月の庭、三人で過ごす夜
春芽月の月、五日目。深夜。
契約更新日まで、あと九日。
春芽祭が終わった翌日の夜稜はカスパルとアルデス公の二人を、密かに誘った。行き先は月の庭。半年前七日の旅で訪れたあの場所に今夜は三人で、一晩だけの訪問をする。月の庭への道は、馬で二日半。しかし今回は王宮の馬車を用いて、一晩で往復する強行軍だった。王宮には、「稜殿とカスパル殿とアルデス公が王宮内の参与室で、夜を徹して仕事をしている」という名目を、事前に作ってあった。副宰相ヴァルドが三人の不在を、知っていた。それ以外の誰にもこの深夜の旅は、告げていない。
契約更新日の前の、最後の静かな夜。稜は三人だけでもう一度、月の庭の千年の盤石の前に座る必要があると感じていた。
─── ─── ───
馬車は、夜の街道を、走った。
月の庭の深夜の空気は半年前の七日の旅の時と何かが微妙に違っていた。半年前の訪問では月の庭はカスパルの四十年の告白を受け止める場として、重い空気に満ちていた。今夜の訪問では月の庭は契約更新日に向けた最後の決断の場として、軽くはないが前向きな空気に包まれていた。同じ場所が、訪問者の心の状態によって違う空気を纏う。稜はこの現象を前世で多くの会議室や交渉場で、経験していた。場所には固有の空気があるというより、場所は訪問者の心を映し出す鏡のような役割を果たしていた。月の庭の千年の盤石は千年の間に、数え切れないほどの訪問者の心を映し出してきたはずだった。千年前のアドレアンとザラフの決意。千年の間の名もない王族や参謀の訪問。そして半年前のカスパルの告白と今夜の三人の覚悟。盤石そのものは変わらない。しかし盤石の上の月光が、訪問者の心の状態に応じて違う強度で反射していた。今夜の月光は半年前より明るく、強く感じられた。それは三人の心の覚悟が、半年前より明確に固まっているためだった。
王都を出て、山脈の麓へ。街道の両側の桜は既に花を散らし若葉が月の光を、柔らかく受けていた。馬車の中で、三人はほとんど話さなかった。それぞれがこれから月の庭で固める決断について、頭の中で整理をしていた。
カスパルは七十二歳。四十年の宰相として、半年前にあの場所で三つの告白をした。今夜、彼は「千年の属国条約の終わりに立ち会う覚悟」を三人で共有するために、向かっていた。
アルデス公は三十八歳。二十年の遺族訪問の男として五百人の遺族の子供たちに、新しい王国の形を見せる覚悟を、固めようとしていた。
稜は四十二歳。前世で神崎に嵌められた四十歳の男が異世界で参謀となり半年間、一人で五十頁の草案を書き続けた。今夜その草案の最後の輪郭を、三人で確定させる必要があった。
─── ─── ───
月の庭に、三人が到着したのは、深夜を過ぎていた。
半年前と何も変わっていなかった。十畳ほどの石の庭。中央の古い盤石。古代アウレリア語の刻印「千年、変わらず」。盤石の周りの四つの石のベンチ。北側の清水の泉。南側の一本の古い杉の木。春芽月の五日目の月が盤石の上に、細い光を落としていた。
三人は、それぞれのベンチに腰を下ろした。
しばらく、誰も話さなかった。
千年の静寂が、三人を包んだ。
カスパルが最初に口を開いた。
「稜殿」
「はい、カスパル殿」
「半年前、私はこの場所で、四十年の重荷を下ろしました」
「はい」
「あの時私はもう、この場所に来ることはないと思っておりました」
「四十年の告白は、一度きりのものだと思っていた」
「しかし今夜私はまた、この場所に来ている」
稜はカスパルの横顔を見た。半年前よりも老宰相の顔は、深くなっていた。四十年の執務室の机から副宰相に半分を委ねた半年の間カスパルは自分の内側と向き合う時間を、たっぷり持っていた。その時間が彼の顔に静かな深さを、刻んでいた。
─── ─── ───
「カスパル殿」
稜は静かに、尋ねた。
「今夜この場所にまた来てくださった理由を、お聞きしても、よろしいでしょうか」
カスパルは長く沈黙した。
それから盤石の刻印を、指で撫でた。
「稜殿。私は四十年の宰相として、千年の属国条約の中で、王国を守ってまいりました」
「その千年の属国条約が十日後、根本から変わる可能性がある」
「私の四十年は、変わる条約の中での、宰相の四十年でした」
「私の判断も私の沈黙も私の三案も全てが、千年の属国条約の枠の中で、行われてきた」
「その枠が今、外れようとしています」
カスパルは顔を上げた。
「稜殿。私はこの瞬間に、立ち会えることを光栄に、思います」
「しかし同時にこの瞬間は、私の四十年の、終わりの瞬間でもあります」
「四十年の宰相としての私は十日後一度、終わる」
稜は深く頷いた。
「カスパル殿。四十年が、終わった後何が、始まるのでしょうか」
カスパルは微かに笑った。
「分かりません」
「しかし分からないまま、立ち会う覚悟を今夜、固めに来たのでございます」
