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クロヴィス、裏の冥書庫への扉

 クロヴィスはマテウス院長の後ろを歩いていた。

 王宮、地下冥書庫。午前十時。春芽月の末の朝の乾いた光は、ここまでは届かなかった。石造りの長い階段を下りていく。階段の両脇の壁に、一定の間隔で蝋燭が点されていた。小さな橙色の炎が、石の壁を淡く照らしていた。蝋の焼ける微かな匂い。石の湿った冷たさ。

 クロヴィスは一度も来たことがなかった。

 冥書庫の表の書架のある広間までは、何度か来ていた。そこでは年に数回、書記官室の古い書類が整理のために運ばれてきた。クロヴィスもその整理の手伝いで、表の書架を二度三度訪ねたことがあった。しかし今朝マテウスがクロヴィスに告げた場所は、表の書架ではなかった。

 「──クロヴィス。今朝私と一緒に来なさい。冥書庫の表のさらに奥まで」

 マテウスの朝の短い一言。

 クロヴィスはその一言の重さを予感していた。昨日の朝、稜がクロヴィスに告げた言葉。「お前の仕事は、裏の冥書庫の最深部を調べることだ。祖父ルクレティウスが遺した何かを見つける」。そして「マテウス院長が今朝、お前に新しい扉の鍵を渡しに来る」。

 しかし昨日の朝、マテウスはクロヴィスに鍵を渡しに来なかった。代わりにマテウスは稜の書斎を訪ねた。稜とマテウスの間で何かが話された。クロヴィスはその内容を知らなかった。そして今朝、マテウスが冥書庫の奥へクロヴィスを誘った。

 (──祖父。──祖父が、僕に関係している)

 クロヴィスは階段を下りながら、胸の中で繰り返していた。

            ─── ─── ───

 階段の最後の段を下りた。

 そこに広間が広がっていた。

 冥書庫、表の書架の最奥。石造りの広い部屋。天井は高かった。左右の壁に木の書架が並んでいた。書架の中は古い羊皮紙の束、革の表紙の分厚い台帳そして蝋で封印された小さな筒。筒の中には古い書簡が入っていた。全ての書架のすべての棚に、年代と種類の小さな札が添えられていた。

 広間の中央に、石造りの古い机。机の周りに四つの椅子。書記官が書類を広げて確認するための場所だった。

 そして広間の最奥の石壁。

 そこに一つの扉があった。

 クロヴィスは今まで気づかなかった。表の書架の整理で何度かここに来ていた。しかし最奥の石壁は、ただの石の壁に見えていた。扉の縁が石壁とほとんど同じ色に塗られていた。目立たないように設計された扉。

 マテウスがその扉の前で立ち止まった。

 クロヴィスもマテウスの半歩後ろで立ち止まった。

 扉は黒い鉄の扉だった。古い、しかし丁寧に手入れされた鉄。表面に一切の装飾はなかった。ただ中央に小さな鍵穴が一つ開いていた。鍵穴の周囲に、細い緑色の錆がわずかに浮いていた。

 マテウスは深い青い目で扉を見つめた。

 五十年、この扉を守ってきた男の目だった。

            ─── ─── ───

 「クロヴィス」

 マテウスが静かに口を開いた。

 「この扉の向こうが、──裏の冥書庫です」

 クロヴィスは息を吸った。

 マテウスは扉に手を添えた。指先で鉄の冷たい表面を、静かに撫でた。

 「表の冥書庫は王国の公式の記録を保管する場所です。王家の勅令、議会の議事録五家の家譜王国の公式の外交文書。──これらは誰もが手続きを経れば閲覧できます。私も書記官も稜殿も」

 「しかし裏の冥書庫は違います」

 マテウスの声は低くなった。

 「ここには公式には存在しない記録が保管されています。千年前のアドレアン王の直筆の遺書。六百五十年前のトルメアスの予言書の断片。四百年前のシビル女王の私的書簡。二百年前のアウレリア崩壊の真相に関する文書。そして──五十年前のある人物の暗殺に関する機密記録」

 クロヴィスはマテウスを見つめた。

 五十年前。マテウスが昨日、稜に告げた秘密情報部の時代。最後の任務。ルクレティウス・モクの兄の暗殺。その記録がこの扉の向こうにあった。

 「院長」

 クロヴィスの声は震えていた。

 「──この扉を開けるのは、院長だけなのですか」

 マテウスは、首を横に振った。

 「昨日までそうでした。五十年、私が一人で守ってきました。──しかし昨日私はこの扉の鍵を稜殿にお渡しいたしました」

 クロヴィスは目を大きく開いた。

 「稜殿に……」

 「稜殿は千年の歪みを止める参謀としてこの扉の向こうの記録を必要とされる方です。──そして稜殿は昨日、私にこうお尋ねになられました。『マテウス殿。──この扉の向こうの記録の一つにクロヴィスの祖父ルクレティウスが関係する記録はありますか』。私は答えました。『──あります』」

