夢に、兄上が立っていた
霜月の月、十三日目。深夜。
ロッテは自室で眠っていた。王宮の書記官寮の、狭い個室。窓が一つ、机が一つ、寝台が一つ。壁には四年前、孤児院から持参した一つの小さな木彫りの聖人像が、掛けられていた。聖人ファルギウス。修道院のマテウス院長が、十六歳で王宮に出る彼女に渡したものだった。夜半、ロッテは夢を見ていた。
この数日、ロッテの夢には、一つの共通点があった。どの夢も、王宮の回廊が舞台だった。月の庭から戻った日から、ロッテは夜いつも、回廊を歩く自分の姿を見ていた。夢の中で、彼女は常に、一人で歩いていた。書記官室からの帰り道か、あるいは王宮の北翼からの帰り道か、方向は判然としなかった。ただ足音が、石畳の上で、一定の速度で、響いていた。回廊の先に時々、誰かの姿が現れた。初日の夢には、セレネ王女が立っていた。二日目には、師匠の稜が立っていた。三日目には、父バルトが立っていた。四日目には、母イリアが立っていた──三年前に徴用されて以来、実際には一度も会っていない母。夢の中の母は、若い頃のままの姿で、微かに微笑んでいた。ロッテは夢の中で泣いた。目覚めた時、枕が少しだけ濡れていた。そして今夜、五日目。夢の中で、回廊の先に立っていたのは、知らない男だった。
夢の中でロッテは王宮の回廊に立っていた。
回廊の先の方から、一人の若い男が歩いてきた。
男は、三十歳ほど。背が高く、肩幅が広かった。黒髪で、青い目。
ロッテはその顔を、知らなかった。
しかしその男は、ロッテに微笑んだ。
兄のような、笑みだった。
男はロッテの前で、立ち止まり静かに言った。
「──ロッテ」
ロッテは答えようとした。しかし声が、出なかった。
「お前は父上の目で盤を、打っている」
「それは私にも、見えた」
「父上もお前の中に彼自身の何かを、見ているだろう」
「あなた、は……」
男は、微笑み続けた。
「私は二十年前に、死んだ者」
「お前の兄上、かもしれない」
「──それを確かめる時が、来た」
ロッテは男の顔を、見上げた。
男の青い目が自分の目に、重なった。
同じ色だった。
─── ─── ───
ロッテは汗をかいて、目が覚めた。
夜中の、二時頃。
寝台の上でしばらく、動けなかった。
夢の中の男の顔が鮮明に、残っていた。
知らない顔だった。
しかしどこかで見たような、気もした。
ロッテは寝台から、起き上がった。
机の引き出しから一枚の古い絵を、出した。
十六歳で王宮に出る時マテウス院長が彼女に、渡したものだった。
絵は女性の、肖像画だった。
二十歳ほどの、若い女性。黒髪、青い目。
マテウス院長は絵を渡す時こう言った。
「ロッテ。これはお前を、孤児院に預けた若い女性の、絵だ」
「この女性が誰なのか私は、知らない」
「しかしこの絵はお前が、持っておくべきだ」
ロッテは絵を、見つめた。
夢の中の男の顔と絵の中の女性の顔を、比べた。
二人は、似ていた。
兄妹、のように。
─── ─── ───
朝ロッテは真っ先に、稜の部屋へ向かった。
第一の間で稜は既に起きて手帳を、開いていた。
ロッテは息を切らせながら、入ってきた。
「師匠」
「ロッテ。どうした」
「──夢を、見ました」
稜は手帳を、閉じた。
そしてロッテに座るように、促した。
「話してくれ」
ロッテは夢の内容を、話した。
若い男三十歳黒髪、青い目。
「お前は父上の目で盤を、打っている」と告げた、こと。
「二十年前に、死んだ者」だった、こと。
「お前の兄上、かもしれない」と言った、こと。
そして机の引き出しから絵を、取り出した。
稜に、見せた。
「師匠。この絵の女性と夢の中の男は、似ております」
─── ─── ───
稜は絵を、受け取った。
しばらく絵を、見つめていた。
そして一つ深く息を、吐いた。
「ロッテ」
「はい」
「この絵の女性の名前をマテウス院長は、告げていないのだな」
「はい。『知らない』と」
稜は絵の裏を見た。
絵の裏には何も、書かれていなかった。
しかし絵の額縁の下の方に小さな刻印が、あった。
ロッテには、見えなかった刻印だった。
稜は額縁を細かく見た。
刻印は古代アウレリア語で、三文字だった。
「A.V.A.」
稜は長くその刻印を、見つめた。
そしてロッテに静かに言った。
