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月の庭で、「なぜお前も」

 春芽月の月、十二日目。深夜。

 稜と神崎は月の庭に、到着した。

 半年前の馬車の旅より遥かに速い、馬の疾走。半日で月の庭の入り口に、着いた。二頭の馬を庭の外の杉の木の根元に、繋いだ。護衛も書記官も、連れてこなかった。二人だけの、深夜の訪問。これから起きる対話を誰にも、聞かれないために。

 月の庭は、半年前と何も変わっていなかった。十畳ほどの石の庭。中央の、千年の盤石。古代アウレリア語の刻印「千年、変わらず」。盤石の周りの、四つの石のベンチ。北側の清水の泉。南側の、一本の古い杉の木。春芽月十二日目の月が盤石の上に強い光を、落としていた。満月まで、あと二日。月は、ほぼ満ちていた。

 稜と神崎は盤石の、反対側のベンチにそれぞれ、腰を下ろした。

 千年前アドレアン初代王と参謀ザラフがアドレアンが亡くなる三日前に、最後の対話を、交わした場所。

 千年後の、深夜。

 二人の男の間に流れる千年の時間の感覚を、稜は月の庭の石のベンチで静かに味わっていた。千年前アドレアンとザラフが月の庭で最後の対話を持った時二人の間に流れていたのは、独立戦争の前後の長い時間の積み重ねだった。独立戦争の最中の二人の共闘の時間。独立後、ザラフが静かにオスタールに戻った後の二十年の別々の時間。そしてアドレアンが亡くなる三日前山を越えて月の庭で再会した時の、二十年の分の語られなかった言葉の重み。千年後の今夜稜と神崎の間に流れているのは前世の十五年の師弟の時間と嵌められた一日の時間と異世界で別々に過ごした二年の時間、の合計十七年の時間だった。千年前の二十年と千年後の十七年。年数は違うが時間の密度は似ていた。別々に過ごした時間の方が共に過ごした時間より長くなった時、師と弟子が再会する。その再会は共に過ごした時間の延長ではなく、別々に過ごした時間の合流地点の確認として形を取る。稜はその形を、月の光の中で静かに受け止めていた。神崎もまた同じ形の感覚を、稜の向かい側のベンチで受け止めているはずだった。二人とも、何も言わずに盤石の上の月光を共有していた。

 前世で師弟だった二人の男が異世界の参謀と宰相として、同じ盤石の前で、向かい合って座った。

            ─── ─── ───

 最初、二人とも何も、話さなかった。

 盤石の上に月の光が、落ちていた。千年の静寂が二人を、包んでいた。風の音が、聞こえた。杉の葉を揺らす、低い風。山の谷間を渡る、遠い風。石を撫でる、近い風。三種類の風の音がこの庭では独立した純粋な音として、耳に届いていた。

 稜は目を、閉じた。

 半年前カスパル、アルデス公と三人でこの場所に、来た。その前の七日の旅でカスパルと共にこの場所で四十年の宰相の三つの告白を、受け止めた。千年の盤石の前で稜は異世界での多くの瞬間を、過ごしてきた。そして今夜前世の弟子と前世の嵌められた日から異世界での二年を経て再び、向かい合っていた。

