遺書の最後に一行あった
霜月の月、十四日目。夜明け前。
ロッテは自室で一人、母の遺書を読み返していた。修道院から持ち帰って、五時間。その五時間、彼女は一睡もせず机の前に座り続けていた。蝋燭の小さな炎が、遺書の繊細な文字を照らしていた。若い母の二十歳の手が書いた、静かな文字。一つ一つの字の止めや払いに、母の呼吸が残っていた。
この遺書は三時間前、マテウス院長の許しを得て、ロッテが修道院の地下の保管庫から持ち帰ったものだった。修道院の地下には、百年分の手紙や遺書が、保管されていた。孤児たちが修道院を離れる時に預けられた、大切なものの箱の中に、ロッテの母の遺書も、静かに眠っていた。二十年、誰にも読まれていなかった。ロッテの母イリアは、ロッテを産んだ時、難産の末に命を落とした──そう、ロッテは四年前まで信じていた。しかし三年前突然、母はハーゲン帝国の徴用でアウリオンに現れた。生きていた。そしてロッテと父バルトの目の前で再び、帝国兵に連れ去られた。三年、消息不明。ロッテは母が生きているのか死んでいるのかさえ、分からないまま、書記官助手として四年を過ごしてきた。今夜、修道院の地下から持ち帰った遺書は、母がロッテを産んだ二十歳の時に書いた、最初の遺書だった。当時、母は産褥熱で命を落としかけていた。その死の淵で彼女は、まだ産まれたばかりの娘ロッテに、遺書を書き残した。そして母は、奇跡的に回復した。遺書は、書かれたまま、修道院に預けられた。二十年後、その遺書が今夜、娘の手の中で静かに開かれていた。
ロッテは三度、遺書を読んだ。
四度目、読もうとした時、彼女はふと一つのことに気づいた。
遺書の最後のページ。
「母より」の署名の下。
余白。
しかしその余白に、微かに何かの跡があった。
紙に、他の文字とは違う古い薄い筆跡。
ロッテは蝋燭を、近づけた。
薄い筆跡を目を凝らして見た。
別の人の字だった。
母の字ではなかった。
母より古い、筆跡。
黒ではなく褐色の、古いインク。
文字は辛うじて、読めた。
「──愛しき、妹へ」
ロッテは息を、呑んだ。
妹。
母エレナへの、呼びかけ。
前王ヴィルフレッドの、筆跡だった。
─── ─── ───
夜明け。ロッテは遺書を携えて稜の部屋へ、向かった。
第一の間で、稜は既に手帳を開いて朝の内省を、始めていた。
ロッテは入るなり稜の前に遺書を置いた。
蝋燭の光の下で、余白の薄い文字が淡く浮かんで、見えた。
「師匠。──母の遺書の、最後に」
稜は遺書を、受け取った。
文字を、読んだ。
一瞬で、理解した。
「ロッテ」
「はい」
「これは前王陛下の直筆だ」
「……やはり、そうでございますか」
「ああ」
「母エレナが遺書を、書いた後」
「前王ヴィルフレッド陛下がその遺書に自筆で一文、書き添えられた」
ロッテは頷いた。
涙が滲みそうになった。
しかし今夜は、泣かなかった。
代わりに、問うた。
「師匠」
「はい」
「──なぜ、陛下は書き添えられたのでしょうか」
─── ─── ───
稜は遺書を再び、開いた。
余白の薄い筆跡を細かく、読んだ。
「愛しき、妹へ」の下にも続きの文字が、あった。
蝋燭の光だけでは、読み切れなかった。
稜は立ち上がり窓辺に遺書を、移した。
夜明けの薄い光に紙を、透かした。
続きの文字が少しずつ、読めるようになった。
前王ヴィルフレッドの遺書への添え書きは、妹エレナへの、静かな呼びかけから始まっていた。愛しき妹へ。お前の娘を、私は守る。しかし私が公に迎え入れることは、できない。王家の未来の争いから、お前の娘を守るために、娘を孤児として育てる。
「王家の血筋を消す、ということではない」
「──娘に選ばせる、ということだ」
「娘が二十歳になった時」
「遺書を娘に、渡す」
「娘がこの遺書の最後の余白を、見つけた時」
「その時が娘の選択の時だ」
ロッテは目を、見開いた。
「師匠」
「はい」
