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法文の、抜け穴

 霜月の月、二十一日目。午後。

 第一の間で、六人が卓を囲んでいた。稜、カスパルセレネロッテ、クロヴィス、ブラン。卓の上に三冊の古い法典が広げられていた。『アウレリア王位継承法』──千年前、初代王アドレアンが制定した法典。『継承順位規程』──四百年前、女王シビルが追加した改定版。『属国王家継承細則』──二百年前、帝国との属国条約締結時に追加された細則。

 三冊の法典は、互いに矛盾していた。千年の間に、継承のルールは何度も書き換えられてきた。しかし古い条文は廃止されずに残っていた。結果、どの条文が現在有効なのか、誰も完全には知らなかった。

 この矛盾は、アウレリア王国に限った話ではなかった。前世の稜は法務部門との仕事で、大企業の社内規程の中に、同じ構造の矛盾を、何度も見てきた。五十年続いた会社の就業規則には、創業期の条項と十年前の改正と三年前の追加が、混在して残っていた。どれが優先されるかは、判例と社内運用の積み重ねで暗黙に、決まっていた。条文を読んでも、答えは出なかった。答えは、条文の外側の、運用の記憶の中に、あった。アウレリア王国の継承法も、同じ構造だった。千年の条文の間に、無数の運用の記憶が、冥書庫と王宮の長老たちの頭の中に、積み重なっていた。今日の議論は、その運用の記憶を掘り起こし、現在有効な条文を、六人で確定させる作業だった。

 そしてこの作業は、単なる法的手続きではなかった。ロッテの王族認定を、どの条文の下で、どの形で行うか──それが、今日の議論の中心だった。ロッテは王家の血を引いている。しかし彼女は、王位継承権を欲しているわけではなかった。彼女が求めているのは、自分の出自を、公的に認められること。そして王家の一員として、母イリアの帝国からの帰還の、正式な交渉権を持つこと。二十年前、エレナ王女が隠した娘が今、母の解放のために、王族として立ち上がろうとしていた。

            ─── ─── ───

 稜は卓の上の法典を、見ていた。

 三日前、レオン陛下から、ロッテの王族認定を正式に王宮内で進める許可が下りていた。しかし認定の手続きには、法的な根拠が必要だった。

 カスパルがロッテの認定を、支持する立場。

 稜がその草案を、起草する立場。

 四人の弟子がそれぞれの専門で、補佐する立場。

 そして反対勢力として、既に動き始めている貴族の、五家。

 稜は卓の反対側に、座っていたブランに、問うた。

 「ブラン殿」

 「はい」

 「大陸の他国では王族認定の法的手続きは、どうなっている」

 ブランは十日前から準備を、進めていた資料を卓の上に、広げた。

 四つの属国の王族認定手続きは、それぞれ違っていた。ヴェロニア共和国では議会の三分の二の賛成で王族認定が行われる。サルマティア王国では王と貴族会議の双方の承認が必要。オスタール公国では聖職者会議と貴族会議の共同議決による。

 「ハーゲン帝国では皇帝の、独断」

 「──アウレリアは」

 「定まっていない」

 稜は頷いた。

 それがまさに、問題だった。

            ─── ─── ───

 セレネが静かに口を、開いた。

 「師」

 「はい」

 「──王家の女として一つ、お伝えします」

 「どうぞ」

 セレネは三冊の法典を指で、撫でた。

 「『アウレリア王位継承法』の第十二条、第三項」

 「『王家の血を引く者は王家の決定により、王族として認定される』」

 稜はその条文を見た。

 千年前の、古代アウレリア語で、書かれていた。

 条文は短く、曖昧だった。

 「『王家の決定』──誰が決定するのか、書かれていない」

 「はい」

 千年前、初代王アドレアンの時代は、王が独断で王族認定を決定していた。四百年前の女王シビルの改定で、「貴族会議」が共同で決定するように変わった。

 「二百年前の属国条約の細則で、『帝国の承認』が、必要になった」

 「三つの層が、重なっている」

 稜は頷いた。

 「──どの層が現在、有効なのか」

 「それが、曖昧です」

            ─── ─── ───

 ブランが資料を、捲った。

 「稜殿」

 「はい」

 「私が調べた範囲では、過去百五十年の王族認定の例が、三件ございます」

 「どのような」

 カスパルが、過去の認定例を三件、挙げた。百三十年前、先々代の王の弟君の庶子の認定。八十年前、王妃の従妹の息子の認定。四十年前、王家の支流の血筋の認定。三件とも、手続きが違っていた。百三十年前は王の独断。八十年前は、王と貴族会議の共同。四十年前は王、貴族会議、帝国の三者の共同。

