り返った。
「クロヴィス」
マテウスの声は、静かだった。
「この台帳は、二十年前まで王宮書記官長を務めていた男の公式記録、です」
マテウスは、台帳をクロヴィスに両手で差し出した。クロヴィスは、両手で受け取った。指先に、表紙の古い革の感触が伝わった。表紙は、黒い革。所々、色が抜け灰色になっていた。
表紙の中央に、金色の文字で名前が刻まれていた。
「ルクレティウス・モク、王宮書記官長」
クロヴィスの息が、一瞬止まった。
祖父の名前。
実家で、母がごく稀にしか口にしなかった祖父の名前。十年前に亡くなった。クロヴィスが、五歳の時。記憶は、ほとんどない。葬儀の日の母の泣き顔だけが、薄く残っている。それだけ、だった。
クロヴィスは、台帳を両手で抱えた。
革の表紙が、少し重かった。長年、誰かがこの台帳を開いては閉じまた開いては閉じを繰り返してきた重み。祖父の二十年の書記官長としての日々の重み。
「院長」
クロヴィスの声は、震えていた。
「──僕は、祖父のことをほとんど知りません。母は、祖父の話をあまりしませんでした」
マテウスは深く頷いた。
「クロヴィス。──君は既に裏の冥書庫の最深部の扉の前に立っています。扉はもうすぐ、開きます。しかしその前に君は、祖父の生前の姿を知る必要があるのです」
マテウスは、クロヴィスの肩に静かに手を置いた。
「五十年前私が修道院に入った頃君の祖父様はまだ二十歳の若い書記官でした。私と、君の祖父様は同世代の同志でした。──私は君の祖父様の若い頃から晩年までずっと知っています」
─── ─── ───
クロヴィスは、書記官室の中央の長机の前に座った。
マテウスは、向かい側の椅子に腰を下ろした。クロヴィスは、台帳を机の上にそっと置いた。両手が、震えていた。一度、深く呼吸をした。表紙の革を、指先で撫でた。そしてゆっくりと最初の頁を開いた。
最初の頁に、祖父の筆跡があった。
角の少し、鋭い字だった。しかし落ち着いていた。一文字ずつ、丁寧に書かれていた。クロヴィスは、その文字を長く見つめた。自分の昨日書いた、書類の筆跡と比べた。
似ていた。
似ていることに、クロヴィスは驚いた。一度も、祖父の字を見たことがなかった。それでも、自分の字が祖父の字に似ていた。母も、祖父のように字を書いていたのかもしれない。クロヴィスは、自分の右手の指先を見下ろした。五歳の時、母が自分の指に筆を握らせた記憶が微かに蘇った。「クロヴィス。──書くのよ。文字を書くのよ」。母の声。母も、祖父からこの字を教わったのだった。血が、三代流れていた。
クロヴィスは、頁を捲った。
二十年前、春芽月の頃の記録。王宮書記官室の日々の業務。書類の分類。宰相への報告。王家への上奏文の整理。祖父の端正な字が、一日一日並んでいた。
「院長」
クロヴィスは、顔を上げた。
「祖父は、どのような人、でしたか」
マテウスは、少し考えた。書記官室の朝の空気が、二人の周りを静かに満たしていた。
「ルクレティウスは、寡黙な男、でした」
マテウスが、静かに言った。
「しかし一度口を開くと三時間話しました。特に、歴史の話になると止まりません。──あなたもそうですね」
クロヴィスは、微かに笑った。
祖父に似ていた。会ったことも、ない祖父に。
「もう一つ」
マテウスは続けた。
「ルクレティウスは人を信じすぎました。そして人を失った時、一人で全てを背負いました。──あなたもそうなる可能性があります」
クロヴィスは、マテウスの青い目を見つめた。忠告、だった。しかしそれは、祖父へのマテウスの深い敬意でもあった。
─── ─── ───
クロヴィスは、台帳をさらに捲っていった。
中ほどの頁に、一枚の紙が挟まっていた。
羊皮紙よりも、薄い紙。植物性の紙。アウレリアの王宮では、あまり使われない安価な紙。クロヴィスは、その紙をそっと取り出した。
紙の上に、絵が描かれていた。