「──陛下は私がこの余白を、見つけることを、予想されていた」
「その、通りだ」
稜は深く頷いた。
─── ─── ───
続きの文字はさらに、あった。
前王の添え書きは続いていた。もし娘が余白を見つけない場合、娘は書記官助手として、静かに残りの人生を送るだろう。それも良い。私は娘をそのまま見守る。しかしもし娘が余白を見つけた場合──
「──娘には王族として、選ぶ権利がある」
「王族として名乗り出るか書記官として、生きるか」
「選ぶ権利は娘のもの」
「強制ではない」
「ヴィルフレッド、アウレリア王」
ロッテは長く遺書を、見つめていた。
夜明けの光が少しずつ、強くなっていた。
紙の余白の、前王の筆跡が朝の光にゆっくりと浮かび上がっていった。
「師匠」
「はい」
「──陛下は私を、見守ってくださっていた」
「そうだ」
「二十年、遠くから」
「そうだ」
「あなたが、書記官助手になり四年、仕事を続けてきたこと」
「あなたが書類を、三回落としながらも誠実に、努力してきたこと」
「全て、陛下はご存じだった」
ロッテの目から涙が、落ちた。
朝の光の中で涙が金色に、輝いた。
─── ─── ───
ロッテは長く、泣いた。
稜は黙って、待った。
やがてロッテが顔を、上げた。
「師匠」
「はい」
「──私は、選びます」
「何を、選ぶ」
ロッテは深く息を、吸った。
それから静かにしかし確固として答えた。
「──王族として、名乗り出ます」
稜は長くロッテを、見ていた。
胸の奥で一つ重い予感が、動いた。
この選択は、ロッテ個人の人生の選択であるだけでなく、アウレリア王家の次の時代への、選択でもあった。
しかし稜はロッテの決断を、尊重した。
「ロッテ」
「はい」
「──その選択の理由を、聞いてもいいか」
ロッテは深く頷いた。
─── ─── ───
ロッテは静かに答えた。
「四年、書記官助手として、働きました」
「書類を三回、落としました」
「人の言葉を正確に、記録する訓練を、積みました」
「速記を、覚えました」
「──この四年の、私の仕事は民の声を王家に、届ける仕事でございました」
「はい」
「書記官は王家と民の間に、立つ者でございます」
「しかし私は、書記官助手として民の声を一部しか、届けられませんでした」
「書類の量はいつも、多すぎた。処理しきれなかった」
「稜殿のおかげで、速記を覚え処理量は、増えました」
「しかしそれでも、届けきれない声が、ある」
ロッテの目が、強くなった。
「師匠」
「はい」
「──王族として、名乗り出れば」
「はい」
「民の声を直接王家の中で、代弁できる」
「書記官助手が届ける声ではなく」
「王族の一人が民の側から、声を上げる」
「それが私にできる、最
─── ─── ───
ロッテは遺書を胸にしばらく動けなかった。二十年前、母が自分を産んだ時死の淵で書いた遺書。そしてその余白に残されていた、別人の古い筆跡の一行。ロッテはその一行を、三度四度読み返した。筆跡は男性のもの。力強い一直線の線。書かれた言葉は短かった。「この子の母は、エレナである。必要な時、これを示せ」。エレナ。二十年前に産褥熱で亡くなったとされていた、若い王女の名前だった。ロッテは王宮の書記官助手として四年、王家の系譜を書類の中で何度も見てきた。前王ヴィルフレッド陛下には若い妹が一人いた。エレナ王女。十八歳で結婚し、二十歳で娘を産んだと同時に亡くなった。王家の記録は彼女の娘についての詳細を、記していなかった。記録は娘の名前も、その後の消息も記していなかった。ロッテはその空白を書類を見るたびに、微かに気にしていた。王家の系譜の中に、名前が書かれていない、一人の娘の痕跡。その痕跡が二十年後、自分自身であったことを今、ロッテは遺書の余白の一行で知りつつあった。筆跡は前王ヴィルフレッドのものだった。王宮の書類で彼女は、何度も前王の筆跡を見たことがあった。一直線の、力強い王の字。その字が今、彼女の母の遺書に二十年前書き加えられていた。
