表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
51/60

契約の、翌朝届いた密書

 契約更新日から、一週間が過ぎていた。

 鐘の坂の五時の鐘が、遠く鳴った。

 稜は書斎の机の前で一人、その音を聴いていた。夜明け前のアウリオンの空気が、開け放された窓から静かに流れ込んでいた。春芽月の末の、冷たいしかし乾いた空気。一週間前の契約更新日の署名の感触が、まだ右手の指に残っていた。机の上には、レオン王があの夜稜に持たせた契約書の王家の写しが一週間ほぼ手付かずで置かれていた。白い羊皮紙、赤い封蝋王家の金の鷲と銀の剣の印。千年の属国の終わりを告げる、一枚の紙。

 稜はその紙を、長く見つめた。

 この一週間、アウリオンは静かな勝利の余韻の中で過ごしていた。四国の代表は、それぞれの国へ戻っていった。神崎玲は契約更新日のその夜、アウリオンを発った。急行の馬で帝都ヴェルデンへ。護衛としてブランが神崎に同行した。稜は二人を、王宮の西門で見送った。神崎の馬上の静かな横顔が、稜の胸の中にまだ残っていた。「稜。──また月の庭で」。それだけを告げて、神崎は去った。神崎の声の最後の響きが、風の中に溶けていった。

 (──終わらせた、ようやく。千年の属国時代を)

 稜の胸の奥で、前世の高樹の低い声が蘇った。二十五年前、まだ大学院生だった稜に高樹はある夜こう告げた。「稜。──お前の仕事は、終わりを設計することだ。始まりは誰でもできる。しかし終わりを正しい形で設計できる人間は、この世にほとんどいない」。高樹の最後の教え。亡くなる半年前の、居酒屋のカウンターでの言葉。稜はその夜、高樹の少し酔った目の奥に何か深い覚悟のようなものを見ていた。今、稜はその目の意味をこの異世界でようやく理解していた。

 稜は窓の外の、まだ紫色の空を見上げた。

 (──この一週間、俺は。──ただ休んでいた。しかし本当の仕事は、今日から始まる)

 稜は自分に、そう言い聞かせた。半年の準備。一週間の休息。そして今日から、何かが始まる予感があった。予感は具体的な形をまだ持っていなかった。しかし稜は異世界に来てから二年半、そうした予感を何度も正確に感じ取ってきた。予感はいつも外れなかった。

            ─── ─── ───

 書斎の扉を、誰かが叩いた。

 焦った音だった。一度、二度三度。強く速い。通常の書記官のノックとは違う。稜は一瞬、机の上の契約書の写しを見た。そしてゆっくりと立ち上がった。扉まで五歩。

 扉を開けた。

 若い近衛兵が立っていた。二十歳くらい。稜の記憶の中の名は出てこなかった。王宮の衛兵の夜番だった。顔に汗が浮いていた。夜明け前の寒さの中で、汗をかくほどの何かがあった。近衛兵の右手の、手綱を握るような形に固まった指先が微かに震えていた。

 「稜殿」

 若い兵の声は擦れていた。

 「──帝都からの急使です。馬を三頭、乗り潰して届けられました」

 兵は両手で、一通の封書を差し出した。

 稜は封書を受け取った。封書を見た瞬間、稜の指が一瞬止まった。

 封蝋の緑の蝋の上に、黒い小さな染みが二つ固まって付着していた。乾いた血の跡だった。封蝋の王宮の紋章は、神崎の帝都宰相職の正式な印だった。しかしその印の上の血の染み。使者自身が傷を負いながら、この封書を運んできたのか。あるいは封をした者自身の血なのか。

 稜は顔を上げた。

 「ご苦労」

 稜の声は普段と変わらなかった。

 「下がって休め。使者の怪我の手当を。朝食を用意させる」

 若い兵は深く一礼した。そして去っていった。兵の足音が、廊下の石の床に反響した。音が遠ざかって消えた。

 稜は扉を閉めた。

 書斎の中に戻った。机の前に座った。封書を机の上に置いた。左手に契約書の白い写し。右手の向かいに、血の染みの封書。

 稜の指が、封書の上で一秒止まった。

 (──神崎の身に、何かがあった)

