カスパル、戦時体制を組むそして机の整理
カスパルは執務室の机の、最も下の抽斗をゆっくりと引いた。
春芽月の末の朝、午前八時。契約更新日から一週間と二日が過ぎていた。王宮の宰相執務室の窓の外で、鐘の坂の朝の鐘が八時を告げていた。カスパル・グラドール、七十二歳。四十年間、アウレリア王国の宰相としてこの部屋の同じ楢の机の前に座り続けてきた男。
カスパルは抽斗を引き出して、机の横の床に静かに置いた。抽斗の中身が朝の光の下に現れた。
四十年分の小さなものたち。
古い羊皮紙の束。いくつかの蝋で封をした小さな筒。銀の小さなブローチ。そして一冊の分厚い革の手帳。その他、名前の分からない小さなものがいくつか。
カスパルの目に、深い感慨が宿った。
──四十年。──若い頃、三十二歳でこの執務室に入った日から七十二歳の今日まで。──椅子の革は何度も張り替えた。机の上の傷も、四十年で数百になっていた。しかし抽斗の中の四十年分の記録は、ほとんど触れずに積み重なってきた。
(──そろそろ、整理する時が来た)
カスパルはひとつずつ、手に取った。
─── ─── ───
最初に、カスパルが手に取ったのは一枚の古い羊皮紙だった。
折り畳まれた羊皮紙。開くと、王家の赤い封蝋の痕跡が紙の上に残っていた。四十年前のものだった。若いカスパル、三十二歳の時先代のミケランジュ王から受け取った宰相任命の辞令書。
「──カスパル・グラドールを、アウレリア王国宰相に任ずる。時、春芽月初日」
四十年前の春の朝。
若いカスパルが王宮の大広間で、ミケランジュ王の前に跪いていた。王から、この辞令書を受け取った瞬間の感覚が蘇った。若い手が震えた。跪いた膝が、石の床の冷たさを感じた。王の声が低かった。
「カスパル。──余の最後の中継ぎを、務めてくれ」
ミケランジュ王はその三年後に亡くなった。病で。
(──四十年前。──俺は三十二歳だった)
カスパルは辞令書を静かに机の上に置いた。
次に、手に取ったのは古い酒瓶のラベル。小さな、薄い紙のラベル。瓶は既にない。ラベルだけが、残っていた。
二十五年前。独立戦争の直前の夜。カスパルは、四十七歳。ヴィルフレッド王はまだ王太子。二十八歳。カスパルは、ヴィルフレッド王太子の私室で二人だけであるヴェロニアの赤ワインを飲んだ。
独立戦争は、二ヶ月後に始まった。ヴィルフレッド王太子の指揮の下、父ミケランジュ王の残した中継ぎの最後の設計に従って。カスパルは、その戦争の宰相としての指揮を担った。戦争は、三年続いた。アウレリア王国は、勝った。しかし霧峰の古戦場の五百人の死者が、残った。
カスパルは、ラベルを静かに机の上に置いた。
三番目に、手に取ったのは一束の古い草稿。
十五年前のものだった。議会制度の整備の失敗の後、カスパルが書いた反省文の草稿。結局この反省文は、公的には発表されなかった。カスパルの私的な、整理として抽斗の中に残されていた。草稿の字は、カスパルの丁寧な宰相の字だった。しかし所々、インクの染みで字が滲んでいた。涙、ではなく苦悩の汗の跡だったかもしれない。
「──議会の議員たちの利害を私は軽んじていた。構造だけを見て、人を見なかった。──我が最大の過ち」
カスパルは、草稿の最初の一行を指先で撫でた。
四番目は、小さな銀のブローチだった。
五年前、レオン王の即位の夜。まだ若い、二十八歳のレオン王がカスパルにこのブローチを自分で手渡した。
「カスパル宰相。──私の即位はあなたの四十年の中継ぎの成果です。このブローチは、父王ヴィルフレッドの形見です。父王は独立戦争の夜このブローチを胸に付けていました。──あなたに、継いでいただきたい」
カスパルは、五年間このブローチを毎日胸に付けていた。公式の場でも、私的な場でも。しかし最近の半年、胸のポケットにしまっていた。もう若いヴァルドに、託す時期が来ていた。
カスパルは、ブローチを静かに机の上に置いた。
─── ─── ───
最後に、手に取ったのは一枚の比較的新しい羊皮紙だった。
先月稜が書いた、「第二の草案」の第一稿の写し。対ハーゲン帝国との契約更新日に向けた、草案の最初の版。後に、何度も書き直され完成版が契約更新日の署名の場で使われた。しかし第一稿の写しは、カスパルが密かに自分の抽斗に残していた。
稜の筆跡が、そこにあった。
