視察官との、第二戦
霜月の月、二十八日目。午前。
満月の朝。ハーゲン帝国からの使節団が、アウリオン王宮に到着した。
使節団は前触れの早馬を一週間前に送り、正式な書簡で視察の目的を告げていた。定期視察。属国条約の運用状況の確認。そして──非公式には、ロッテ・シエルクの王族認定に関する帝国側の、関心の表明。
表向きは定期視察だった。
しかし稜は使節団の顔ぶれを、事前の報告書で見た時、帝国側の本気度を、感じていた。
使節団の主席視察官は、セイゲル・ロスバッハ。
年齢は五十三歳。ヴィスカルト皇太子の側近で、帝国の属国政策を担当する部局の中堅官僚。半年前に稜が論破した前任者オストリヒ視察官とは、格が違っていた。オストリヒが条約の条文を機械的に確認する官僚だったのに対し、セイゲルは条約の背後にある政治的意図を、読み解く種類の人間だった。ヴィスカルトが、前任者の失敗を受けて用意した、遥かに強力な駒。
稜はセイゲルの経歴を事前にマテウス院長と共に、冥書庫で調べていた。帝国の官僚記録は、アウリオンの冥書庫にも簡略版が残っていた。セイゲルは三十年の官僚経験の中で、属国政策の三つの主要な改定を裏方として支えた実績を持っていた。交渉相手として軽い男では、なかった。
─── ─── ───
王宮の正門に、使節団が到着した時、稜は謁見の間の前で一行を、迎えた。
セイゲル視察官は、黒い外套に銀の留め金、茶色の細い目。背は高くないが、姿勢に独特の隙のなさがあった。前任者のオストリヒがどこか傲慢な視察官だったのに対し、セイゲルは静かで丁寧で、しかし眼差しが鋭かった。
「稜殿。初めて、お目にかかります」
「セイゲル殿。ようこそ、アウリオン王宮に」
「お噂は本国でも、耳にしております」
「それは、恐縮でございます」
二人は形式的な、しかし互いに、相手の力量を、探り合う挨拶を、交わした。
稜はセイゲルの目を、見ていた。セイゲルの目は稜の顔を、じっと見ていなかった。
視線が微妙に、稜の肩越しに、第一の間の方向へ、向いていた。
稜は気づいた。セイゲルは到着した瞬間から、すでに王宮の配置の情報を収集し始めていた。どの扉からどこに続くか、警備の配置、書記官室と謁見の間の距離。これらを雑談の合間に、視線の動きで把握しようとしていた。
前任者のオストリヒには、できなかった、繊細な情報収集だった。
─── ─── ───
稜は視察官との対面を前に、頭の中で一つの設計を固めていた。今日の視察は表向きは、定期視察。しかし実質的には、四つの別々の議題が、重なった視察だった。一つ目、属国条約の通常の運用確認。二つ目、ロッテ・シエルクの王族認定に関する帝国側の関心。三つ目、アルデス公の王国参与復帰への帝国の反応。四つ目、そして最も深く、神崎からの稜への、新しい対話の申し出。この四つは表向きは、独立した議題だった。しかし稜は四つの議題の背後に、一本の糸が走っていることを感じていた。その糸は前世から続く稜と神崎の十五年の関係を、異世界で新しい形に編み直そうとする、神崎からの静かな提案だった。セイゲル視察官は、その提案の使者だった。使者が帝国内で最も鋭い官僚の一人であったことは、神崎の本気度を静かに物語っていた。稜はセイゲルとの対面を、通常の視察官との対面として処理するつもりは、なかった。むしろ、神崎との間接的な対話として、視察の全体を、設計するつもりだった。一つ一つの答えに神崎が読み取るべき、小さな合図を埋め込む。前世の十五年で稜と神崎は、互いの言葉の裏側を読む習慣を身体化していた。セイゲルの視察の報告書を神崎が本国で読んだ時、稜が何を伝えようとしていたかを、十五年の記憶で、読み取れるはずだった。それが稜が今日の視察で、狙っていたものだった。
そして一つだけ想定外のことが、今日起きるかもしれなかった。ロッテの母イリアの消息について、帝国側が何らかの新しい情報を持ってくる可能性。稜は自分の提出した半月前の照会書を、神崎が読んでいるはずだと予想していた。神崎は稜が提出した照会書を、通常の手続きで通過させることもできた。しかし神崎が、ロッテの母の件に、個人的な関心を持って、セイゲル視察官に何らかの情報を託した可能性も、十分にあった。前世の神崎は、人の感情の機微に敏感な男だった。十五年の稜の弟子として多くの案件で、クライアントの家族の事情に細やかな配慮を示してきた。異世界で宰相となった神崎が、その性質を完全に失ったとは稜には思えなかった。今日の視察で、ロッテの母の件がどう扱われるか。稜はその瞬間を、静かに待っていた。