 稜は深く息を吐いた。アウレリアの王族認定の手続きは、場当たり的に決められてきた。時代の政治状況によって手続きが変わる。統一されたルールがない。これは、前世の稜が、企業の組織運営で、何度も見てきた構造だった。千年の組織は、長い時間の中で、無数の例外的な判断を、積み重ねる。例外の一つ一つは、その時の経営者にとって、合理的な判断だった。しかし百の例外が積み重なると、組織の意思決定構造そのものが、見えなくなる。千年のアウレリアも、同じ構造の中にあった。稜が今やろうとしているのは、千年の例外の堆積の中から、現在有効な最小限のルールを、再構成することだった。

            ─── ─── ───

 クロヴィスが速記の帳面を開いた。彼は、カスパルが三件の詳細を話す間に、全てを速記で記録していた。十六歳の少年の細かい速記が、三件の認定の全ての詳細を、紙の上に、整理していた。

 百三十年前の庶子の認定。王が独断で決定。しかしその後、貴族会議で紛糾した。最終的に、庶子は王族から除名された。一人の庶子の認定と除名が、王宮内に、長い波紋を残した。

 八十年前の王妃の従妹の息子の認定。王と貴族会議の共同決定だった。しかし帝国の承認を省略した。帝国が後から異議を申し立て、認定が取り消された。当時の王と貴族会議は、属国としての立場を、軽視していたのかもしれなかった。

 四十年前の王家支流の認定。王、貴族会議、帝国の三者共同。ただし帝国の承認が、最後だった。貴族会議の決定から、帝国の承認まで、三ヶ月かかった。三ヶ月の間、認定は宙に浮いていた。しかし最終的に、三者の合意で、認定は成立した。