 稜は息を一度深く吐いた。そして指先で封蝋を剥がした。封蝋が机の上に落ちた。緑の蝋の破片。血の染み。稜はそれを、机の端に寄せた。

 封書の中から、一枚の紙が出てきた。

 羊皮紙ではなかった。ヴェロニアの植物性の薄い紙。急ぎの通信に使われる紙。神崎は普段、羊皮紙で書く。ヴェロニアの紙を使ったということは、時間がなかったということ。稜は紙を、机の上に広げた。

            ─── ─── ───

 神崎の筆跡だった。

 角ばった、しかし線の先端が少し震える独特の書き方。二年半前、稜が神崎から最初の公式の手紙を受け取った時から見慣れた字。

 しかし今夜の字は、普段より少し急いでいた。いくつかの文字の線が、途中で乱れていた。書いている途中に、神崎の指が微かに動いた痕跡。

 稜は紙を読んだ。

 「稜へ。

 昨夜帝都の皇宮の執務室を出た直後に、私は三人の刺客に襲われた。ブランが現場で介入した。私を救った。しかし近衛兵二人と刺客三人のうち二人が死亡した。残る一人の刺客はブランが生け捕りにした。

 ──稜の脳裏で、その夜の場面が瞬時に映像化された。

 帝都の皇宮、午前一時。執務室の重い樫の扉が、神崎の手で閉じられる。──廊下に出た神崎、四十一歳。宰相の青い礼服。長い廊下の蝋燭の光。──近衛兵二人が前後に付き添う。──しかし最初の角を曲がった瞬間、近衛兵の一人の喉から黒い線が伸びた。──ナイフ。──近衛兵が崩れ落ちる前に、もう一人の近衛兵も背中から斬られた。──三人の影が、廊下の蝋燭の光の外から滑り出てきた。──黒い外套。──刺客。

 神崎は剣を持っていなかった。──宰相の正装には、儀礼用の短剣のみ。──三人の刺客に対して、無防備だった。

 しかしその瞬間。

 廊下の天井裏から、別の影が落ちた。──ブラン。──二十八歳の元傭兵。──過去三ヶ月、神崎の警備の影として帝都の屋根裏に潜んでいた男。──ブランの剣が、最初の刺客の手首を一閃で切り落とした。──刺客の悲鳴が、廊下の石壁に反響した。──血の匂いが、蝋燭の煙と混じった。

 ブランは続けて、二人目の刺客の腹に拳を一度叩き込んだ。──刺客は石の床に膝をついた。──三人目の刺客が逃げようとした瞬間、ブランは投げナイフを放った。──刺客の太腿に刺さった。──逃げられない深さの傷。──しかし致命傷ではない。──生け捕り。

 血だまりの中で、神崎は壁に背を預けて立っていた。──宰相の青い礼服に、近衛兵の血が散っていた。──しかし神崎自身は、傷一つなかった。──ブランが、神崎の前に立って会釈した。

 「閣下。──ご無事ですか」

 神崎は無言で頷いた。──そして血だまりに倒れた近衛兵の顔を、長く見つめた。──二十代の若い顔。──家族がいるはずだった。

 (──また一人、千年の歪みが命を奪った)

 稜は密書を読みながら、その光景を瞬時に頭の中で再現していた。──ブランの剣の動き。──血の匂い。──神崎の壁に背を預けた一瞬の姿勢。──そして近衛兵二人の若い顔。

 稜は密書を続けて読んだ。

 刺客の紋章は、ヴィスカルト皇太子家の私設警備隊のものだった。公式には『近衛兵の訓練事故』として処理される。前皇帝の古い腹心ライネルト卿が事後処理を引き受けた。前皇帝への二十年の忠義が、今夜私を救った。ライネルトの名は心に留めてくれ。いずれ対面する日が来る。

