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ロッテの家、五人の食卓

 夕暮れのアウリオンの下町の細い路地を稜とロッテは並んで歩いていた。

 春芽月の末の夕刻、午後六時。空はまだ明るい、金色だった。しかし街並みの石造りの家々の影が、徐々に長く地面に落ちていた。路地の奥で、鍛冶屋の最後の金槌の音が響いていた。隣の家の窓から、料理の湯気とスープの匂いが流れ出ていた。玉ねぎの甘い香り。豚の脂の香ばしさ。

 ロッテは稜の半歩後ろを歩いていた。書記官の黒い服を脱いで、薄い茶色の普段着に着替えていた。髪は下ろしていた。王宮では常に後ろで結んでいた髪が、肩まで流れていた。

 「師匠」

 ロッテが静かに声をかけた。

 「ここで大丈夫です。──本当にありがとうございました。朝から情報網の再構築でずっとお忙しかったのに、王宮から家まで送ってくださって」

 稜はロッテの家の方向を見た。

 ロッテの家は路地の奥から三軒目。石造りの小さな二階建て。一階が父バルトの仕立ての工房。二階が家族の住まい。扉の前で小さな茶色の犬が、尻尾を振っていた。番犬のノル。八歳の雑種。

 「ロッテ」

 稜は立ち止まった。

 「気をつけて帰れ。明日の朝、また執務室で」

 稜は踵を返そうとした。

 その時、ロッテの家の扉が開いた。

            ─── ─── ───

 イリアが扉の向こうに立っていた。

 四十五歳。長い黒髪を後ろで束ねていた。三ヶ月前、徴用から帰還した時痩せていた体はこの一ヶ月で少しずつ元の健康な姿に戻っていた。エプロンの前で両手を拭きながら、イリアは稜を見た。

 「稜殿」

 イリアの声は温かかった。

 「お送りいただき、ありがとうございます。──よろしければ、一緒に夕食を召し上がっていってくださいませ」

 稜は一瞬、言葉に詰まった。

 (──ロッテの家の食卓)

 稜がこの二年半、異世界で異国人の家の食卓に座ったことは一度もなかった。王宮の正式な晩餐会は何度もあった。しかし参謀の弟子の家族の食卓は、別の意味を持っていた。弟子の家族の食卓に参謀が座るということは、単なる儀礼ではない。それは弟子の人生の一部に足を踏み入れることだった。

 稜はロッテの顔を見た。

 ロッテは少し、頬を染めていた。しかし目は期待の光を宿していた。母が稜を誘ってくれたことを喜んでいた。

 稜は静かに頷いた。

 「──お邪魔いたします」

 イリアの顔に、柔らかい笑みが広がった。

 ロッテの家の一階の居間は狭かった。

 中央に楕円形の楢の食卓。六つの椅子。食卓の上には素朴な布が敷かれていた。薄い黄色の麻布。その上に焼きたてのパンの籠。バターの小皿。チーズの薄切り。そして大きな土鍋。鍋の蓋の縁から、湯気が立ち上っていた。

