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十年の呪いが、解ける

 霜月の月、十九日目。夜。

 ロッテは再び、国王レオン陛下の書斎の扉の前に立っていた。一週間前、初めての対局。今夜は二局目。しかし前回とは全てが違っていた。ロッテは母の遺書を胸に抱えていた。その中には、母エレナ王女の若き日の手紙と前王ヴィルフレッドの二十年前の添え書きが封じられていた。

 この五日間、王宮の奥で、静かな波紋が広がっていた。遺書の添え書きが示した事実──ロッテの母イリアは、王家の血を引く女性だった。二十年前、若き日のエレナ王女と王宮下級書記バルト・シエルクの間に生まれた、王家の秘められた血筋。当時、エレナ王女は十七歳、バルトは三十歳。二人の関係は、前王ヴィルフレッドの弟、つまり当時の王弟であったリオン公爵の家庭内の出来事として、王家の奥で静かに処理された。エレナ王女は実家のリオン公爵家に戻され、生まれた娘イリアは、バルトの妹の子として、王都郊外の農家に預けられた。母と娘は、別々の人生を歩み始めた。十三年後、イリアは成人し、バルトと結婚した。バルトは自分の娘イリアと形式上の結婚をすることで、彼女に正式な戸籍を与えた。それが、ロッテの両親の、表向きの姿だった。しかし遺書の添え書きが示していたのは、イリアがエレナ王女の実娘であるという、王家の秘密だった。つまり、ロッテ自身も、王家の血を、微かに引いていた。セレネ王女の、遠縁の従姉妹。書記官助手として四年、王宮の回廊を歩いてきた二十歳の娘が今夜、自分の血の真実を、国王陛下に、明かそうとしていた。

 今夜、ロッテはこの遺書を、レオン陛下にお見せすると決めていた。

 稜とカスパルは扉の外で待っていた。

 二人は中には入らない。

 遺書の開示は、ロッテ自身が行うべきだった。

 ロッテは深く息を整えた。

 扉を叩いた。

 白髪の従者が扉を、開けた。

            ─── ─── ───

 王の書斎の扉の前で稜とカスパルは、黙って立っていた。二人とも扉の内側で何が起きているかを、想像することはできた。しかし想像の向こう側に踏み込むことは、しなかった。ロッテが一人で自分の母の遺書を、王に届けている。この瞬間はロッテのもの、だった。師匠として宰相として、二人の男はただ扉の外で、彼女の時間を守る役に徹していた。稜は前世のある記憶を、思い出していた。三十八歳の時、大企業のM&A案件で買収される側の会社の若い女性社員が、一人で合併契約の最終署名に立ち会った場面。彼女は会社の創業家の末裔で、合併を受け入れるか否かの最後の判断を、親族代表として任されていた。稜は契約室の外で彼女の上司と共に、三時間待った。扉の内側で彼女は一人、契約書と向き合っていた。三時間後、彼女が部屋から出てきた時彼女の顔は、以前とは少し違っていた。二十代の若い社員の顔から一人の決断者の顔へと、彼女はその三時間で変わっていた。稜はその顔の変化を今も、鮮明に覚えていた。若い人間が初めて自分一人で、大きな決断を下す瞬間。その瞬間の顔の、微妙な変化。今、王の書斎の内側でロッテも、同じ変化を経験しているはずだった。母の遺書を一人の娘として、王に届ける。そしてその届ける行為の中で、自分が王家の遠縁であるという事実を初めて公の場で認める。二十歳の書記官助手が、一人の王族の遠縁へと変わる瞬間。その変化は書記官助手としての日常を、終わらせる。そしてもっと複雑な、もっと重い新しい日常を始める。カスパルは扉の前で、微かに深呼吸をした。四十年の宰相が書記官助手の、人生の転機に立ち会っている。このような場面は彼の四十年の経験の中でも、稀な種類の立ち会いだった。稜はカスパルの横顔を、見ていた。四十年の宰相の顔に、微かな誇らしげな表情が浮かんでいた。自分が五十七年前シュラ村から出た時と同じように、一人の若い人間が今、大きな変化の扉をくぐろうとしていた。その変化を扉の外で見守ることができることは、カスパルにとって静かな喜びだった。

