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四大国の使者が、来る

 春芽月の月、一日目。朝。

 月の庭への旅から、半年が経っていた。

 王宮の外の桜の並木は蕾から花へ、花から若葉へと季節を進めていた。アウリオン王宮の北門に立つと遠くの丘陵地帯の雪が溶けて、小さな川が銀色に光っているのが見えた。霜月の終わりに月の庭から戻った一行はこの半年それぞれの場所で、静かに働き続けていた。カスパル宰相は副宰相ヴァルドに執務の半分を委ね、残りの半分を議会制の再提案の準備に当てていた。アルデス公は王国参与として北翼の書斎に、毎日通っていた。セレネは王女としての学習時間を続けロッテは書記官助手として、王族認定の手続きを進めていた。クロヴィスは祖父ルクレティウスの足跡を、冥書庫で調べ始めていた。ブランは王都の西門近くの古い宿に住みながら町の空気に、ゆっくりと馴染んでいた。

 そして稜は書斎で、一冊の分厚い書類の束を毎晩一人で書き続けていた。半年前月の庭から戻った夜から、ペンが止まらなかった。四十年の宰相の告白が稜の中で、少しずつ別の形へと変わっていた。

            ─── ─── ───

 朝、王宮の北門に、早馬が到着した。

 帝国からの、正式な書簡だった。稜は書簡を第一の間でカスパルとアルデス公の二人と共に、開いた。

 書簡の内容は、三つの予告だった。

 第一に契約更新日を、春芽月の十四日目と正式に定めること。半年前の合意の、確認だった。

 第二に、四大国の使節団を一度にアウリオンに招待すること。ヴェロニア共和国サルマティア王国オスタール公国、そしてハーゲン帝国の四カ国。千年の属国条約の当事国が、全て一堂に会する。

 稜は書簡を読みながら、ゆっくりと息を吐いた。

 四大国の代表が、一度に集まるのは千年で、初めてのことだった。

 カスパルが稜の横で書簡を、覗き込んだ。

 「稜殿」

 「はい」

 「これは、──ただの契約更新日では、ございませんな」

 「はい、カスパル殿」

 「神崎殿はこの日に何かを、仕掛けるおつもりか」

 稜は頷いた。

            ─── ─── ───

 書簡の、第三の予告が、最も重要だった。

 ハーゲン帝国の使節団の、顔ぶれ。

 宰相・神崎玲。視察官セイゲル・ロスバッハ。書記官数名。そして同行者として、イリア・シエルクの名前が、記されていた。

 アルデス公が、その一行を読んで、目を上げた。

 「稜殿。これは」

 「はい、アルデス公」

 「ロッテ殿のお母上が神崎宰相と共に、アウリオンにいらっしゃる、ということでございますな」

 「はい」

 三人は長く、書簡を見ていた。

 この一行の意味は、重い。

 三年前帝国の徴用で連れ去られた一人の女性が、帝国の宰相の公式の同行者として戻ってくる。それは神崎がロッテの母の帰還を契約更新日の議題の一つに組み込む、という明確な合図だった。