 父バルトが食卓の奥の席から立ち上がった。

 五十歳。がっしりとした肩。短い白髪交じりの黒髪。手に仕立ての針を、持ったままだった。工房から夕食の時刻に、上がってきたばかりだった。

 「稜殿」

 バルトは深く一礼した。

 「我が家へようこそ来てくださった。──これは家族の名誉です」

 バルトの声は低く、少し硬かった。稜を迎えるに相応しい格式ばった言葉を、選ぼうとしているようだった。しかしその目には、穏やかな温かさがあった。

 弟のトビが階段の上から、顔を出した。十五歳。父と似たがっしりとした肩。しかしまだ顔は少年の丸みが残っていた。

 「あ、稜殿!」

 トビは階段を駆け降りてきた。

 「父さん母さん、今日俺野兎を一羽狩ってきた! 森の西側で。──稜殿、食べていきますよね?」

 イリアが笑った。

 「トビ、──稜殿がお入りになられる前から、自分の話をなさい」

 しかしイリアの声は、叱るような声ではなかった。温かかった。

 妹のミカが二階から降りてきた。十歳。細い黒髪を両側で二つに束ねていた。両手に小さな羊皮紙の束を持っていた。ミカは稜を見て、目を大きく開いた。

 「稜殿」

 ミカは稜の前で立ち止まった。羊皮紙を両手で差し出した。

 「稜殿、──あのお姉ちゃんが書記官のお仕事をしているので、私も文字をもっと速く綺麗に書きたいです。──教えてくださいますか」

 ミカの声は小さかった。しかし真剣だった。

 稜はミカの前で膝を少し曲げた。ミカの目の高さに、自分の目を合わせた。

 「ミカ。──今夜は俺は夕食の客だ。しかし夕食の後、少しだけ時間があるなら一つ二つ教えよう」

 ミカの顔が、一気に明るくなった。

 「ありがとうございます!」

 ミカは羊皮紙を胸に抱きしめた。

            ─── ─── ───

 食卓の下でノルが吠えた。

 ノルは小さな骨を前脚で押さえながら、齧っていた。父バルトがロッテに目で合図した。ロッテはノルの頭をそっと撫でた。

 「ノル、──食卓では静かに。稜殿がお客様よ」

 ノルは稜を見上げた。しばらく稜の顔をじっと見つめた。そして静かに骨を齧る作業に戻った。

 稜は微かに笑った。犬の頭を見ていた。八歳の雑種の茶色の毛並み。耳の先が少し黒い。

 「ノルは賢い犬ですね」

 バルトが頷いた。

 「八年前、工房の裏通りで拾ったのです。まだ仔犬だった。イリアがあの日、仕事の帰りに連れて帰った。家族の一員です」

 イリアは大きな土鍋の蓋を開けた。

 湯気が一気に立ち上った。

 春野菜のスープだった。

 鶏のだし。新玉ねぎ。春キャベツ。細く切った人参。小さな芋。そして父バルトが先週、近郊の農家から買ってきた乾燥したハーブの束。鶏の白い脂が、湯気の中で柔らかく見えた。

 イリアは五つの陶器の皿に、スープを分けた。

 稜の前にも一つ置かれた。

 スープの温かい湯気が、稜の顔に触れた。春の野菜の甘い香り。鶏の優しいだし。

 「いただきます」

 稜は木の匙を手に取った。

 一口、飲んだ。

 温かかった。

 そして優しかった。

 王宮の晩餐会の凝った料理とは、違う味だった。派手ではない。しかし深かった。イリアが朝、市場で自分で選んだ野菜とだしとハーブ。家族のために作った味。

 稜の胸の中に、何か温かいものが通った。

 (──前世で、俺は独身だった。──こういう、家族の食卓は遠い記憶だった。小学生の頃の母の味噌汁の味)

 稜は匙を一度止めた。

 前世の母の顔が、一瞬胸の中に蘇った。三十年前、稜が大学に入った年に亡くなった母。最後に母の味噌汁を飲んだのは、どの夏だったか。稜は覚えていなかった。しかしイリアのスープの温かさは、その遠い味噌汁の温かさと同じ種類の温かさだった。

 稜は匙をまた口に運んだ。

            ─── ─── ───

 食卓は賑やかだった。

 トビが今日狩った野兎の話をした。森の西側の古い石垣の陰に穴があって、その入り口で罠を仕掛けたら野兎が一羽かかった。野兎の毛並みは春の換毛期で、少しぼろぼろだった。しかし肉は春の草を食べて育った、柔らかい肉だった。明日、バルトが下ごしらえをして明後日の夕食は野兎のシチューになる。トビは自分の手柄を誇らしげに語った。バルトが時々、「その罠の張り方は、父さんが十年前に教えた通りだ」と、小さく笑った。

 ミカは羊皮紙の束を稜に見せた。

 今朝、ロッテが仕事に出かける前にミカに三文字書き方を教えてくれたという。ミカはその三文字を一日、繰り返し書いていた。羊皮紙の端に、その三文字が何十回も並んでいた。少しずつ字が美しくなっていく様子が見えた。