─── ─── ───
謁見の間で、セイゲル視察官が、レオン王に、儀礼的な挨拶を、した。
レオン王は王座から、短く答えた。
五分の儀礼の後、視察官は稜と共に別室の、第一の間に、移った。
第一の間には既に六人が、集まっていた。
稜、カスパル、セレネロッテ、クロヴィス、ブラン。
そして部屋の端の席に、アルデス公が、参与として、座っていた。
視察官は、この顔ぶれを、見て微かに眉を、動かした。
「アルデス公」
「セイゲル殿」
「王国の参与として、復帰されたと本国で、聞きました」
「はい。先月より」
セイゲルはアルデス公に深く頭を、下げた。
その頭の下げ方は、帝国の視察官が、属国の王族に対して通常、行うレベルを、超えていた。
稜は気づいた。
セイゲルはアルデス公について何か、特別な知識を、持っていた。
─── ─── ───
視察の正式な議事が、始まった。
セイゲルは最初の三十分を、通常の定期視察の手続きに、当てた。
属国条約の条文に基づく、穀物徴税の最新の数字。港湾税の運用状況。書記官室の人員配置の報告。
稜は事前に、ロッテとクロヴィスに、全ての数字を、整理させていた。ロッテが資料を、視察官に静かに差し出した。
セイゲルは資料を受け取り丁寧に、一枚ずつ見た。
数字の検証は、五分ほどで、終わった。
セイゲルは静かに頷いた。
「ありがとうございます。数字の管理は以前より遥かに、精緻になっておりますな」
「はい」
「書記官助手の方の、整理の手がよく、見えます」
セイゲルの目が、ロッテを見た。
一瞬の、視線。
しかしその一瞬で、セイゲルはロッテを、王族認定手続きの中心人物として、確認していた。
ロッテは視察官の視線を、真っ直ぐに、受け止めた。
ロッテの目は、以前のような純粋な、書記官助手の目、ではなかった。母の遺書を開き、王族の血の事実と向き合い、レオン陛下の書斎で母の解放を願った二十歳の娘の静かな、覚悟の目だった。
─── ─── ───
「稜殿。二つ目の議題に、移らせていただきたく」
「どうぞ」
セイゲルは一枚の紙を卓の上に、置いた。
アウリオン王宮から半月前帝国に、正式に送られた、照会書。
「ロッテ・シエルクに関する、王族認定手続きの、報告」。
「稜殿。この照会書について、本国の宰相閣下より一つご質問を、預かっております」
稜は息を、整えた。
帝国の宰相、神崎玲。
神崎からの、質問。
「──お伺いいたします」
セイゲルは二つ目の紙を、取り出した。
神崎の筆跡だった。稜はその筆跡を前世で十五年、見続けてきた。
「宰相閣下からのご質問は、以下でございます」
「『ロッテ・シエルク殿の王族認定は、アウレリア王家の、千年の継承法に、基づくものでございますか。それとも近代の、新しい法的根拠に、基づくものでございますか』」
稜は頷いた。
神崎らしい、構造を問う質問だった。
前世で稜と神崎は十五年、この種の質問を互いに交わし合ってきた。案件の表面の事実ではなく、構造の根拠を問う。神崎の十五年磨かれた、参謀の視点だった。
─── ─── ───
稜はカスパルを見た。
カスパルは頷いた。
カスパルから答えを、促された形だった。
稜は静かに、答え始めた。
「セイゲル殿。お答え、申し上げます」
「ロッテ・シエルクの王族認定は、千年の継承法と近代の法的根拠の両方に、基づいております」
セイゲルの目が、動いた。
「両方でございますか」
「はい」
「千年前、初代王アドレアンが制定した『アウレリア王位継承法』には、王家の血を引く者の、継承順位の範囲が、定められております」
「ロッテ・シエルク殿は、この範囲の、最も外側に、位置しております」
「同時に、二百年前の『属国王家継承細則』には、属国期における王族認定の、新しい手続きが、定められております」
「この新しい手続きには、書記官助手の勤務実績を、認定の要素に加える、新しい条文が、含まれております」
「ロッテ殿の認定は、千年の継承法の血筋の根拠と二百年の細則の勤務実績の根拠の両方を、満たしております」
セイゲルは静かに頷いた。
それからもう一枚の紙を、取り出した。
「宰相閣下からはもう一つご質問が、ございます」
