ブラン、刺客との夜
王宮の地下牢への階段は、湿っていた。
ブランは一人で、その階段をゆっくりと降りていった。剣は腰になかった。代わりに右肩には、小さな木の椅子を一脚担いでいた。左手には古い革袋。石の階段の濡れた感触が、ブーツの底から伝わってきた。階段の両脇の壁に、蝋燭が点されていた。しかし蝋燭の数は少なかった。地下牢は王宮の最も深い場所。光が最も弱い場所。
刺客生け捕りから三日が経っていた。
ブランは帝都から、生け捕りにした刺客をアウリオンに護送してきた。移送の三日三晩、ブランは自分の馬のすぐ横に縛った馬を繋いで進んだ。縛った馬の上に、鎖で繋がれた一人の若い男。レオナルド。二十歳のヴィスカルト皇太子家、私設警備隊の刺客。
三日間の護送の最初の夜、レオナルドは縄を解こうとした。──ブランがそれに気付いた瞬間、レオナルドの右手の親指の関節を片手で押さえ、わずかに圧をかけた。──激しい痛み。レオナルドは声を上げそうになった。──しかしブランは、骨を折らなかった。痛みだけ。「動くな」。低い一言。──レオナルドはそれ以来、抵抗を諦めた。
二日目の夜、レオナルドは食事を拒んだ。──ブランは強制しなかった。ただ、夜の松明の光の中でレオナルドの目を一度だけ見た。──「お前が食わない選択を、俺は尊重する」。──ブランの目に、敵意ではない何かが宿っていた。レオナルドは、その目を理解できなかった。
三日目の夜、アウリオンに着いた。──ブランはレオナルドを、王宮の地下牢の最も奥の部屋に収監した。そして稜に短い報告をした。稜は静かに頷いた。そしてブランに一つだけ告げた。
「──ブラン。明日の夜、お前が一人であの男と話をしろ。剣は持つな」
ブランは一瞬、稜を見つめた。──「剣は持つな」。──傭兵としての十年、ブランは敵の前で剣を手放したことが一度もなかった。──剣を手放すことは、死を覚悟することと同義。──しかし稜は、その死を委ねていた。
ブランは深く頷いた。
(──稜殿は、俺に何を委ねられたのか)
そして今、ブランは剣を持たずに地下牢の階段を降りていた。──十年の傭兵としての本能が、首の後ろで警報を鳴らしていた。──「剣を持たずに敵に近づくな」。──しかしブランは、その本能を意志で抑えていた。
ブランは階段を降りながら、十年前の傭兵時代の記憶を一つずつ思い出していた。
サンミール渓谷の夜。十二人の仲間の最期の顔。トーマス、十七歳。カスパル、二十二歳(王宮の宰相カスパルとは別の傭兵仲間の同名)。ニコ、十九歳。──一人ずつ名前と年齢を、心の中で唱える。
階段の最後の段を降りた。
地下牢の長い通路が、広がっていた。
─── ─── ───
通路は長かった。
左右の壁に、鉄格子の扉が十以上並んでいた。ほとんどの牢は空いていた。アウレリア王国の公式の罪人は、この王宮の地下牢には収監されない。町の別の牢獄に送られる。ここは王家と王宮が密かに扱いたい人物を、収監する場所だった。
通路の最奥の牢の前に、ブランは立ち止まった。
鉄格子の向こうに、一人の若い男がいた。
レオナルド。
壁に背を預けて、両手を鎖で繋がれていた。鎖は天井から垂れていた。レオナルドは両脚を投げ出していた。顔は蒼白だった。三日三晩の護送と、昨日からの地下牢の冷たい空気で肌の色がさらに抜けていた。──しかし目には憎しみの光がまだ残っていた。ブランを睨みつけた。
「──またお前か」
レオナルドの声は擦れていた。
「ふざけるな。お前は俺の敵だ。さっさと、俺を処刑しろ」
ブランは牢の鉄格子の扉の鍵を、自分の腰から取り出した。鍵を静かに差し込んだ。カチャリという音がした。扉を開けた。
──その瞬間。
レオナルドの右脚が、一瞬動いた。──鎖の許す範囲ぎりぎりで、足を引いた。蹴り上げの構え。──傭兵としてのブランの目は、それを瞬時に見抜いた。──両手を鎖で繋がれていても、両脚は自由。──若い二十歳の男の脚力は、十分に致命傷を与えられる。
ブランは、扉を開けた姿勢のまま、動かなかった。