 稜はミカの羊皮紙を長く見た。

 「ミカ。──お前は字が上手になる。早い」

 ミカは顔を赤く染めた。

 バルトが稜に、木の杯を勧めた。

 「稜殿、──家の自家製のエール酒です。この春の麦で醸した。強くはありません。──お口に合うとよいのですが」

 稜は杯を受け取った。一口、飲んだ。

 軽い麦の甘さ。仕上げのハーブの微かな苦み。バルトの工房の裏の小さな蔵で、一冬寝かせた味。市販の酒屋のエール酒とは違う、家の味だった。

 「美味しいですね」

 稜は正直に答えた。

 バルトの顔に、初めて少し柔らかい笑みが浮かんだ。

 ロッテは家族の賑やかな会話の間で、静かにスープを飲んでいた。しかし時々、稜の顔を見た。稜が家族に溶け込んでいる、その姿を見ていた。ロッテの目には、何か温かいしかし少し驚いたような光があった。書記官の厳しい稜ではない、普通の一人の男として家族の食卓に座っている稜。

            ─── ─── ───

 食事が半ば進んだ頃。

 イリアがふと、ロッテを見た。

 「ロッテ」

 イリアの声は静かだった。

 「──今夜、あなたに話したいことが一つあります」

 ロッテの手が、スープの匙を握ったまま止まった。

 「母さん……」

 「稜殿も聞いてくださいませ」

 イリアは稜を見た。稜は杯を静かに置いた。

 イリアは深く息を吸った。そしてゆっくりと話し始めた。

 「ロッテ、──あなたのお祖母様のことです。私の母です」

 ロッテは母の目を見つめた。

 ロッテの祖母。イリアの母。二十五年前に亡くなっている。ロッテが生まれる五年前に。だからロッテは祖母の顔を見たことがなかった。

 「お祖母様は、──若い頃、不思議な女性でした」

 イリアの声は低かった。

 「文字を書くのが三倍の速さでした。誰も追いつけない速さで書記官の書類を処理していました。王宮の書記官ではなく、地方の役所の書記官でしたが──その速さは王宮の書記官長の耳にまで、届いていたそうです」

 ロッテの目が少し大きくなった。

 「そして──時々、先の未来が見えました」

 ロッテの匙が食卓に、カチリと音を立てた。

 イリアは続けた。

 「お祖母様はある日家の扉の前で立ち止まって、私にこう言いました。『イリア明日、お前の父さんは木の板を運ぶ途中転ぶ。気をつけなさい』。──翌日、父は本当に木の板を運ぶ途中転びました。怪我は軽かった。しかしお祖母様の言葉の通りだった」

 「お祖母様はそうした小さな予感を生涯、何十回も口にしました。全部が当たるわけではありませんでした。しかし外れることも少なかった。──家族の誰もその不思議さを話題にしませんでした。お祖母様自身も、自分の能力を誇ることはありませんでした。むしろ静かに恥じていました」

 「お祖母様は──五十歳で亡くなる前の最後の夜、私にこう言いました。『イリア。──この能力は我が家の血筋の一部だ。しかし呪いではない。祝福でもない。ただ血の中に流れている何かだ。お前の娘、あるいは孫の誰かが受け継ぐかもしれない。受け継いだら──静かに使いなさい。派手にはするな。そして書記官の道に進むと良い。書記官の仕事は我が家の血に合っている』」

 イリアはロッテを見た。

 「ロッテ──あなたは書記官の道を選びました。そしてあなたの書く速さは他の書記官の三倍だと、稜殿のお書きになった書類の評価で聞きました。──私はあなたの中にお祖母様の血を感じています」

