弟子に、負けてやる師
霜月の月、二十三日目。夕刻。
法文の議論から二日が過ぎていた。六人が第一の間で、三冊の古い法典を突き合わせて見つけた運用の道筋は、既に王宮の承認手続きに回っていた。ロッテの王族認定は、王家の遠縁として、半年以内に正式な形を取る見通しになっていた。書記官室の日常は徐々に、以前の静けさを取り戻していた。
しかし稜の中では、一つの懸念が静かに大きくなっていた。
弟子たちが、疲れていた。
月の庭の旅からレオン王の私室での盤、ロッテの母の遺書の発見、アルデス公との再会、三冊の法典の突き合わせ。この一月の間に四人の弟子は、王宮の二十歳前後の者たちが通常数年かけて経験するような密度の出来事を、立て続けに経験していた。ロッテは王族認定の手続きで、表向きは元気だったが、書記官室で一日の終わりに机の前で、ぼんやりと窓の外を見ている時間が、増えていた。クロヴィスは祖父ルクレティウスの話を知って以来、書記官室での仕事に以前ほどの集中を見せなくなっていた。セレネは王女の学習時間に、疲れた目をすることが、増えていた。ブランだけが表向きは平然としていた。しかし稜は元傭兵の十年の訓練が、彼の内側の疲れを、隠す壁になっていることを、知っていた。
弟子を育てることは、鍛えることだけではなかった。
休ませることも、師の仕事だった。
─── ─── ───
稜はその日の夕刻、四人の弟子を、第一の間に呼んだ。
卓の上に、木製の盤が一つ、置かれていた。
十三×十三の、盤石格子。
月の庭から、稜が王宮に持ち帰ったものだった。
「師匠、これは」
ロッテが驚いた顔をした。
「盤石格子だ」
「千年前、初代王アドレアンと参謀ザラフが、月の庭で打っていた遊戯の、盤」
「今日は政務の話ではない」
「この盤を、四人と一人ずつ、打ちたい」
四人は、顔を見合わせた。
最初に口を開いたのは、ブランだった。
「稜殿。我々は、盤石格子の作法を知りません」
「構わぬ。打ちながら覚えてもらえばよい」
「今日は、勝ち負けは、どうでもいい」
「お前たちと盤を挟んで、同じ時間を過ごすのが、目的だ」
セレネが微かに、微笑んだ。
「師。同じ時間をでございますか」
「はい、殿下」
「盤を挟むということは二人で、同じ時間軸の中に、立つということ」
「月の庭で、カスパル殿と私が、それをやった」
「今日は、お前たち四人と順に、それをやりたい」
─── ─── ───
最初に打ったのは、ロッテだった。
ロッテは白石を持った。稜が黒石。
ロッテは盤の扱い方を稜から、簡単に教わった。十三×十三の格子の交点に、石を置く。相手の石を囲むと取れる。最終的に、盤の面積を、多く制した者が勝つ。基本の説明は一分で、終わった。
「ロッテ、打て」
「はい、師匠」
ロッテは最初の白石を、盤の中央に、置いた。
稜は少し、驚いた。
月の庭でレオン王と打った時、稜が中央から入った。その手をロッテが覚えていて、今日真似している。書記官助手の目は稜が想像していた以上に、師の動きを記憶していた。
稜は二手目を、盤の右下の隅に、置いた。
守りの手だった。
ロッテはそれを見て、嬉しそうな顔をした。
「師匠はいつも、中央から入られますね」
「今日は隅から、入られました」
「何か、意味があるのでございますか」
「お前の中央の手に、敬意を払ったのだ」
「お前が中央を取るなら、私は隅から少しずつ、攻めていく」
ロッテは頬を少し赤らめた。
「師匠。私、中央を取ったつもりは、ございませんでした」
「ただ師匠が以前、中央からお入りになったのを、覚えていて、真似を」
稜は小さく、笑った。
「真似をするのは、学びの最初の段階だ」
「それを、恥じる必要はない」
─── ─── ───
二十手ほど、進んだ。
ロッテの白石は、盤の中央から四方に元気よく、展開していた。
しかし彼女の石は、互いの繋がりが、弱かった。
攻めの形を、作ろうとしていたが途中で、繋がりを忘れて、新しい場所に、石を置いてしまう。