そして低く告げた。
「──蹴るなら、蹴れ。──しかし蹴った瞬間、お前は永遠に駒のまま死ぬ」
レオナルドの脚が、止まった。
地下牢の蝋燭の炎が、一度だけ静かに揺れた。
十秒。──二十秒。──二人の男の沈黙が、地下牢の冷たい空気の中で長く続いた。
そしてレオナルドの脚が、ゆっくりと床に戻った。
ブランの首の後ろの警報が、初めて静かになった。
しかしブランは、剣を持っていなかった。
ブランは、担いできた木の椅子を牢の中に運び込んだ。牢の中には既に古い石の椅子が一脚、あった。罪人が、座るための椅子。ブランは、自分の担いできた椅子を石の椅子の向かい側に静かに置いた。二つの椅子が、向かい合った。
ブランは、石の椅子の方に立った。
「レオナルド」
ブランの声は、低かった。
「──座っても、いいか」
レオナルドの目が、一瞬大きくなった。
想像していた、尋問の光景とは違った。レオナルドは、拷問を覚悟していた。あるいは即座の処刑を。しかし眼前の男は、剣も持たずに椅子を担いで降りてきた。そして「座ってもいいか」と尋ねている。
レオナルドは、反応しなかった。
ブランは静かに石の椅子に座った。鎖の音が、レオナルドのわずかな動きで微かに響いた。ブランは、両手を膝の上に置いた。背筋を、伸ばした。レオナルドの目を、まっすぐ見た。
「──俺の名前は、ブラン・マレン・モクス。十年前まで、お前と同じく傭兵だった」
レオナルドは長く沈黙した。そして擦れた声で答えた。
「──知っている。お前の噂は、聞いた。サンミール渓谷のブラン」
ブランは深く頷いた。
─── ─── ───
ブランは、左手の革袋を開けた。
中から、三つのものを取り出した。
一つ、焼きたてではなかったが新鮮な麦のパン。半斤ほどの大きさ。
二つ、薄く切られたチーズ。五枚。
三つ、水の革袋。中身は、半分ほど入っていた。
ブランは、それらを二つの椅子の間の石の床に静かに置いた。そしてレオナルドの方に、押した。手が、レオナルドの手の届く範囲まで押し進めた。
「食え」
ブランは静かに告げた。
「──話は、食った後でいい」
レオナルドの目が、パンを見た。チーズを見た。水の革袋を見た。
三日間、レオナルドは護送の間ほとんど食事を取らなかった。自分で、拒んだ。食事を、受け取ることは敵への譲歩だった。昨日地下牢に、収監された後も牢の見張り兵が夕食を差し入れた。しかしレオナルドは、一口も手を付けなかった。
しかし三日三晩の飢えは、レオナルドの若い二十歳の身体を限界まで削っていた。
レオナルドの右手が、鎖の中で震えた。
長く沈黙した。
ブランは、何も言わなかった。ただ、静かに座って待った。
十数分の沈黙の後。
レオナルドの右手が、ゆっくりと動いた。鎖の許す範囲で、パンに手を伸ばした。指先で、パンに触れた。震える手で、パンを取った。そして一口、齧った。
麦の味が、口の中に広がった。
レオナルドの目から、一筋の涙が流れた。
レオナルドは、自分の涙に気づかなかった。二口目を、齧った。三口目。水の革袋を、取った。震える手で、口に運んだ。水を、飲んだ。
涙は、止まらなかった。
ブランは、何も言わなかった。
─── ─── ───
レオナルドは、食べながら静かに話し始めた。
最初、彼の声は誰にも向けられていなかった。ただ、食べながら自分自身に語りかけるようだった。しかし徐々にその声が、ブランに向かい始めた。
「──俺の父は、帝都の書記官だった」
レオナルドの声は、低かった。
「古い家柄ではない。平民から、努力で書記官職に上がった男だった。母は俺が三歳の時に病で死んだ。父が、俺を一人で育てた。書類の仕事の合間に父は俺に剣の基礎を教えた。父自身は、剣士ではなかったが若い頃短い期間警備隊で働いていたことがあった」
ブランは静かに聞いていた。
「父は五年前ヴィスカルト派の取引に巻き込まれた。詳細は、俺は今も完全には知らない。しかし父はある機密文書を守ろうとした。ヴィスカルト派が、何かを書類で隠蔽しようとしていた。父は書記官としてその書類の改竄を拒んだ」