なぜ、前王はこの添え書きを残したのか。ロッテは一つの仮説を立てた。前王ヴィルフレッド陛下は妹エレナ王女の娘を、王家の公式の系譜から外してバルト・シエルクの娘として育てることを、決断した。これは王家を守るための、静かな判断だった。エレナ王女の夫──ロッテの実の父──は王家内部の争いの最中に、何らかの事情で亡くなったか、あるいは消息不明になっていた可能性があった。その夫の血筋を王家の系譜に残すことが、将来の王家の安定にとって危険だった。しかし前王は妹の娘を完全に王家から切り離すことも、できなかった。血は血だった。だから遺書の余白に、一行だけ、書き残した。必要な時この一行を示すことで、娘の王家との繋がりを証明することができる、という保険だった。そして二十年後の今夜、その娘は、遺書の余白の一行を、偶然、発見した。前王ヴィルフレッドが、二十年前に想定していた、二つの可能性のうちの、後者の道が、今夜、静かに、開かれようとしていた。そしてこの王家の秘密は、マテウス院長の心の中で、二十年間、静かな重さとして、残り続けていた。院長自身も、この秘密を誰かと分かち合いたいと思った夜が、何度もあった。しかし院長は、前王ヴィルフレッドとの約束を、守り続けた。二十年後、その約束の最後の部分が、今夜、ロッテ自身の発見によって、解かれようとしていた。
大の仕事でございます」
─── ─── ───
稜は深く頷いた。
「ロッテ」
「はい」
「──お前は母の遺志を、継いでいる」
ロッテは涙を、拭いた。
「母の、遺志……?」
「エレナ王女は王家を捨てて、写本職人の男性と結ばれた」
「王家の慣例では、あり得ない選択だった」
「しかし彼女はそれを、選んだ」
「──民の側で生きることを、選んだ」
「……はい」
「今二十年後、あなたは民の側から王家に戻ることを、選んだ」
「母の選択と鏡写しの、選択だ」
「母が王家から、民へ」
「娘が民から、王家へ」
「しかし二つの選択の根底にある思いは、同じだ」
「民の側で何かを、やりたい」
ロッテは長く稜を、見ていた。
そしてゆっくりと深く頷いた。
「師匠」
「はい」
「──母上のように、選びます」
─── ─── ───
朝の光が完全に第一の間を満たした頃、稜は一つの提案を、した。
「ロッテ」
「はい」
「王族として名乗り出る、ためには」
「はい」
「──手順が、ある」
稜は手帳に図を、描いた。
「第一段階。遺書の真贋を、確認する」
「前王陛下の筆跡鑑定。冥書庫のマテウス院長カスパル殿に、ご協力いただく」
「はい」
「第二段階。レオン陛下に遺書を、お見せする」
「陛下はあなたの父王つまり前王の、弟君」
「遺書の中の『娘を、守る』という兄の意志をレオン陛下に、伝える」
「はい」
「第三段階。王家の正式な、審議会」
「エレナ王女の娘を、王族として認定する審議会を、開く」
「この審議会が最も、難しい」
「十年前の、属国契約更新で、不満を抱えた五家が、反対する可能性が高い」
「王位継承の順位が、変わることを恐れる家が、ある」
ロッテの顔が少し青ざめた。
「師匠」
「はい」
「──反対されるのでしょうか」
「可能性が、高い」
「しかし」
「はい」
「十年の沈黙の不満を、議会制の再提案と組み合わせれば、解決できる可能性が、ある」
─── ─── ───
稜は続けた。
「議会制の再提案は、カスパル殿のお名前で、進めている」
「五家の不満は議会の中で処理される、予定だ」
「ロッテ、あなたの王族認定の審議会も、議会制の枠組みの中で、行えば」
「はい」
「五家は議会で意見を、述べられる」
「沈黙の不満を言葉にする場が、できる」
「言葉にした後の反対は、合理的な議論になる」
「言葉にしない反対は感情的な、妨害になる」
「この差は、大きい」
ロッテは深く頷いた。
「師匠」
「はい」
「──カスパル殿の議会制と私の王族認定は一緒に、動かすのでございますね」