稜の黒石は、ロッテの散らばった白石の隙間を静かに埋めていた。
三十手の時点で盤の形は、稜の有利だった。
ロッテは自分の不利を、感じ始めていた。
表情が少しずつ、曇っていった。
稜はそれを、見ていた。
ここで稜は一つの決断を、した。
三十一手目。
稜はわざと盤の重要な急所に、石を打たなかった。
急所は、盤の左上の、白石の薄い場所。そこに黒石を打てば、ロッテの白は、大きく崩れる。しかし稜はそこから目を逸らすように盤の右下に、黒石を置いた。
ロッテは一瞬盤を、見つめた。
それから慎重に、三十二手目を、打った。
盤の左上。
稜が打つべきだった、急所。
ロッテはそこを、自分の白石で、埋めた。
盤の形が大きく白に、傾いた。
ロッテの顔が、明るくなった。
「師匠今打てました」
「ああ」
「白が、繋がりました」
「よい手だ」
─── ─── ───
四十手目の時点で盤は、白がわずかに、優勢だった。
稜は盤を見て静かに告げた。
「ロッテ。私の負けだ」
ロッテの目が、広がった。
「師匠。──本当に、ですか」
「ああ。盤の面積を数えてみるとお前の白が三目、多い」
「私は、負けた」
ロッテは立ち上がった。
顔が、朝焼けの色に、染まった。
「師匠。──私初めて師匠に、勝ちました」
「ああ」
「……嬉しうございます」
稜は頷いた。
ロッテが書記官室の書類を三回落とした、不器用な二十歳の娘から少しずつ、自信のある書記官へと変わっていた。今日の盤の勝ちは、彼女の書記官としての自信にまた一つの石を、積み重ねるものだった。
稜は心の中で一つだけ、呟いた。
わざと負けたことをロッテに、告げる必要は、ない。
今彼女が勝ちを心から喜べることが、重要だった。師が弟子にわざと負けることは、師の恥ではなかった。弟子を育てるための師の、古い手法だった。前世で高樹さんも稜が二十五歳の時、一度だけわざと交渉で負けてくれた。当時の稜はその負けを、自分の勝ちだと信じていた。十年経って、稜は高樹さんの意図に、気づいた。あの一度の勝ちが稜に、交渉の現場で、自信を持って立ち続ける力を、与えていた。
今日、稜はロッテに、同じ贈り物を、渡していた。
─── ─── ───
二人目は、クロヴィスだった。
クロヴィスは帳面と筆を、持ってきていた。
盤を打ちながら、打ち手を一手ずつ、帳面に記録するつもりだった。
「師匠。対局を、記録してもよろしいですか」
「構わぬ」
「しかし、クロヴィス。今日は、記録するよりも、打つことに、集中してほしい」
「──はい」
クロヴィスは帳面を、脇に置いた。
完全に閉じたわけではなかった。近くに置いて、記録する衝動を、抑える訓練を自分に、課していた。
稜は彼の様子を、見ていた。
孤児として育ったクロヴィスは十六歳の今まで、自分の存在の根拠を、記録することに、見出してきた。書記官補として、あらゆる物事を帳面に書き留める。その習慣が彼の、世界との繋がり方だった。
しかし月の庭で、クロヴィスは一つの転機を、経験していた。
カスパルが泣いた時クロヴィスは、帳面を閉じた。あの瞬間、記録しないことを十六歳の少年は自分で選んだ。そしてここ数日、祖父ルクレティウスの話を知って以来、彼は記録する以上のものに触れ始めていた。今日の盤は、その次の段階への稜からの、贈り物だった。
盤を打つ、ということ。
それは盤の上に、自分の意思を一手ずつ、置くこと。
記録するのではなく、刻むこと。
帳面の文字は、紙の上の記号として、残る。
盤の石は盤の上に、自分の存在としてそのまま、残る。
十六歳のクロヴィスが盤の上に、自分の意思を置く経験を今日初めて、するはずだった。
─── ─── ───
クロヴィスは白石を持った。
最初の一手を、盤の右上の隅に、置いた。
守りの手だった。
クロヴィスらしい、慎重な手だった。
稜は黒石を、盤の中央に、置いた。
クロヴィスは稜の中央の黒石をしばらく見ていた。
それから二手目を、自分の白石の隣に、置いた。
また、守りの手。
石の形を、固める手だった。