 マテウスはクロヴィスの目を見た。

 「クロヴィス。──あなたの祖父ルクレティウス・モクは、──この裏の冥書庫の最深部に手稿を一冊遺しています」

 クロヴィスの膝がわずかに震えた。

 「祖父が……手稿、を……」

            ─── ─── ───

 マテウスはローブの懐から、一つの古い銀の鍵を取り出した。

 鍵は小さかった。しかし重かった。鍵の把手には、アウレリア王家の金の鷲と銀の剣の紋章が小さく刻まれていた。その横にもう一つ小さな「M」の文字。マテウスの頭文字。

 しかしこれは、昨日マテウスが稜に渡した鍵ではなかった。別の鍵だった。

 「クロヴィス」

 マテウスは鍵をクロヴィスの前に差し出した。

 「この鍵は裏の冥書庫の表の扉の鍵です。今私が手に持っているのはこれです。──そして私が昨日、稜殿にお渡ししたのは裏の冥書庫の最深部の扉の鍵でした」

 「裏の冥書庫は二重構造になっています。表の扉は今目の前にあります。しかしその奥にもう一つ扉があります。最深部の扉。──そこにあなたの祖父の手稿が封じられています」

 クロヴィスの胸が強く打った。

 「──僕にその最深部の扉を開ける資格は、あるのですか」

 マテウスはクロヴィスを長く見つめた。深い青い目。五十年の沈黙を抱えた目。

 「クロヴィス。──あなたの祖父は遺言を残しました。『私の手稿は私の孫の代で初めて読まれる。しかし読まれる前に孫は、私の沈黙の意味を理解しなければならない。孫が理解する準備が整った時最深部の扉は開く』。これがルクレティウスの残した言葉です」

 「稜殿と私は昨日話し合いました。──あなたを最深部の扉の前までお連れする。しかし扉はすぐには開かない。あなた自身が祖父と向き合う覚悟を持った時、扉は開きます」

 マテウスは深呼吸した。

 「今日はまず表の扉を開けます。──裏の冥書庫、最深部の扉の前まであなたをお連れします。しかし最深部の扉は今日は開きません。私はあなたに扉の存在だけをお見せします」

 マテウスは銀の鍵を鍵穴に差し込んだ。

 鍵が静かに回った。

 カチリ、という小さな音がした。

 扉がわずかに開いた。

            ─── ─── ───

 扉の向こう側に細い通路が見えた。

 通路の両脇の壁に蝋燭が灯されていた。しかし表の書架の蝋燭よりも小さかった。光は弱く、青白く見えた。通路は奥に向かって、十五歩ほど続いていた。

 マテウスは先に通路に入った。クロヴィスも後を追った。

 通路を進んだ。

 左右の壁が石造りの狭い通路。天井も低かった。クロヴィスが両手を伸ばせば、左右の壁に指先が触れる狭さ。空気は表の書架よりも重かった。湿った石の冷たさ。そして古い紙の微かな黴の匂い。

 十五歩、進んだ。

 通路の突き当たりに、小さな部屋があった。

 部屋は狭かった。三メートル四方ほど。中央に古い石造りの机。机の上に一本の蝋燭が燭台に立っていた。しかし火は点されていなかった。

 部屋の左右の壁には木の書架が並んでいた。書架の中に、古い羊皮紙の束分厚い台帳蝋で封印された筒。表の書架のものよりも遥かに古かった。いくつかの書架は茶色く変色し、端がほろほろと崩れていた。

 しかしクロヴィスの目は、それらの書架ではなかった。

 部屋の最奥の壁。

 そこにまた、一つの扉があった。

 最深部の扉。

 クロヴィスは息を呑んだ。

 最深部の扉は表の扉とは違った。鉄ではなく古い黒い木でできていた。樫の木。しかし表面に何か金色の細い模様が刻まれていた。細かい線で描かれた模様。

 クロヴィスは扉に近づいた。模様をよく見た。

 模様は文字だった。

 しかしクロヴィスが知っている文字ではなかった。

 アウレリアの文字でも、ハーゲンの文字でもない。古い、何か別の文字。クロヴィスは冥書庫の古い記録で、一度似たような文字を見たことがあった。六百五十年前のトルメアスの時代の文字。