 稜、ヴィスカルト派の影が動き始めた。二年以内に本格的な対決が来る。私は帝都で迎え撃つ。お前はアウリオンで準備を始めてくれ。

 次の段階の第一歩として、三つの情報を送る。

 一、ヴィスカルト皇太子家の系譜。千年前のトルメアスの第二の弟子の血統との繋がりを持つ可能性。

 二、前皇帝時代の毒殺事件の可能性。三十五年前アウレリアの前々王アドラム王の死は、公式には病死。しかし真相は別にある。

 三、千年の計画の最終段階の設計図。トルメアスが六百五十年前に書いた予言書の完全版。これは裏の冥書庫の最深部に封じられている。

 詳細は後日、信頼できる使者を通じて届ける。三つの情報は別々の密書で順に送る。一通に集めるのは危険が大きすぎる。

 我々の次の『月の庭の夜』は二年後かもしれない。しかしその夜までに準備は終わらせる。

 ブランはしばらく帝都に残る。情報網の構築のためだ。アウリオンには代理の者を送る。了解してくれ。

 ──玲」

 稜は紙を読み終えた。

 長く沈黙した。

 紙を机の上に静かに置いた。左手を額に当てた。目を閉じた。神崎の馬上の横顔が、もう一度胸の中に蘇った。「稜。──また月の庭で」。一週間前の西門での別れの言葉。あの時、神崎は既に何かを予感していたのかもしれない。あるいは予感していなかったのかもしれない。しかし神崎は帝都に着いた夜、いや翌日の夜襲われた。襲撃から密書がアウリオンに届くまで三日。神崎は襲撃の翌朝にこの密書を書いた。そして三日、馬を乗り潰してこの紙が稜の机の上に届いた。

 稜は目を開けた。

 (──ブランが生け捕りにした刺客の一人。──ヴィスカルト皇太子家の私設警備隊)

 窓の外で、夜が明けていた。紫色の空が静かに金色に変わっていた。春芽月の末の朝の光が、書斎の机を斜めに照らし始めていた。血の染みの封蝋の破片が、光の中で黒く浮かび上がった。白い契約書の王家の写し。そして神崎の血痕の密書。二枚の紙が机の上で並んでいた。

 千年の属国時代の、終わり。

 千年の歪みの、始まり。

 稜の胸の中で、二つの紙の意味が重なった。

            ─── ─── ───

 稜は書斎の呼び鈴を鳴らした。

 銀色の小さな鈴。王宮の内部連絡用。鳴らすと三分以内に、執務室の当番の書記官が来る仕組みだった。

 三分後、扉がノックされた。

 当番の書記官はロッテの同僚のアルという若い書記官だった。二十二歳。半年前、クロヴィスの指導役として短く接した男。稜の顔を見て一礼した。

 「稜殿。お呼びでございますか」

 稜は机の上の紙を、既に引き出しにしまっていた。痕跡は何もなかった。

 「アル。──四人を呼んでくれ」

 「四人、でございますか」

 「セレネ殿下。ロッテ。クロヴィス。そしてセヴィン」

 アルの目が一瞬広がった。セヴィンの名前に反応した。セヴィンはブランの直属の部下。二十歳の警備隊の若い兵士。ブランが不在の今、王都の警備を実質的に指揮している男。稜がその名を呼ぶのは異例だった。

 しかしアルはすぐに深く一礼した。

 「承知いたしました。──執務室でお待ちいたします」

 アルは去った。

 稜は椅子から立ち上がった。契約書の写しを書棚の一番上の段に、静かに戻した。血痕の密書は胸の内ポケットにしまった。窓の外の朝の光が、少しずつ強くなっていた。

 稜は書斎を出て、執務室へ歩いた。

 廊下の石の床に、稜の足音だけが響いていた。

            ─── ─── ───

 執務室に、四人が揃っていた。

 セレネは王女の略式の紺の服。髪は結っていない、肩の上で自然に流していた。契約更新日から一週間、王宮の儀式の後処理で続いた疲労が目の下に薄く影を落としていた。しかし目の光は静かだった。

 ロッテは書記官の黒い服。耳の上に羽ペンを挟んだまま。朝の書記の仕事を中断して駆けつけた証拠だった。髪は後ろで一つに束ねていた。指にインクの小さな染みが一つついていた。

 クロヴィスは冥書庫の若い書記官の黒い服。袖に古い羊皮紙の小さな屑が二つついていた。朝早くから冥書庫で何かを調べていた。顔は少し青白かった。

 セヴィンは警備隊の銀色の鎧を着ていた。鎧の襟元に汗が滲んでいた。朝五時から王宮の警備の交代の確認をしていた。兜は手に持っていた。髪は短く刈り込んでいた。二十歳だが、目には既に実戦の落ち着きがあった。

 稜は四人の前で立ち止まった。

 四人が腰を折った。

 稜は胸の内ポケットから密書を取り出した。しかし広げなかった。机の上に置いた。封蝋の血の染みが、四人の視線を集めた。セレネが一瞬息を呑んだ。ロッテの指が机の端を握った。クロヴィスが一歩後ろに下がった。セヴィンの目が鋭く細まった。