「ロッテ」
「はい」
「この絵の額縁に三文字の刻印が、ある」
「『A.V.A.』と、読める」
「何を、意味するのでございますか」
「アウレリア王家の王族の、しるしだ」
「A.V.A.は、『Aurelia Veritas Aeterna』──『アウレリアの永遠の真実』の、略」
「王家の家紋に必ず、入る刻印」
「王族の個人の所有物にも、付けられる」
ロッテの顔が、青ざめた。絵の女性が王族である可能性を、稜が告げた。彼女は立っているのが苦しくなり、机に手を突いた。稜は彼女を椅子に座らせた。
稜は、絵とロッテの夢の内容を、頭の中で重ねた。夢に現れた若い男は、現実の誰でもなかった。しかし絵の王族印と、夢の中の男の品格を合わせると、一つの仮説が、浮かび上がった。前王ヴィルフレッド陛下には、若くして亡くなった妹がいた。二十年前、産後の肥立ちが悪く、亡くなった若き王女エレナ。王家の記録には、彼女の死は簡潔にしかし丁寧に、記されていた。しかしエレナ王女の、産んだ子供については記録が、曖昧だった。王家の記録は、母と共に子供も亡くなった、と記していた。しかし同じ年、ロッテの実家のシエルク家に、一人の女児が、遠縁の養子として、迎え入れられていた。王宮下級書記のバルト・シエルク夫妻が、子供を授かったのと時期が、一致していた。当時の王宮で、この一致に気づいた者は、ほとんど、いなかった。しかし冥書庫のマテウス院長は、気づいていた。院長は若き日、前王ヴィルフレッドから、ある秘密を、託されていた。「エレナの娘を、シエルク家で、育てる」という、短い手紙。手紙は、院長の個人の金庫に二十年、封印されていた。院長は誰にも、この秘密を、明かさなかった。秘密を知る者が、一人でも多ければ、王家の安定が、脅かされる可能性があった。しかし二十年後、その娘ロッテが、王宮の書記官助手として、院長の前に、立っていた。院長は、彼女の目の中に、エレナ王女の、若き日の面影を静かに、見ていた。
稜は、ロッテに、この仮説を、ゆっくりと告げた。絵の女性は、前王ヴィルフレッド陛下の妹、二十年前に亡くなった若い王女。そしてあなたの、母だと。
ロッテは、息を呑んだ。
─── ─── ───
ロッテは目覚めた後、一時間寝台の縁で動けずにいた。夢の中の男の顔は知らない顔だった。しかしその男の微笑みには、明らかに家族としての温度があった。ロッテは自分が孤児院で育った四年間を、思い出していた。マテウス院長は彼女に、多くの物語を聞かせた。しかしロッテの実の両親についての話は、ほとんどなかった。両親は彼女が生まれた直後にある事情で、ロッテを院長に預け、しばらくして亡くなった──それがロッテが院長から聞いた、唯一の説明だった。ロッテは十歳までに、その説明を受け入れていた。しかしここ数年王宮の書記官助手として働く中で、自分の出自について時々、静かな違和感を感じるようになっていた。書記官としての仕事は自分の能力と、どこかでよく合っていた。特に、書類を整理し文書の流れを読み取る能力は、他の書記官助手よりも明らかに高かった。二十歳になった今、ロッテは自分の中に、書記官の家系の血を、感じ始めていた。父バルトは下級書記として二十年の経験を持つが、彼の書記官としての能力はロッテのそれより、明らかに劣っていた。ロッテの書類処理の速さ、文章の整理の鋭さは父から受け継いだものではなかった。ならばどこから来たのか。今朝の夢で見た知らない若い男の顔が、その問いの最初の手がかりを彼女に示していた。
ロッテは机の抽斗の一番奥に、しまっておいた一つの小さな木箱を取り出した。木箱の中には、母の遺品が三つ入っていた。古い手鏡、若い日の髪飾り、そして一つの小さな絵。絵は一人の若い女性を描いたもので、描かれた時期は二十年前。ロッテが生まれた頃だった。母はロッテが生まれる数ヶ月前に、この絵をどこかの画家に描いてもらったと、父バルトは語っていた。絵の中の女性は、若く美しく、微かに哀しげな目をしていた。ロッテは子供の頃から、この絵を時々取り出して眺めていた。母の顔を絵の中でしか知らない娘の、静かな習慣だった。そして今朝夢から覚めた後、ロッテはこの絵を新しい目で見つめた。絵の女性の首筋に、小さな刻印が描かれていた。八角形の星のような形。書記官助手として四年王宮の書類を扱ってきたロッテは、その刻印を見たことがあった。王家の家紋の、一部。