稜は三手目を、黒石の横に、置いた。
勢力を、広げる手だった。
十手まで、進んだ。
盤の上で、稜の黒が大きく勢力を、広げていた。
クロヴィスの白は、右上の小さな陣地に、固まっていた。
クロヴィスの顔が少しずつ、硬くなっていた。
「クロヴィス」
「はい、師匠」
「お前は、守っている」
「──はい」
「守りは、悪い手ではない。しかし、守りしか打てないと勝てない」
「時には、攻めろ」
「どう、攻めるのでございましょうか」
稜は盤の、ある場所を指で、示した。
「ここだ。ここに白石を、打ち込むんだ」
「私の黒の、薄い場所。ここに入れば、私の勢力が、崩れる」
「勇気を出して、打ち込め」
クロヴィスは長く、盤を見ていた。
指が、震えた。
記録することは、得意だった。しかし、新しい一手を、自分で作ることは、彼にとって初めての、挑戦だった。
クロヴィスは静かに白石を、稜が指した場所に、置いた。
盤の中央の、黒の薄い場所。
稜の勢力の、心臓部。
稜は頷いた。
「よい手だ」
クロヴィスは深く息を、吐いた。
─── ─── ───
三十手の時点で、クロヴィスの白は、盤の中央に、しっかりとした形を、作っていた。
稜はわざとではなく本気で、クロヴィスの白に、追い込まれていた。
十六歳の少年の、最初の攻めの一手が、想像以上の効果を、発揮していた。
四十五手の時点で稜は盤を、見直した。
白が六目、多かった。
稜は静かに、告げた。
「クロヴィス、お前の勝ちだ」
クロヴィスは帳面を、手に取った。
しかしすぐに、置いた。
記録する前に、この瞬間を身体で、感じたいと思った。
記録はその後で、よかった。
「師匠」
「ああ」
「──私今盤の上で何かを、刻みました」
「そうだな」
「記録ではなく、刻むこと」
「私今分かりました」
稜は十六歳の少年の青い目を、見ていた。
月の庭で閉じた帳面の、その次の段階が今盤の上に、現れていた。
─── ─── ───
三人目は、セレネだった。
セレネは盤の前に静かに座った。
王女としての、姿勢。しかし盤の前では、一人の弟子として、師と向き合っていた。
「師」
「殿下」
「今日はどうぞ、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
セレネは白石を持った。
最初の一手を盤の、左上の隅に、置いた。
守りでも攻めでも、なかった。
ただ静かな、品格を持つ一手だった。
稜は驚いた。
セレネが独自の打ち方を既に、身につけ始めていた。
誰かの真似ではない。守りでも攻めでもない。王女としての、彼女の内側から自然に、出てくる手だった。
稜は黒石を中央に、置いた。
セレネは二手目を、盤の右下の隅に、置いた。
また、静かな一手だった。
盤の四隅のうち二隅に彼女は、自分の石を、置いた。
稜は彼女の意図を、読んだ。
セレネは四隅を先に、押さえようとしていた。
古い兵法で言う、四方固め。
王国の四方を押さえる戦略と同じ形の、盤の動きだった。
十六歳の王女が、王国の兵法を盤の上で、再現していた。
稜は彼女の将来を、この一手で、確信した。
─── ─── ───
対局は、五十手まで、進んだ。
盤の形は、拮抗していた。
黒も白も互いに相手を、崩せなかった。
稜はわざと負けることも、本気で勝つこともどちらも、難しいと感じた。
セレネの盤はあまりに、均衡していた。
六十手の時点で、稜は静かに、提案した。
「殿下。今日は、引き分けで、終わりにしませんか」
セレネは微かに、微笑んだ。
「師。──引き分けでございますか」
「はい。お互いの盤が見事に、均衡しております」
「これ以上、打ち続けても決着が、つかないかもしれません」
セレネは白石を手に、持ったまましばらく盤を、見ていた。
それから白石を盤の脇に、置いた。
「師のご提案を、お受けいたします」
稜は頷いた。
そして心の中で一つだけ、呟いた。
この少女はいずれ俺を、超える。
