オスタールから、沈黙の僧が来た
春芽月の月、十日目。夜。
契約更新日まで、あと四日。
そしてこの朝ハーゲン帝国の使節団が正式にアウリオンに向けて帝都ヴェルデンを、発った。到着予定は、十二日目の朝。あと二日。神崎玲が初めてアウリオンの土を踏むまで、あと二日だった。
稜はその知らせを朝の謁見の後、カスパルから聞いた。カスパルは帝国からの早馬で届いた通知を静かに稜に、手渡した。稜は通知をゆっくりと読んだ。宰相神崎玲視察官セイゲル・ロスバッハ書記官五名、同行者イリア・シエルク。合計八名の使節団。護衛は二十騎の、帝国の近衛騎士。
稜は通知を、折り畳んで懐に、入れた。
「カスパル殿。──あと二日でございますな」
「はい、稜殿」
「私は今夜、オスタールのスヴェン殿と対話が、ございます」
「帝国使節団の到着までに、四国との準備を全て、整えておきたく」
カスパルは頷いた。
「稜殿。オスタールとの対話は、どのような、内容になる見込みでしょうか」
「千年前の、忘れられた盟約。アドレアン初代王とオスタール初代公の間にあった、一条の盟約。その内容をスヴェン殿から詳しく、お聞きします」
「千年前の、盟約でございますか」
「はい」
カスパルは長く稜を、見ていた。
「稜殿。四十年の宰相として私は、この千年前の盟約の存在を、知りませんでした」
「オスタールとの間にそのような、古い盟約が、あったとは」
稜は微かに笑った。
「カスパル殿。千年は、長い時間でございます」
「忘れられる、盟約もございます」
─── ─── ───
夜稜は一人で、オスタール使節団の客殿に、向かった。
客殿の一番奥の、小さな部屋。
スヴェン首席僧侶が一人、待っていた。
部屋には燭台が二本だけ、灯されていた。部屋の中央に、低い卓。卓の上には水の入った陶器の碗が、二つ。茶でも酒でもなく、水。祈りの国の最もシンプルな、もてなしだった。
「スヴェン殿」
「稜殿。よく、お越しくださいました」
二人は低い卓を、挟んで座った。
スヴェンは水の碗を両手で、持ち上げた。
「稜殿。我が国の流儀では、対話の前に水を、分かち合います」
「水は空気と同じく、万人が享受する、神の恵みでございます」
「水を分かち合う者は、同じ一つの神の前に、立つ者でございます」
稜は頷いた。
水の碗を、持ち上げた。
二人は同時に一口、飲んだ。
水は透き通った冷たい、山の水だった。オスタールの使節団が旅の途中で取り替えてきた、オスタールの山の水。
稜は碗を静かに卓に置いた。
「スヴェン殿」
「はい」
「千年前の、盟約について、お話しください」
─── ─── ───
スヴェンは懐から、一つの羊皮紙の写しを、取り出した。
古い、褐色の筆跡。千年前の文字。
稜は写しを見た。
内容は既に前回の面会で、スヴェンから、示されていた。
「アウレリアとオスタールはハーゲン帝国との属国関係がいずれ終わる時互いに、信仰の自由を、尊重し合う」
一条だけの、短い盟約。
「稜殿」
「はい」
「この盟約の、背景を今夜、お話しいたします」
スヴェンはゆっくりと語り始めた。
「千年前アドレアン初代王が、独立戦争を、戦っておられた時期」
「当時のオスタール公──我が国の初代公も、ハーゲン帝国からの独立を、目指しておられた」
「アドレアン王とオスタール初代公は互いに手紙を、交わしておられた」
「独立戦争の最終段階で両国は共同して帝国に、対抗する計画も、立てておられました」
稜は驚いた顔をした。
「千年前両国は共同の独立戦争を、計画されていた、ということでしょうか」
「はい」
「しかし歴史ではアウレリアのみが帝国と戦いオスタールは、属国として、残りました」
「はい。それは、最終段階での、両国の合意でございました」
スヴェンの目が、深くなった。
─── ─── ───
「稜殿。千年前の最終段階で、アドレアン王とオスタール初代公は、話し合われました」
「二国同時に帝国と戦えば、勝てる可能性は、高い」