─── ─── ───
アルデス公が、続けた。
「稜殿」
「アルデス公」
「私も今夜、同じ覚悟を、固めに来ました」
「私は二十年、五百人の遺族を一軒ずつ、訪ねてまいりました」
「その二十年は、誰にも言わずに、続けてまいりました」
「妻のフィオナと私自身の、二人だけが、知っていた二十年でした」
「はい」
「しかし契約更新日の議論でこの二十年を公の場に、出す必要が、ある」
「稜殿が半年前に、仰いました。『あなたの二十年を契約更新日の一つの柱として、使わせていただきたく』と」
「はい」
「その使い方を今夜三人で具体的に、固めたい」
稜は頷いた。
「アルデス公。お考えを、お聞かせください」
アルデス公は盤石の刻印を見ながら、ゆっくりと語った。
「私の二十年の訪問は、計画ではなく、行為でした」
「目標も期限も、なかった」
「ただ毎年一度、遺族の家に、現れる。それだけの行為」
「この行為を契約更新日の議論の中で新しい条約の、人道的な柱として、使っていただきたい」
「ただし一つ、条件があります」
「どのような条件でしょうか」
「私の名前は、出さないでいただきたい」
「条約の柱として使うのは、二十年の行為そのものだけで、よい」
「その行為を、誰がしたかは、記録に残さなくてよい」
稜は長く、アルデス公の顔を見た。
─── ─── ───
「アルデス公」
稜は静かに問うた。
「名前を、出さないのは、なぜでしょうか」
アルデス公は微かに笑った。
悲しい笑みではなかった。静かな、了解の笑みだった。
「稜殿。私は、王にならなかった男です」
「五年前カスパル殿が弟レオンを、王に選ばれた時、私は静かにセイラン地方に戻りました」
「その時私は王家の表舞台から、降りる決断を、しました」
「二十年の訪問は王家の表舞台に立たない、一人の男の、生き方の選択でした」
「はい」
「その生き方を今契約更新日の議論で表舞台に引き戻してしまっては、二十年の訪問の意味そのものが、変質する」
「私は、表彰されるために、遺族を訪ねていたのではありません」
「褒められるために二十年を、過ごしていたのでは、ありません」
稜は深く頷いた。
コンサルタントとして前世で働いていた時多くのクライアント企業で静かな貢献者が表彰の場で突然照らされる瞬間を、見てきた。その照らし方が貢献者の内側の何かを壊してしまう場面も何度か、見てきた。アルデス公はその危険を自分自身で、正確に察知していた。
「アルデス公。分かりました」
「あなたの名前は、条約文書の中では、出しません」
「二十年の行為のみを『アウリオン王国の民への深い関与の二十年の事例』として、新しい条約の中に、組み込みます」
「ただし会議の議論の中で私があなたの名前を、出さざるを得ない瞬間が、来るかもしれません」
「その時の判断は私に、任せていただきたい」
アルデス公は頷いた。
「稜殿の判断に、任せます」
─── ─── ───
沈黙が、しばらく続いた。
月が少しずつ、盤石の上を、移動していた。
稜は懐から、一通の古い書簡を、取り出した。
カスパルとアルデス公が、書簡を見た。
稜は静かに告げた。
「お二人に一つ、お見せしたいものが、あります」
「三ヶ月前帝国から、届いた書簡です」
「差出人は、神崎玲」
カスパルの目が、広がった。
アルデス公も、息を呑んだ。
「──神崎殿から、でございますか」
「はい」
稜は書簡を、開いた。
中には一行だけ、書かれていた。
「イリアは元気だ。春芽祭の後、会えるだろう」
三人は、その一行を長く、見つめていた。
三ヶ月前稜はこの書簡を、一人で受け取った。弟子たちには、見せていない。ロッテにも、見せていない。今夜初めて、二人に共有した。
カスパルが静かに尋ねた。
「稜殿。なぜ三ヶ月お一人で、この書簡を、お持ちになっていたのでしょうか」
「カスパル殿。この書簡をロッテに、すぐに見せることは、できなかった」
「三ヶ月前の時点では帝国がイリアをどういう形で、アウリオンに戻すのかまだ、決まっていなかった」
「もしロッテに『母上は元気だ』と告げた後帝国が何らかの事情で帰還を引き延ばした場合、ロッテの心を二度、傷つけることになる」
「だから帝国からの具体的な帰還の予告が届くまで、この書簡を私一人で、持っていた」
アルデス公が、深く頷いた。
「稜殿。参謀としての判断、理解いたします」
─── ─── ───
そして今三日前のハーゲン帝国からの正式な書簡で、イリアの同行が、確定した。
ロッテは三日前に母の名前が書簡に記されていることを、知った。しかし三ヶ月前から稜が書簡を持っていたことはロッテには、まだ告げていない。
稜は二人に、続けた。
「契約更新日の後ロッテが落ち着いた頃に、この三ヶ月前の書簡のことは、告げるつもりです」
