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王と盤を挟む夜

 霜月の月、十日目。夜。

 月の庭の旅から、アウリオン王宮に戻って三日が経った。王宮の生活は少しずつ変わり始めていた。カスパルは宰相としての執務を副宰相に半分委ね始めた。残りの半分は議会制の再提案の準備に当てていた。稜は四人の弟子と共に裏方の草案作成を進めていた。そしてロッテ・シエルクにも、変化が訪れていた。月の庭から帰った翌日、ロッテは王宮の書記官室で一通の手紙を受け取った。手紙の差出人は国王レオン・アウレリア・アルヴェリア陛下だった。書記官助手が直接、国王から手紙を受け取るのは、王宮の慣例では前例がなかった。

 この三日間、王宮の空気は、旅に出る前と比べて、確かに変わっていた。変わったことを言葉で説明できる者は、誰もいなかった。しかし書記官室の古株から、厨房の料理人まで、王宮で働く多くの者が、何かが違うと肌で感じていた。カスパル宰相の歩き方が少し変わった。朝、謁見の間に向かう宰相の足取りが、以前より軽くなっていた。四十年の宰相が、若い副宰相に執務を委ね始めた。それも王宮の古株にとっては、初めて見る光景だった。副宰相ヴァルド・モレンシウスは三十五歳、カスパルが五年前から密かに育ててきた後継候補だった。ヴァルドは最初、執務の引き継ぎに戸惑っていた。しかしカスパルは「お前の半分の判断でよい。私が残りの半分を、引き受ける」と、静かに告げた。ヴァルドは頷いた。四十年の宰相の、王宮での時間の形が、月の庭から戻った朝からゆっくりと新しい形へと移り始めていた。

 その変化の中心に、稜がいた。稜は月の庭から戻った翌朝、書記官室にロッテを呼んだ。「ロッテ。お前に一つ、仕事を頼みたい」と、稜は告げた。仕事の中身は、アルデス公の領地からの陳情書を、過去一年分、集めることだった。ロッテはその指示を受け取った時、理由を尋ねなかった。師匠が頼むことには必ず、見えない意図があると四年の書記官助手の経験で彼女は、知っていた。