 稜は席を立った。

 書斎に戻って、自分の草案をもう一度、見直す必要があった。

 半年かけて温めてきた五十頁の草案が今日の書簡で、最後の形を、取り始めていた。

            ─── ─── ───

 その朝ロッテは書記官室で、普段通りの仕事を、していた。

 クロヴィスが隣の席で、冥書庫から取り寄せた古い系譜の巻物を、整理していた。

 二人は朝の挨拶と書類の受け渡しの、簡単な言葉を、交わしていた。

 書記官室の空気は、いつもの春の朝と変わらなかった。

 そこに、セレネが静かに、入ってきた。

 王女の訪問は、書記官室では、珍しいことだった。

 ロッテとクロヴィスが同時に、立ち上がって、一礼した。

 「殿下」

 「ロッテ」

 セレネの声は、いつもの王女の、凛とした声だった。

 しかしロッテにはその声の奥に普段と違う、微かな何かが、感じられた。

 四年の書記官助手の経験がロッテに、その何かを、察知させた。

 「殿下。何か、ございましたか」

 「ロッテ。師から伝言が、ある」

 セレネは書記官室の他の書記官たちに、軽く一礼した。そしてロッテとクロヴィスを小さな会議室に、誘った。

            ─── ─── ───

 会議室の扉を閉めて、セレネは立ったまま、告げた。

 「ロッテ。師は、帝国から届いた書簡を今朝、受け取られた」

 「はい」

 「書簡には、貴女のお母上の名前が、記されていた」

 ロッテの手が、震えた。

 書記官助手の四年で何度も書類を扱ってきた彼女の手がこの瞬間、コントロールを、失った。

 「──母の名前、でございますか」

 「はい」

 「どのような形で、でございましたか」

 セレネは静かに答えた。

 「ハーゲン帝国の使節団の、同行者として。イリア・シエルク、書記官助手。十日後の契約更新日にこのアウリオン王宮に、到着される」

 ロッテの目が、潤んだ。

 しかし涙は、落とさなかった。

 十日後、三年ぶりに母と再会する。

 その事実を彼女は、立ったまま、受け止めようとしていた。

 クロヴィスがロッテの肩に静かに手を置いた。

 孤児として育った十六歳の少年の手が、王家の遠縁の二十歳の娘の肩に静かな温かさを、与えた。

            ─── ─── ───

 セレネは続けた。

 「ロッテ。もう一つ師から、伝言がある」

 「はい、殿下」

 「この契約更新日は、単なる契約の更新ではない。千年の属国条約の形が、変わる日になる可能性がある」

 「──形が変わる、と申しますと」

 「師は半年の間書斎で、一つの草案を、書き続けておられた」

 「その草案を契約更新日の前日に、陛下と宰相と全員の前で初めて、開示される」

 「ロッテ。貴女の王族認定とお母上の帰還は、その草案の、重要な一部となる」

 ロッテは深く頷いた。

 半年前稜が王宮の第一の間で三冊の法典を広げてロッテの王族認定の道筋を、六人で議論した、あの日。

 稜はその時から、半年先の契約更新日を、見据えていた。

 今朝、ロッテはそれを初めて、理解した。

            ─── ─── ───

 セレネが退室した後、ロッテは書記官室の自分の席に、座った。

 いつもの机。いつもの書類。しかし、書類の文字が今朝、うまく読めなかった。

 母が、来る。

 十日後、三年ぶりの再会。

 三年の沈黙が、この十日でゆっくりとほどける準備を、始めていた。

 クロヴィスがロッテの前に静かに茶を置いた。

 「ロッテさん」

 「ありがとう、クロヴィス」

 「今日の仕事は僕が代わりに、やります」

 「……そうさせて、ください」

 クロヴィスは静かに頷いた。

 十六歳の少年が二十歳の姉の代わりに、書記官室の書類を、整理し始めた。

            ─── ─── ───

 同じ時刻、稜は書斎で一人、手紙を書いていた。

 宛先は北のセイラン地方アルデス公の領地の、小さな村の、一人の老農夫。

 半年前稜が密かに、送った先遣の使者の、相手だった。

 老農夫の名は、グスタフ。六十八歳。

 アルデス公が二十年遺族訪問を続けていた、五百人の遺族の、最初の一人。

 グスタフは霧峰で息子を失っていた。二十年前のこと。そしてアルデス公は息子の死の翌年から毎年一度、グスタフの家を訪ねていた。アルデス公の遺族訪問は独自の流儀を持っていた。手紙を先に送らない。突然、馬で村に現れる。家の戸を叩き、遺族の名前を呼ぶ。中に通される。一時間ほど茶を飲みながら、死んだ家族の思い出話を聞く。慰めの言葉を言わない。代わりに、死んだ者の名前を何度も口にする。死んだ者が忘れられていないことを示す。一時間後に立ち上がる。銀貨を置いていく。多すぎず少なすぎず、一家の一月の生活費に相当する額。そして翌年もまた来ることを告げずに去る。翌年、また現れる。二十年、この流儀が変わらなかった。五百人の遺族のうち半分は、既に親世代が亡くなっていた。しかしアルデス公は子の代孫の代にも、同じ流儀で訪問を続けていた。訪問を受けた遺族たちは、お互いに連絡を取り合うことはなかった。それぞれが自分の家だけに訪ねてくる一人の男として、アルデス公を受け止めていた。二十年五百家の間で、この訪問は共有されないまま続いていた。稜が半年前冥書庫でアルデス公の記録を調べ始めた時この二十年の全体像はまだ、誰にもまとめられていなかった。稜はマテウス院長の協力で、遺族の村の地図を作った。北のセイラン地方中央のオロノ盆地、南のミハエル海岸。五百家の分布が紙の上に浮かび上がった。その五百家をアルデス公は二十年、一軒ずつ歩いて訪ねていた。紙の上の地図を前に、稜は長く動けなかった。前世で稜がコンサルタントとして大企業の再建計画を、五年単位で立ててきた経験があった。しかしアルデス公の二十年は計画ではなかった。計画は目標に向かって進む。公の訪問は目標を持たなかった。ただ、遺族の家に毎年一度現れる。それだけ。目標のない、しかし二十年続いた静かな行為。稜は前世のどのコンサルタント経験にも、これに類する例を知らなかった。