 ロッテは書斎に、入った。

            ─── ─── ───

 レオン陛下は前回と同じ卓の前に、座っていた。

 盤石格子の盤が既に、出されていた。

 陛下はロッテを、見て少し微笑んだ。

 「ロッテ」

 「陛下」

 「一週間ぶりだな」

 「はい」

 ロッテは椅子に、座った。

 しかし今夜はすぐには盤に手を、伸ばさなかった。

 代わりに胸から遺書を取り出し卓の盤の隣に置いた。

 陛下は遺書を見た。

 そして長くロッテを見た。

 「ロッテ」

 「はい」

 「──何を、持ってきた」

 ロッテは深く息を、吸った。

 「陛下。これはエレナ王女の、遺書でございます」

 「そして遺書の最後の余白に」

 「前王ヴィルフレッド陛下の直筆が、ございます」

            ─── ─── ───

 レオン陛下の表情が、変わった。

 穏やかな王の顔が一瞬で、三十八歳の一人の男の顔に、戻った。

 彼の目が遺書を、見つめた。

 「エレナ……姉上の、遺書だと」

 「はい」

 陛下は震える手で遺書を、取った。

 開いた。

 若い母の字を、読んだ。

 五年前前王が崩御した時、レオン陛下は姉エレナの話を、公式記録からは何も、知らなかった。

 「十九歳で修道院で、死去」が、公式の記録。

 しかし陛下は子供の頃王宮で姉と一緒に遊んだ記憶が、あった。

 姉は明るく笑う、人だった。

 十六歳のレオンが覚えている、最後の姉の姿は庭の薔薇の前で、笑っていた姿だった。

 陛下は遺書を、読んだ。

 姉が写本職人と恋に落ち王家を、出た経緯。

 娘を、孤児院に預けて自身は病で、死んだ経緯。

 陛下の目が、濡れた。

 「──姉上」

 「二十年何も知らずに、いた」

 「兄上は何も、教えてくれなかった」

 ロッテは静かに言った。

 「陛下」

 「はい」

 「──遺書の最後の余白を、ご覧ください」

            ─── ─── ───

 レオン陛下は遺書の最後のページを、めくった。

 「母より」の署名の下に薄く兄の筆跡が、浮かんでいた。

 陛下は長くその文字を、見つめた。

 「これは……兄上の、直筆だ」

 「二十年前、私が十八歳の頃の兄上の字だ」

 陛下は読んだ。

 遺書への添え書きは、妹エレナへの、短い呼びかけから始まっていた。愛しき妹へ。お前の娘を、私は守る。しかし私が公に迎え入れることは、できない。王家の未来の争いから、お前の娘を守るために、娘を孤児として育てる。

 「娘が二十歳になった時」

 「遺書を娘に、渡す」

 「娘がこの遺書の最後の余白を、見つけた時」

 「その時が娘の選択の時だ」

 陛下の手が、震えていた。

 目から涙が、落ちた。

 二十年知らなかった兄の意志を今夜、知った。

 「兄上は」

 「はい」

 「──ずっと守っておられた」

 「姉上の娘を」

 「十年十五年、二十年」

 「誰にも、言わずに」

 ロッテは深く頷いた。

 「陛下」

 「はい」

 「──私はその娘でございます」

 陛下は顔を、上げた。

 二十歳の書記官助手を、見つめた。

 四年間王宮で書類仕事を、続けてきた娘。

 一週間前この書斎で初めて、盤を打った娘。

 「父王の打ち方に、似ている」と陛下が、感じた娘。

 陛下は長くロッテを、見ていた。

 それからゆっくりと立ち上がった。

 卓を回ってロッテの側へ、来た。

 そして彼女の前で、跪いた。

            ─── ─── ───

 ロッテは驚いた。

 「陛下」

 「──何を、なさっておられます」

 陛下は頭を下げたまま答えた。

 「ロッテ」

 「はい」

 「私は姪に、詫びている」

 「陛下……」

 レオン王は長い間、沈黙した。そして静かに語り始めた。二十年、何も知らずにいた。王として即位してからも、姪の存在に気づかなかった。同じ王宮に、書記官助手として四年いたのに、私は気づかなかった。兄上は、姉上の娘を守ってこられた。