「『二百年前の属国王家継承細則の、勤務実績の条文は過去何度、実際に適用されましたか』」
稜はこの質問を、予測していた。
マテウス院長が冥書庫で、過去の適用例を事前に、調べていた。
「過去二百年で三例、適用されております」
「全て、王家の遠縁の女性の、認定事例でございます」
─── ─── ───
セイゲルは二つの答えを丁寧に頭の中で、整理した。
それから静かに告げた。
「──稜殿。明快なお答え、ありがとうございます」
「本国にそのまま、お伝えいたします」
稜は頷いた。
「セイゲル殿。私からも一つ、宰相閣下に、お伝えいただきたいことが、ございます」
「どうぞ」
「──ロッテ・シエルク殿の、母上」
「イリア・シエルク殿」
「三年前、帝国の徴用で、アウリオンから、連れ去られました」
「徴用以来、消息不明でございます」
セイゲルの、顔が微かに変わった。
その変化は稜の目に明らかに、見えた。
セイゲルはこの話を、知っていた。
すでに本国で報告を、受けていた。
「稜殿。イリア殿の件は本国でも、把握しております」
「把握でございますか」
「はい」
稜は息を、止めた。
三年、消息不明だった女性の消息を、帝国側はすでに、把握していた。その事実を今セイゲルが初めて、告げた。
「──生存、されているのでございますか」
セイゲルは一瞬、躊躇した。
それから静かに答えた。
「はい」
「帝国北部の、古都ゼーリッヒに、おられます」
「健康状態は、良好と聞いております」
─── ─── ───
第一の間が一瞬、静まった。
ロッテは動かなかった。
いや、動けなかったが、正確だった。
三年、消息不明だった母が、生きている。
健康に、ゼーリッヒという、北の古都に、居る。
その事実が、彼女の胸の中で形を、取るまでに数秒が、必要だった。
ロッテの右手が微かに震えた。
セレネがその震える手に、そっと自分の手を、重ねた。
王女の指が、書記官助手の指の上で静かに落ち着きを、与えた。
ロッテは深く息を、吐いた。
そして視察官に、向き直った。
「セイゲル視察官様」
「はい」
「──母が、生きていると仰ってくださって、ありがとうございます」
「これ以上、嬉しい知らせは、私の人生に、ございません」
セイゲルは深く頭を、下げた。
「書記官助手殿。本国の宰相閣下が、お母上の件を優先的に、扱っておられます」
「属国条約第七条、帰還の権利について閣下は、新しい運用の検討を、始めておられる」
「あと二年。お母上の帰還の可能性について本国が、具体的な回答を、お送りできる見通しでございます」
ロッテの目が、潤んだ。
しかし涙は、落とさなかった。
王族認定を受けようとしている、二十歳の娘として彼女は、視察官の前で涙を、抑えた。
─── ─── ───
視察の、公式の議事は、二時間後に、終わった。
セイゲル視察官は、第一の間を出る前に稜に一つだけ、短い言葉を、残した。
「稜殿」
「はい」
「──本国の宰相閣下から、一つだけ口頭で、お伝えする伝言が、ございます」
「伺います」
セイゲルは声を一段、落とした。
「『稜。お前の動きを本気で見る時が、来た』」
稜は頷いた。
神崎からの短い、しかし重い、言葉。
前世で神崎が稜に十五年、語りかけてきた声が今異世界の第一の間で、セイゲルの口を借りて稜に、届いていた。
「セイゲル殿」
「はい」
「──宰相閣下に、お伝えください」
「『玲。俺も、お前の動きを本気で、見ている』」
セイゲルは深く頷いた。
─── ─── ───
視察官が、退出した後、第一の間には七人が、残っていた。
カスパルが最初に口を、開いた。
「稜殿。──あの視察官は前任者の十倍、手強うございますな」
「はい、カスパル殿」
「しかし、本日のやり取りは、帝国宰相のお言葉が稜殿への尊重を、含んでおりました」
「前回の視察とは全く違う、空気でございました」
稜は頷いた。
前世の稜と神崎の関係が異世界で初めて、公式の場に姿を、現した瞬間だった。
嵌めた者と嵌められた者。
しかし今二人は互いを、尊重する相手として異世界の、政治の舞台に、立っていた。
─── ─── ───
アルデス公が稜の前に、進み出た。
「稜殿。一つ、お伝えしておきたいことが、ございます」
「どうぞ、アルデス公」
「先ほどの、セイゲル視察官」