レオナルドの声が、震えた。
「三ヶ月後父は『事故』で死んだ。帝都の路地で、酒に酔って階段から転落したと公式には報告された。しかし父は──酒を、ほとんど飲まなかった。そして事故の直前の夜父は俺に告げていた。『レオナルド。──もし、明日俺が戻らなかったらこの家の仏壇の裏を見ろ』」
レオナルドは、パンを置いた。
「父は戻らなかった。俺は、十五歳だった。仏壇の裏を見た。そこに父が隠していた一枚の紙があった。『ヴィスカルト派の私設警備隊の組織図』。父が、最後に書き残した機密文書の写しだった」
レオナルドの目が、ブランをまっすぐ見た。
「俺はその日から一つのことを決めた。ヴィスカルト派の組織に入る。内側に入って、いつか父を殺した敵を殺す。──復讐のために敵の組織に入るという選択だった」
「五年が、経った」
レオナルドの声が、擦れた。
「今俺は二十歳だ。五年、俺はヴィスカルト派の私設警備隊で訓練を受けた。そして三日前の夜──初めて、任務を受けた。標的はハーゲン帝国宰相神崎玲。──しかし任務に、失敗した。俺は生け捕りにされた」
レオナルドは深く息を、吐いた。
「俺は五年かけて気づいた。──俺は既に父を殺した、組織の一員だ。父の敵を殺すために入った組織で俺は既に父と同じ立場の誰かを殺そうとしていた。神崎宰相は、俺が殺そうとしたその夜まで顔も知らなかった。──父と同じだ。父も、『何か組織の都合』で殺された」
レオナルドの声が、揺れた。
「俺は──父を殺した、組織の一員だ。──俺は父の敵だ」
レオナルドの涙が、また流れた。最初の一筋の涙とは、違うもっと深い場所からの涙だった。
─── ─── ───
ブランは長く沈黙した。
地下牢の蝋燭の炎が、静かに揺れた。
そしてブランは静かに口を開いた。
「レオナルド。──俺の話を聞け」
レオナルドは、涙を拭わずにブランを見た。
「俺は十八歳で父を失った。病死、だった。アウレリア王国の小さな町の外れの農家の息子だった。父は、三十年畑を耕した農民だった。母は俺が十二歳の時に先に死んでいた」
ブランは、自分の両手を膝の上で静かに組んだ。
「父が死んだ翌月俺は家を出た。一人息子だったが、畑を継ぐ気にはなれなかった。俺は傭兵団に入った。──どこの傭兵団でもよかった。食える、金をくれる場所ならどこでも」
「最初の二年はただの荒くれ者だった。剣を、振る。金を受け取る。酒を、飲む。女を買う。その繰り返し」
ブランの声が、低くなった。
「二十歳の時サンミール渓谷の戦闘に参加した。サルマティア北部、五つの部族の内戦。俺たちの傭兵団はある部族の側に雇われた。十二人の仲間と、俺。渓谷の夜の戦闘で──俺以外の十一人が、死んだ」
ブランは、目を閉じた。十年前の夜の光景が、瞼の裏に蘇った。冷たい、山の風。燃える、松明。剣の打ち合う音。そして仲間たちの最期の声。
「──その夜仲間の一人トーマスという十七歳の若い男がいた。俺より、三つ年下だった。トーマスは矢で胸を射抜かれた。俺が、駆け寄った時もう死にかけていた。トーマスは俺の手を握りながらこう言った」
ブランは深く息を、吐いた。
「『──ブラン。俺たちは、何のために戦っていたんだ』」
レオナルドの目が、大きくなった。
「トーマスは、その一言で、死んだ」
ブランの声が、微かに震えた。
「俺は、その問いの答えを探した。十年、探した」
─── ─── ───
ブランは続けた。
「去年俺は帝都の傭兵管理文書庫のある古い書類に辿り着いた。アウレリア、サルマティアヴェロニアオスタールハーゲン五カ国の傭兵団の雇用記録。──サンミール渓谷の戦闘の真相がそこに書かれていた」
ブランの声は、低かった。
「俺たちの傭兵団はサルマティアの部族の側に雇われていた。しかし相手の敵の部族も、別の傭兵団を雇っていた。──そして両方の傭兵団を雇っていたのは同じ一つの組織だった。ハーゲン帝国のある、有力貴族の家だった」