「しかしどちらかが敗れた時もう一方の国も、巻き添えになって、滅ぶ」
「ならば、一国だけが、戦う」
「もう一国は属国として残り、戦う国を内側から、支援する」
稜は深く頷いた。
「アドレアン王は、独立戦争を、選ばれた」
「オスタール初代公は属国として、残ることを、選ばれた」
「二人の間で、交わされた盟約が、この一条でございます」
「信仰の自由の尊重、ですか」
「はい。オスタールは属国として残る代わりに信仰の自由を帝国から、守る役目を、担いました」
「千年の間オスタールは、帝国の中で、信仰の自由を静かに守り続けてまいりました」
「そしてアウレリアがいずれ、帝国との属国関係を、解消する時」
「その時オスタールはアウレリアと共に、新しい信仰の秩序を、築く」
「それが千年前の盟約の、真の意味でございます」
稜は長く、動けなかった。
千年前の、二人の独立志向の指導者の、深い戦略。
一人は、戦う。一人は、残る。二人の役割分担が千年後の今アウレリアの独立を完成させる準備としてオスタールの沈黙の中で、守られていた。
─── ─── ───
「スヴェン殿」
「はい」
「千年この盟約をオスタールは誰にも、明かさずに、守ってこられたのでしょうか」
「はい」
「なぜ、でございますか」
スヴェンは微かに笑った。
「稜殿。明かせば帝国が、気づく」
「帝国が気づけば、この盟約は、無効化される」
「千年秘密の盟約として守り続けることで今、この瞬間に、発動できる」
稜は深く頷いた。
「スヴェン殿。──これは、千年の忍耐でございますな」
首席僧侶の代替わりの儀式はオスタールの山の修道院の、最も静かな儀式の一つだった。前任の首席僧侶は自分の死期を、数か月前から感じ取る。その感覚の正確さは四十年の祈りの時間の中で、身につく独特の感覚だった。死期が近づくと前任者は後継者を一人、指名する。指名された後継者は指名から一週間前任者の寝室で昼夜を問わず、隣で過ごす。その一週間の中で千年の盟約の内容が口伝えで、引き継がれる。羊皮紙の写しは一枚だけ、後継者に手渡される。その一週間の最後の日前任者は、静かに息を引き取る。後継者はその瞬間正式に、首席僧侶となる。この代替わりの儀式は千年の間に十五回、繰り返されていた。スヴェンは、その十五人目の首席僧侶だった。前任者から盟約を引き継いだのは四十年前の、春の夜だった。その夜の記憶をスヴェンは今夜稜との対話の中で何度か、胸の中で蘇らせていた。四十年前前任者から聞いた盟約の内容を今夜初めてオスタールの外の人間に、告げる。その行為の重みを七十歳の僧侶は身体の深い場所で、受け止めていた。
「はい」
「千年の忍耐の、最後の瞬間が四日後、来ます」
稜は水の碗を両手で、持った。
「スヴェン殿」
「はい」
「千年前の盟約を四日後の契約更新日の会議で正式な形で、復活させることを、提案いたします」
「はい」
「新しい条約の中にアウレリアとオスタールの、信仰の自由の相互尊重を、明文化する」
「それは、千年前の盟約の、現代的な復活でございます」
スヴェンは深く頷いた。
「稜殿。我が国は、その提案を心より、支持いたします」
─── ─── ───
対話は二時間、続いた。
千年前の盟約の具体的な、契約更新日での扱いを、決めた。
スヴェンが会議の前半で千年前の羊皮紙の写しを、全員の前で、公開する。
稜がその千年前の盟約を新しい条約の中に、組み込む提案を、する。
帝国側の神崎が、その組み込みを、認める。
これが、オスタール関連の、基本の段取りだった。
対話の最後に、稜はスヴェンに一つだけ、尋ねた。
「スヴェン殿」
「はい」
「前回の面会で、あなたは一言、仰いました」
「『神崎殿はあなたの師でもあり、弟子でもあるとお聞きしています。千年前同じような関係にあった二人の参謀が、いたと伝わっております。アドレアンとザラフ』」
「はい」
「アドレアンとザラフの関係を詳しく、お教えいただけますでしょうか」
スヴェンは長く稜を、見ていた。
それから静かに語り始めた。
