表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/60

春芽祭の、笑い声

 春芽月の月、三日目。昼前。

 アウリオンの王都は春芽祭で、沸いていた。

 王都の南の大通りから中央の市場広場まで三日間、町全体が祭りの空気に包まれる。通りの両側に屋台が並ぶ。子供たちが菓子の粉を口の周りにつけて、走り回る。楽団が広場の中央で、古い曲を奏でる。春芽祭はアウリオンの千年続く、春の祝祭だった。冬の終わりを告げ夏の始まりを迎える三日間の町全体の、呼吸のような祭り。

 今年の春芽祭は例年より人出が、多かった。

 町の人々はまだ契約更新日の詳細を、知らなかった。しかし四大国の使節団が近くアウリオンに到着するという噂は、既に王都の隅々にまで広がっていた。王宮が何かを変えようとしている。そんな予感が町の空気に微かな緊張と期待を、混ぜていた。

            ─── ─── ───

 稜は朝四人の弟子を、王宮の北門に、集めた。

 今日は全員で、町に出る。

 半年前の月の庭の旅以来五人が一緒に、祭りに出かけるのは、初めてだった。

 「師匠」

 ロッテが目を、丸くした。

 「今日お仕事は、よろしいのですか」

 「ああ。今日は祭りを、見に行く」

 「弟子たちと一緒に」

 セレネは平民の娘の服を、着ていた。

 王女としての装いを全て王宮に、置いてきた。

 金の髪は後ろで一つに、束ねていた。

 この恰好で町に出るのは、セレネにとって、初めてだった。

 クロヴィスは書記官補の服ではなく孤児院時代の、古い上着を、着ていた。

 十六歳の少年の昔の姿に、近い恰好だった。

 ブランはいつも通り旅装に、近い服装だった。

 しかし剣は、持っていなかった。

 町には剣を、持ち込まない。

 十年の傭兵の、古い習慣だった。

 稜は四人を、見渡した。

 「今日三日間祭りの間、俺は師匠と呼ばなくていい」

 「普通に、稜殿と呼んでくれ」

 「そして弟子としてではなく、友人として、歩こう」

 四人は頷いた。

            ─── ─── ───

 北門を出て、中央の大通りへ、向かった。

 通りは人で、溢れていた。

 祭りの、最初の日だった。

 ロッテが最初に、走った。

 商業区の、一つの屋台を、見つけた。

 「稜殿クロヴィス、セレネ、ブランこっち、こっち」

 屋台は、甘い菓子を、売っていた。

 菓子の名は、蜜蓮。

 薄い餅の皮に、蜜と蓮の花の花弁を包んだ、小さな菓子だった。

 春芽祭の、三日間だけ売られる、季節の菓子。

 ロッテは屋台の前で、立ち止まった。

 そして急に、動かなくなった。

 四人が、彼女の隣に、並んだ。

 「ロッテ。どうした」

 ロッテは答えなかった。

 ただ蜜蓮を、見ていた。

 屋台の主人が、鉄板の上で蜜蓮を、焼いていた。

 蜜の甘い香りが、春の空気に、広がっていた。

 セレネがロッテの肩に、手を置いた。

 「ロッテ。──お母上のことを、思い出された」

 ロッテは小さく頷いた。

 「三年前の、春芽祭」

 「最後に母と二人で、この屋台で蜜蓮を、食べました」

 「母は一つ食べて『ロッテこの蜜蓮は来年も、食べようね』と、言いました」

 「来年、母は帝国に、連れて行かれました」

            ─── ─── ───

 稜は屋台の主人に、蜜蓮を五つ、注文した。

 主人は、鉄板の上の蜜蓮を丁寧に、紙に包んだ。

 五人は屋台の脇の、小さな石のベンチに、座った。

 蜜蓮を一口、食べた。

 甘い蜜の味と蓮の花の微かな、青い香り。

 口の中で春の、味がした。

 ロッテは一口食べて、目を閉じた。

 三年前の味と同じだった。

 屋台の主人も、同じ男だった。

 祭りの三日間の屋台は千年同じ場所で、同じ人々が、続けていた。

 ブランがぼそりと呟いた。