そして王宮の記録の奥に、エレナ王女についての詳細な情報は、ほとんど残されていなかった。前王ヴィルフレッド自身が、妹の娘を守るために、王家の公式記録から、妹の全ての痕跡を、静かに削除したのかもしれなかった。削除は、妹の記憶を消すためではなかった。妹の娘を守るためだった。
「──前王陛下の妹、と仰いますと」
絵の女性の名は、アウレリア王家の王女エレナ・アウレリア・アルヴェリア。前王ヴィルフレッドの、妹。二十年前、独立戦争の直前に消息不明になった、若き王女だった。
「公式記録では、『修道院に入り、十九歳で死去』と、されている」
「しかし実際には若い男性と恋に落ち、王宮を出て修道院で子を産みその子を孤児院に預け、自身は二十歳で流行り病で死去したという宮廷の、隠された話がある」
─── ─── ───
ロッテの目が、潤んだ。
「師匠。私は……王女の、娘……?」
「可能性が、高い」
「確定するには、マテウス院長の証言と修道院の記録が、必要だ」
「しかし絵の刻印夢の内容、そしてレオン陛下があなたの打ち方を『父王に似ている』と仰ったこと」
「これら全てが一つの方向を、指している」
ロッテは長く、沈黙した。
窓の外朝の光が少しずつ、強くなっていた。
「師匠」
「はい」
「──夢の中の兄上は、誰でございますか」
稜は少し、考えた。
夢の男は、エレナ王女の息子──つまりロッテの兄上、の可能性があった。エレナ王女は二十歳で亡くなる前、若い男性との間に二人の子を産んだ、という話が、王家の古い記録に残されていた。ロッテには、兄がいる。
「兄は夢の中で言った通り、『二十年前に死んだ』と、されている」
「幼くして亡くなったと言われている」
「……兄がいたのでございますか」
「はい」
「そして」
「はい」
「前王ヴィルフレッド陛下はこの兄の死を悼んで、エレナ王女の話を公式記録から、消された」
「あなたを、孤児院に預けたのはあなたを、守るため」
「王族としての権利争いに、巻き込まないため」
─── ─── ───
ロッテは涙を、流し始めた。
静かな、涙だった。
二十年、知らなかった自分の出自が今彼女の前に、広がっていた。
「師匠」
「はい」
「──私は、どうすればよいのでしょうか」
稜は長く彼女を、見ていた。
それからゆっくりと言った。
「ロッテ」
「はい」
「何もしないが一つの、選択」
「あなたは、書記官助手として静かに残りの人生を、生きる」
「王族の血筋は誰にも、明かさない」
「はい」
「王家に、名乗り出るがもう一つの、選択」
「王女エレナの娘として王家に認定されればあなたは、アウレリア王家の正統な、後継者の一人になる」
「レオン陛下にはお子がいらっしゃらない」
「あなたが将来王位継承の候補になる、可能性もある」
ロッテの目が、見開かれた。
「師匠。それは……」
「可能性の話だ」
「しかし無視できない可能性、でもある」
「私はどちらを、選ぶべきなのでございますか」
稜は静かに答えた。
「──それを決めるのは、あなた自身だ」
─── ─── ───
ロッテはしばらく、泣いていた。
稜は黙って、彼女の涙が落ち着くのを、待った。
やがてロッテが顔を、上げた。
目はまだ、濡れていた。
しかし表情は、強くなっていた。
「師匠」
「はい」
「──今夜マテウス院長に会いに、行かせてください」
「承知した」
「俺も、同行する」
「ありがとうございます」
稜は静かに、立ち上がった。
そしてロッテにもう一つ言った。
「ロッテ」
「はい」
「何がわかってもお前は、ロッテ・シエルクだ」
「書記官助手として四年努力してきた、ロッテ・シエルクだ」
「出自が何であれ、その四年の努力はお前の本物の人生だ」
「その人生を、どう使うかは今わかる出自に、左右されない」
ロッテは深く頷いた。
涙がまた、流れた。
しかし今度は悲しみの涙ではなかった。
師に対する、感謝の涙だった。
─── ─── ───
夕刻。稜とロッテは王都の外れの修道院へ、向かった。
マテウス院長は既に二人を、待っていた。
稜が朝伝令を、送っていた。
院長は、七十一歳。白い髭優しい目、太い眉。