 「私は何も、してこなかった」

 「──王として、恥ずかしい」

 ロッテの目から涙が、溢れた。

 「陛下。お立ち、ください」

 「いや」

 「お願い、いたします」

 「ロッテ」

 「はい」

 「──今夜、私は王ではない」

 「お前の、叔父だ」

 「叔父が二十年姪に、気づかなかったことを、詫びている」

 「それは王としての詫びではない」

 「家族としての、詫びだ」

 ロッテの涙が、止まらなかった。

 二十年家族という言葉を、知らなかった。

 孤児院で、育った二十年。

 修道院のマテウス院長が養父のような存在だったが家族ではなかった。

 今夜初めて血の繋がった家族が自分の前に、跪いていた。

            ─── ─── ───

 ロッテは椅子から立ち上がり陛下の隣に、跪いた。

 二人は書斎の床で並んで、跪いていた。

 白髪の従者が隅で黙って目を、伏せていた。

 「陛下」

 「ロッテ」

 「──私はあなたを叔父上と呼んで、よろしいのでしょうか」

 陛下は顔を、上げた。

 三十八歳の目から涙が、流れていた。

 「ロッテ」

 「はい」

 「叔父上と呼んでくれ」

 「家族として」

 ロッテは深く頷いた。

 「──叔父上」

 その一言で書斎の空気が、変わった。

 千年の王家の最も、静かな瞬間の一つがここで、生まれた。

 王の書斎の盤石格子の盤の脇で叔父と姪が並んで、跪いていた。

 血の繋がりが二十年の沈黙を越えてようやく、言葉になった。

            ─── ─── ───

 しばらくして、二人は立ち上がった。

 陛下はロッテを椅子に、座らせた。

 自分も対面の席に、座った。

 そして静かに問うた。

 「ロッテ」

 「はい」

 「──お前は今何を、望む」

 ロッテは深く息を、吸った。

 そして答えた。

 「叔父上」

 「ん」

 「──王族として、認定していただきたい」

 陛下は深く頷いた。

 「兄上が遺書に、書いておられる」

 「『娘には王族として、選ぶ権利がある』」

 「お前はその権利を行使する、ということだな」

 「はい」

 「──よろしい」

 陛下は机の上の別の紙を、取った。

 書記官用の、白紙だった。

 ペンを、取った。

 そして直筆で、書き始めた。

 「ここに、宣言する」

 「書記官助手ロッテ・シエルクは、王族エレナ・アウレリア・アルヴェリア王女の、娘である」

 「本日、アウリオン王家はロッテを王家の一員として、認定する」

 「継承順位については追って審議会で、決定する」

 「霜月の月、十九日。アウリオン王レオン・アウレリア・アルヴェリア」

 陛下は紙に王家の印を、押した。

 そしてロッテに、手渡した。

 「ロッテ」

 「はい」

 「──これが認定の、第一歩だ」

 「明日、カスパル宰相と稜殿に、伝える」

 「正式な審議会は議会制の再提案と同時に、進める」

 「半年後にはお前は王女として公に、認められるだろう」

            ─── ─── ───

 ロッテは紙を胸に、抱いた。

 涙がまた、流れた。

 しかし今夜の涙は悲しみではなかった。

 解放の涙だった。

 「叔父上」

 「ロッテ」

 「──十年の呪いが解けたような気が、いたします」

 陛下の目が広がった。

 「十年の呪い、と仰ると」

 「私は孤児院で、育ちました」

 「自分の母が誰か父が誰か、知らなかった」

 「十六歳で王宮に出て、書記官助手になってからも自分が何者か、わからなかった」

 「毎朝起きて書類を処理し夜、眠る」

 「その生活の中で自分の根がない、という感覚がいつも、あった」

 「根のない生活を十年、続けてきた」

 「──今夜その根が、見つかった」

 「呪いが解けた気が、いたします」

 陛下は深く頷いた。

 「ロッテ」

 「はい」

 「──その呪いを解くのに二十年、かかった」

 「兄上は二十年お前を守りながら呪いが解ける時を、待っておられた」

 「私はその最後の一押しの役目を、務めただけだ」

 「本当の解放者は、稜殿だな」

            ─── ─── ───

 ロッテは頷いた。

 「叔父上。稜殿は私の、師匠でございます」

 「速記を、教えてくださいました」

 「盤石格子を、教えてくださいました」

 「そして」

 「はい」

 「──自分の生まれを、見つけてくださいました」

 陛下は少し笑った。

 「稜殿は本当に多くのことを、ひらかれる方だな」

 「はい」