鉛筆のような、黒い線で三人の人物が描かれていた。一人は、中年の男。髪が、黒い。鋭い、目。しかし口元は、柔らかい。その横に若い女性。二十歳くらい。髪は長く黒い。穏やかな目。そして女性の腕の中に、小さな幼児。三歳くらいの女の子。
クロヴィスの指が、絵の上で止まった。
絵の下に、祖父の字で短く書かれていた。
「我が、息子アリスとその妻そして孫のエルマ。──我が、家族」
クロヴィスの息が、止まった。
アリス。父の名前。クロヴィスが、生まれる前に亡くなった父。母が、アリスの話をするのは誕生日の夜だけだった。
エルマ。母の名前。しかし絵の中の三歳の幼児が、エルマ。──祖父から、見た孫娘。
クロヴィスは長く絵を見つめた。
(──祖父様。あなたは、母を幼い頃から知っていた)
当たり前のことだった。祖父は、祖父だから母のことを知っている。しかしクロヴィスは、今日まで祖父をただの「祖父」としか、認識していなかった。絵の中の祖父の鋭い目。若い、父の少し困惑したような笑顔。幼い、母の曇りない笑顔。三人の家族。クロヴィスが、生まれる十年以上前の家族。
クロヴィスは、絵の右下を見た。
日付が、書かれていた。
「春芽月、三十日目。孫、三歳の誕生日の日に」
三十年前。クロヴィスが、生まれる十四年前。絵を描いたのは、祖父本人だった。孫娘の三歳の誕生日の日に、家族の似顔絵を描いた。
クロヴィスは、その場面を想像した。
祖父の書斎。紙と、鉛筆。三歳の孫娘を、膝の上に座らせて。父と、母が横で笑っていた。祖父が、絵を描き終えて孫娘に見せた。孫娘は、絵を見て笑った。──そんな、場面があったのだろう。
クロヴィスの目に、涙が滲んだ。
マテウスは、何も言わなかった。ただ、深い青い目でクロヴィスを見つめていた。
─── ─── ───
クロヴィスは、絵を長く見つめ続けた。
祖父の顔を、初めて見た。
父の顔を、初めて見た。
母の幼い頃の顔を、初めて見た。
自分の血統の顔を、初めて見た。
そしてその絵の中に、自分はいなかった。クロヴィスはまだ生まれて、いなかった。祖父は、孫のクロヴィスの顔を知らずに十年前に亡くなった。父も、息子のクロヴィスの顔を知らずにクロヴィスが生まれる三ヶ月前に亡くなった。二人の男は、クロヴィスを知らない。しかしクロヴィスは、今二人の顔を知った。
(──祖父様、父様。──僕は、あなた方の血を継いでいる。あなた方は、僕を知らない。しかし僕は、今日あなた方を知りました)
クロヴィスは、絵をそっと台帳の元の場所に戻した。
そしてマテウスに尋ねた。
「院長。──祖父は、どのように亡くなったのですか」
マテウスは、少し沈黙した。窓の外で、王宮の鐘楼の鐘が九時を告げていた。朝の執務の始まりの鐘。しかし書記官室のこの奥まった棚のある、部屋には誰も来なかった。
「ルクレティウスは」
マテウスは、ゆっくりと言った。
「心臓の病で亡くなりました。十年前の冬の夜、でした。──しかしその病は五年前から始まっていました」
「五年前」
「ルクレティウスが五十五歳の時。──その頃、彼は重い秘密を一人で背負っていました。その影が心臓を少しずつ蝕みました」
クロヴィスは、マテウスを見つめた。
「院長。──祖父は、何の秘密を背負っていたのですか」
マテウスは、深い青い目でクロヴィスを見つめ返した。長く沈黙した。そして静かに答えた。
「クロヴィス。──その答えを、君に告げるのは今日ではありません。君が、裏の冥書庫の最深部で祖父の手稿を自分の手で開く日に答えは君の前に現れます」
─── ─── ───
クロヴィスは、台帳をさらに捲った。
中盤の頁。書記官室の同僚の名簿が、並んでいた。十名の書記官の名前。当時の二十年前の王宮書記官室の人員。
クロヴィスは、名前を一つずつ読んだ。
ルクレティウス・モク(書記官長)。クラウス・ベルナ(副書記官長)。ハインリヒ・ザイス。マルセル・トレフ。──そしてその中に、一つの名前があった。
「フェリクス・クルビット」
クロヴィスの目が、その名前で止まった。
フェリクス。──カイル・クルビットの父。