 「四人よ」

 稜は静かに言った。

 「昨夜、神崎宰相が帝都の皇宮の執務室を出た直後、襲われた」

 四人の反応は、それぞれだった。セレネは両手を強く膝の上で握った。ロッテは息を吸って止めた。クロヴィスは顔が一段青白くなった。セヴィンは兜を机の横に静かに置いた。

 「ブランが現場で神崎を守った。神崎宰相は無事だ。刺客の一人を生け捕りにした」

 稜は言葉を一つずつ区切った。

 「刺客の紋章は──ヴィスカルト皇太子家の私設警備隊のものだった」

 四人の沈黙。

 セヴィンが最初に口を開いた。

 「稜殿。──王都の警備の再設計が必要です。帝国の諜報員がアウリオンに潜伏している可能性を前提に、組み直します」

 稜は頷いた。

 「セヴィン。──お前に任せる。ブランが戻るまで、王都の警備の指揮はお前だ」

 セヴィンは深く腰を折った。

 ロッテが続いた。

 「師匠。──情報網の再構築を始めます。マテウス院長の古いご縁を含めて、王都と地方の情報経路を全て洗い直します」

 「頼む」

 クロヴィスが震える声で言った。

 「師匠。──僕は何をすれば良いのでしょうか」

 稜はクロヴィスの肩に、手を置いた。

 「お前の仕事は、裏の冥書庫の最深部を調べることだ。祖父ルクレティウスが遺した何かを見つける。──マテウス院長が今朝、お前に新しい扉の鍵を渡しに来る」

 クロヴィスの目が広がった。

 「祖父の……」

 「お前の祖父が残した何かが、この千年の闇の中心に近い場所にある可能性が高い」

 クロヴィスは深く一礼した。

 最後に、セレネが口を開いた。

 「師」

 セレネの声は静かだった。しかし強かった。

 「次の敵は、ヴィスカルト皇太子でしょうか」

 稜はセレネの目を見つめた。十六歳の王女の目。契約更新日の疲労の下で、既に次の覚悟が宿り始めていた。

 「殿下」

 稜は答えた。

 「敵は皇太子ではない。皇太子をその立場に追い込んだ、千年の歪みそのものだ」

 セレネは長く稜を見つめた。そして深く頷いた。

 「──分かりました。私は対外交渉の最初の案を書きます。神崎宰相との同盟強化から始めます」

 稜は四人を順に見渡した。

 「第一部は一週間前で終わった。第二部は今朝から始まる」

 四人が頷いた。

 窓の外で、朝の光が強くなっていた。執務室の石の壁が、金色に染まり始めていた。

            ─── ─── ───

 四人が執務室を去った後。

 稜は一人、机の前に残った。密書を再び、胸の内ポケットに戻した。そして書斎に戻ろうとした、その時だった。

 執務室の扉が、再びノックされた。

 稜は扉を開けた。

 マテウス院長が立っていた。

 マテウスはいつもの、灰色の修道院長のローブを着ていた。しかし今朝のマテウスの深い青い目には、昨日までと違う何かが宿っていた。稜は一瞬、それが何か分からなかった。

 「稜殿」

 マテウスは静かに言った。

 「──私も夜明け前に密書を受け取りました。帝都の古い友人から」

 稜はマテウスを書斎に招き入れた。扉を閉めた。窓辺の椅子に二人、向かい合って座った。朝の光が二人の間を、斜めに照らした。

 稜は静かに問うた。

 「マテウス殿。──あなたは情報部の古い繋がりを、まだお持ちなのですか」

 マテウスは長く稜を見つめた。深い青い目が、五十年の沈黙を抱えていた。そしてマテウスは静かに頷いた。

 「稜殿。──私は若い日、アウレリア王国の秘密情報部の一員でした」

 稜はマテウスの目を見つめた。

 「二十五歳から四十歳までの十五年。大陸の全ての国で、諜報活動に従事しました。サルマティアの草原。ヴェロニアの運河。オスタールの修道院。そして──ハーゲン帝国の皇宮」