「五年前私が、北のセイラン地方で、五百人の遺族の一家を、訪問していた時」
「彼も、同じ遺族を、訪問していた」
稜の目が、広がった。
「──訪問でございますか」
「はい」
「彼は、帝国の諜報員として、遺族の一家を、調査しておりました」
「私と彼は一度、村の小さな宿で偶然顔を、合わせた」
「その時彼は、私に深く頭を、下げました」
「『アルデス公。貴方が二十年、続けておられる遺族訪問を私は、本国で報告いたします。しかし、評価としてではなく、敬意として、報告いたします』と」
稜は深く頷いた。
セイゲル視察官が、アルデス公に到着時、深く頭を下げた理由が今分かった。
帝国の諜報員が属国の、誰にも理解されていなかった王族に五年前敬意を、捧げていた。
それは、政治的な計算を超えた、人間としての、一つの尊敬だった。
帝国の中にも、そうした人間が、存在した。
稜はその事実に微かに胸が、熱くなった。
─── ─── ───
その夜、稜は書斎で長くペンを、握っていた。
神崎への、正式な書簡を、書いていた。
三日、書き直し推敲しようやく、一通の手紙に、まとめていた。
「玲」
「セイゲル殿の視察無事、終わりました」
「ロッテ・シエルクの母上、イリア殿の消息を、お知らせいただき、ありがとう」
「お前が、属国条約第七条の、新しい運用の検討を、始めているとのこと」
「俺からも一つ、提案がある」
「半年後の、属国契約更新日」
「その日までに、俺とお前で一度、会わないか」
「場所は、北のセイラン地方。二十年前、アルデス公が、五百人の遺族を、最初に訪問した、小さな村」
「そこで、お前と俺は過去の十五年を越えて、別の十五年の始まりを、話すことができるかもしれない」
「お前の返事を、待つ」
「稜」
ペンを、置いた。
書簡を封筒に、入れた。
明朝、使節団の帰還と共に帝国へ、発送することになっていた。
窓の外の満月が、王宮の東の空に、昇っていた。
満月は、月の庭の旅に出発した時と同じ、満月。
あの時の満月から、今夜の満月まで、ちょうど一月が、経っていた。
一月の間に王国の、見えない構造が少しずつ、変わっていた。
─── ─── ───
その頃、帝都ヴェルデン、皇宮。
神崎玲は、執務室の窓辺に一人、立っていた。
セイゲル視察官が、アウリオンから戻る予定は、三日後。
しかし神崎は既に、早馬による速報を、受け取っていた。
「稜殿からの、口頭の伝言:『玲。俺も、お前の動きを本気で、見ている』」
神崎はその速報を二度、読んだ。
そして机の上の、古い写真立てを手に、取った。
前世の事務所の、集合写真。
二十四歳の神崎と三十九歳の稜。
神崎は写真立てを今度は、裏返さなかった。
代わりに静かに写真の中の稜の顔を、見ていた。
十五年、見ることを、避けてきた顔。
「稜」
神崎は誰も聞こえない小さな声で、呟いた。
「お前本当に俺を、戻すつもりか」
執務室の窓から帝都の、満月の光が、入っていた。
アウリオンで、稜が見ている、同じ満月だった。
神崎は長くその月を、見ていた。
机の上の、もう一通の封筒。
アウリオンから、セイゲルが、持ち帰る予定の、稜からの正式書簡。
その封筒はまだ届いていなかった。
しかし神崎は書簡の内容を届く前に既に、予感していた。
「──稜。俺に、会いたいか」
窓の外の、満月が静かに雲の陰に、入った。
執務室が一瞬、暗くなった。
神崎は机の前の椅子に、座った。
そして手帳を、開いた。
新しいページに一行だけ、書いた。
「半年後の、契約更新日。俺は稜と会うべきか」
ペンを、置いた。
答えはまだ出なかった。
しかし、この問いを今夜自分に、投げかけたことが、神崎の中で何かを、動かし始めていた。
第六章の、最終話です。
帝国から新しい視察官、セイゲル・ロスバッハがアウリオンに到着しました。
前任者のオストリヒとは、格が違う老練な視察官。
しかしその視察官が、三年消息不明だったロッテの母、イリアの生存を告げました。
帝都北部の古都ゼーリッヒ。
ロッテの母は、生きている。
そして、神崎からの短い伝言。
「稜。お前の動きを、本気で見る時が、来た」。
稜から、神崎への半年後の再会の提案。
場所は、北のセイラン地方。
アルデス公が二十年、遺族訪問を続けた、あの村。
第六章が、ここで閉じます。
第七章「契約の、更新日」で、物語は次の大きな山場へと進みます。