 稜は深く頷いた。

 そして三件の詳細を、分析し始めた。

 「──帝国の承認を取るか取らないかが、鍵だな」

            ─── ─── ───

 カスパルが長く沈黙していた後口を、開いた。

 「稜殿」

 「はい」

 「──帝国の承認を、取るべきではございません」

 稜は顔を、上げた。

 「カスパル殿。なぜ、でございますか」

 「三つ理由が、ございます」

 カスパルは指を三本、立てた。

 「一、帝国の承認を取れば帝国はロッテ殿の認定に条件を、付ける」

 「例えば、『アウレリア王家の継承順位を低く、設定する』など」

 「帝国は、アウレリアの王家の独立性を、抑えたがる」

 二つ目の問題として、承認には時間がかかる。過去の例では、三ヶ月。その間に、貴族の五家は反対運動を組織する時間を得る。

 「帝国が承認する前に、アウリオン内部で政変が、起きる可能性がある」

 「三、帝国の承認は義務ではない」

 「属国条約の細則に、『王族認定には帝国の承認を、求める』と書かれているが」

 「『義務』ではなく、『求める』という表現」

 「つまり抜け穴が、ある」

 稜はゆっくりと頷いた。

            ─── ─── ───

 ブランが資料をもう一枚、出した。

 「稜殿。カスパル殿のご指摘の、通りでございます」

 「大陸の他国の属国でも、同様の抜け穴を使って王族認定を独自に進めた例が、ございます」

 「五十年前、サルマティア王国が王族認定を帝国の承認なしで、行った」

 「帝国は当初、抗議したが最終的に、黙認した」

 「理由は、『義務ではない』という条文の、表現」

            ─── ─── ───

 稜は三件の過去の認定例を、改めて頭の中で並べ直した。百三十年前の王の独断。八十年前の王と貴族会議の共同。四十年前の王・貴族会議・帝国の三者共同。三件の認定はどれも、その時代の政治的な状況の中で、ぎりぎりの選択として行われていた。そしてその選択の結果がアウレリア王国の、王族認定の運用の記憶として、冥書庫の奥に静かに、堆積していた。稜は前世の法務の仕事で、何度も同じ構造を見てきた。企業の就業規則や組織規程の多くは、過去の例外的な判断の積み重ねで作られていた。表向きは統一されたルールに見えても、実際の運用は過去の例外の記憶によって動かされていた。アウレリア王国も同じ構造だった。千年の王国の王族認定の手続きは、文書化された法典ではなく、運用の記憶に、支えられていた。今日、六人が第一の間で行っている議論は、その運用の記憶を文書化し、現代の認定に適用できる形に再構築することだった。

 セレネは議論の途中で、静かに一つの発言をした。「師。三件の認定は、全て、女性の王族の認定ではなく、男性の王族の認定でした。女性の王族の認定の、過去の例は、ございませんか」。稜は驚いた顔をした。カスパルはしばらく考えた後、答えた。「殿下。仰る通りでございます。過去の認定例は、全て、男性の王族でした。女性の王族の認定は、ロッテ殿が、千年で、初めての例となります」。第一の間が一瞬、静まった。ロッテはカスパル宰相の言葉を、理解するのに数秒が必要だった。千年で初めての、女性の王族認定。自分の認定手続きが王国の千年史の中で、新しい前例を作ることになる。その重さが二十歳の娘の胸の中で、じわじわと形を取り始めた。セレネがロッテの隣で、静かに微笑んだ。「ロッテ。貴方は、王家の千年の歴史の、新しい一頁を、開くのです。私は、王女として、貴方の認定を、全力で、支えます」。ロッテは王女の言葉に、深く頷いた。

            ─── ─── ───

 これは、王家千年の継承史の中で、静かな、しかし決定的な一歩だった。女性が王族として認定される時代が、アウレリアの千年史の中に、新しい頁として、加えられようとしていた。そしてこの千年の千年史の中で、女性が王族として認定される形が、今、静かに、動き始めていた。ロッテの認定は、単に一人の娘の血筋を正式に認めるだけの手続きではなかった。それは、千年の王家の継承法の、新しい可能性を、開く一歩だった。セレネはこの意味を、十六歳ながら、正確に理解していた。自分が将来、女王として即位する可能性があること。そしてその可能性を、ロッテの認定が、王国の法的構造の中で、静かに、準備する一歩になること。セレネは、ロッテの隣で、微かに、胸が熱くなっていた。