クロヴィスは、稜が以前カイルと対話した場面を思い出した。カイルが、稜に自分の父の急死の記憶を語った夜。父フェリクスはある、選択をした。家の没落を、恐れてある書類を書き換えた可能性があった。そしてその罪の負担で、急死した。
クロヴィスは、名簿を長く見つめた。
(──祖父と、カイル殿の父は同じ書記官室で働いていた同僚だった)
二人は、どのような関係だったのか。祖父は、カイル殿の父の何かを知っていたのか。
クロヴィスは、マテウスを見た。
「院長。──祖父と、フェリクス・クルビット殿は親しかったのですか」
マテウスは一度頷いた。
「最も親しい同僚でした。二十年、同じ書記官室で机を並べて仕事をしました。互いの家族の誕生日に贈り物を交換するほど親しかった」
「親しかった……」
「ルクレティウスはフェリクス殿の息子のカイル殿の誕生時に彼を自分の孫のように可愛がりました。──カイル殿は、あなたより十三歳年上です。今二十九歳。あなたが生まれた頃カイル殿は十三歳。──祖父の家に、よく遊びに来ていました」
クロヴィスは、息を呑んだ。
(──カイル殿は、僕の祖父を知っている。僕は、知らなかった祖父をカイル殿は生前知っていた)
マテウスは続けた。
「フェリクス殿が二十年前家のある選択で急死された後。ルクレティウスは、自分の責任を深く感じていました。──『俺がもっと早くフェリクスの迷いに気づいていたら彼を止められたかもしれない』と」
クロヴィスの心臓が、一度強く打った。
(──祖父の五十五歳の変化は、もしかしたらこのフェリクス殿の死が関係しているのかもしれない)
しかしクロヴィスは、その推測を口に出さなかった。マテウスは、今日は答えを告げない。答えは、裏の冥書庫の最深部の祖父の手稿にある。
─── ─── ───
クロヴィスは、台帳を閉じた。
革の表紙の祖父の名前を、もう一度指先で撫でた。
「──ルクレティウス・モク」
声に出して、呼んでみた。
十六年の人生で、初めて祖父の名前を声に出した。
声が、書記官室の古い石壁に静かに反響した。
マテウスは、何も言わなかった。ただ、クロヴィスのその声を深い青い目で受け止めていた。
窓の外で、朝の光が少しずつ強くなっていた。春の穏やかな光。しかしクロヴィスの心の中では、十六年分の何か重いものが静かに動き始めていた。血の重み。三代の沈黙の重み。祖父が、背負い母が引き継ぎそして今自分に渡される何か。
クロヴィスは、立ち上がった。
マテウスに、深く一礼した。
「院長。──今日祖父を見せてくださって、ありがとうございます」
マテウスは静かに頷いた。
「クロヴィス。──明日裏の冥書庫の表の扉は、再び君のために開きます。そしてその奥の最深部の扉は、君の覚悟の深さによって開きます」
クロヴィスはもう一度一礼した。
書記官室を、出た。
廊下を、歩いた。朝の光が、斜めに石の床を照らしていた。
クロヴィスは、窓辺で一度立ち止まった。窓の外に、王宮の庭が広がっていた。春の花が、少しずつ開き始めていた。忘れな草の淡い青。スミレの濃い紫。タンポポの明るい黄色。クロヴィスの目に、その花々が初めて色として深く映った。
胸の中で、祖父の顔をもう一度思い浮かべた。絵の中の鋭い目と、柔らかい口元。
「祖父様」
クロヴィスは小さく呟いた。
「──僕は、あなたに会いに行きます」
窓の外の春の光が、静かにクロヴィスの顔を照らした。
─── ─── ───
その夜。
クロヴィスは、自分の寮の部屋で一人机の前に座っていた。
寮の二階の北側の小さな、部屋。木の寝台、木の机木の椅子。机の上に、ランプが一つ。小さな、炎が揺れていた。
今日書記官室で、見た祖父の家族の絵がまだ胸の中に残っていた。三人の人物。祖父、若い父幼い母。クロヴィスは、その絵を目を閉じてもはっきりと思い出せた。鋭い目と、柔らかい口元の祖父。
クロヴィスは、机の抽斗から白い羊皮紙を一枚取り出した。羽ペンを、取った。インクに、浸した。
そしてゆっくりと書いた。