「その貴族はサルマティアの内戦を激化させるために両側に傭兵を送り込んでいた。サルマティアが、内戦で弱体化すれば帝国の北方への進出が容易になる。──俺たち十二人はそのための駒だった。敵の十二人も、同じ駒だった。サンミール渓谷の夜駒同士が殺し合った」
レオナルドの顔が、青白くなった。
「──俺は、十年駒だった」
ブランは、レオナルドを見た。
「お前は、今駒だ」
レオナルドの目が、揺れた。
「駒には、二つの道が、ある」
ブランの声は、静かだった。
「──駒のまま、死ぬか。駒の外に出て、別の何かになるか」
ブランは、レオナルドの目をまっすぐ見た。
「俺は去年後者を選んだ。アウレリア王国の参謀、高木稜殿と出会った。俺は稜殿の弟子になった。十年の傭兵経験は、捨てなかった。それを『駒ではない別の何か』のために使うことを選んだ」
ブランは続けた。
「レオナルド。──俺は、お前に同じ選択肢を提示する」
─── ─── ───
レオナルドは長く沈黙した。
鎖が、彼の動きで微かな音を立てた。
深夜の地下牢。蝋燭の炎が、また揺れた。
レオナルドは、ブランを見つめた。
「──ブラン殿」
レオナルドの声は、震えていた。
「もし、俺があなたの誘いを受けたら──俺は、父の復讐を諦めることになるのか」
ブランは、首を横に振った。
「いや。──復讐を、別の形に変える」
「別の形……」
「お前の父は、五年前機密文書を守ろうとして死んだ。──その機密文書は、今どこにある」
レオナルドの目が、広がった。
「──父が仏壇の裏に隠した一枚の組織図。それは、俺が五年前に持ち出した。今俺の帝都の隠れ家に隠してある」
「それだ」
ブランは静かに言った。
「お前の父の最後の仕事はヴィスカルト派の組織図を守ることだった。その仕事を、俺たちが継ぐ。俺たちが組織を内側から止める。──お前の父の魂に、『あなたの最後の仕事は無駄ではなかった』と伝える復讐だ」
レオナルドの目が、光った。
涙とは、違う光だった。
長く沈黙した。鎖の音さえ、しなかった。レオナルドは、自分の五年間の復讐の意味を胸の中で再構築していた。敵を、殺すことが復讐ではなくなる。敵の組織を、内側から止めることが復讐になる。父の最後の仕事を、継ぐことが復讐になる。
レオナルドは深く息を、吐いた。
「──ブラン殿。俺は、あなたの預かりになります」
レオナルドの声は、震えながらも落ち着いていた。
「しかし条件が一つあります。父の機密文書の在り処を、調べさせてください。──俺は五年前その一枚を持ち出しました。しかし父は、仏壇の裏の一枚だけではなかったかもしれません。父の隠れ家が他にもあったかもしれない。──その全てを、調べさせてください」
ブランはわずかに頷いた。
「その条件受けた。──お前は、明日から俺の情報提供者として王宮に保護する。安全は俺が保障する」
ブランは、右手を自分の革袋の中に入れた。中から、一本の小さな鍵を取り出した。鎖の鍵。
ブランは、立ち上がった。レオナルドの両手に、繋がれた鎖の錠前に鍵を差し込んだ。カチリ、という小さな音。鎖が、床にカチャリと落ちた。
レオナルドの両手が、自由になった。
レオナルドは、自由になった手首を静かに撫でた。手首には、三日間の鎖の赤い痕が残っていた。レオナルドは、その痕を長く見つめた。
そしてレオナルドは、ブランに深く頭を下げた。
「──父の魂が、僕をこの場所に導いたのかもしれません」
レオナルドの一人称が、変わった。「俺」から、「僕」に。
ブランは、静かにレオナルドの肩に手を置いた。
─── ─── ───
ブランは、レオナルドを支えながら地下牢を出た。
三日三晩の飢えと、疲労でレオナルドの脚はふらついていた。ブランは、レオナルドの肩を支えた。長い通路を、二人で歩いた。そして石造りの階段を、上り始めた。
階段の途中で、レオナルドが尋ねた。
「ブラン殿。──あなたは、なぜ俺を殺さなかったのですか」
ブランは、少し考えた。そして静かに答えた。
「──俺は、十年前ある夜人を一人殺した」
レオナルドは、驚いた。
