サルマティアの、馬乳酒
春芽月の月、九日目。夜。
契約更新日まで、あと五日。
夜サルマティア使節団の客殿にユルゲン王子の、小さな宴が、開かれた。
招待されたのは稜とブランの、二人だけ。レオン王やカスパル、アルデス公は招待されなかった。これはサルマティアの王子の、個人的な宴だった。王子の個人的な判断で誰を招くかを、決める。ユルゲン王子は稜とブランを、選んだ。
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客殿の広間の空気は王宮の正式な会議室とは、全く違うものだった。壁の草原の絨毯はサルマティアの西部の、遊牧民の村で織られたもの。絨毯の模様は馬の蹄跡を抽象化した、独特の幾何学模様だった。床の低い卓はサルマティアの草原の、長老の家で使われる型。客を足の痛くない姿勢で長時間座らせるための草原の知恵が形に、なっていた。卓の上の干し肉は塩と野草だけで、味付けされていた。チーズは馬の乳から作った独特の、強い酸味のもの。固い丸パンは草原の戦士が遠征の時に一週間持ち歩けるように、作られた。全ての料理が草原の移動の生活のリズムを、反映していた。
稜は料理を見ながらサルマティアの文化を、身体で感じ取っていた。前世の稜は多国籍企業の文化交流の会食に何度も、参加していた。そうした会食の多くはホテルの万国共通のフォーマルな空間で、行われていた。そこでは文化の違いは料理の名前の違い程度にしか、顕在化しなかった。今夜のサルマティアの使節団の客殿での宴はそれとは、全く違っていた。壁床卓料理全てがサルマティアの草原の流儀で、統一されていた。客として招かれた者はサルマティアの文化の輪郭の中に入っていくことを、要求されていた。稜はその要求を深く、尊重していた。参謀として相手の文化の輪郭を尊重することは交渉の、最初の礼儀だった。
ブランも稜と同じくこの客殿の空気を身体で、受け止めていた。ただしブランの受け止め方は稜とは、違っていた。ブランは十年前サンミール渓谷でサルマティアの兵と直接、戦った経験があった。草原の兵の戦場での動き馬の扱い剣の持ち方掛け声全てをブランは身体で、覚えていた。今夜草原の絨毯と低い卓と馬乳酒の匂いの中でブランは十年前のあの三時間の戦闘の記憶を鮮やかに、蘇らせていた。敵として草原の兵と向き合った男が十年後客として草原の王子と同じ卓を、囲む。この瞬間のブランの胸の中には前世の多くの男たちが経験してこなかった独特の和解の感覚が静かに、広がっていた。
客殿の広間はサルマティアの流儀で、装飾されていた。壁には草原の絨毯が、数枚掛けられていた。床には低い卓が三つ、並べられていた。卓の上には馬乳酒の樽が小さなものを、三樽。そしてサルマティアの干し肉とチーズと固い丸パン。
ユルゲン王子は王宮の正装ではなく草原の戦士の簡素な装束で、立っていた。稜とブランを草原の客人として、迎え入れた。
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「稜殿ブラン殿、お越しいただき、感謝する」
「ユルゲン殿下お招き、ありがとうございます」
「今夜は、王子殿下と呼ぶな。ユルゲン、でよい」
「今夜は草原の、一人の男として貴殿らを、迎える」
稜は頷いた。
ブランも深く頭を、下げた。
三人は低い卓を囲んで胡坐を、かいた。
ユルゲンが最初の杯を、持ち上げた。
「草原の最初の杯は、亡き者への、献杯」
稜とブランも杯を、持ち上げた。
「亡き者に、献杯」
三人は、馬乳酒の最初の一口を、飲んだ。
酸味と発酵の、柔らかい甘み。アルコールはワインほど、強くない。しかし独特の草原の記憶のような味が舌の上に、残った。
ブランは微かに目を、閉じた。
十年前北の大陸でサルマティアの兵と戦った後酒場で敵兵だった男と一度馬乳酒を、飲んだことがあった。あの時の、味と同じだった。
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「ブラン殿」
「はい、ユルゲン殿」
「十年前の、北の大陸の話を、聞かせてくれ」
ブランは杯を置いた。
そしてゆっくりと語り始めた。
「十年前、俺は二十八歳の、傭兵だった」
「アウレリアを出て北の大陸に渡り、サンミール渓谷の傭兵団に、所属しておりました」
「ある日、サンミール渓谷の北側で、サルマティアの騎馬隊と遭遇した」
「三十騎の、サルマティアの兵」