 神崎が最初に、口を開いた。

 「稜」

 「はい、玲」

 稜は、「玲」と、呼んだ。

 前世の十五年、そう呼び続けた呼び方。異世界で初めて口に、出した呼び方。

 神崎の目が微かに潤んだ。

 「──あなたはなぜ俺を、許したのですか」

 稜は長く、答えなかった。

 月の光が、盤石の上で少しずつ、移動していた。

 稜は盤石の、刻印を指で、撫でた。

 そして静かに答えた。

 「玲。──私はお前を、許していない」

 神崎の目が、広がった。

 「ただ、お前の十五年をもう一度、信じるだけだ」

            ─── ─── ───

 神崎は深く息を、吐いた。

 そして両手で顔を、覆った。

 三十秒、そのままだった。

 「稜」

 「はい」

 「前世で、俺はあなたを、嵌めました」

 「その前世の俺の行為を異世界で、俺自身がまだ、引きずっています」

 稜は静かに頷いた。

 神崎は手を顔から、離した。目は、濡れていた。しかし涙は、落ちなかった。

 「二年、俺は帝国の宰相として、働いてまいりました」

 「異世界に転生した最初の一年は、前世の記憶と向き合うことで、精一杯でした」

 「二年目あなたが異世界にも、転生しておられることを、知った」

 「知った時、俺は恐怖と安堵の両方を、感じました」

 「恐怖はあなたが復讐に、来るのではないか、という恐怖」

 「安堵はあなたが生きて別の世界で、働いておられる、という安堵」

 稜は頷いた。

 「玲」

 「はい」

 「私も、同じだ」

 「前世で私はお前に、嵌められた」

 「その恨みを、この異世界でも一年、引きずっていた」

 「お前が帝国の宰相になっていると聞いた時私は、恐怖と安堵の両方を、感じた」

 「恐怖はお前が前世の続きを異世界でも、演じるのではないか、という恐怖」

 「安堵はお前が前世では発揮しきれなかった能力を異世界で、活かしている、という安堵」

 神崎は稜の目を見た。

            ─── ─── ───

 「稜」

 「はい、玲」

 「俺があなたを、嵌めた理由を今、お話しします」

 「前世であなたは、俺の師でした」

 「十五年、あなたの下で、働きました」

 「十五年の間俺はあなたを、超えたいと毎日、思っていました」

 稜は静かに、聞いていた。

 「しかし、俺はあなたを、超えられなかった」

 「十五年、超えられなかった」

 「三十九歳の時、俺は焦りました」

 「四十代五十代になれば、俺はあなたの影のまま一生を、終えると感じました」

 「その焦りの中で俺はあなたを、嵌めるという選択を、した」

 神崎は長く、沈黙した。

 「今思えば、あの選択は、弱さの選択でした」

 「あなたを超えるためには真っ直ぐにあなたを、超えるしか、なかった」

 「あなたを嵌めて会社から追い出しても俺はあなたを、超えたことには、ならなかった」

 「むしろあなたを嵌めたことで、俺はあなたから一番、遠くなった」

 稜は深く頷いた。

 「玲。──お前は、その弱さを異世界で、克服したか」

 神崎は微かに首を、振った。

 「まだ完全には、克服できていません」

 「しかし、克服しようとしています」

 「二年帝国の宰相として働きながら俺自身の参謀としての、本当の力を、試しております」

 「その試しの中心に今回の、契約更新日の再設計が、あります」

            ─── ─── ───

 稜は微かに笑った。

 「玲。──お前の草案を、お聞かせ願いたい」

 神崎は頷いた。

 懐から、一冊の書類の束を、取り出した。

 千年の盤石の上に、神崎の草案と稜の草案が並んで、置かれた。

 二冊の書類の束。

 二人の男が半年間別々の国で別々の机で、書き続けた、二つの設計。

 稜が自分の草案を、神崎の草案の横に、開いた。

 神崎も、自分の草案を、開いた。

 二人は同時に各章の題目を、見比べ始めた。

 「第一段階。今年の契約更新日での、厳しい条項の緩和」

 「第二段階。三年後の、議会制の再整備」

 「第三段階。五年後の、属国間の自由貿易圏の形成」

 「第四段階。七年後の、軍事協力の再構築」

 「第五段階。十年後の、信仰の自由の相互尊重」

