ヴェロニア商人、試しに来る
春芽月の月、八日目。午前。
契約更新日まで、あと六日。
朝、ロッテは父の家の扉を、叩いた。
父バルトは朝の身支度の途中で、扉を開けた。五十二歳痩せた身体白髪混じり、疲れた目。書記官としての二十年の経験が顔に、静かに刻まれていた。扉の向こうにロッテが立っているのを見てバルトは少し驚いた。ロッテが朝父の家を訪ねてくるのは、珍しいことだった。
「ロッテ」
「父上。朝早く、すみません」
ロッテは手紙を差し出した。
バルトは娘の顔を見て、手紙の重さを察した。無言で手紙を受け取り扉を閉めようとせず、ロッテを家の中に招き入れた。台所の卓で、二人は向かい合って座った。弟トビと妹ミカは、まだ寝ていた。静かな朝の台所で、バルトはゆっくりと手紙を開いた。
読み終えるのに、三分ほどかかった。
読み終わった後、バルトはしばらく、手紙を見ていた。
顔を上げた時父の目は、濡れていた。三年、見ることのなかった涙だった。バルトは涙を拭わずに立ち上がって奥の部屋から一つの古い木箱を、持ってきた。箱の中には母イリアが徴用される前に台所で使っていた古い木の匙が一本、入っていた。母の好物の蜜蓮を息子たちに食べさせる時に、使っていた匙だった。
─── ─── ───
バルトは匙を、ロッテの前に静かに置いた。
「ロッテ」
「はい、父上」
「三年の間この匙を、時々取り出して、見ていた」
「母上は生きておられるのか、亡くなっておられるのか、分からなかった」
「分からないまま三年、この匙を捨てずに、持っていた」
ロッテは匙を、見ていた。
小さな、木の匙。どこにでもある安い、普通の匙。
しかし父の三年の生きているかも分からない妻への、捨てられない記憶が、この小さな匙の中に静かに眠っていた。
「父上」
「ロッテ」
「三日後母上が、お戻りになります」
バルトは頷いた。
涙は、落ちなかった。しかし目の奥の三年の塊が少しずつ、溶け始めていた。
バルトは立ち上がった。
「トビミカ、起きなさい」
奥の部屋から弟トビと妹ミカが眠そうに、出てきた。十五歳の剣術志願者と十二歳の絵描き。二人とも母の顔を、ほとんど覚えていない。ロッテは二人に、手紙を見せた。
トビは読んで、しばらく動かなかった。
ミカは読んですぐに、泣き始めた。
バルトは三人の子供を一度に、抱きしめた。五十二歳の父の両腕の中で、三人の兄妹が泣いた。ロッテは三年ぶりに父の腕の温度を、感じていた。
─── ─── ───
朝の時間は、短かった。
ロッテは書記官室の勤務に、戻らなければならなかった。
バルトは娘の肩に、手を置いて扉の前で、告げた。
「ロッテ」
「はい、父上」
「──ありがとう」
ロッテは頷いて、王宮へと歩いた。
春の朝の風が王都の通りを、柔らかく撫でていた。涙の跡が頬で、乾き始めていた。王宮の書記官室に着くまでの二十分の間ロッテの胸の中で、一つの新しい感覚が静かに形を取っていた。三日後、母が戻る。その事実はもう、抽象的な希望ではなかった。具体的な台所の匙と父の涙と弟妹の抱擁の、温度を持った未来になっていた。
─── ─── ───
─── ─── ───
同じ頃王宮の第二の間で、稜とマルクス・ディロンの個別会談が始まっていた。卓を挟んで、二人だけ。書記官も、護衛もいない。昨夜の深夜の訪問の後、マルクスは二つの選択肢の間で揺れていた可能性があった。今日の会談に、本音で来るのか。それとも、商人の通常の流儀で来るのか。扉を閉めて二人が向かい合って座った時稜はマルクスの目を見て、即座に判断した。今日、マルクスは本音で来た。
前世の稜がコンサルタントとして多くの商人と向き合ってきた経験の中で、この「本音で来るか、流儀で来るか」の判断は最初の十秒でほぼ完全に、できるようになっていた。本音で来る者の目には、具体的な案件への集中がある。流儀で来る者の目には、探りの余白がある。マルクスの今朝の目には、案件への深い集中があった。前夜の訪問で、稜が「神崎の来訪の理由を、全て把握している」と答えた。その一言がマルクスの迷いの時間を、一夜で終わらせた。商人の決断は通常、もっと時間をかけて慎重に行われる。しかしマルクスは一夜で腹を決めてきた。五十歳の商人ギルド長のこの速度での決断は前世の稜が見てきた商人の中でも、稀に属する胆力だった。