 「──十年ぶりに、食った」

 「ブラン蜜蓮、知ってたの」

 ロッテが聞いた。

 「ああ。俺は十八歳まで、アウリオンで、暮らしていた」

 「毎年、春芽祭で蜜蓮を、食っていた」

 「傭兵になってから十年、食えなかった」

 「十年ぶり、なんだね」

 「十年ぶりだ」

 ブランの左頬の古い傷が、笑みに合わせて、引き攣った。

 しかしその笑みは粗野な、傭兵の笑みでは、なかった。

 十八歳の少年の、春芽祭の笑みだった。

            ─── ─── ───

 蜜蓮を食べ終えた後五人は、別々の方向に、散らばった。

 ブランは西の酒場街に、向かった。十年ぶりにかつての仲間に、会いに。

 クロヴィスは北の蹄鉄屋の通りに、向かった。孤児院時代の、友人と再会する約束だった。

 セレネは中央の広場で、楽団の音を聞いていた。王女としてこういう場所に来たことは、なかった。

 ロッテは一人で町を、歩いた。母との思い出の場所を一つずつ、辿っていた。

 稜は市場の別の屋台で、一人の老農夫と偶然、すれ違う予定だった。

            ─── ─── ───

 稜は市場の北の、古い井戸の脇に、立っていた。

 そこで、一人の老農夫が、近づいてきた。

 「すみません。蜜蓮の屋台は、どちらでございましょうか」

 稜は振り返った。

 老農夫は六十八歳白髪焼けた顔、太い指。

 北のセイラン地方の、農民の服装。

 「蜜蓮でしたら、中央の大通りを南に、三町でございます」

 「ありがとうございます」

 老農夫は、小さく頭を下げて南へ、歩き始めた。

 稜も軽く、会釈を返した。

 三十秒の、会話だった。

 通りすがりの、道を尋ねる、他愛ない会話。

 周りの誰も、気に留めなかった。

 しかしその三十秒で、稜と老農夫グスタフは必要な情報を互いに、交換していた。

 グスタフはアウリオンに、到着した。

 稜は契約更新日までの残り十一日の、グスタフの動きを、確認した。

 グスタフはアルデス公の領地の代表として契約更新日に、証人として王宮に、入る予定だった。

 老農夫が南へ歩いて見えなくなった後、稜は静かに西の方向へ歩いた。

 西の酒場街で、ブランと合流する約束だった。

            ─── ─── ───

 同じ頃ブランは西の酒場街の、古い酒場「古鉄」の扉を、開けていた。

 十年ぶりの、店だった。

 店主は、当時と同じ男。十年で少し老けていた。

 「ブラン」

 店主が、驚いた顔で、ブランを見た。

 「──十年ぶりかい」

 「十年ぶりだ」

 「生きて、いたのか」

 「ああ」

 店主は長い間ブランを、見ていた。

 それから奥の席に、案内した。

 十年前、ブランがいつも、座っていた席だった。

 奥の席に、四人の男が、座っていた。

 全員、五十前後。

 皆、ブランを見て目を、広げた。

 「ブラン」

 「ブランじゃねえか」

 「お前、生きてたのか」

 「十年だぞ、十年」

 四人はブランの、かつての傭兵仲間だった。

 十年前アウリオンから、北の大陸に一緒に、渡ろうとした四人。

 ブランは一人で、北へ行った。四人はアウリオンに、残った。

 四人は傭兵をやめて、別の仕事をしていた。一人は西門の警備。一人は商人の護衛。一人は酒場の主人。一人は王都の鍛冶屋。

 ブランは四人の横に、座った。

 店主が酒を五つ、運んできた。

 「乾杯しよう、ブラン」

 「北の大陸の話を、聞かせてくれ」

 「お前何を、見てきた」

 ブランは十年の放浪の話を、ぽつりと語り始めた。

            ─── ─── ───

 同じ頃、クロヴィスは北の蹄鉄屋の通りで、一人の青年と向かい合っていた。

 青年の名は、ミロ。十六歳。クロヴィスの孤児院時代の、幼馴染。

 二人は六歳の時、同じ孤児院に、預けられた。