日本語の混じった、アウレリア語。最初の頃、稜のアウレリア語はまだ少しぎこちなかった。しかし草案の構造は、明晰だった。千年の属国条約を、対等な二国間条約に移行させる三段階の設計。
カスパルは、その第一稿を長く見つめた。
(──稜殿と、出会って一年半。あの方が、書いた最初の骨格。──この一枚が、千年の属国の終わりをもたらした)
カスパルは深く息を、吐いた。
─── ─── ───
扉が、ノックされた。
「カスパル宰相。──ヴァルドです」
カスパルは、顔を上げた。
「──入れ」
扉が、開いた。ヴァルド副宰相、四十五歳。カスパルの十年前からの後継者候補。中背、茶色の髪を短く刈り込んでいた。目は穏やかしかし鋭い。契約更新日の翌週から、カスパルはヴァルドへの引き継ぎを前倒しで進めていた。
ヴァルドは、抽斗の中身を机の上に広げているカスパルを見た。そして静かに深く一礼した。
「宰相。──整理を、されているのですね」
カスパルは、微かに笑った。
「ヴァルド。──よく、来た。お前に託すものが、ある」
カスパルは、机の横の小さな木箱を指さした。新しい、小さな木箱。中は、空だった。
「この箱に、今机の上の全てを入れる。──そしてお前に渡す」
ヴァルドの目が、少し驚いた。
「宰相、──これは」
「四十年分の俺の抽斗の中身だ。辞令書、酒瓶のラベル反省文の草稿王からいただいたブローチそして稜殿の第一稿」
カスパルは、一つ一つヴァルドに見せた。
「俺は、これらを四十年この抽斗に残してきた。──しかしこれらは、過去のものだ。お前の四十年はまだ始まったばかりだ」
カスパルは、ヴァルドを見た。
「この抽斗の中は、お前がこれからお前の四十年で満たして、くれ」
ヴァルドは長く沈黙した。
そして深く一礼した。
「──宰相。承知、いたしました」
カスパルは、一つ一つのものを新しい木箱に静かに入れた。辞令書、ラベル草稿ブローチ第一稿。五つの小さな、ものたち。
木箱は静かに埋まった。
カスパルは、木箱に蓋をした。そしてヴァルドに、両手で差し出した。
「ヴァルド。──これをお前の家に持って帰れ。そして時々開いて、見ろ。俺の四十年がそこにある」
ヴァルドは、両手で木箱を受け取った。深く頭を、下げた。
─── ─── ───
午前十時。
カスパルの執務室に、四人が集まった。
カスパル、ヴァルドそしてマテウス院長アルデス公。四人の中で、最も若いのはアルデス公三十八歳。最も、年長はマテウス院長七十歳。カスパルが、七十二歳。ヴァルドが、四十五歳。
四人は、机を囲んで座った。
カスパルは、机の上に一枚の羊皮紙を広げた。白紙、だった。
「今日から、我々は戦時体制の骨格を、組む」
カスパルの声は、低かった。しかし張りが、あった。
「契約更新日の一週間前稜殿から私に告げられた。『カスパル殿。──契約更新日の後、次の戦が始まる。その指揮はあなたにお願いしたい』。──私は、その時稜殿にこう答えた。『稜殿。──四十年の中継ぎの最後の三年をあなたに攻めの時間にしていただいた。今度は、攻めの戦時の指揮を七十二歳の最後の仕事にさせてください』」
カスパルは、四人を見渡した。
「稜殿は、今日この会議に立ち会わない。──参謀として、指揮の中心には立たないとお決めになられた」
マテウスが、頷きを返した。
「稜殿のご判断は、正しい。──私も、五十年の沈黙の後稜殿の参謀の哲学に敬意を表する」
アルデス公が、静かに口を開いた。
「父王ヴィルフレッドが、生きていたら稜殿の参謀の哲学を誇りにされただろう。父王が、最後に稜殿に託されたのは正しかった」
ヴァルドも静かに頷いた。
「宰相。──指揮は、あなたに従います」
カスパルは、羽ペンを取った。白紙の羊皮紙の上に、四つの柱を書いた。
「戦時体制の四つの柱」
一、情報網の再構築(ロッテブランマテウス院長の古い諜報の繋がり)。
二、王都の警備の強化(セヴィン警備隊の再編)。
三、対ハーゲン帝国政治の外交強化(セレネ対帝国草案の実装)。
四、冥書庫の裏の最深部の調査(クロヴィス祖父の手稿)。
カスパルの字は、四十年宰相として書き続けてきた字だった。一文字ずつ、丁寧で落ち着いていた。
「四つの柱は、稜殿が既に四人の弟子にそれぞれ割り振った。我々、四人はその四つの柱を後ろから支える」
カスパルは、マテウスを見た。
「マテウス殿。──情報網の再構築について、ロッテ殿へのあなたの古い諜報の繋がりの提供お願いいたします」