 「アウレリアに、稜殿のような方が来られたのは」

 「はい」

 「──王家の、幸運だ」

 ロッテは深く頷いた。

            ─── ─── ───

 それから二人は二局目の盤を、打ち始めた。

 対局の間二人は多くを、語らなかった。

 盤の上で石を、置き合いながら時折視線を、交わした。

 叔父と姪の初めての、静かな時間。

 盤の上の勝負は前回よりも、白熱した。

 ロッテは一週間稜に教わった新しい戦略を、試した。

 陛下はそれを、受け止めて深い手で、応じた。

 百五十手で勝負が、ついた。

 今回も、陛下の勝ち。

 しかし差は、わずか二目。

 ロッテの成長が、明らかだった。

 「ロッテ」

 「はい」

 「──次は私が、負けるかもしれない」

 ロッテは少し笑った。

 「叔父上。そうなったら私は全力で、喜びます」

 陛下も笑った。

            ─── ─── ───

 対局の、後。

 陛下はロッテに一つ、問うた。

 「ロッテ」

 「はい」

 「──これから、どうしたい」

 ロッテは深く、考えた。

 一週間、自問し続けてきた問いだった。

 そして静かに答えた。

 「叔父上」

 「はい」

 「私は王族として、認定していただいた後も」

 「はい」

 「──書記官の仕事を続けたいと思います」

 陛下は驚いた。

 「王女として、認められた後も書記官を、続けると」

 「はい」

 「王族として王宮の奥で暮らす、王族もいる」

 「しかし私は民の声を、王家に届ける仕事を、続けたい」

 「書記官助手として四年学んだ、この仕事を」

 「王族の一人として同じ仕事を、続ける」

 「それが私の、望みでございます」

            ─── ─── ───

 陛下は長くロッテを、見ていた。

 それから深く頷いた。

 「ロッテ」

 「はい」

 「──それこそが王族の本来の姿かもしれない」

 「王族は民の上に、立つのではない」

 「民の真ん中に、立つ」

 「民の声を聞き王家に、伝える」

 「お前の望みは王族の本質に、触れている」

 「叔父上のお言葉に、感謝いたします」

 「いや、ロッテ」

 「はい」

 「──感謝するのは私の方だ」

 「お前が王族として、名乗り出て書記官を、続けたいと言ってくれたこと」

 「これは、アウレリア王家の未来への、贈り物だ」

            ─── ─── ───

 ロッテは書斎を、出た。

 扉の外に稜とカスパルが待っていた。

 ロッテの目は泣いた後の清らかさを、湛えていた。

 そして胸に、王家の印が押された一枚の紙を、抱えていた。

 稜は深く頷いた。

 「ロッテ」

 「師匠」

 「──成功だな」

 「はい」

 「叔父上は私を王家の一員として、認めてくださいました」

 「呪いが、解けました」

 カスパルも頷いた。

 「ロッテ殿」

 「はい、カスパル様」

 「──私の四十年の最後の仕事の中にあなたの認定も、含まれることになる」

 「全力で、サポートいたします」

 ロッテは深く、一礼した。

 三人は王宮の夜の回廊を並んで、歩いた。

 月がさらに、細くなっていた。

 三日月が雲の切れ間に、見えていた。

            ─── ─── ───

 稜は第一の間に戻り手帳を、開いた。

 そして一行、書いた。

 「霜月の月、十九日。ロッテの王族認定の、第一歩」

 それから少し考えもう一行、書いた。

 「十年の呪いが、解けた夜」

 ペンを置いた。

 窓の外三日月が細く、輝いていた。

 しかし稜の胸の中には一つの予感が、動き始めていた。

 (──しかしこれから本当の戦いが、始まる)

 (──五家の、反対)

 (──議会制の再提案の、難航)

 (──そして帝国の視察官の、派遣)

 (──アウレリアの変革が外から見られる時が、来る)

 (──神崎が動く時が、近い)

 稜は手帳を、閉じた。

 夜の王宮の回廊を、見ていた。

 千年の王家が今夜一つの新しい章を、開いた。

 しかし章の次のページには嵐が、待っていた。

第六章の、四話目。

章の最大クライマックスの一つです。

ロッテがレオン王の書斎を訪れ、母の遺書と前王の添え書きを届けました。

二十年、王家の奥で封印されていた秘密が、二十歳の娘の手で解かれる瞬間。

王は、二十年何も知らずにいた。

兄アルデス公は、五百人の遺族を二十年訪問し続けていた。

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