 ミロは十歳の時、蹄鉄屋の見習いに、出た。

 クロヴィスは十二歳の時、王宮の書記官補の見習いに、出た。

 二人は十年近く、会っていなかった。

 「クロヴィス」

 「ミロ」

 二人は互いを見て、長い間何も、言わなかった。

 十年。

 二人の、別々の道。

 ミロは蹄鉄屋の見習いとして今はもう、一人前の職人だった。腕は逞しく手は火傷の跡で、硬くなっていた。

 クロヴィスは書記官補として王宮で、書類を扱っていた。手はミロとは全く違う細く、白い手だった。

 ミロが先に、口を開いた。

 「──元気か」

 「うん。元気だよ」

 「王宮、どうだ」

 「忙しいけど、面白い」

 「書記官、か」

 「うん」

 ミロは少し笑った。

 「俺たち六歳の時二人とも、何にもできなかったな」

 「孤児院で毎日、泣いていた」

 「そうだったね」

 「今は俺は蹄鉄を、打てる。お前は書類を、書ける」

 「ちゃんと大人に、なったな」

 クロヴィスは小さく頷いた。

 孤児院を出てから、十年。

 二人はそれぞれ違う道を、歩いた。

 しかし六歳の時同じ孤児院で泣いていた二人の少年が今、大人として、再会していた。

            ─── ─── ───

 同じ頃セレネは中央の広場の、噴水の脇に、立っていた。

 楽団が、古いアウレリアの曲を、奏でていた。

 『春の水』という題の千年続く、アウリオンの、民謡。

 セレネは噴水の縁に腰を下ろして、楽団の音を、聞いていた。

 王女として宮廷の楽団の、荘厳な演奏は何度も、聞いてきた。

 しかし町の広場の素朴な、民衆のための楽団の音は、初めてだった。

 楽団は、完璧ではなかった。時々音が、外れた。

 しかしその不完全さが、人々を踊らせる音を、作っていた。

 広場の中央で町の娘たちが手を繋いで、輪になって、踊っていた。

 一人の娘がセレネに、気づいた。

 娘は、セレネの平民の装いを見て、気にしなかった。

 手を、差し出した。

 「ねえ一緒に、踊らない」

 セレネは驚いた。

 王女として、町の娘に手を差し出された経験は、なかった。

 十六歳の王女は一瞬、迷った。

 それから微かに微笑んで娘の手を、取った。

 広場の輪の中にセレネが入った。誰も彼女が王女であることを、知らなかった。みんなただ春芽祭の町の娘として、セレネを迎え入れた。セレネは初めて、名もない一人の娘として祭りの輪の中にいた。

 十六歳の王女の人生は十六年の間、常に王女としての時間だった。王宮の壁の内側で王族としての教育を受け王族としての衣装を纏い、王族としての立ち居振る舞いを身につけてきた。帝国の人質として八年過ごした幼い頃も、王女という身分の鎖はセレネの身体から外れなかった。アウリオンに戻った後も、王宮の中で彼女は常にセレネ王女として存在していた。しかし今日広場の輪の中でセレネは初めてただの一人の娘として、町の娘たちと手を繋いでいた。楽団の不完全な音が広場の空気を、奇妙な軽さで満たしていた。セレネはその軽さの中で、自分の足が石畳の上を思いのままに動いているのを感じていた。王宮の舞踏会で厳しく型の定められた宮廷舞踊を、何度も踊ったことがあった。しかし町の娘の踊りは型がなかった。ただ楽団の音に合わせて笑って手を繋いで、ぐるぐる回るだけ。それなのにセレネの胸の中は、宮廷舞踊の時よりずっと温かかった。一緒に踊っていた娘の一人がセレネの金の髪に気づいて、軽く笑った。「お姉さん、綺麗な髪ね」。セレネは微笑み返した。娘はセレネが王女であるとは気づいていなかった。ただ、祭りに来た金髪の美しい娘として受け止めていた。セレネはこの娘の無邪気な賛辞を王宮で受け取る儀礼的な賛辞より遥かに深く、胸に刻んだ。名もない町の娘から名もない町の娘として受け取った、最初の褒め言葉だった。噴水の水しぶきが春の陽に、小さな虹を作っていた。その虹の下で輪は、ぐるぐると回り続けた。