─── ─── ───
「千年前アドレアンは若き日、オスタールの山の修道院で一年、修行をされました」
「その修行の師が、ザラフ」
「アドレアンは、二十歳。ザラフは、四十歳」
稜は驚いた顔をした。
「──師と弟子、でございますか」
「はい」
「修行の後アドレアンはオスタールを去りアウレリアの、独立運動に、参加されました」
「数年後アドレアンが独立戦争の、指導者として、頭角を現された頃」
「ザラフが、アウレリアに、現れました」
「ザラフはアドレアンに、参謀として、仕えました」
「──師が弟子に仕えた、ということでございますか」
「はい」
「ザラフは師でありながら参謀として、弟子に仕える道を、選ばれた」
「独立戦争の間ザラフはアドレアンの最も深い参謀として、戦略を立て勝利に、導きました」
「独立後ザラフは静かにアウレリアを離れオスタールに戻り修道院で、残りの生涯を、過ごされました」
稜は長く、動けなかった。
千年前、師が弟子に仕える。独立を助ける。そして静かに、去る。
前世の稜と神崎の関係と完全に重なる構造だった。
ただし前世では神崎が稜を、嵌めた。稜は嵌められて、異世界に転生した。
しかし今異世界で稜と神崎は千年前の、アドレアンとザラフと同じ位置に、立っている。
稜はまだ異世界でのこの構造の、意味を完全には、把握できていなかった。
しかし何かが、千年前と繋がっていることは、確信できた。
「スヴェン殿」
「はい」
「アドレアンとザラフの関係の最後を、お教えいただけますでしょうか」
スヴェンは静かに、告げた。
「アドレアンは独立後王として三十年、アウレリアを、治められました」
「ザラフは、オスタールの修道院で、二十年静かに祈り続けた」
「二人は独立後一度も、会わなかった」
「しかし互いの消息を山を越えて、届け合っていた、と伝わっております」
「アドレアンが亡くなる三日前ザラフは山を越えて、アウレリアに、来ました」
「二人は王宮の月の庭で、最後の対話を、持ちました」
「その対話の、内容は誰にも、伝わっておりません」
─── ─── ───
稜は長く、動けなかった。
千年前月の庭でアドレアンとザラフが、最後の対話を、持った。
その対話の内容は誰にも、伝わっていない。
しかし、稜はその内容を今、漠然と感じている気がした。
千年前の、師と弟子の、最後の対話。
その対話と同じ形の何かが四日後の契約更新日の前後に自分と神崎の間に、起きる予感が、稜の中で静かに動いていた。
稜は水の碗を、空にした。
「スヴェン殿。今夜の対話に深く感謝いたします」
─── ─── ───
稜はスヴェンの言葉を、長く胸の中で反芻していた。千年前師と弟子が独立戦争の前後で別の道を歩み独立後一度も会わずアドレアンが亡くなる三日前に山を越えて、月の庭で最後の対話を持った。その対話の内容は、誰にも伝わっていない。前世の稜が高樹師と三十歳から四十歳までの十年過ごしてきた時間が、異世界のアドレアンとザラフの物語と不思議な形で重なり始めていた。高樹師は稜が四十歳の時、既にこの世を去っていた。神崎に嵌められる半年前に、病気で亡くなっていた。最後の病床で高樹師は稜に一つだけ、短い言葉を残していた。「稜。神崎を、よく育てなさい」。その一言を稜は前世では、通常の弟子育成の最後の訓戒として受け止めていた。しかし異世界で稜が転生し神崎が別の世界で宰相となり今月の庭の盤石の前で千年前の師弟の物語をスヴェンから聞いている今あの最後の訓戒の本当の重さが、少しずつ見えてきた。高樹師は自分が亡くなった後神崎が稜を嵌める可能性を、予感していた可能性があった。そしてその予感を稜に直接は伝えず、「神崎を、よく育てなさい」という短い訓戒の形で残していた。稜は師の言葉の本当の意味を、読み取れなかった。そして神崎に嵌められた。しかし異世界で稜は神崎を、もう一度育て直す機会を得ている。千年前のザラフがアドレアンを参謀として支え独立後に静かに去り、亡くなる三日前に山を越えて再会した。その物語の構造が稜と高樹師と神崎の三人の時間を超えた再演として、異世界で形を取りつつあった。稜はスヴェンの言葉を聞きながらこの構造の深さに、静かに息を呑んでいた。