 稜は深く頷いた。

 そして一つの戦略を、固めた。

 「カスパル殿」

 「はい」

 「──王と貴族会議の共同決定でロッテの認定を、行う」

 「帝国の承認は、取らない」

 「ただし議会制の再提案と連動させる」

 カスパルは頷いた。

 「稜殿。それは」

 「はい」

 「貴族会議が議会制へ、発展する途中で認定を行う、ということでございますか」

 「その通りでございます」

            ─── ─── ───

 稜は卓の上に図を、描き始めた。

 三つの段階の時間軸の図。

 「第一段階。議会制の、設立」

 「来月、カスパル殿のお名前で、議会制再提案を陛下に、上奏」

 「陛下の裁可を経て、議会の設立」

 「二ヶ月」

 「第二段階。議会の最初の議題として、ロッテの王族認定を、審議」

 「貴族十二家、商人ギルド六家聖職者三家、計二十一家の議員による、議論」

 「家格争いは議会の内部で、処理される」

 「認定の、議決」

 「一ヶ月」

 「第三段階。陛下の裁可」

 「議会の議決を陛下が、裁可」

 「認定が正式に、成立」

 「一週間」

 「総計三ヶ月と一週間」

 「帝国の承認は、取らない」

 「過去に、帝国が黙認した例を、根拠とする」

            ─── ─── ───

 ロッテが静かに、問うた。

 「師匠」

 「はい」

 「──帝国が、黙認しない場合はどうなるのでしょうか」

 稜は少し、考えた。

 「その可能性は、ある」

 「特に今の、アウレリアの変革は帝国にとって、急激すぎる」

 「議会制の導入王族認定、同時進行」

 「三年後の、属国契約更新の前に、アウレリアが内部から、変わる」

 「帝国、特にヴィスカルト皇太子はこれを、警戒している」

 「──もし帝国が異議を、申し立てたら」

 「その時は、交渉だ」

 稜は深く頷いた。

 「帝国の異議は抜け穴の条文の解釈の、問題」

 「『求める』という表現は義務ではない」

 「この解釈を帝国の法務官と議論する」

 「議論は時間稼ぎにもなる」

 「議論の間に、アウレリア内部の新体制が、既成事実化する」

 ブランが頷いた。

 「稜殿。これは交渉人の、技でございます」

 「相手が完全に反対している場合議論を、引き延ばす」

 「引き延ばしている間に、自分の状況を有利に、変える」

 「大陸の交渉では、よく使われる技」

            ─── ─── ───

 セレネが長く、沈黙していた後口を、開いた。

 「師」

 「はい」

 「──ヴィスカルト皇太子が交渉の場に直接出てくる可能性は、ございますか」

 稜は少し、考えた。

 「可能性は、ある」

 「ヴィスカルト皇太子は三十四歳、鋭い男だ」

 「アウレリアの変革を自分の治世の試金石として、見るかもしれない」

 「もし直接交渉の場に、出てきた場合」

 「はい」

 「──最も、危険だ」

 セレネは深く頷いた。

 王族の女として彼女はヴィスカルトを、知っていた。

 人質時代の、八年間。

 皇太子の鋭い目冷たい声、そして十二歳六月三日の、一時間。

 あの日の扉を、叩き続けた音。

 セレネはその記憶を、忘れていなかった。

 「師」

 「はい」

 「皇太子が、出てきた場合」

 「はい」

 「──私も交渉の場に、出てよろしいでしょうか」

 稜はセレネを長く見ていた。

 「殿下」

 「はい」

 「──本当に、よろしいのですか」

 「はい」

 セレネの目が、強くなっていた。

 「八年の人質時代の借りを、返す時でございます」

 「皇太子の前で私はもう、怯えません」

 「師の、弟子として」

 「そしてアウレリア王家の、女として」

 「──私が直接交渉の場に、立ちます」

            ─── ─── ───

 稜は深く頷いた。

 「殿下」

 「はい」

 「──承知しました」

 「皇太子が出てきた場合、あなたが主交渉者を、務める」

 「私は後ろで、支える」

 セレネは深く、一礼した。

 カスパルが静かに問うた。

 「稜殿」

 「はい」

 「──セレネ殿下が主交渉者、というのは」

 「はい」

 「十六歳の王女が三十四歳の皇太子と直接交渉する、ということでございますか」

 稜は頷いた。

 「カスパル殿」

 「はい」

 「殿下は八年の人質時代を、生き抜かれた」

 「あの時代で既に皇太子の気質を、熟知しておられる」

 「書類の上の交渉の技はこれから、学ぶことができる」

 「しかし相手を身体で、知っているというのは、教えられない」

 「殿下はその点で私よりも、強い交渉者になれる可能性がある」

            ─── ─── ───

 カスパルはしばらく、沈黙した。

 それからゆっくりと頷いた。

 「稜殿」

 「はい」

 「──あなたの考え方は常識の外におられる」

 「十六歳の王女を主交渉者に据える宰相など千年の王家史に、存在しない」

 「はい」

 「しかし」

 「はい」