            ─── ─── ───

 同じ頃ロッテは一人で王都の南の、古い街区を、歩いていた。

 三年前、母と住んでいた、家の跡。

 家は母の徴用の後、父バルトが、売り払った。

 別の家族が、住んでいた。

 ロッテは家の前の、古い石畳に、立った。

 三年前の春芽祭の日母はこの石畳の上にしゃがんで、ロッテの靴の紐を、結んでくれた。

 「ロッテ今日、お母さんとお祭りに、行こう」

 「蜜蓮を一緒に、食べようね」

 「それから噴水の広場で、踊ろう」

 あの日の母の声が今石畳の上で、ロッテの耳に、聞こえた気がした。

 ロッテは石畳に、しゃがんだ。

 指で石畳を、触った。

 三年前の母の、手の温度はもうここには、残っていなかった。

 しかし、母との時間の記憶は、石畳の中に静かに残っていた。

 十日後母はハーゲン帝国の使節団と共に、アウリオンに、戻ってくる。

 三年ぶりの、再会。

 ロッテは石畳の上で深く息を、吐いた。

            ─── ─── ───

 夕刻五人は、王宮の北門で、合流した。

 全員少しずつ、疲れていた。

 しかし全員少しずつ、何かを胸に、抱えていた。

 ブランは十年ぶりの、かつての仲間との、再会。

 クロヴィスは幼馴染との十年の、別々の道の確認。

 セレネは初めての、町の娘としての、踊り。

 ロッテは母との、三年前の記憶の、石畳。

 そして稜は老農夫グスタフとの三十秒の、偶然の会話。

 北門の前で、稜は四人を見た。

 「今日、よい一日だったか」

 四人は頷いた。

 「よい一日でした、師匠」

 ロッテが答えた。

 「稜殿、と呼んでくれと今日は言ったぞ」

 ロッテは少し笑った。

 「……稜殿」

 「ああ」

 稜は微かに笑った。

            ─── ─── ───

 その夜、稜は書斎で手帳を、開いた。

 ペンを、握った。

 一行、書いた。

 「春芽月、三日。春芽祭の、一日目。四人の弟子、それぞれの時間を過ごした」

 少し考えもう一行、書いた。

 「グスタフ、到着。契約更新日まで、あと十一日」

 窓の外の春芽月の三日目の細い月が、王宮の東の空に、昇り始めていた。

 祭りはまだあと二日、続く。

 町の笑い声は、王宮の窓まで微かに届いていた。

 祭りの笑い声を聞きながら稜はこの一日の五人の弟子たちの動きを、静かに思い返していた。ロッテが蜜蓮の屋台で動かなくなった瞬間。ブランが古鉄の酒場で、十年ぶりに仲間と杯を交わした瞬間。クロヴィスが蹄鉄屋の通りでミロと、十年の別々の道を確認し合った瞬間。セレネが広場の輪の中で、名もない町の娘として踊った瞬間。四つのそれぞれの時間が同じ一日の王都の中で、同時に進行していた。弟子一人ひとりがそれぞれの形で、前世と異世界の時間の重なりを抱えていた。稜は前世で若い社員を育てていた時、彼らの中に同じ構造の時間を見ていた。過去と現在が一人の人間の中で複数の層として、同時に存在する。その層を整理することが、師の仕事の半分だった。

 一日の四人の弟子の動きを、稜は思い返していた。蜜蓮の屋台で動かなくなったロッテ。古鉄の酒場で十年ぶりに仲間と杯を交わしたブラン。蹄鉄屋の通りでミロと再会したクロヴィス。広場の輪の中で町の娘として踊ったセレネ。四人の一日の時間は、それぞれが自分の過去の記憶と向き合う時間だった。この時間が四人の今後の十五年の仕事の、根の部分で重要な意味を持つ。稜は前世で多くの若い部下を育てた経験から、その確信を持っていた。人間の成長は未来に向かう動きだけで完成しない。過去と向き合い過去を引き受ける動きが、未来への力の半分を作る。今日の春芽祭は四人の弟子の、その過去と向き合う一日だった。

第七章の、二話目です。

春芽祭の、一日目でした。

祭りの回って、書いていて、楽しいです。

いつもの政務の話ではなく五人が町に出て、それぞれ、時間を過ごす。

書きながら、いつのまにか、五人と一緒に祭りを歩いている気分になっていました。

蜜蓮の屋台の場面。

ロッテが、動かなくなる。

三年前の母との記憶が、鉄板の上の蜜蓮の香りと共に、戻ってくる。

書きながら私も、なんだか、泣きそうになりました。

そしてブランが、十年ぶりに酒場へ。

クロヴィスが、幼馴染と再会。

セレネが初めて、町の娘として踊る。

四人とも、成長してきたなあと、改めて思いました。

次話月の庭に、稜とカスパルとアルデス公の三人で、夜の訪問です。

半年ぶりの、月の庭。

三人だけの、静かな夜になります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