神崎、と聞いて、凍りつく
春芽月の月、十二日目。朝。
契約更新日まで、あと二日。
朝アウリオンの王都はいつもと違う空気に、包まれていた。町の人々は既に知っていた。今日の夜ハーゲン帝国の使節団が、到着する。千年の属国条約の契約更新日が二日後に、迫っている。
王宮の北門の前には朝からアウレリアの近衛兵が、整列していた。道の両側に五十人ずつ計百人の近衛兵が使節団の到着を、待っていた。稜、カスパルアルデス公副宰相ヴァルドそしてレオン王は朝の謁見を済ませた後正式の迎えの装いに、着替えた。四人の弟子もそれぞれの正装で北門の近くの王族の待機室に、控えていた。
午前の時間は、長く静かに流れた。王宮の中の全員が同じ午後の瞬間を、待っていた。神崎玲の到着。そしてイリア・シエルクの、三年ぶりの帰還。
─── ─── ───
午後、四時。
王都の南の街道から二十騎の帝国近衛騎士の、隊列の先頭が、見えた。
隊列はゆっくりと王都の中央通りを北へ、進んだ。町の人々は通りの両側に並んで隊列を、見送った。誰も歓声は、上げなかった。しかし誰も怒号を、上げなかった。ただ静かに見送った。千年の属国条約の最後の帝国使節団の通過を王都の民衆は自分たちの目で見届ける意識で、通りに立っていた。
王宮の北門に隊列が、到着した。
最前列の帝国近衛騎士の指揮官が馬から、降りた。続いてセイゲル視察官が馬車から、降りた。
そしてその次に神崎玲が、降りた。
四十一歳。黒髪。前世で十五年、稜が毎日見ていた顔。三年前に稜を嵌めた日の三十九歳の顔より二年、老けていた。そしてその顔に宰相としての二年の重みが、加わっていた。
神崎は王宮の正門の前で一度、立ち止まった。
そして静かに稜を見た。
稜も、神崎を見た。
二人の視線が、合った。
前世の十五年の記憶と前世の嵌められた一日と異世界の二年の別々の時間の全てがこの瞬間、二人の間で一度に、交差した。
─── ─── ───
神崎はレオン王の前に、進んだ。
そして深く片膝を、突いた。
「レオン陛下」
「神崎宰相」
「ハーゲン帝国宰相、神崎玲でございます」
「この度ヴィスカルト皇太子殿下のご代理として、契約更新日の会議に、参りました」
レオン王は王としての、正式な挨拶を、返した。
二人の間で、形式的な言葉が五分、続いた。
しかし形式の下で四人の目が──レオン王稜、神崎そしてセイゲル視察官──、別々の計算を、交換していた。
形式の挨拶の後、神崎は立ち上がった。
そして稜の前に、進んだ。
稜と神崎が王宮の北門の、人々の前で、向かい合った。
二人とも公の席ではこの瞬間を前世の師弟の再会としてではなくアウレリアの参謀と帝国の宰相の、正式な対面として、演じなければならなかった。
「稜殿」
「神崎宰相」
「──初めて、お目にかかります」
「こちらこそ」
公の席での初めて、の挨拶。
二人は互いに、一礼した。
しかし一礼の頭を上げる瞬間に、二人の目が再び、合った。
その瞬間の二人の目の中の、別々のメッセージが、交換された。
稜の目:「玲。お前がここまで、来たか」
神崎の目:「稜。俺は今夜月の庭であなたに、会います」
短い、しかし深い、交換だった。
─── ─── ───
神崎の後ろから帝国使節団の、残りの者たちが順に、降りてきた。
書記官五名。そして最後に、一人の女性が馬車から、降りた。
四十八歳。白髪混じりの細身の、女性。
灰色のシンプルな服。書記官の服装。
イリア・シエルク。
ロッテの、母。
三年前徴用で、この王都を、離れた女性。
イリアは馬車から降りた後一度、王都の空を、見上げた。
三年ぶりのアウリオンの、春の空だった。
それからゆっくりと王宮の北門に向けて、歩いた。
王族の待機室の窓から、ロッテがその姿を、見ていた。
ロッテの手が、震えた。
隣のセレネがロッテの手を静かに握った。
「ロッテ。行きましょう」
「はい、殿下」
「お母上はあなたを、探しておられます」
二人は待機室を、出た。
クロヴィスとブランも、続いた。