「祖父様、エルマの息子、クロヴィスより」
一行、書いた。
クロヴィスは、その一行を黙って見つめた。
(──祖父様。──僕は、あなたの孫です。あなたは、僕をご存じない。しかし僕は、今日あなたを知りました。──明日僕は、あなたに会いに行きます。裏の冥書庫の最深部で)
クロヴィスは、続けて書いた。
「明日僕はあなたの最深部の扉の前に立ちます。あなたが、五十五歳から十年心臓の重みで生きたその秘密の前に立ちます。何が書かれていても僕は受け入れます」
クロヴィスの手が、止まった。
「何が、書かれていても僕は、受け入れます」
その一行を書いた、瞬間クロヴィスは自分の中で何かが決まったことを感じた。三日間、悩み続けた覚悟が今夜形を取った。祖父の深い秘密。母さえ、知らない家族の秘密。クロヴィスが、想像もしない何か。──その全てを、自分は受け入れる。
クロヴィスは、書き続けた。
「祖父様。──あなたが生きた五十五歳から六十五歳までの十年。重い秘密を、背負って心臓を蝕まれた十年。その重みを僕が引き継ぎます。あなたの孫として」
クロヴィスは、ペンを置いた。
窓の外を見た。春芽月の末の月が、昨日より少し膨らんでいた。新月から、少し進んでいた。月光が、寮の庭の石畳に静かに落ちていた。
クロヴィスは、書いた一枚を机の上に静かに置いた。インクが、まだ湿っていた。それが、乾くのを待つ間クロヴィスは長く月を見つめた。
─── ─── ───
翌朝。
クロヴィスは、書記官室の自分の机の前に座っていた。普段の書類の整理の仕事を始めた。手はいつもと、同じ動き。しかし心は、別の場所にあった。
午前、九時半。
マテウス院長が、書記官室の扉をノックした。
クロヴィスは、立ち上がった。マテウスを見た。マテウスは、深い青い目でクロヴィスを見つめた。そして静かに告げた。
「クロヴィス。──稜殿が、お待ちです。冥書庫の表の入り口で」
クロヴィスは深く頷いた。
書記官室を、出た。マテウスと、共に廊下を歩いた。地下への階段。冥書庫の表の書架の広間。そこに、稜が立っていた。
稜は、クロヴィスを見た。微かに、笑った。そしてローブの懐から、一つの小さな銀の鍵を取り出した。複雑な、形の鍵。三つの突起。十字の切れ込み。最深部の扉の鍵。
稜は、その鍵を両手でクロヴィスに差し出した。
「クロヴィス」
稜の声は、静かだった。
「──お前の覚悟を信じる」
クロヴィスは、両手で鍵を受け取った。指先に、銀の冷たい感触。そして五十年の重荷。
「師匠。──ありがとうございます」
マテウスが頷いた。
「クロヴィス。──行きましょう。最深部の扉の前へ」
三人は、表の扉を開けた。長い、通路を歩いた。最深部の部屋に、着いた。
黒い、樫の扉。金色のトルメアス時代の文字。三日前、開かなかった扉。
クロヴィスは、扉の前に立った。
深く息を、吸った。そして静かに吐いた。
胸の中で、祖父の似顔絵を思い浮かべた。鋭い目と、柔らかい口元の祖父。
(──祖父様。──孫のクロヴィスです。──会いに来ました)
クロヴィスは、銀の鍵を扉の鍵穴に差し込んだ。
鍵が、ぴたりと合った。
クロヴィスは、ゆっくりと回した。
カチリ、という小さな音がした。
扉が、わずかに開いた。
千年の扉が、ようやく開いた。
しかしクロヴィスはまだ扉を押し開けなかった。隙間から、漏れる暗闇をじっと見つめた。中の空気は、重かった。古い、紙の匂いが流れ出てきた。十年、いや六十五年誰も開けていなかった空間の空気。
稜と、マテウスは扉の後ろで静かに立っていた。クロヴィスを、急がせなかった。
クロヴィスは深く息を、吸った。
そして両手で、扉を押した。
扉が、ゆっくりと開いていった。
第二章開始です。
クロヴィスが祖父の家族の絵を見る場面、自分でも書いていて胸が詰まりました。
若い父アリス、幼い母エルマ、そして祖父ルクレティウス。
クロヴィスがまだ会ったことのない、家族の若い顔。
次回はアルデス公との旅の回です。少し息を抜く話になります。