稜はこのマルクスとの会談を契約更新日への布石の、最も重要な一手として位置付けていた。ヴェロニアを味方につけることは、単に一国を味方につけることではなかった。大陸の商業の流れそのものを新しい条約の側に、引き寄せることだった。サルマティアの武オスタールの祈り、アウレリアの参謀の力。これらにヴェロニアの商業が加わることで四国の連合は帝国の既得権益層に対して初めて、経済的な自立の可能性を示すことができる。経済的な自立が見えて初めて政治的な自立の交渉が、現実的な意味を持つ。稜が半年前に草案を書き始めた時この経済的基盤の章は、最も難しい章だった。マルクスが今朝本音で来たことでその章の最後のピースが、埋まろうとしていた。
「稜殿」
「マルクス殿」
「昨夜申し上げた通りヴェロニアは、あなたの側に、立ちます」
「しかし、『立つ』とは具体的に、何を意味するのか」
「今日は、その具体を、詰めに来ました」
稜は頷いた。
そして机の上に、一枚の地図を、広げた。
大陸全体の地図。アウレリアハーゲン帝国ヴェロニアサルマティア、オスタール。そして大陸の南の、まだ属国化されていない小国群。
「マルクス殿。ヴェロニアは商業圏を、拡大したい」
「はい」
「現在ヴェロニアの商業圏は、ハーゲン帝国の北と西に、限られています」
「帝国の管理下で、商業活動を、許可されている範囲」
「はい」
「新しい条約の七段階の中で第三段階で属国間の、自由貿易圏が、形成されます」
「アウレリアヴェロニアサルマティア、オスタールの四国間の、関税ゼロの自由貿易圏」
マルクスの目が、広がった。
─── ─── ───
「稜殿。──それは、ヴェロニアにとって、巨大な利益でございます」
「はい」
「しかし帝国はそれを、許すのでしょうか」
「玲がそれを、主導します」
マルクスは長く、稜を見ていた。
前世の神崎がどれほど、稜と近い男であったか。その関係性をマルクスは半年前から、察していた。しかし帝国の宰相自らが属国間の自由貿易圏の形成を主導するというのはマルクスの予想を、超えていた。
マルクスは静かに、問うた。
「稜殿。──神崎殿は帝国の利益を損なってまで、属国間の自由貿易圏を、形成されるのでしょうか」
稜は首を、振った。
「マルクス殿。玲は帝国の利益を、損なうつもりは、ありません」
「自由貿易圏が形成されれば、帝国と四国の間の貿易も同時に、拡大する」
「属国が豊かになれば帝国は、より大きな市場を、得る」
「玲の計算では帝国の利益は、長期的には、増える」
「ただし短期的には帝国の一部の、既得権益層が、損をする」
「その既得権益層の中心に、ヴィスカルト皇太子が、おられる」
マルクスは息を、呑んだ。
ヴィスカルト皇太子。帝国の次期皇帝。ハーゲン帝国の軍事と外交の両方を、若くして掌握しつつある、三十四歳の男。
マルクスは静かに、問うた。
「稜殿。──神崎殿は、ヴィスカルト皇太子と対立する、ということでございますか」
稜は静かに頷いた。
─── ─── ───
マルクスは椅子の背もたれに深くもたれた。
そしてしばらく天井を、見ていた。
「稜殿。──これは、大きな話でございます」
「はい」
「ヴェロニアが、あなたの側に立つということは、ヴィスカルト皇太子と対立するということでございますな」
「はい」
「長期的には帝国の利益も、増える。しかし短期的にはヴィスカルト皇太子の既得権益を、侵す」
「皇太子は、次の皇帝になる可能性が、高い男」
「その男と対立する選択はヴェロニアにとって、相当の覚悟が、必要でございます」
稜はマルクスの目を見た。
「マルクス殿。その覚悟をお持ちでないなら今、降りていただいて、結構です」
「私は、マルクス殿を、責めません」
「ヴェロニアは商業国として、合理的な判断を、するべきです」
マルクスは長く、沈黙した。
三分、沈黙した。
それから静かに口を開いた。
「稜殿」
「はい」
「私は五十歳で、商人ギルド長を、務めております」
「私の父も祖父も曽祖父も、ヴェロニアの商人でございました」
「四代、商人です」
「四代の間ヴェロニアはハーゲン帝国の属国として商業の最大可能性の半分しか、発揮できずに、生きてまいりました」
「父も祖父も『いつかこの縛りが解ける日が、来るだろうか』と、語っておりました」
「解けないまま父も祖父も、亡くなりました」
稜は頷いた。
「マルクス殿」
「今私の目の前に、縛りが解ける可能性が、ある」
「私の代で、これを逃したら子孫に、申し訳が立たない」
「ヴィスカルト皇太子との対立は、恐ろしい話でございます」
「しかし恐れて逃げた父と祖父の轍を、踏むつもりは私には、ございません」
稜は微かに笑った。
「マルクス殿。──あなたと仕事ができて私は、幸運です」
マルクスも微かに笑った。