四人は北門の裏の中庭に、向かった。帝国使節団の公式の歓迎の儀式は稜とレオン王が、担当する。母と娘の再会は公の場の外で行うというのが稜とカスパルの、事前の設計だった。
─── ─── ───
中庭に、ロッテが立った。
春の午後の陽が、中庭の石畳の上に、降っていた。
三年前、ロッテが最後に母と歩いた、この中庭。
あの日母は王宮の清掃の仕事を終えて、家に帰る途中だった。ロッテは書記官室から母に合流して一緒に王宮の北門を、くぐった。帰り道母は、「ロッテ明日蜜蓮を一緒に、食べようね」と言った。翌日母は帝国の徴用で、連れ去られた。
三年後。
中庭の、同じ石畳の上に、ロッテが立っていた。
そして中庭の反対側から、イリアがセイゲル視察官の案内で、歩いてきた。
イリアはセイゲルに何か小さく、告げた。
セイゲルは深く頷いて中庭から、退いた。
二人の女性が石畳の上に、向かい合って、立った。
誰も何も、言わなかった。
風が、中庭の花壇の春の花を、揺らしていた。
セレネ、クロヴィスブランは中庭の入り口に、控えていた。介入しない。ただ、見守る。三人の、黙約だった。
稜はこの母娘の再会の場面に公の席の誰も介入しない配慮を、事前に全て設計していた。半年前に月の庭から戻った夜稜はロッテの母の帰還の可能性を考え始めた時再会の瞬間の形を、頭の中で何度も描いていた。王宮の正門での公式な儀式の中ではなく中庭の石畳の上で二人だけで、三年の沈黙を解く。その形だけがロッテの二十歳の心とイリアの四十八歳の心の両方に、最も優しい再会の形だと稜は判断していた。公式の歓迎の儀式は、レオン王とカスパルと稜が担当する。母と娘の再会は公の場の外でセレネ、クロヴィスブランの三人が離れた場所から、介入せずに見守る。この配置は稜が半年の設計の中で最も長い時間をかけて整えた、細部の一つだった。誰も介入しない。しかし、誰も見ていないわけではない。書記官助手として四年王宮の廊下を歩いてきた二十歳のロッテと徴用された四十八歳の母イリアの三年の時間の重みを三人の弟子と中庭の空気そのものが静かに、受け止めていた。
イリアが最初に、歩み寄った。
三歩。
ロッテが同じく、三歩。
二人は、中庭の中央で、向かい合った。
ロッテは母の顔を見た。
三年分母は、老けていた。白髪が、増えていた。頬が少し痩せていた。しかし目は三年前と同じ、柔らかい目だった。
「ロッテ」
「母上」
二人はただ名前を、呼び合った。
それ以上の言葉は、出なかった。
イリアが手を、差し出した。
ロッテがその手を、握った。
三年前に別れた時の母の手より少しだけ骨が、薄くなっていた。しかし温度は、同じだった。
二人はしばらく手を、握り合って、立っていた。
三年の分の沈黙が、二人の間で静かにほどけていった。
─── ─── ───
中庭の入り口で、セレネは目を、潤ませていた。
王女としての十六年の訓練が涙を流さないように、抑えていた。しかし心の中では自分の母の帰還を、想像していた。セレネの母──王妃──はセレネが六歳の時に、亡くなっていた。セレネには帰還する母は、いなかった。しかしロッテと母の再会を見ながらセレネは亡き母の微かな記憶を胸の中で同時に、抱きしめていた。
クロヴィスも静かに見ていた。
孤児として育ったクロヴィスには母の記憶はほとんど、なかった。しかし祖父ルクレティウスの名前を知って以来彼は自分の家族の、失われた時間と向き合い始めていた。ロッテと母の再会はクロヴィスに、「失われた時間の一部は、取り戻せる」という静かな希望を、与えた。
ブランは十年の傭兵生活で多くの家族の喪失を、見てきた男だった。敵兵が戦場で家族の名を叫んで、死ぬ。味方の兵が遠い故郷の母の手紙を胸に握りしめて、死ぬ。ブランはその無数の喪失を、見てきた。しかし喪失の反対側の風景を見ることは、少なかった。今中庭でロッテと母の再会の風景を、見ていた。ブランの左頬の、古い傷が微かに動いた。
─── ─── ───
二十分、経った。
母と娘は手を握り合ったまま、少しずつ会話を、始めていた。