「私が三ヶ月、一人で背負ったことはロッテに、申し訳ないと思っております」
「しかしあの時点では、これが最善の判断だったと私は、信じています」
カスパルは頷いた。
「稜殿。その判断は、四十年の宰相から見ても、正しい判断でございます」
「参謀は時に弟子に告げないことを、選ぶ必要が、あります」
「それは、冷たさではなく、深い配慮でございます」
稜は微かに笑った。
「カスパル殿に、そう言っていただけると救われます」
─── ─── ───
三人は、盤石の前でもう少し、話をした。
契約更新日の、具体的な段取り。稜の五十頁の草案のどの章をどの順番で、開示するか。四大国の使節団のうち、誰を最初に説得するか。レオン王の役割を、どう設計するか。
話は、夜明けの一時間前まで、続いた。
最後に、カスパルが静かに、告げた。
「稜殿」
「はい」
「私は神崎殿に会うのが、楽しみです」
稜は驚いた顔をした。
「カスパル殿が楽しみ、でございますか」
「はい」
「稜殿が前世で十五年弟子として教えてこられた男が今、帝国の宰相として、アウリオンに来る」
「その男が、どんな男なのか、この目で見たい」
アルデス公も頷いた。
「私も、楽しみです」
「稜殿が半年書斎で一人で、書き続けた草案と帝国宰相の提案が、どれだけ重なるのか」
「重なった時、何が見えるのか」
「見届けたい」
稜は微かに笑った。
「お二人にそう言っていただけると私も、玲に会うのが、楽しみになってまいります」
─── ─── ───
夜明け前三人は、月の庭を後にした。
馬車に戻る前稜は一人、盤石の前に、戻った。
古代アウレリア語の刻印「千年、変わらず」を指で、撫でた。
千年前初代王アドレアンと参謀ザラフが、同じ盤石の前で、独立の決意を固めた。
今夜千年の属国条約の最後の九日前に三人が同じ盤石の前で、新しい時代の決意を、固めた。
千年変わらず、だった。変わらないのは決断の前に人が集まる場所の、静寂だった。
稜は刻印から、指を離した。
月は既に、西の空に傾き始めていた。
春芽月の五日目の月が、一日を閉じようとしていた。
馬車に戻る途中アルデス公が、稜の隣を歩きながら、静かに告げた。
「稜殿」
「はい」
「私の二十年の訪問で一人契約更新日の会議室に、入ってもらいたい遺族が、おります」
「どなた、でしょうか」
「グスタフ・オレト。セイラン地方の、老農夫」
稜は微かに笑った。
「アルデス公。グスタフ殿は既に、アウリオンに、来ております」
アルデス公は驚いた顔をした。
「いつ、来られた」
「二日前。春芽祭の初日に私は市場の井戸の脇で、グスタフ殿と三十秒、すれ違いました」
アルデス公は長く、稜を見ていた。
それから深く頷いた。
「稜殿。あなたはやはり、参謀でございますな」
─── ─── ───
馬車は、王都への帰り道を、走り始めた。
車内の三人は既に、眠りに落ちていた。
半年の準備と一晩の決断の後三人の身体は、深い休息を、求めていた。
稜の手の中には神崎からの、三ヶ月前の書簡がまだ、握られていた。
「イリアは元気だ。春芽祭の後、会えるだろう」。
九日後ロッテと母の、三年ぶりの再会が、待っていた。
春芽月の細い月が、馬車の窓の外で静かに沈み始めていた。
馬車の中で稜は窓の外を流れる夜の街道を、眺めていた。半年前の七日の旅の時、この同じ街道を昼間カスパルと馬車で走った。あの時は桜がまだ蕾だった。半年が経ち、桜は花を散らし若葉に変わっていた。変わらないのは街道の石畳の千年の摩耗だった。千年前、アドレアン初代王の使者がこの同じ石畳を走った。千年後、稜とカスパルとアルデス公が同じ石畳を走っている。石畳は変わらず、走る者だけが時代ごとに変わる。稜は前世で日本の旧街道を歴史好きの友人と歩いた記憶を、ふと思い出した。東海道の箱根の石畳。あの石畳も三百年以上、同じ位置にあった。石畳というものは人間の時間の感覚を、静かに超える存在だった。三日月の光が遠くの桜の若葉を、銀色に照らしていた。
第七章の、三話目です。
稜とカスパルとアルデス公の三人の、夜の月の庭でした。
半年前の七日の旅と違って、今夜は一晩。
強行軍の深夜の旅でした。
書きながら王宮の馬車の、夜の街道の暗さが、頭に浮かんでいました。
アルデス公の「名前を出さないでいただきたい」という申し出。
書いていて、この場面、しっくり来ました。
二十年、誰にも言わずに続けてきた行為。
それを表彰の形で照らしてしまうと、何かが変質する。
公自身が、それを正確に分かっていた。
そして、神崎からの三ヶ月前の書簡。
稜が一人で三ヶ月、持ち続けていた。
ロッテに告げずにいた判断。
カスパルが「それは冷たさではなく、深い配慮」と受け止める場面。
ここ、私も書きながら、胸が熱くなりました。
次話、四大国の使節団が、順に到着します。
契約更新日まで、あと七日。