            ─── ─── ───

 「これはトルメアスの時代の文字です」

 マテウスが静かに告げた。

 「扉に刻まれている文字は、六百五十年前の哲学者トルメアスが使った古い学問の文字。現代では読める者はほとんどいません。私も全てを読むことはできません。しかし扉の中央の一行だけは読めます」

 マテウスは指先で、扉の中央の一行を指した。

 「この一行はこう書かれています。『──孫の準備が整った時、扉は自ら開く』」

 クロヴィスはその一行を長く見つめた。

 黒い樫の扉。金色の古い文字。

 扉の中央に鍵穴はあった。しかし普通の鍵穴ではなかった。鍵穴の形が異様だった。複雑な形。三つの突起。十字の切れ込み。クロヴィスはその鍵穴に合う鍵を見たことがなかった。

 「稜殿が昨日、私からお受け取りになられた鍵は──この鍵穴に合う鍵です」

 マテウスは続けた。

 「五十年前私がこの最深部の扉に初めて触れた時、扉は既に閉ざされていました。──その時扉の前に一人の若い書記官が立っていました。ルクレティウス・モク、──あなたの祖父です」

 クロヴィスは息を吞んだ。

 「ルクレティウスは私にこう告げました。『マテウス殿。──この扉の向こうには、私の手稿が封じられています。しかし今は開けません。いつか、私の孫の代で開かれることになっています』」

 「私は尋ねました。『ルクレティウス殿、──なぜあなたの代で開けないのか』。ルクレティウスは答えました。『私の代ではまだ早いです。世代を越えて初めて開くべき記録なのです』」

 「五十年この扉は閉ざされたままでした。──しかし昨日稜殿が千年の属国条約を終わらせる契約を結ばれました。そして今朝、私は稜殿と相談し──あなたの代で扉を開く時が来たと判断いたしました」

 マテウスはクロヴィスを見た。

 「クロヴィス。──扉を開けるのは今日ではありません。あなたが祖父と向き合う覚悟が整った時です。扉はあなた自身の内面の準備に反応します。稜殿が今、銀の鍵をお持ちです。その鍵が扉に触れる日は、あなたがお決めになります」

 クロヴィスは扉の前に立った。

 手を挙げた。しかし扉には触れなかった。指先が扉の十センチ手前で止まった。

 何か重い気配が、扉から流れていた。

 クロヴィスは長く、その前で立ち続けた。

            ─── ─── ───

 「院長」

 クロヴィスは静かに尋ねた。

 「祖父は、──どのような人だったのですか」

 マテウスは少し沈黙した。そして答え始めた。

 「ルクレティウスは寡黙な男でした。若い頃から書記官の仕事を、誰よりも丁寧にこなしました。しかし彼の真の才能は書記の速さではなく、──記録への深い敬意でした」

 「彼は書類を。──ただ整理するのではなく全ての書類の向こうに、その書類を書いた人の人生を見ていました。王家の勅令の向こうに王の苦悩を。議会の議事録の向こうに、議員たちの利害を。五家の家譜の向こうに各家の栄光と悲劇を」

 「彼は五十歳で王宮書記官長になりました。しかしその五年後、五十五歳の時──彼の人生は変わりました」

 マテウスはクロヴィスを見た。

 「何が変わったのかは、──扉の向こうの手稿に書かれています。私は詳細を知りません。ただ一つだけ知っています。──彼は五十五歳のある日から少しずつ病気がちになりました。心臓の病でした。十年後、六十五歳で亡くなりました。あなたが五歳の時です」

 クロヴィスは祖父の葬儀の日の、母の泣き顔をまた思い出した。あの日の母の悲しみの深さ。五歳のクロヴィスには理解できなかった深さ。しかし今なら、少し分かる。母は父と祖父を同時期に失っていた。そして祖父の死の真相を、母は今も完全には知らない。

 「僕の母は、──祖父の手稿の存在を知っているのですか」

 マテウスは首を横に振った。

 「エルマ殿──あなたのお母様は、ルクレティウスの手稿の存在をご存じありません。ルクレティウスは遺言の中で『手稿の存在は私の孫の代で初めて明かされる』と明記しました。娘には告げないと」

 クロヴィスは母の顔を思い出した。

 (──母は祖父の最も深い秘密を知らない。──僕が知ることになる)