 「──それが、正しい判断であることも、わかります」

 稜は深く頷いた。

 「カスパル殿。あなたが、『正しい』と、判断してくださるなら」

 「はい」

 「私は確信を持って、進められます」

 カスパルは少し笑った。

 「稜殿。四十年の宰相の最後の判断が、『殿下を主交渉者に、据える』では、ございませんか」

 「その通りでございます」

 「──よろしい。私が責任を、分かち合います」

            ─── ─── ───

 クロヴィスが速記で全ての議論を、記録し終わった。

 「師匠」

 「クロヴィス」

 「議事録、完成いたしました」

 「この議事録を王宮の公式記録として、残しますか」

 稜は少し、考えた。

 「──残さない」

 「残さない、でございますか」

 「この議論は今、公式にすべきではない」

 「帝国の密偵が王宮内にも、いる」

 「公式記録にすれば帝国に事前に、漏れる」

 「議事録は我々六人の内部記録として、保管する」

 クロヴィスは深く頷いた。

 帳面を、閉じた。

 十六歳の少年の速記の帳面は王国の機密の最初の記録者に、なりつつあった。

            ─── ─── ───

 会議の、最後。稜は五人を、見渡した。

 「全員」

 「はい」

 「これから、三ヶ月」

 「はい」

 「──アウレリア王国の大きな変革が、始まる」

 「議会制の再提案」

 「ロッテの王族認定」

 「法文の抜け穴の、活用」

 「帝国との、交渉」

 「はい」

 「全てが同時に、動く」

 「我々は小さな六人の、集団だ」

 「しかし六人の各々が専門を、持っている」

 「カスパル殿は四十年の政治」

 「ブラン殿は大陸の交渉経験」

 「殿下は王族の視点」

 「ロッテは認定の当事者」

 「クロヴィスは記録」

 「そして私は全体の、設計」

 「──六人で力を、合わせる」

 「はい」

 「千年の王家の次の時代を我々が、作る」

 五人は深く頷いた。

            ─── ─── ───

 夕刻。稜は第一の間の手帳を、開いた。

 そして一行、書いた。

 「霜月の月、二十一日。六人の、戦略会議」

 それから少し考えもう一行、書いた。

 「法文の、抜け穴。帝国の承認を、取らない。議会制と連動させる。三ヶ月計画」

 さらに、もう一行。

 「セレネ殿下主交渉者として、立つ可能性」

 ペンを置いた。

 窓の外三日月が雲の間に、見えていた。

 その向こうに、鐘の坂の時計塔が、影として浮かんでいた。夕の鐘が、七つ鳴った。千年、同じ場所で、同じ時刻に鳴り続けてきた鐘。アドレアンの時代も、シルヴィウス二世の時代も、アレクの時代も、この鐘は鳴っていた。そして二百年前、アレクが処刑された日の夕刻にも、この鐘は七つ鳴ったはずだった。記録されていない、しかし鳴ったはずの鐘。

 秋の風が、冷たくなっていた。

 あと数日で冬の月に、変わる。

 アウレリアの冬の変革が、始まろうとしていた。

            ─── ─── ───

 【同時刻、帝都ヴェルデン皇宮、皇太子ヴィスカルト執務室】

 ヴィスカルトは新しい報告書を、読んでいた。

 「アウリオン王宮。カスパル宰相と稜殿議会制再提案の、準備中」

 「書記官助手ロッテ・シエルクが王族認定の候補に」

 「認定手続きの帝国承認については、取らない方針の模様」

 ヴィスカルトの指が机の縁を強く、叩いた。

 一度二度、三度。

 苛立ちが、抑えられなくなっていた。

 「──帝国の承認を取らない、だと」

 副官は扉の前で、震えていた。

 「稜というのは、何者だ」

 「属国の、新しい参謀が帝国を無視する、気か」

 ヴィスカルトは報告書を卓に、投げた。

 窓の外を見た。

 帝都の秋の月。

 アウリオンと同じ月。

 しかし見る者の胸の中で全く違う意味を、持っていた。

 「副官」

 「はい、閣下」

 「──視察官をアウリオンに、派遣する」

 「すぐに、準備しろ」

 「視察の名目で、介入する」

 副官は深く頭を下げ、退出した。

 ヴィスカルトは一人、残った。

 机の上の、神崎玲からの前世の写真立てを、見ていた。

 神崎は稜の前世の弟子。

 しかし神崎は稜を、止めようとしていない。

 なぜか。

 ヴィスカルトの指がまた机の縁を、叩き始めた。

 今度は、速かった。

法文の、抜け穴。

「帝国の承認は、義務ではなく、求める」──

この、条文の、曖昧さを、稜が、使う場面。

セレネが、「主交渉者として、立ちます」と、名乗り出る場面。

八年の人質時代の、借りを、返す時。

十六歳の王女が、三十四歳の皇太子と、直接、対峙する覚悟。

そしてヴィスカルト皇太子が、ついに、動き出す。

視察官の、派遣。

第一部、クライマックスへの、序章です。

次話、弟子に、負けてやる師。少し、柔らかい回です。

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