 「第六段階。十三年後の、名称の変更」

 「第七段階。十五年後の、属国条約の完全解消」

 二つの草案の各段階の題目が、ほぼ完全に、一致していた。

 細部に微妙な違いは、あった。しかし七段階の骨格は、同じ。

 稜と神崎は長く、二つの草案を、見ていた。

 それから同時に、顔を上げて、互いを見た。

 「稜」

 「玲」

 「──俺とあなたは前世で十五年、同じ仕事を、していましたから」

 稜は深く頷いた。

 千年の盤石の上で、二つの草案が月の光に、照らされていた。

            ─── ─── ───

 神崎は静かに、告げた。

 「稜。──なぜお前も異世界に、転生したのですか」

 稜は長く、答えなかった。

 月の光を、見ていた。

 千年前のザラフが独立後にオスタールに戻り二十年静かに祈り続けたその時間の重みを、稜は月の庭の空気の中で改めて感じていた。ザラフは師として参謀として、アドレアンを支えた。独立後、静かに去った。アドレアンが亡くなる三日前、山を越えて月の庭で最後の対話を持った。その対話の内容は、誰にも伝わっていない。しかし千年の盤石が今、稜と神崎の二人を同じ形で包んでいる。千年前の対話と千年後の対話の間にどんな繋がりがあるのか、稜にはまだ完全には見えていなかった。しかし見えていない、ということがこの瞬間の深さだった。見え尽くした瞬間ではなく見えていない余白を師と弟子の二人が同じ場所で共有する、その余白こそが千年前の対話の本当の内容だったのかもしれない。稜はその仮説をただ胸の中で転がしていた。言葉にするには、まだ早すぎた。神崎の目も盤石の上の月光も、同じ余白を稜と共有していた。

 そして静かに答えた。

 「玲。それは多分師が弟子に最後の教えを、残す時間が前世では、足りなかったからだ」

 神崎は長く、その答えを、聞いていた。

 そして深く頷いた。

 「稜」

 「はい」

 「前世であなたは俺に最後の教えを、残そうとしておられた、ということでしょうか」

 稜は微かに笑った。

 「玲。──私は前世では、気づいていなかった」

 「しかし異世界で半年間、草案を書きながら、気づいた」

 「私が前世でお前に残したかったのは、単案を推す参謀の、哲学だった」

 「十五年私はお前に多くの技術を、教えた。しかし参謀の哲学を教える時間は、足りなかった」

 「その哲学を異世界で私はカスパル殿という、四十年の宰相からもう一度、学び直した」

 「今夜私はお前にその哲学を、伝える準備が、ある」

 神崎は目を、見開いた。

            ─── ─── ───

 「稜」

 「はい」

 「──今夜、伝えていただきたい」

 稜は盤石の、刻印をもう一度、撫でた。

 そして静かに語り始めた。

 「参謀の哲学は責任設計の一言に、集約される」

 「参謀は、情報処理者では、ない」

 「参謀は決断が、起きる構造を、設計する者」

 「複数案を並べて、王に選ばせるのは責任を王に、押し付ける行為」

 「しかし単案を推し王に承認か否定かを、迫るのは責任を参謀が、引き受ける行為」

 「参謀が責任を引き受けることで、王は決断の重さを、知る」

 「王が決断の重さを知ることで、王国は健全に、動く」

 神崎は深く頷いた。

 「玲」

 「はい」

 「お前は異世界で二年帝国の宰相として多くの単案を、皇帝ヴィスカルトに、推してきたはずだ」

 「はい」

 「しかしお前の中にまだ前世の、複数案提示の癖が、残っている」

 神崎は長く稜を、見ていた。

 そして微かに笑った。

 「稜。──お見通しで、ございますか」

 「ああ」

 「今回の契約更新日の七段階の設計は、俺にとっては帝国での最初の、本気の単案でございます」

 稜は頷いた。

 「玲。その単案を私は、あなたの側で、支援する」

 神崎は深く頷いた。

            ─── ─── ───

 対話は、夜明け前まで、続いた。

 二人は二つの草案の細部の違いを一つずつ、すり合わせた。議論の多くは、技術的な細部。しかし細部の議論の下で二人の間に新しい関係が静かに形を、取っていた。師でも、弟子でもない。同じ世代の、参謀同士。