「稜殿。こちらこそ」
稜は立ち上がった。
扉の前で、振り返ってもう一度、スヴェンを見た。
「スヴェン殿」
「はい」
「契約更新日の前日の夜私は月の庭で、神崎玲と二人だけの対話を、する予定でございます」
スヴェンは頷いた。
「──千年前と同じ場所で」
「はい」
「稜殿。千年前の対話と同じ深さの対話をお二人で、されることを、願っております」
祈りの国の千年の沈黙が今夜の月の庭で、ようやく言葉に形を取った。稜はスヴェンの言葉の一つ一つを、胸の中で反芻していた。千年の時間は、あまりにも長い。その長さの中で一つの盟約を秘密のまま守り続けるという行為の人間的な重みは、普通の理性では測れないものだった。しかしオスタールの祈りの国はその測れない重みを首席僧侶の代替わりの引き継ぎという細く確実な糸で、千年つないできた。その糸の最後の部分が今夜、稜の手に渡された。稜はその糸を明日の契約更新日の会議でアウレリアの参謀として正式な形で世界の前に広げる役目を、担っていた。スヴェンは今夜の対話の最後に一つだけ短い言葉を、稜に残した。「稜殿。千年前のアドレアン王の最後の対話の内容を知ることは、誰にもできませぬ。しかし千年後のあなたと神崎殿の対話の内容は、あなた自身が決めることができる。その対話が次の千年の新しい物語の始まりになることを、願っております」。稜は深く頷いた。千年前の対話の内容は知ることができない。しかし千年後の対話の内容は、自分自身が決めることができる。その選択の重さを稜は月の庭の夜の空気の中で胸に深く、刻んでいた。
稜は深く頭を、下げた。
─── ─── ───
客殿を出た後、稜は王宮への帰り道の石畳の上で一人月を、見上げた。
春芽月、十日目の月。
満月まで、あと四日。
千年前アドレアンとザラフが月の庭で、最後の対話を、持った。
千年後自分と神崎が、同じ月の庭で対話を、持つ。
その対話は、千年前の対話とどう、重なるのか。
あるいはどう、重ならないのか。
稜はまだ、その答えを、持っていなかった。
しかし四日後、月の庭で答えが、出るはずだった。
稜は王宮の北門を、くぐった。
北門の衛兵が、稜に深く一礼した。稜も軽く頷き返した。月の光の下で、王宮の石畳が銀色に光っていた。千年前のアドレアンとザラフの最後の対話の内容は、誰にも伝わっていない。しかしスヴェンの話を聞いた後稜にはその対話の輪郭が、微かに見えてきていた。師と弟子が独立後一度も会わずに、亡くなる三日前に最後の対話を持つ。その対話の中心は、おそらく弟子が王として三十年治めた国の未来についてだった。師は山の修道院から二十年、国の動きを遠くから見守っていた。そして弟子の死が近いことを何かの直感で察知し、山を越えてきた。その最後の対話で、師は弟子に何を伝えたのか。稜は自分と神崎の関係が千年前の二人とどこで重なりどこで重ならないのかを、これから二日の間に考え続ける必要があった。
第七章の、七話目です。
オスタールの、スヴェン首席僧侶との、一対一の夜の対話でした。
千年前の、忘れられた盟約。
書きながら千年って、本当に長いなあと、思いました。
千年一つの盟約を、秘密のまま、守り続ける。
これは、祈りの国にしか、できない忍耐かもしれません。
アドレアンとザラフの関係。
師と弟子。
師が弟子に、参謀として仕える。
独立後、師は静かに、去る。
独立後、一度も会わない。
しかし亡くなる三日前師が、山を越えてくる。
月の庭で、最後の対話。
この構造稜と神崎の関係と重なりすぎて、書きながら、背中がぞわっとしました。
千年前の物語が今もう一度、別の形で、繰り返されようとしているのかもしれません。
次話、いよいよ、神崎の到着の前日。
稜が半年の準備を王と宰相の前で、一気に開示する、大きな回です。