マテウスは無言で頷いた。
「──既に始めている。ロッテ殿には、今朝名簿の最初の五名の連絡先を渡した」
「アルデス公、──王都の警備の強化について、セヴィンの下の警備隊への援助お願いいたします」
アルデス公は深く頷いた。
「──既に五家の私兵の一部を、アウリオンに召集する命令を出した。三日後、到着する」
「ヴァルド。──対帝国、外交強化についてセレネ殿下の草案の実装の支援お願いいたします」
ヴァルドは何度か頷いた。
「──殿下の第一層、第二層の施策を今日から実務で動かします」
カスパルは、最後に自分に向けて書いた。
「四つ目──冥書庫、裏の最深部の調査。──これはクロヴィスが一人で進める。我々は、触れない。稜殿のご指示だ」
四人は深く頷いた。
カスパルは、羊皮紙の下に一行だけ書き加えた。
「──我々、四人の老兵は若い四人の弟子の後ろに立つ」
四人は、その一行を長く見つめた。
アルデス公が、静かに笑った。
「カスパル殿。──あなたの字は、相変わらず美しい」
カスパルは、微かに笑った。
「アルデス公。──四十年、書き続けてきた。今更、下手には書けない」
四人の間に、静かな温かさが流れた。
─── ─── ───
会議は、続いた。
四つの柱のそれぞれについて、具体的な手順と時期の確認が行われた。カスパルは、一つ一つヴァルドにメモを取らせた。ヴァルドの羽ペンが、白紙の羊皮紙の上を走った。
正午。会議が、一段落した。
カスパルは、立ち上がった。執務室の奥の小さな、炉の前に行った。炉の上には古い湯沸かしの小さな鉄瓶が、置かれていた。カスパルは、鉄瓶を取り中のお湯を四つの陶器の小さな茶碗に注いだ。アウレリアのハーブティー。庭のミントと、野生のラベンダーで淹れた爽やかな茶。
カスパルは、一つずつ三人の前に置いた。最後に、自分の分を机の前に置いた。
ヴァルドが、カスパルを見た。
「宰相。──私が、淹れるべきではありませんでしたか」
カスパルは、微かに笑った。
「ヴァルド。──四十年、俺はこの執務室で茶を淹れてきた。お前に引き継ぐ前に、もう一度自分で淹れたかった」
ヴァルドは小さく頷いた。
四人は静かに茶を飲んだ。
マテウス院長が、茶の香りを嗅ぎながら呟いた。
「──カスパル殿の淹れる茶は、いつも少し強い」
アルデス公が笑った。
「院長──それは、四十年前、父王ミケランジュ王がカスパル宰相に淹れ方を教えた時の伝統です。ミケランジュ王は強い茶がお好きでした」
カスパルは小さく笑った。
「──アルデス公は、よくご存じだ。──父王から、お聞きになっていましたか」
アルデス公は頷いた。
「父王ヴィルフレッドが時々私に話していました。『カスパル宰相の茶は、少し強い。しかしその強さが、宰相の四十年を支えている』と」
カスパルは目を伏せた。
(──四代の王。──ミケランジュ王、アドラム王、ヴィルフレッド王、レオン王。──四十年で四人の王に仕えた。──四人の王が、それぞれこの執務室の茶を飲んだ。──四人とも、強い茶が好きだった)
カスパルの胸の中で、四十年の四代の王の顔が静かに重なった。
──ミケランジュ王。三十二歳のカスパルに「余の最後の中継ぎを務めてくれ」と告げた、最初の王。三年後に病で亡くなった。
──アドラム王。ミケランジュ王の後を継いだ、穏やかな王。十二年の在位の後、三十六年前に毒殺された。
──ヴィルフレッド王。独立戦争を勝ち抜き、二十年の遺族訪問を続けた、勝者の王。五年前に病で亡くなった。
──レオン王。五年前に二十八歳で即位し現在三十三歳の王。十六歳になったセレネの兄。今日の戦時体制を、稜と共に率いる王。
四十年で、四人の王。──そしてカスパルは、それぞれの王の前に同じ茶を出してきた。──若い日、三十二歳のカスパルが、ミケランジュ王の前に初めて茶を出した日。──四十年前の春の朝の、若いカスパルの手の震え。
(──父王ミケランジュよ。──四十年、お前の最後の中継ぎを、私は守り通した。──そして今、レオン王の代で、私は中継ぎから攻めの戦時体制へと移る。──これが、私の四十年の最終形だ)
カスパルは目を上げた。──三人の同志(マテウス、アルデス、ヴァルド)が、それぞれ茶を飲んでいた。
四人の間に、再び温かい静けさが流れた。
─── ─── ───