 夜明けの三時間前神崎は一つの、静かな質問を稜に、した。

 「稜」

 「はい、玲」

 「契約更新日の会議の翌日、俺は帝国に、戻ります」

 「ヴィスカルト皇太子と対決しなければなりません」

 「俺が皇太子を、倒せなかった場合」

 「俺はこの草案を帝国内で、守り切れなく、なります」

 「その時あなたは、どうされますか」

 稜は長く、考えた。

 そして静かに答えた。

 「玲。──お前が皇太子を、倒せなかった場合」

 「私は、アウリオンから帝都に、向かう」

 神崎の目が、広がった。

 「稜殿が帝都に、来られるのですか」

 「ああ」

 「皇太子と私が直接、対峙する」

 「お前を、守るために」

 神崎は長く、動けなかった。

 それから微かに笑った。

 「稜。──あなたはやはり私の、師でございますな」

 稜は微かに笑った。

 「玲。私はお前の、師でもある。お前の、参謀仲間でもある」

            ─── ─── ───

 夜明け前、二人は月の庭を、後にした。

 盤石の上の、二つの草案をそれぞれ懐に、戻した。

 馬に、乗った。

 王都への、帰り道。

 月は既に西の空に、傾き始めていた。春芽月十二日目の月が、終わろうとしていた。

 馬の疾走の中で、二人は何度か視線を、交わした。

 視線の中で、多くの言葉が、交換されなかった。

 しかし交換されなかったということが、二人の関係の、新しい深さだった。

 二人の馬は夜明けの、王都の北門に、到着した。

 王宮の、馬場に馬を、戻した。

 神崎は帝国使節団の、客殿に。

 稜は王宮の、自分の書斎に。

 二人は別々の、部屋へと戻った。

 契約更新日まで、あと二日。

 千年前アドレアンとザラフの最後の対話の千年後の、再演が今夜、終わった。

 書斎に戻った稜は外套を脱ぎ、椅子に深く座った。月の庭での対話の一つひとつの言葉が、まだ胸の中で反響していた。「稜。なぜ俺を許したのですか」。「私は、お前を許していない。ただお前の十五年を、もう一度信じるだけだ」。この交換を稜は前世で、一度も神崎に言ったことがなかった。前世では師として弟子を許すか許さないかを、そもそも考えたことがなかった。師と弟子の関係の中で、許すか許さないかの問いは発生しない種類の問いだった。異世界で二年経ち前世で嵌められた記憶と異世界で再会した神崎の変化の両方を、稜は同時に胸の中で整理する必要があった。その整理の暫定的な答えが、今夜の「許していない。信じるだけだ」の言葉だった。許すことと信じることは違う動詞だった。この違いが稜の中で明確になったのは異世界での二年の時間の中で、ようやくだった。

 稜は椅子の背もたれに身体を預けたまま、長く月の光の動きを追っていた。月の光は書斎の床の上を、ゆっくりと西へ移動していた。千年の属国条約の最後の署名まで、あと二日。神崎との月の庭での対話が終わり契約更新日の会議まで緊張はこれから最後の二日間、少しずつ高まっていく。しかし今夜の対話の後、稜の胸の中は以前より静かになっていた。前世の十五年の関係の続きが異世界で新しい形に変わる転換点を今夜稜と神崎の二人は、月の庭で一緒に通過した。次の転換点は契約更新日の翌日、神崎が帝都に戻る瞬間だろう。その瞬間、二人の関係はまた新しい形に変わる。師弟関係の形は二年で一度変わった。もう一度、二日後に変わる。

第七章の、十話目です。

月の庭で、稜と神崎の、二人だけの深夜の対話でした。

この場面書くのに、長い時間が、かかりました。

稜と神崎の前世の十五年と、嵌められた日と、異世界の二年。

全部がこの一夜の、対話の中に、入ってしまう。

どう書いても軽すぎるか重すぎるか、のどちらかになりそうで、

何度も、書き直しました。

「稜。なぜ俺を許したのですか」

「私は、お前を許していない。ただお前の十五年をもう一度、信じるだけだ」

この交換、書いていてずっと、心臓が速かったです。

神崎が、前世で稜を嵌めた理由を、自分で語る場面。

「焦りの中で俺は、あなたを、嵌めた」

「あの選択は、弱さの選択でした」

この告白書いていて神崎という男が二年の異世界の時間で確かに、成長したんだなあと、思いました。

そして二つの草案が、千年の盤石の上で、並ぶ。

七段階の骨格がほぼ、一致している。

「俺とあなたは前世で十五年、同じ仕事を、していましたから」

この一言で全てが、繋がった気が、しました。

稜が神崎に残したかった、最後の教え。

参謀の哲学。

責任設計。

単案を推す、ということ。

ここ、この物語の、核の核だと思います。

次話レオン王が王として初めて、自ら決断する、大きな回です。

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