「サンミール渓谷の最後の夜だ。俺は敵の部族の若い兵士と一対一になった。向こうも、俺と同じ二十歳くらい。俺は自分を守るために剣を抜いた。敵の胸を、突いた。敵は死んだ」
ブランの声が、低くなった。
「しかしその死んだ敵の懐から一枚の肖像画が落ちた。肖像画には妻と二人の幼い子どもが描かれていた。敵は妻と子どもがいた。家族が、いた。──俺は一人の家族を殺したことになる」
階段の途中で、ブランは一度立ち止まった。
「その夜から俺は『剣を抜かない選択』を探し始めた。十年、かかった。──今夜ようやくそれができた」
レオナルドは深く頷きを返した。
「──そうですか」
二人は、階段をまた上った。
地上に出た。
王宮の中庭。夜空に、春芽月の末の月が出ていた。新月に、近い細い月。しかし空気は、澄んでいた。春の夜の冷たい風。
ブランは、月を見上げた。
そして静かに呟いた。
「──トーマス」
レオナルドが、ブランを見た。
「俺は、今夜少しだけ、お前への答えを見つけた」
ブランの声は、風に溶けた。
トーマスの十年前の最期の問い。「俺たちは、何のために戦っていたんだ」。ブランは、十年答えを探した。今夜完全な、答えではなかった。しかし少しだけの答え、だった。──駒の外に出て、別の駒を駒から引き上げる。それが、駒だった人間のできる一つの答え。
月は、答えなかった。
ただ、細く静かに夜空に浮かんでいた。
─── ─── ───
深夜一時。
稜の書斎の扉を、ブランは静かにノックした。
「──師匠。ブランです」
中から、稜の静かな声が聞こえた。
「──入れ」
ブランは、扉を開けた。稜は、書斎の机の前で古い資料を広げていた。灯火の下で、稜の顔が少し疲れて見えた。しかし目は、鋭かった。稜は、ブランの顔を見た。そして微かに笑った。
「ブラン」
稜は静かに告げた。
「──仕事は、終わったか」
ブランは、扉を閉めた。そして稜の机の前に立った。深く一礼した。
「師匠」
ブランの声は、静かだった。
「──俺たちは、一人仲間を増やしました」
稜は、長くブランを見つめた。
そして静かに笑った。
「──それは、最高の仕事だ」
稜は、椅子から立ち上がった。ブランの前に立った。そしてブランの肩に、静かに手を置いた。
「ブラン。──お前の十年の傭兵経験が、今夜一人の若者を救った。──お前の十年は、今ようやく意味を得た」
ブランは小さく頷いた。
そして稜の目を、まっすぐ見た。
「師匠。──俺の十年は、──師匠と、出会うための準備の十年でした」
ブランの声は、短かった。しかし重かった。
稜は、長くブランを見つめた。そして何度か頷いた。言葉は、なかった。ただ、肩に置いた手を一度強く握った。そして離した。
書斎の窓の外で、春の夜の風が静かに流れていた。
稜は、ブランに短く告げた。
「──ブラン。今夜は、休め。明日レオナルドと共に帝都に戻る準備を始めよう。──新しい仲間の力を、帝都の情報網の再構築に使う」
ブランは深く一礼した。
そして静かに書斎を去った。
稜は一人、書斎の机の前に戻った。窓の外の細い月を見た。そして呟いた。
「──駒から、外れた二人目の男が、今夜生まれた」
書斎の灯火が、静かに揺れていた。
──しかし窓の外の闇の奥で、何かが動いていた。稜の参謀の勘が、それを感じた。──刺客は、レオナルド一人ではなかったはずだ。──駒から外したのは一人。──残りはまだ、闇の中にいる。
稜は窓辺に立ち、北の方角を長く見つめた。
(──玲。──お前の街でも、駒たちが動いているのか)
書斎の蝋燭の炎が、風もないのに一度、大きく揺れた。
ブランと、捕らえられた若い刺客の夜の対話。
書き始めから書き終わりまで、ずっと興奮していました。
特に「駒には、二つの道がある。駒のまま死ぬか、駒の外に出て、別の何かになるか」のセリフ。
これは第二部・第三部全体を貫くテーマでもあります。
ブランの十年の傭兵時代の真相、サンミール渓谷の十二人の仲間。
ここから少しずつ、ブランの過去が見えてきます。