十六歳の今既に稜の盤を本気で引き分けに持ち込む力を、持っていた。三年後、五年後の彼女がどんな盤を打つのか。稜は想像して、微かに胸が震えた。
─── ─── ───
最後は、ブランだった。
ブランは盤の前で少し戸惑っていた。
十年の傭兵生活で盤を打った経験は、ほとんどなかった。酒場の賭けで簡単な駒遊びをしたことはあったが、盤石格子のような複雑な盤は、初めてだった。
「稜殿。俺はロッテ殿以上に、下手でございます」
「構わぬ」
「お前の打ち方を見たい」
ブランは白石を手に、取った。
しばらく盤を、見ていた。
そして最初の一手を盤の、最も意外な場所に、置いた。
盤の端の辺の、中央。
稜が想像していなかった場所。
稜は驚いた。
盤の辺の中央は定石では、最も弱い場所。誰もが、避ける場所だった。
しかしブランはそこに白石を、置いた。
稜はブランの目を見た。
元傭兵の、戦場の勘が盤の上で、動いていた。
定石を知らないから、ブランは定石の外側で、打てた。
「ブラン。その手の意図は」
「稜殿。戦場では、敵が最も予想しない場所に、兵を置くと効果が大きい」
「盤の辺の中央は、敵が最も避ける場所」
「俺はそこから、攻めていきたい」
稜は微かに、笑った。
「戦場の勘を、盤に持ち込んだな」
「はい」
─── ─── ───
二十手まで、進んだ。
盤の上で、ブランの白石は辺から、中央へと意外な角度で、攻め上げていた。
稜は何度も、驚かされた。
定石を知らない打ち手の、予測不能な一手。
それは、ロッテやクロヴィスセレネの、いずれとも、違う種類の力を、持っていた。
三十手の時点で盤は、稜の有利だった。
しかし、ブランの白石の、辺からの攻めは稜を、本気にさせていた。
稜は一手、一手を丁寧に、打つ必要があった。
四十五手で稜の黒が、盤の中央の勝負所を、制した。
ブランは盤を、見て静かに告げた。
「稜殿。俺の負けでございます」
稜は頷いた。
「ブラン。お前の盤は、面白かった」
「私を本気に、させた一局だった」
ブランは微かに、笑った。
左頬の古傷が笑みに合わせて、引き攣った。
「稜殿。お褒め、光栄でございます」
「本物の褒め言葉だ」
「お前の、戦場の勘は、盤の上でも、生きる」
「もう少し、定石を学べばお前は、恐ろしい打ち手に、なる」
ブランは深く頷いた。
─── ─── ───
四人の対局が全て、終わった。
日は既に、沈んでいた。
第一の間には、蝋燭の炎が、揺れていた。
稜は四人を、見渡した。
「ロッテ、クロヴィスセレネ、ブラン」
「はい」
「四人、それぞれの盤を、打った」
「ロッテの、元気のよい攻め」
「クロヴィスの初めての、打ち込み」
「セレネの静かな、四方固め」
「ブランの、戦場の勘の、辺からの攻め」
「四人四通りの、打ち方だ」
「明日からは、四人同士でも、打ってみなさい」
「互いの盤を、見ることで、お前たちは、お互いから、学ぶ」
「師から学ぶのも大事だが、お互いから学ぶのは、もっと大事だ」
四人は深く頷いた。
─── ─── ───
四人が、退室した後稜は一人、第一の間に残った。
盤の上には、最後の対局の、駒がそのまま、残っていた。
稜は盤を、見ていた。
ブランとの対局の盤。
辺から始まった、予測不能な盤。
その時扉が軽く、叩かれた。
顔を上げるとアルデス公が、立っていた。
「稜殿。お邪魔、してもよろしいか」
「アルデス公。どうぞ」
アルデス公は、王国の参与として、王宮に滞在して十日ほど、経っていた。書斎を王宮の北翼に与えられ毎日、王国の政務に少しずつ、関わり始めていた。
アルデスは盤の前に、座った。
ブランの打った辺からの、意外な盤の形を、見ていた。
「この盤、誰と打たれたのですか」
「ブランと」
「ブラン・ゼグラル殿」
「はい」
アルデスは盤を長く、見ていた。
それから静かに呟いた。
「──珍しい、打ち方でございますね」
「辺から、中央へと攻め上げる」
「定石を知らない者の、自由な打ち方、とでも申しましょうか」
アルデスは微かに、笑った。