「そうだ」
「二つの大きな、変革」
「同時に動かせば相互に、支え合う」
「別々に動かせば別々に、潰される」
─── ─── ───
その日の午後、稜はカスパルを第一の間に、呼んだ。
カスパルは遺書を見た。
前王の筆跡を、確認した。
そして深く頷いた。
「稜殿。これは前王陛下の直筆で、ございます」
「私は陛下の直筆を四十年、数えきれないほど、見てまいりました」
「間違い、ございません」
ロッテは深く、一礼した。
「カスパル様。ありがとうございます」
カスパルはロッテを見た。
七十二歳の目が二十歳の書記官助手を静かに見つめていた。
「ロッテ殿」
「はい」
「──エレナ王女の娘、でいらっしゃいましたか」
「はい」
カスパルはしばらく、沈黙した。
それから静かに言った。
「エレナ王女は王家で最も、輝いておられた方だった」
「十八歳のあなたの母は王宮の庭の薔薇の花を誰よりも、愛された」
「私は宰相として、エレナ王女の結婚相手の候補を選ぶ役目を、担っていた」
「貴族の子息他国の王子、有力な商人の息子」
「様々な候補を、提示した」
「しかし王女は全ての候補を、拒否された」
「『心の動かない相手とは、結婚しない』と、仰られた」
「──はい」
「そして王女は写本職人の若い男と出会われた」
「私はその話を聞いた時止めようとしました」
「しかし王女は王家を、捨てられた」
「二十歳で、亡くなられたと公式記録には、書いてある」
「──しかし実際には娘を、残されていた」
ロッテの目が、濡れた。
「カスパル様」
「はい」
「──私は母上の娘として王家に、名乗り出たい」
「カスパル様お力添えを、お願いいたします」
カスパルは深く頷いた。
「ロッテ殿」
「はい」
「四十年宰相をやってきた、この老人の最後の力を」
「はい」
「──あなたに、お貸しします」
─── ─── ───
その日の夕刻、稜は手帳に一行、書いた。
「霜月の月、十四日。遺書の最後の余白。前王陛下の二十年前の手紙」
それから少し考えもう一行、書いた。
「ロッテ王族として、名乗り出る決意。議会制再提案と連動させる」
ペンを置いた。
窓の外月がさらに、細くなっていた。
半月から三日月への、移り変わりの時期。
アウリオンの秋が、深まっていた。
─── ─── ───
【同時刻、帝都ヴェルデン、皇宮】
神崎玲は執務室で、新しい報告書を、読んでいた。
「アウリオン王宮。書記官助手ロッテ・シエルク」
「王家の血筋の疑い」
「前王の妹エレナ王女の娘の可能性」
「現在、稜殿が王家認定の手続きを、準備中」
神崎は報告書を長く見つめた。
それから机の上の写真立てを、裏返した。
今夜は見たかったからだった。
二十四歳の、自分。
三十九歳の、稜。
前世の、集合写真。
(──稜。お前は、カスパル殿の四十年を、解いた)
(──そして今ロッテという、王家の忘れられた娘を王家に、戻そうとしている)
(──アウレリア王家の次の継承順位が、動く)
(──属国の内部が、変わる)
神崎の指が机の縁を軽く、叩いた。
苛立ちではなかった。
予感だった。
(──三年後の属国契約の更新日)
(──その時までにアウレリアは全く違う国に、なっているかもしれない)
(──ヴィスカルト皇太子はこれを、許さないだろう)
(──しかし稜は止まらない)
神崎は窓の外を見た。
帝都の細い月が雲の切れ間に、見えていた。
遺書の、最後の余白。
前王ヴィルフレッドの、二十年前の、手紙。
「娘に、選ばせる、ということだ」──
この一行を、書きたかったのです。
ロッテが、自分の意志で、王族として、名乗り出る決意をする場面。
「母上のように、選びます」──
母エレナが、王家を捨てて、民の側に行った。
その娘ロッテが、民の側から、王家に、戻ろうとする。
二十年の時間を挟んだ、鏡写しの選択。
次話、十年の呪いが、解ける。第二対局の夜です。