 ロッテは長く沈黙した。

 食卓の周りが静かになった。トビもミカもバルトも黙っていた。ノルさえ、骨を齧る作業を止めていた。

 ロッテは自分の右手を見た。書記官の仕事で毎日、羽ペンを握る右手。指の付け根に、羽ペンの小さな胼胝があった。

 「──母さん」

 ロッテの声は静かだった。

 「私は時々──分かる瞬間があります。次に書記官長が何を指示するか。次に稜殿が何を必要とされるか。──偶然だと思っていました。しかし──お祖母様の血なのですか」

 イリアは微笑んだ。

 「ロッテ。──それがお祖母様の遺してくれた贈り物です。──派手には使わず静かに使いなさい。そしてもしいつか、その能力があなたの大切な人を救う瞬間が来たら──躊躇わずに使いなさい」

 ロッテは深く頷いた。

 イリアは稜を見た。

 「稜殿。──娘をよろしくお願いいたします」

 稜は静かに頷いた。

 (──ロッテの祖母。──不思議な女性。書記官の速さが三倍。そして時々、未来が見える)

 稜の胸の中で、一つの思考が静かに形を取り始めた。しかし稜はそれを、この食卓では口に出さなかった。今夜はロッテの家族の夜だった。稜の参謀としての思考は、今夜は胸の中にしまっておいた。

            ─── ─── ───

 食事が終わった。

 稜はミカに約束した通り、食卓の片付けの後ミカの羊皮紙に文字の書き方を三つ教えた。「愛」「家」「光」。ミカは真剣に、稜の指の動きを見ていた。そして自分で三つの文字を、大きなきれいな字で書いた。ミカはその三枚の羊皮紙を、胸に大切に抱えた。

 稜はバルトとしばらく、家の工房の話をした。バルトは稜に、工房の小さな仕立て道具を見せた。三十年、バルトが使ってきた道具。父から受け継いだ道具もいくつかあった。稜はそれらの道具を、静かに見た。

 トビが稜に、明日の朝森にまた狩りに行くと告げた。今度は鹿を狙うという。稜はトビに、「気をつけて行け」と短く告げた。

 そして午後八時、稜はロッテの家を辞した。

 扉の前でイリアが深く一礼した。

 「稜殿。──今夜は、ありがとうございます。──またいつでもおいでください」

 ロッテは扉の内側で、稜を見送った。少し頬が染まっていた。

 稜は深く一礼して、路地を歩き始めた。

            ─── ─── ───

 路地を少し歩いた。

 稜はふと、空を見上げた。

 春芽月の末の細い月が、下町の屋根の上に浮かんでいた。細い、しかしはっきりした月。月光が石畳の路地に、静かに落ちていた。路地のどこかで、夜の犬が遠く鳴いた。

 稜は王宮の方向へ、静かに歩き始めた。

 胸の中で、イリアの言葉が繰り返し反響していた。

 (──文字を書くのが三倍の速さ。時々、先の未来が見えた)

 稜は自分の頭の中で、静かに書類を並べていた。クロヴィスの祖父、ルクレティウス。書記官長として沈黙を守り続けた男。そしてマテウス院長が今朝告げた、五十年の秘密情報部の話。ルクレティウスの兄。暗殺。

 そして今夜のロッテの祖母の話。不思議な女性。三倍の速さで文字を書く。未来が見える。

 (──六百五十年前、トルメアスが三人の弟子を取ったという伝承。一人目、二人目三人目の弟子の血統。千年の計画の系譜)

 稜は月を見上げた。

 (──ロッテの祖母、か。──第三の弟子の直接の血筋、か)

 稜は小さく呟いた。声は路地の石畳の上で、静かに消えた。

 王宮への道がまだ長かった。稜はゆっくりと歩いた。胸の中で、温かいスープの味と家族の笑い声と一つの新しい思考が静かに同居していた。

 夜の鐘の坂の九時の鐘が、遠く鳴った。

 春の夜の空気は少し、涼しかった。

第二部最初の息抜き回でした。

ロッテの家、五人家族の食卓。番犬のノル。

稜が異世界で初めて家族の食卓に座る場面、自分でも書いていて温かい気持ちになりました。

そして、イリアさんのちょっとした告白に、注目してください。

後々、ある重要な発見につながる伏線です。

次回はクロヴィス回。裏の冥書庫の最深部の扉の前に、ついに立ちます。

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