「稜殿。私も、同じでございます」
─── ─── ───
会談は三時間、続いた。
ヴェロニアが契約更新日の会議でどの順番で何を発言するかの、具体的な段取りを、決めた。
マルクスは会議の前半で、「ヴェロニアはハーゲン帝国との属国関係の抜本的な見直しを、提案する」と、明言する。
サルマティアのユルゲン王子が続いて、軍事協力の再構築を、提案する。
オスタールのスヴェン首席僧侶が、信仰の自由の明文化を、提案する。
三国の発言の後、稜が五十頁の草案の全体像を、開示する。
最後に神崎が帝国側の提案として、稜の草案とほぼ同じ内容を、提示する。
四国の発言が同じ方向性で一致していることをレオン王の前で、示す。そしてその一致を正式な条約文書に、組み込む。
これが、契約更新日の、基本戦略だった。
マルクスが会談の最後に一つだけ稜に、告げた。
「稜殿。──もう一つだけ、お伝えしておきたい」
「どうぞ」
「ヴィスカルト皇太子の個人的な刺客が既にアウリオンに、入っている可能性が、ございます」
「商人ギルドの帝都の情報網で、つかんだ話でございます」
「契約更新日の前に何か事件が、起きるかも、しれません」
稜は頷いた。
「マルクス殿。感謝いたします」
「その情報は、ブラン殿と共有いたします」
─── ─── ───
マルクスが退室した後、稜は書斎に戻った。
ブランを、呼び寄せた。元傭兵の十年の経験が王都の警備に、必要だった。
ブランは稜の書斎に五分で、現れた。
「稜殿」
「ブラン。座ってくれ」
ブランは椅子に座った。稜はブランに、マルクスからの情報を、共有した。
ブランは長く、聞いていた。聞き終わった後静かに告げた。
「稜殿。──一つ、お聞きしたい」
「何だ」
「俺は十年前傭兵をやめるつもりで、アウリオンに、戻りました」
「書記官補として、新しい人生を、歩むつもりでした」
「しかしこの話を聞く限り俺はもう一度、剣を抜く必要が、ある」
稜はブランの左頬の、古い傷を見た。
「ブラン」
「はい」
「お前に剣を、抜いてもらいたくない」
「しかしもし抜く必要があるなら、お前の剣で、全てを止めてほしい」
ブランは頷いた。
「承知いたしました」
「契約更新日までの六日間私は、王宮と客殿の周辺を私の目で、警備いたします」
稜は深く頷いた。
─── ─── ───
ブランが退室した後、稜は一人書斎で夜を、迎えた。
窓の外の春芽月、八日目の月はまだ半月を、超えていなかった。
満月まで、あと六日。
稜は机の上の草案を、もう一度見た。
五十頁。半年の塊。
そしてその塊の向こう側に神崎玲の半年間の、帝国での同じ準備が、見えていた。
玲もおそらく帝国で、五十頁に相当する何かを、準備していた。
二人の別々の机で別々の国で、同じ方向を向いた準備が、並行して進んでいた。
契約更新日の会議室で、二つの準備が、交差する。
稜は茶を一口、飲んだ。
茶の湯気が、蝋燭の炎の上で静かに揺れていた。
稜は茶碗を両手で包み、長く湯気を見ていた。前世の高樹師は重要な案件の前夜、稜に何度か同じように茶を淹れる場面を見せていた。師の茶の淹れ方は、動作の一つ一つが瞑想の動作のように静かだった。湯を沸かす。茶葉を選ぶ。急須に注ぐ。蒸す時間を待つ。茶碗に注ぐ。五つの動作のそれぞれが同じ丁寧さで行われた。稜は三十代の前半その茶の淹れ方を見ながら、師の集中力の源を朧げに理解し始めた。集中力は激しい努力から生まれるのではなかった。集中力は日常の動作を、日常の丁寧さで行う習慣から生まれていた。今夜異世界の書斎で稜は前世の師の習慣を、そのまま続けていた。明日から神崎の到着までの二日間そしてその後の契約更新日の会議まで稜は自分の集中力を日常の茶の動作によって、静かに維持し続ける必要があった。
第七章の、五話目です。
朝、ロッテが父バルトの家を、訪ねました。
母の匙。
三年、父が取り出しては見ていた、木の匙。
書きながら父の三年の重みがこの小さな匙に、全部入っているんだなあと、思いました。
弟トビも、妹ミカも一度に、泣きます。
五十二歳の父の腕の中で、三人の兄妹が一度に、泣く。
この場面、書いていて、胸が詰まりました。
そしてマルクス・ディロンとの会談。
商人の三十年の覚悟が、稜の前で、動きます。
「恐れて逃げた父と祖父の轍を、踏むつもりは、ない」。
ここ、マルクスの目の色が、変わる瞬間でした。
書いていて、この老商人、本当にカッコいい。
次話サルマティアのユルゲン王子と、ブランの、馬乳酒の夜です。
少し、明るい回になります。