イリアが語り始めたのは三年間の、帝都での日々だった。徴用された先は帝都ヴェルデンの宰相府の、下級書記官室。一年目は、掃除と荷物運びの仕事。二年目から書記官としての実務を、任された。三年目神崎宰相がイリアの名前を、知った。
「神崎宰相は、お優しい方だった」
イリアは娘に静かに語った。
「三年目の冬宰相は私に、仰いました。『イリア・シエルク殿。半年後あなたはアウリオンに、戻ります。そこであなたの娘ロッテ・シエルクの王族認定の証人として、立ち会っていただきたい』」
「私はその時初めて娘が王宮でどんな働きを、しているか、知りました」
ロッテは母の目を見た。
三年間母がどこでどんな日々を、過ごしているかを、ロッテは知らなかった。
今、母が一つずつ日々を、語っている。
「母上。──ご無事で本当に、良かった」
「ロッテ」
「はい、母上」
「──あなたこそご無事で、良かった」
二人はもう一度手を強く、握り合った。
─── ─── ───
日が少しずつ傾き始めた頃、ロッテとイリアは中庭から、出た。
イリアは王宮の客殿の専用の部屋に、案内された。ロッテは父バルトの家に母を迎える準備をしに一度書記官寮に、戻った。
イリアが客殿の部屋でしばらく休息を、取る予定。
正式な、父バルトとの再会は、明日の朝。
弟トビと妹ミカと父バルトが朝客殿に、来る。
セレネ、クロヴィスブランも、それぞれの持ち場に、戻った。
中庭には、誰もいなくなった。
午後の陽が、石畳の上に静かに落ちていた。
─── ─── ───
その夜稜は書斎で一人神崎からの、小さな封筒を、開いた。
神崎が公の挨拶の後稜に、さりげなく、手渡した封筒だった。
中には、一枚の紙。
紙には、神崎の筆跡で一行だけ、書かれていた。
「稜。今夜、月の庭で二人で、話したい」
稜はその一行を、読んだ。
折り畳んで懐に、入れた。
立ち上がり外套を、羽織った。
月の庭までは馬で、二日半。しかし稜は半日で到着できる近道を半年前から、準備していた。
王宮の馬場に既に最速の馬が二頭、用意されていた。
稜と神崎の、二人分の馬。
夜二人は、王宮の北門を密かに出て、月の庭へと向かった。
千年前アドレアンとザラフが、最後の対話を、した場所へ。
春芽月、十二日目の月が王都の、東の空に既に昇り始めていた。
稜は月の庭までの半日の道のりを、頭の中で準備していた。王宮の馬場に用意した二頭の馬は、最速の種。普通の馬では二日半かかる道を、半日で走破できる。しかし半日の疾走は、馬にとっても稜にとっても相当の負担だった。稜は前世で何度も海外出張の移動の後、そのまま重要会議に臨んだ経験があった。移動の疲労を会議の集中力でどう補うか。その技術を稜は三十代の後半で身体化していた。今夜の月の庭への移動も、同じ技術の応用だった。馬の疾走の半日は、頭の中を議論のための空白の状態に整える時間だった。到着した時稜は神崎と向き合うために、最も鋭い思考の状態にあるはず。その状態を半日の馬の疾走の中で、自分で作り出す必要があった。
第七章の、九話目です。
神崎玲が、アウリオンに、到着しました。
王宮の北門での、初めての対面。
公の席で二人は前世の師弟の再会としてではなくアウレリアの参謀と帝国の宰相の、正式な対面として、演じる必要がありました。
書いていてこの場面の表の形式と裏の感情の、二重構造、難しかったです。
二人の目の一瞬の視線の中で前世の十五年と嵌められた日と、異世界の二年が、一度に交差する。
書きながら私も、胸が詰まりました。
そして、ロッテと母イリアの、中庭での再会。
ただ、名前を呼び合うだけ。
手を、握るだけ。
三年の沈黙が、ほどけていく。
書きながら、泣きました。
ここ、この物語の、一つの感情のピークだと思います。
帝都での三年間を、母が娘に、静かに語る場面。
そして神崎が母の帰還を、契約更新日に、間に合わせてくれた事実。
神崎という男の輪郭が、また少し、見えてきました。
次話月の庭で、稜と神崎の、二人だけの対話です。
千年前と、同じ場所で。