 稜は半年前グスタフに、一つの依頼を、手紙で送った。

 「グスタフ殿。契約更新日の十日前、アウリオンの春芽祭に来てくださらぬか。短い時間で構いません。祭りの人混みの中で、私と一度すれ違うだけで構わないのです」

 グスタフは返事を、書いてきた。

 「稜殿。行きます。アルデス公の、ためでございます」

 その約束の日が今日から、二日後だった。

 稜はグスタフに、新しい手紙を、書いていた。

 春芽祭の、具体的な合流地点の、連絡だった。

            ─── ─── ───

 なぜ、グスタフを、アウリオンに呼んだのか。

 稜は書きながら、半年前の自分の意図をもう一度、確認していた。

 契約更新日の十日前十二日前、十四日前の、三段階の準備。

 祭りの人混みの中で、グスタフが、稜とすれ違う。

 それはアルデス公の二十年の遺族訪問を王都の誰かが、目撃するための、設計だった。

 アルデス公は王国参与として、アウリオン王宮に戻っていた。

 しかし五百人の遺族との関係はまだ、王都の誰にも、知られていなかった。

 稜は契約更新日の議論の中でアルデス公の二十年を千年の属国条約の、解体の根拠の一つに、使うつもりだった。

 そのためにはアルデス公の二十年を知る遺族の一人を、契約更新日の舞台に、招いておく必要があった。

 グスタフはその一人だった。

 稜は手紙を、書き終えた。

 封筒に、入れた。

 午後の早馬で、グスタフの元へ、届く手筈だった。

            ─── ─── ───

 午後稜は書斎を出て、王宮の中庭を、一人で歩いた。

 中庭の桜は花びらを地面に、散らし始めていた。

 春が緩やかに、過ぎていた。

 中庭の北の端で、稜は足を止めた。

 アルデス公が一人で、立っていた。

 四十歳、白髪混じり、痩せた姿。

 参与として王宮に戻ってから、半年。

 公はこの中庭を毎日一度、歩く習慣を、持っていた。

 稜はアルデス公に、近づいた。

 「アルデス公」

 「稜殿」

 「書簡が、届きました」

 「はい。カスパル殿から、聞きました」

 「四大国の使節団が、揃います」

 アルデス公は頷いた。

 それから桜の木を、見上げた。

 「稜殿」

 「はい」

 「私は二十年、遺族を訪ねてまいりました」

 「その二十年の、意味が今形を、取ろうとしております」

 稜は公の横顔を、見ていた。

 四十歳の男の、深く削れた顔。

 二十年の一軒ずつの訪問の、時間がその顔に、刻まれていた。

 「アルデス公」

 「はい」

 「あなたの二十年を契約更新日の議論の、一つの柱として、使わせていただきたく」

 アルデス公は稜を見た。

 青い目の奥で、静かな了解が、動いた。

 「稜殿。私の二十年で、よろしければ、何なりと」

 「ありがとうございます」

            ─── ─── ───

 その夜稜は書斎で五十頁の草案の、最後の章を、書いていた。

 章の題は、「アルデス公の二十年千年の属国条約の、解体の根拠」。

 公の遺族訪問の二十年を新しい二国間条約の、人道的な柱として、明文化する章だった。

 稜はペンを置いた。

 窓の外の春芽月の一日目の細い月が、アウリオン王宮の東の空に、昇り始めていた。

 契約更新日の、春芽月の十四日目の満月まで、あと十三日。

 千年の属国条約の、最後の十三日が、今夜から静かに始まろうとしていた。

 稜はペンを置いた後も、しばらく窓の外の月を見ていた。半年前月の庭から戻った夜の月も、同じように細い月だった。あの夜五十頁の草案の最初の構想が、稜の頭の中で形を取り始めた。半年の間に、構想は具体的な段階計画へと育った。今夜、その計画の最後の仕上げの段階が始まろうとしていた。稜は異世界に転生して二年の時間を、頭の中で振り返っていた。最初の一年は異世界の空気に慣れることで、精一杯だった。二年目カスパルアルデス公四人の弟子との関係が、徐々に深まった。そして今、三年目の最初の大きな仕事が目の前に迫っていた。前世の稜が大企業の再建計画を扱っていた時一つの計画を完成させるまでの時間の感覚は、二年から三年だった。異世界の時間の流れも、同じ長さだった。計画を書き終えた夜は書き終えたことへの達成感よりも翌日から始まる実行の重さの方が、胸に深く残る。今夜も同じだった。

第七章の、一話目です。

月の庭から、半年が経ちました。

半年って書いていると長いような、短いような、不思議な時間です。

稜は書斎で毎晩、ひたすらペンを動かしていました。

五十頁の草案。

ちゃんと書こうとすると、これくらいは、かかるのかなと思います。

書簡に、イリアの名前が、書かれていた場面。

ロッテの手が、震える。

セレネが、静かに伝える。

クロヴィスが、肩に手を置く。

書きながらこの三人の関係、ずいぶん育ったなあ、と思いました。

次話、春芽祭の日です。

町の雑踏の中で、四人の弟子が、それぞれの時間を過ごします。

少しだけ、明るい回になる予定です。

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