午後六時。
会議は、完全に終わった。四つの柱の具体的な、運営計画がまとまった。ヴァルドのメモは、五十枚の羊皮紙になった。それらは、ヴァルドが自分の執務室に持ち帰って整理することになった。
四人は、執務室を出た。
王宮の中央の庭に出た。春芽月の末の夕刻。空は、金色から紫に変わりつつあった。夕日が、四人の老いた肩に落ちていた。
四人は、庭の石畳の上で立ち止まった。
誰もすぐには、言葉を発しなかった。
夕方の王宮の庭。春の忘れな草が、淡い青で咲いていた。風が、少し冷たくなっていた。夕方の鐘の坂の六時の鐘が、遠く鳴った。
カスパルが、静かに呟いた。
「──さて、我らの最後の戦始めるとしようか」
マテウス院長が、静かに頷いた。
「──私の五十年の沈黙の続きを、共に」
アルデス公が頷いた。
「──父王の独立戦争の続きを、共に」
ヴァルドも頷いた。
「──宰相の四十年の中継ぎの続きを、共に」
四人は、それぞれ違う立場で違う重みを持ちながら同じ方向を向いていた。四十年、五十年二十年十年。四人の老兵の背負ってきた、歴史が夕日の下で一つの線になった。
カスパルは、夕日の沈む西の空を見上げた。
(──俺の四十年の中継ぎは、今日から攻めの戦時体制に変わる。──最後の三年、あるいは五年。七十二歳の老兵の最後の仕事)
四人は深く頷き合った。そしてそれぞれの方向に、別れていった。カスパルは、執務室に戻った。マテウス院長は、修道院に戻った。アルデス公は、邸宅に戻った。ヴァルドは、自分の執務室に戻った。
─── ─── ───
稜は、書斎の窓辺から四人の別れを見ていた。
一週間前、契約更新日の夜明け前から、新しい戦は始まった。神崎の暗殺未遂の密書。マテウスの五十年の沈黙の告白。セレネの対帝国、外交草案。ロッテの祖母の直感力。クロヴィスの祖父の手稿の存在。ブランの刺客レオナルドの救出。そして今日のカスパル、マテウスアルデスヴァルドの戦時体制の骨格の完成。
一週間で、次の戦の最初の土台が築かれた。
稜は、窓の外の夕日を見つめた。
(──長い、戦いになる。しかし土台は、できた。──あとは、一歩ずつ進むだけだ)
稜は、窓を閉めた。書斎の机の前に戻った。
机の上には昨日ブランが地下牢から戻ってきて報告した、レオナルドの情報のメモ。そしてセレネの外交草案の写し。クロヴィスの裏の冥書庫の最深部の扉のスケッチ。ロッテの情報網、最初の名簿。四人の弟子の一週間の成果が、机の上に重なっていた。
稜は、革の手帳を開いた。
最初の頁の裏に、セレネの覚悟の一枚が挟まれていた。「私は、道具ではありません。私自身の意志で、立ちます」。その一行を、もう一度読んだ。
稜は、手帳を閉じた。
そして窓の外の夕日を、もう一度見た。アウレリア王国は、公式には平和だった。千年の属国条約は、終わり対等な二国間条約に移行した。レオン王は、若い王として国を統治していた。民は、今自分たちの未来を信じ始めていた。
しかし実質的には、今日からアウレリア王国は千年の闇との最終戦争に入った。
稜は、灯火に火を入れた。夕刻の書斎の壁に、橙色の炎が揺れた。
稜は、椅子に座り直した。机の上の四人の弟子の成果を、もう一度整理し始めた。明日の計画の骨格。
春の夜が、静かに始まろうとしていた。
アウリオンの王宮の灯火が、一つずつ点されていく光景が窓の外に見えた。
──しかし稜は、机の上に残された一枚の密書を、ふと手に取った。
夕方、北街道から届いたばかりの密書。アルデス公の側近からの報告。「アルデス公夫人フィオナ様、病状急速に悪化。残された時間、おそらく一ヶ月」。
稜の手が一瞬、止まった。
(──フィオナ殿。──最期の願いを果たさせる時が、近い)
稜は密書を、革の手帳の最初の頁の裏に挟んだ。──セレネの覚悟の紙の隣に。──二つの紙が、革の手帳の中で並んだ。──一つは始まりの紙。──もう一つは終わりの紙。
夕陽が完全に沈んだ。アウリオンの王宮の最初の星が、空に現れていた。
第一章、ここで閉じます。
カスパルの四十年分の抽斗の整理、書きながら何度も手が止まりました。
辞令書、ラベル、反省文の草稿、銀のブローチ。一つ一つに四十年の時間が詰まっている。
小さな木箱に収まる人生、というイメージが書きたくて、この場面を温めていました。
次回から第二章。クロヴィスが祖父の名前と向き合います。