「稜殿。一局お相手、願えませんか」
稜は驚いた顔をした。
「アルデス公。盤を、打たれるのですか」
「はい」
「若い日、カスパル宰相と一度だけ、打ちました」
「五十年ぶりの盤でございます」
稜は盤の上の、ブランとの対局の駒を、片付け始めた。
アルデス公との、新しい対局が今始まろうとしていた。
五十年、盤を打たなかった、アルデス公。
稜とどんな盤を、打つのか。
稜は微かな予感を、感じていた。
─── ─── ───
その夜、稜は書斎に戻り手帳を、開いた。
新しいページに一行、書いた。
「霜月の月、二十三日。四人の弟子と盤を、打った」
少し考えもう一行、書いた。
「四人四通りの、打ち方。それぞれが、それぞれの力を、持っている」
さらに、もう一行。
「アルデス公と一局。五十年ぶりの、盤」
─── ─── ───
稜は書斎に戻る前、一人で王宮の北の中庭を歩いた。三日月が既に、西の空に傾きかけていた。月の庭から持ち帰った盤石格子を四人の弟子と一つずつ打った今日の午後の時間を、稜は頭の中で反芻していた。盤は、一つの技能以上のものだった。盤を挟むことで師と弟子は、同じ時間軸の中に立つことができる。千年前、初代王アドレアンと参謀ザラフが独立の決意を固める七日間の瞑想の中で三度、盤を打ったと冥書庫は記している。三度の対局の勝敗は、記録されていない。重要だったのは勝敗ではなく、二人が盤を挟んで七日間の時間を共にしたこと、だった。同じ原則が今日第一の間で、稜と四人の弟子の間に再現されていた。ロッテの勝ちは技術的には、稜がわざと負けた勝ちだった。しかし技術的な勝敗の向こう側に、もっと重要なものがあった。二十歳の娘が、師匠と同じ時間軸の中に、一局の間、立ち続けたという事実。その事実がロッテの書記官としての自信に、一つの石を積み重ねる。クロヴィスの初めての攻めの一手も、同じ種類の意味を持っていた。十六歳の少年が記録するのではなく、盤の上に自分の意思を刻む。その経験は彼の孤児としての四年間の、外側との繋がりの、新しい形を、作り始めていた。セレネの四方固めは十六歳の王女の、将来の王国統治の盤の上での予告だった。ブランの戦場の勘は十年の傭兵生活の経験を、盤の上の形式に変換する新しい挑戦だった。四人の弟子は一日で、四通りの経験をそれぞれの人生の中に刻み込んでいた。
稜は月を見上げた。月の庭から戻って既に二十日。月は満ちて再び欠け始めていた。稜の異世界での時間は月の満ち欠けと、緩やかに同期していた。次の満月は、あと数日。その満月の朝、帝国からの視察官がアウリオンに到着する予定だった。新しい視察官は前任者とは違うと、事前の報告書は伝えていた。セイゲル・ロスバッハ五十三歳、ヴィスカルト皇太子の側近の一人。稜はその男との最初の対面を、心の中で準備し始めていた。前任者オストリヒとの最初の対面では稜は、条約の条文の精読だけで相手を論破できた。しかしセイゲルは、条文の向こう側の構造を、読み解く種類の人間だと、報告書は語っていた。今度の対面は前回より、遥かに慎重な準備が必要だった。
ペンを、置いた。
窓の外の、二十三日目の月が、王宮の東の空に、昇り始めていた。
満月まで、あと数日。
月が満ちる頃に、帝国からの、新しい視察官が王宮に、到着する予定だった。
その視察の準備を、稜は明朝から、始めなければならなかった。
しかし今夜は、四人の弟子との、盤の時間の余韻を、もう少しだけ、味わっていたかった。
第六章の、六話目です。
稜が、四人の弟子と、一人ずつ、盤を打ちました。
ロッテの元気のよい攻め。
クロヴィスの、初めての打ち込み。
セレネの、王族の四方固め。
ブランの、戦場の勘の、辺からの攻め。
師が、弟子に、わざと負けてやる──
前世の高樹さんが、若き日の稜に、一度だけ、わざと負けてくれた記憶。
それと同じ贈り物を、稜が、ロッテに、渡します。
そして、アルデス公との、五十年ぶりの盤。
次話、視察官との第二戦で、第六章の幕が、下ります。