 マテウスの声は低かった。

 「最後の任務で、私はある人物の暗殺を防ぐ任務を受けました。──しかし防げませんでした。私の情報収集の遅れが、一人の若いアウレリアの外交官を死なせた」

 稜はマテウスの目の奥を見つめた。五十年、誰にも告げなかった重みが朝の光の中で静かに開きつつあった。

 「その外交官の名は、ルクレティウス・モクの兄でした」

 稜は息を呑んだ。

 「クロヴィスの祖父の、兄……」

 「はい。ルクレティウスは兄の死の真相を知りませんでした。公式には事故死と報告されました。しかし──私は真相を知っていました」

 マテウスは一度、目を伏せた。

 「その任務の失敗の重みで私は情報部を辞めました。四十歳で修道院に入りました。以来五十年、私は裏の冥書庫の守護者として生きてきました。──そしてルクレティウスが二十年前まで書記官長を務めていた時私は彼と同志として仕事をしました。しかし彼の兄の死の真相を、一度も告げることはできませんでした。五十年の沈黙です」

 稜は深く頭を下げた。

 「マテウス殿」

 「稜殿」。マテウスは顔を上げた。「その五十年の沈黙の続きを、あなたに託します」

 マテウスはローブの懐から、一つの古い銀の鍵を取り出した。

 鍵は小さかった。手のひらに収まる大きさ。しかし重かった。鍵の把手には、アウレリア王家の金の鷲と銀の剣の紋章が小さく刻まれていた。その横にもう一つ、小さな「M」の文字が刻まれていた。マテウスの頭文字。

 マテウスは鍵を、机の上に静かに置いた。

 「この鍵は裏の冥書庫の最深部の扉の鍵です。五十年私が守ってきました。──今日、あなたに渡します。そしてクロヴィスに最深部への入室の許可を与えます。クロヴィスが祖父と向き合う覚悟ができた時、この鍵をクロヴィスに渡してください」

 稜は鍵を受け取った。指先に銀の冷たい感触。そして五十年の重み。

 「マテウス殿。──私はこの鍵を受け取ります。そして千年の歪みを終わらせるために使います」

 マテウスは深く頷いた。

 そして静かに書斎を去った。

            ─── ─── ───

 稜は一人、書斎の机の前に戻った。

 机の上に、三つのものが並んでいた。

 左に、契約書の白い写し。中央に、血痕の密書。右に、裏の冥書庫の銀の鍵。

 三つの紙と金属。

 千年の属国の終わり。千年の闇の始まり。そして千年の秘密の鍵。

 稜は窓辺に立った。

 朝の光は既に完全に、金色になっていた。アウリオンの王宮の庭の春の花が、光の中で静かに揺れていた。忘れな草の淡い青。スミレの濃い紫。タンポポの明るい黄色。

 稜は胸の中で、三つの月を並べた。

 前世の月影亭の夜。神崎と最後に酒を飲んだ秋の月。

 異世界の月の庭の夜。神崎と再会した、二年半ぶりの月。

 そしてこれから見る、三つ目の月。裏の冥書庫の最深部で、二人の異邦人を待っている月。

 三つの月が、稜の胸の中で一本の糸として繋がった。

 稜は窓を大きく開けた。アウリオンの朝の空気を深く吸い込んだ。春の冷たい、しかし金色の空気。

 胸の中で呟いた。

 「──ようやく本当の物語が始まる」

 廊下の方向で、足音が聞こえた。セレネが既に自分の私室で、対外交渉の最初の草案を書き始めていた。ロッテが書記官室で、情報網の再構築の整理を始めていた。クロヴィスが冥書庫の最深部の扉の前で、マテウスの到着を待っていた。セヴィンが王宮の警備隊の詰所で、地図を広げて警備の再設計を始めていた。

 稜は窓の外の春の光を見つめた。

 そして声に出して呟いた。

 「──終わらせる。我々の代で、必ず」

 稜の目に、これまで見せなかった鋭さが戻っていた。

 その目を、廊下の向こうで振り返ったセレネが見た。そして自分の背筋が伸びるのを感じた。セレネは自分の私室に入る前に、もう一度稜の書斎の方向を見た。稜の目の鋭さを胸に焼き付けた。そして深く頷いて、私室に入った。

 ロッテも書記官室で、同じ鋭さを稜の気配の中に感じた。クロヴィスも冥書庫の扉の前で同じものを感じた。セヴィンも警備隊の詰所で同じものを感じた。

 四人の弟子が、それぞれの場所で同じように背筋を伸ばした。

 千年の闇との対決の、最初の朝が静かに始まった。

ついに第二部開始です。

第一話で書きたかった「契約の翌朝、神崎からの血の染まった密書」をついに描けました。

封蝋の血の場面、自分でも興奮しながら書きました。

第二部はここから、神崎の側の動きが本格的に動き出します。

お楽しみに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