「我が傭兵団は、四十人」
ユルゲンは静かに、聞いていた。
「戦闘は三時間、続いた」
「最終的に、サルマティアの兵は十五人、死んだ」
「我が傭兵団は十二人、死んだ」
「両軍とも、主力の半分以上を失った後互いに、引いた」
「その戦闘の原因は、何でございましたか」
ブランは首を、振った。
「分かりません」
「我が傭兵団は雇い主から『北へ行け』と、命じられて、行きました」
「サルマティアの兵はなぜ、あの場所にいたのか、分からなかった」
「戦闘の後生き残った双方が酒場で偶然出会った時互いに、戦闘の理由を、知らなかった」
ユルゲンは長く、沈黙した。
それから静かに呟いた。
「──サンミール渓谷の、北側」
「それは我が国がアウレリアの傭兵団と間違えて、攻撃した地点かも、しれませぬ」
ブランの目が、広がった。
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ユルゲンは杯を置いた。
「十年前我が国は北の大陸で、別の傭兵団との抗争に、関わっておりました」
「その傭兵団はハーゲン帝国の、中堅貴族が雇った、別の傭兵団」
「我が国の兵はサンミール渓谷の北側で、その傭兵団を、追跡していた」
「追跡の途中で別の傭兵団──つまり、貴殿らのアウレリア傭兵団──と、遭遇した」
「我が国の兵は貴殿らを、追跡していた傭兵団と誤認した可能性が、高い」
ブランは長く、動けなかった。
十年、なぜあの戦闘が起きたのか、分からなかった。
十年前仲間が十二人、死んだ。敵も十五人、死んだ。
その二十七人の死が誤認から、生まれていた。
「ユルゲン殿」
「はい」
「──申し訳ないとは、申しません」
「申し訳ないと申されても、死んだ二十七人は、戻ってきません」
ユルゲンは頭を、下げた。
「ブラン殿。申し訳ありませんとは、申しません」
「しかし、あの戦闘の真実を、知っていただきたかった」
ブランは深く頷いた。
そして杯を、持ち上げた。
「二人目の献杯を、させていただきたい」
「十年前の誤認から死んだ双方の、二十七人に、献杯」
三人は杯を、持ち上げた。
「二十七人に、献杯」
馬乳酒の酸味が、舌の上で微かに辛かった。
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宴は、続いた。
三つ目の杯で、ユルゲンは話題を、変えた。
「稜殿」
「はい」
「契約更新日の会議で我が国は、軍事協力の再構築を、提案いたします」
「はい」
「具体的な内容は、三つ」
「第一に、アウレリアとサルマティアの、共同の馬産」
「サルマティアは草原の馬を飼育する技術を、持っている。アウレリアは馬を活用する技術を、持っている。二国で共同の馬産を、始めたい」
稜は頷いた。
「第二に、相互の軍事情報の、共有」
「現在ハーゲン帝国の管理下で、属国間の軍事情報は一切、共有されていない」
「これを、解禁したい」
「第三に共同の、国境警備」
「アウレリアの北サルマティアの南の山脈地帯で、共同の警備隊を、置きたい」
稜は三つの提案を頭の中で、整理した。
第一と第二は既に五十頁の草案に、組み込まれていた。第三の共同国境警備は稜の草案には、なかった。新しい提案だった。しかし、草案の「軍事協力の再構築」の章に、追加できる内容だった。
「ユルゲン殿。三つのご提案、感謝いたします」
「契約更新日の会議で私からこの三つを、アウレリアが、支持すると明言いたします」
ユルゲンは深く頷いた。
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会話は、夜更けまで、続いた。
三樽の馬乳酒のうち二樽が、空になった。
三人とも少し酔っていた。
酔いの中で、ユルゲンがブランに、聞いた。
「ブラン殿」
「はい」
「北の大陸のサンミール渓谷に十八歳の春、貴殿は何を、見ましたか」
ブランは長く、考えた。
「ユルゲン殿。私は老兵オルゴスという、一人の男を、見ました」
「サンミール渓谷の、暖炉の前で二時間、泣いていた男」
「息子を戦場で、失った男」
「泣いた後、オルゴスは、どうしましたか」
「翌朝何事もなかったように『朝飯は、食ったか』と私に、尋ねました」
ユルゲンは微かに笑った。
「草原でも、同じでございます」
「草原の兵が家族を失った時一晩、泣く。翌朝馬に、乗る」
「涙と行動の間に、朝の一杯の馬乳酒が、ある」
ブランも微かに笑った。