二人を修道院の応接室に、招き入れた。
ロッテは入るなり院長の前に、跪いた。
「院長様」
「ロッテ。立ちなさい」
「院長様私の出自を、教えてください」
マテウス院長は長くロッテを、見ていた。
そして深く息を、吐いた。
「ロッテ」
「はい」
「──その話を、聞きに来る日がいつか来ると思っていた」
「二十年、待っていた日だ」
─── ─── ───
マテウス院長は修道院の奥の、古い書庫から一冊の小さな帳面を、取り出した。
帳面は皮表紙で王家の紋章が、刻まれていた。
「ロッテ。これはあなたの母上が書かれた、遺書だ」
「二十年誰にも見せずに、預かっていた」
「今あなたに、渡す」
ロッテは帳面を、受け取った。
表紙を、撫でた。
王家の紋章の凹凸が指に、伝わった。
「院長様」
「ロッテ」
「私の母上はエレナ王女で、ございますか」
マテウス院長は深く頷いた。
「──その通りだ」
「エレナ・アウレリア・アルヴェリア王女」
「前王ヴィルフレッド陛下の妹」
「あなたの母上、だ」
ロッテは帳面を胸に、抱えた。
涙が、止まらなかった。
二十年知らなかった自分の母の名前を今、知った。
─── ─── ───
稜は静かに院長に、問うた。
「院長様」
「はい、稜殿」
「──ロッテには兄がいたのですね」
兄の名は、ヴィクトル。ロッテより二歳、年上の男の子だった。
「二十年前四歳で病で、亡くなった」
「ロッテは母の死の三ヶ月後孤児院に、預けられた」
「兄ヴィクトルはその前に既に、亡くなっていた」
稜は頷いた。
「ロッテの夢の中に兄が、立っていたのは」
「──兄上があなたに話しかけておられる、のでしょう」
ロッテは夢の中の男の顔を、思い出した。
あの優しい、兄のような笑み。
二十年、知らなかった兄が夢の中で自分に手紙を届けてくれた、気がした。
─── ─── ───
ロッテは帳面を、開いた。
中には若い女性の繊細な文字で母エレナ王女の遺書が、書かれていた。
「愛する、ロッテへ」
「私はあなたが一歳の時にこれを、書いている」
「流行り病が町に、広がり始めた。私も、罹患するかもしれない」
「もし私が死んだら、この遺書をあなたが読んでいる、ということだ」
「ロッテお前は王家の血を、引いている」
「しかし私は王家を捨てて愛する男性と結ばれた」
「お前の父は一介の、写本職人だった」
「書物を丁寧に写し取る、静かな男だった」
「私は彼を、愛した」
「王家の慣例に、従わなかった」
「結果私は王宮を、出た」
「お前の父はお前が生まれる前に病で、亡くなった」
「私だけが、残った」
ロッテは涙を拭きながら、読み続けた。
「ロッテお前がこれを、読む時」
「私はもうこの世に、いない」
「そしてお前の兄ヴィクトルももしかしたら、いないかもしれない」
「流行り病は、無慈悲だ」
「もしお前が一人で、残ったなら」
「──自分の人生を自分で、選んでほしい」
「王族として、生きるか。民として、生きるか」
「どちらも、正しい」
「ただ自分が選んだ人生を、生きてほしい」
「母より」
ロッテは帳面を胸に、抱きしめた。
長く、泣いた。
稜とマテウス院長は黙って、待った。
─── ─── ───
ようやくロッテが顔を、上げた。
「師匠」
「はい」
「──私は選ぶことに、します」
「何を、選ぶ」
「まだ、わかりません」
「しかし母上が遺されたように自分で、選びたい」
稜は深く頷いた。
「それで、いい」
「急ぐ、必要はない」
マテウス院長も静かに頷いた。
「ロッテ」
「はい、院長様」
「その遺書は二十年、私が預かっていた」
「今日からあなたが、預かる」
「母上の声をいつでも、聞けるように」
ロッテは帳面を大切に、包んだ。
修道院を出る時外はもう、夜になっていた。
月が、欠けていた。
十三日目の、細い月。
ロッテは月を見上げて一つ、呟いた。
「母上」
「──あなたの娘は今自分の人生を、選び始めました」
ロッテの、出自が、明かされました。
前王の妹、エレナ王女の、娘。
夢の中の、兄上。
二十年、預けられていた、母の遺書。
「自分の人生を、自分で、選んでほしい」
この、母の願いが、これから、ロッテの物語を、動かしていきます。
次話、遺書の、最後の一行の、秘密です。