 クロヴィスの胸が強く打った。

            ─── ─── ───

 マテウスはクロヴィスの肩に、静かに手を置いた。

 「クロヴィス。──急ぐ必要はありません。今日は扉の存在を知れば十分です。──帰りましょう」

 マテウスは先に通路を戻った。クロヴィスも後を追った。

 通路の途中で、クロヴィスは一度振り返った。

 最深部の扉が、奥に静かに立っていた。蝋燭の弱い青白い光の中で、黒い樫の扉の金色の文字が微かに光っていた。クロヴィスの中で、その光景が胸に焼き付いた。

 マテウスが表の扉を鍵で閉めた。

 二人は冥書庫の広間に戻った。そして石造りの階段を上った。

 地上に出た時、春の朝の光が王宮の石畳に金色に落ちていた。クロヴィスは思わず目を細めた。地下の青白い蝋燭の光から、春の強い朝の光への移行。

 マテウスはクロヴィスに告げた。

 「クロヴィス。──今夜よくお考えなさい。祖父と向き合うということが、どういうことなのか」

 クロヴィスは深く一礼した。

 「院長。──ありがとうございます」

 マテウスは静かに去った。

 クロヴィスは一人、王宮の庭に立った。

 春の光。忘れな草の淡い青。スミレの濃い紫。しかしクロヴィスの目には、それらの花の色がほとんど映らなかった。クロヴィスの目の奥には、最深部の扉の金色の文字がまだ残っていた。

            ─── ─── ───

 その夜。

 クロヴィスは自分の小さな寮の部屋で、一人机の前に座っていた。

 寮は王宮の敷地の一角にある、書記官たちの若手の宿舎。クロヴィスの部屋は二階の北側。質素な部屋。木の寝台、木の机木の椅子小さな書棚。窓の外は王宮の裏の小さな庭。

 机の上にはランプが一つ。小さな炎が揺れていた。

 クロヴィスは右手で羽ペンを握っていた。しかし書いていなかった。インク壺の前でペンが止まっていた。

 クロヴィスの胸の中で、今朝の扉の光景が繰り返し蘇っていた。

 黒い樫の扉。金色の古い文字。「──孫の準備が整った時、扉は自ら開く」。

 (──祖父。──あなたは僕に何を残されたのですか)

 クロヴィスは羽ペンを置いた。

 立ち上がって窓辺に立った。

 窓の外の王宮の庭の暗闇の向こうに、月が出ていた。春芽月の末の細い月。しかし昨夜より少し膨らんでいた。新月に近づいていた。

 クロヴィスは月を見上げた。

 (──僕は祖父を受け入れる覚悟があるのだろうか)

 それが今夜、クロヴィスの胸の中で静かに響いていた問いだった。

 祖父は五十五歳で何かが変わった。そして手稿を残した。孫の代で開かれることを前提に、手稿を書いた。──その手稿に何が書かれているのか。クロヴィスは知らない。しかし何かが重いことは分かる。

 もし手稿に、祖父の深い過ちや罪が書かれていたら。

 もし手稿に、母が知らない家族の秘密が書かれていたら。

 もし手稿に、クロヴィスが想像もしない何かが書かれていたら。

 ──その全てを、クロヴィスは受け入れなければならない。受け入れて、祖父を理解しなければならない。孫として。血を継ぐ者として。

 クロヴィスは月を見つめ続けた。

 (──祖父様。──あなたを受け入れる準備を、少しずつ始めます。──しかし今夜すぐには無理です。──少しずつ、僕はあなたに近づきます)

 クロヴィスは寝台に戻った。

 しかし眠れなかった。

 窓の外で、春の夜の風が細い月の下を静かに流れていた。遠くで夜の鳥の声が一度、聞こえた。そして消えた。

 クロヴィスは寝台の縁に座って、長く月を見つめた。

 そして小さく呟いた。

 「祖父様。──あなたは僕に何を残されたのですか」

 声は小さかった。しかし部屋の静けさの中で、はっきりと響いた。

 月は答えなかった。

 ──しかしその夜、クロヴィスはふと感じた。月の光の奥で、何か別のものが静かに彼を見ている気配。──祖父の手稿か、それともその奥の何か。──十六歳の少年は、自分がもう後戻りできない場所に立っていることを、初めて理解した。

 寝台の上で、クロヴィスは羊皮紙を握り締めたまま、夜明けまで眠れなかった。

書きたかったクロヴィスの場面、ようやく描けました。

裏の冥書庫の最深部の扉。黒い樫の扉に金色で刻まれた「孫の準備が整った時、扉は自ら開く」の一文。

銀の鍵を持っているのは稜なのに、扉を開けるのはクロヴィス自身の内面、というこの構造が書きたくて、ここまで来ました。

次回はブランです。

個人的に、第二部の中で一番好きな回かもしれません。

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