左頬の古い傷が、笑みに合わせて、引き攣った。
「ユルゲン殿。──同じ、ですな」
三人は、三つ目の杯を、空にした。
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夜更け、稜とブランは客殿を後にした。
王宮への帰り道の石畳の上で、ブランが静かに、呟いた。
「稜殿」
「ブラン」
「十年前の戦闘の真実を、知ることが、できました」
「そうだな」
「──胸の中の、一つの石が、軽くなりました」
稜は頷いた。
十年の傭兵生活でブランが胸の中に蓄えてきた無数の石のうち一つが今夜、軽くなった。誤認から死んだ二十七人の事実は、変わらない。しかしその事実を知っていることと知らないまま胸に抱えることは全く、違うことだった。
「ブラン」
「はい」
「契約更新日の会議でお前にはユルゲン王子の隣で、武の象徴として、座ってもらう」
ブランは立ち止まった。
「稜殿。──私が、ですか」
「ああ」
「お前はアウレリアの、元傭兵。ユルゲン王子はサルマティアの、武人。二人が並んで座ることでアウレリアとサルマティアの武の和解を会議の場で、象徴する」
ブランは長く稜を、見ていた。
それから深く頭を、下げた。
「承知いたしました」
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王宮に戻った時稜は書斎で、もう一通の書簡を、受け取った。
差出人は、オスタールの、スヴェン首席僧侶。
書簡の内容は、短かった。
「稜殿。明日の夜私の客殿で一対一の対話を、お願いしたい。千年前の盟約についてお話ししたいことが、ございます」。
稜は書簡を、閉じた。
明日の夜、オスタールの、祈りの国との対話。
契約更新日まで、あと四日。
四国の代表のうち三国との対話が、既に進んでいた。残るは三日後に到着する、ハーゲン帝国。
稜は窓の外の春芽月、九日目の月を、見上げた。
月は少しずつ、満ちていた。
客殿の方向から微かにまだ馬乳酒の酸味の残る風が、稜の頬を撫でた。ユルゲン王子との一夜の対話は、草原の武人との珍しい種類の交流だった。稜は前世で様々な国籍の経営者と、多くの酒席を共にしてきた。その経験の中で酒席の対話が昼間の会議室の対話よりも、遥かに深い合意を生む場面を何度も見てきた。酒が人の理性の表層を、ほんの少しだけ緩める。その緩みの中で、言葉の選択がより正直になる。今夜のユルゲン王子との対話も、同じ構造だった。武の国の若い王子が草原の馬乳酒の酸味の中でブランに対して十年前の戦闘の真実を語り、稜に対して軍事協力の三つの具体案を示した。酒席の合意は翌朝二日酔いの頭で記憶を整理する時、完全に消えていることもある。しかし今夜の合意は、消えない種類の合意だった。三人とも酒の酔いの中でも、覚えているべきものを明確に選んで語っていた。
稜はもう一度、草案の最後の頁を眺めた。対話の中でユルゲン王子が提案した三つの項目──共同の馬産相互の軍事情報の共有共同の国境警備──は稜の草案の第四段階七年後の軍事協力の再構築の項目に、全て組み込める内容だった。草原の武人の実用的な視点が稜の設計した七段階の骨格と、自然に接続していた。前世でも稜は多くの専門家の提案を自分の設計に組み込む経験を、繰り返していた。組み込む時に重要だったのは相手の提案の言葉を、そのまま受け入れることだった。自分の言葉に書き換えてしまうと、相手は組み込まれたことを感じられない。相手の言葉のまま設計の中に配置することで、相手は自分の提案が尊重されたことを実感する。
第七章の、六話目です。
サルマティアの王子ユルゲンと、稜とブランの、馬乳酒の夜でした。
書きながら草原の絨毯と低い卓と、馬乳酒の樽の空気を、想像していました。
サルマティアってどんな国だろう、と考えて、
広い草原と馬と、簡素な装束が、頭に浮かびました。
書いていて、楽しい回でした。
ブランの十年前のサンミール渓谷の戦闘。
ユルゲン王子が、その真実を、伝える。
誤認から、死んだ二十七人。
書きながらブランがこの十年胸に抱えてきた無数の石の一つが、軽くなる瞬間を、感じていました。
草原でもアウレリアでも、涙の文法は、同じ。
一晩、泣く。
翌朝、馬に乗るか、朝飯を食う。
この共通性、書いていて、良いなあと思いました。
次話、オスタールの首席僧侶スヴェンと、一対一の夜の対話です。
千年前の、忘れられた盟約が、出てきます。