            ─── ─── ───

 ロッテは手紙を稜に、見せた。

 第一の間で稜は手紙を、開いた。

 内容は、短かった。

 「ロッテ・シエルク殿」

 「私、レオン・アウレリア・アルヴェリアはあなたに一つの招待を、お送りします」

 「来たる霜月の月、十二日目の夜」

 「王の個人の書斎で盤石格子を一局、打ちませんか」

 「王宮の書記官が王と盤を囲むのは千年の慣例では前例がありません」

 「しかしある話を、聞きました」

 「月の庭で、カスパル宰相が初めて盤石格子を、打たれたと」

 「私は父王が崩御されて以来盤石格子を打つ相手を、探しておりました」

 「あなたが適任、かもしれません」

 稜は手紙を、読み終えて深く息を、吐いた。

 そしてロッテを見た。

 ロッテの顔は、青ざめていた。

 「師匠」

 「ロッテ」

 「──私陛下と盤を打つことなど、できません」

 「書記官助手が王と同じ盤の対面に、座るなど」

 稜は静かに言った。

 「ロッテ」

 「はい」

 「お前は適任だと陛下は仰っている」

 「なぜでございますか」

 「私は書記官助手、四年目。盤石格子のルールすら、知りません」

 稜は少し、考えた。

 それからゆっくりと答えた。

 「ロッテ。陛下は勝ちたいから盤を、打たれるのではない」

            ─── ─── ───

 ロッテは稜を見た。

 「勝ちたいからではない、と仰いますと」

 「陛下は五年前、前王陛下が崩御されてから誰とも盤を、打っておられない」

 「レオン陛下の盤の相手は常に、父王であった」

 「父王と打った盤の温度を、陛下は忘れられない」

 「だから、新しい相手と盤を打つことを、避けてこられた」

 「しかし五年が経った」

 「そろそろ、新しい相手と打ちたいと思われたのかもしれません」

 「しかし師匠」

 「はい」

 「なぜ私、なのでございますか」

 「王宮には私より格の高い相手が、たくさんおられます」

 稜は静かに笑った。

 「それが、理由でございます」

 「え」

 「格の高い相手とは陛下は既に、話しておられる」

 「公務の相手として。政策の相手として」

 「しかし盤の相手、というのは公務の延長ではございません」

 「盤の相手とは対等な、人間でございます」

 「王は盤の前では、王ではなくなる」

 「対面の席に座る者も、書記官助手ではなくなる」

 「ただ一人の人間と人間が、向かい合う」

 「……」

 「陛下は格の高い相手とそういう関係を、結べない」

 「格が高すぎて対等の関係に、なれない」

 「だから、書記官助手のあなたを、選ばれたのかもしれません」

 「格の差が、ありすぎて逆に対等な人間の関係を、築ける」

            ─── ─── ───

 ロッテは長く、沈黙した。

 手紙を握る手が、震えていた。

 「師匠」

 「はい」

 「──私盤石格子を、知りません」

 「二日で、教えます」

 「二日で、覚えられますか」

 「ルールを覚えるのは、一日」

 「残りの一日で二十局、打つ」

 「それで、陛下との対局の最低限の準備は、整います」

 ロッテは深く息を、吐いた。

 それから稜を見た。

 「師匠。お願い、いたします」

 「よし」

             ─── ─── ───

 その日の午後から稜はロッテに、盤石格子のルールを、教えた。

 ロッテは書記官助手として、記録する訓練を四年、積んできた。

 ルールの暗記は異様に、早かった。

 午後の四時間で、ロッテは全てのルールを、覚えた。

 夕刻、稜はロッテと最初の一局を、打った。

 十分で、ロッテは負けた。

 しかし負け方が、きれいだった。

 ロッテは最後まで自分の石を丁寧に置いた。

 投了の時も、潔かった。

 「師匠」

 「はい」

 「──負けるのは楽しいのでございますね」

 稜は驚いた。

 「楽しい、と仰いますと」

 「負ける途中で自分の弱点が、わかります」

 「次の一手を打つ時に前の一手の反省を、踏まえられる」

 「負けることが自分を、進歩させる」

 稜は深く頷いた。

 「ロッテ」

 「はい」

 「お前の学びの速度は異常に、速い」

 「四年、書類を三回落としていた手が今、盤石格子の上で自分を、進歩させている」

 「師匠のおかげでございます」

 「いえお前自身の、才能だ」

            ─── ─── ───

 夕食の後、ロッテは自室で一人で練習を、続けた。

 稜は第一の間で手帳を、開いた。

 そして一つの可能性を、考え始めていた。

 ロッテとレオン王。

 なぜ陛下はロッテを、選ばれたのか。

 格の差が対等の関係を築く、という論理は稜がロッテに、説明した通り確かに、一つの解釈だった。

 しかしもう一つの可能性が、あった。

 ロッテの、身元。

 ロッテ・シエルクは孤児として王都の修道院で、育った。十六歳で、王宮の書記官助手に、採用された。四年書類仕事を、続けてきた。

 彼女の生まれについて公式の記録は、ない。

 修道院の、マテウス院長が彼女の養父のような役割を、果たしてきた。

 しかしマテウス院長は稜に一度だけ不思議な一言を、漏らしていた。

 「ロッテの目の色は王家の血筋に、近い」と。

            ─── ─── ───

 稜は手帳に一行、書いた。

 「ロッテ。王家の血筋の、可能性」

 それからすぐにその一行を線を引いて、消した。

 まだ、確信がない。

 しかし可能性は頭の片隅に、置いておく。

 レオン王がロッテを盤の相手に、選ばれた理由がもし、血筋に関わるものならば今夜の対局は、単なる遊戯ではない。

 稜は窓の外を見た。

 王宮の夜の庭に半月が、輝いていた。

 月の庭から帰って、三日。

 アウリオンの月はさらに、欠け始めていた。

            ─── ─── ───

 霜月の月、十二日目。夜。

 ロッテは稜が用意した新しい書記官服を、着ていた。灰色ではなく、濃紺の正装用の服。髪は丁寧に三つ編みに、纏めていた。

 稜はロッテを、王の書斎の扉の前まで、送った。

 扉の前で、稜は最後に彼女に一つの言葉を、かけた。

 「ロッテ」

 「師匠」

 「陛下の前で書記官助手を、忘れろ」

 「……忘れる、と仰いますと」

 「盤の前ではお前は、盤を打つ者だ」

 「書記官助手ではない」

 「陛下も、王ではない」

 「二人とも盤の前では一人の、人間だ」

 「……はい」

 「一局打ち切って自分を、出してきなさい」

 「はい、師匠」

 ロッテは深く一礼し扉を、叩いた。

 扉が内側から、開いた。

 白髪の従者がロッテを、迎えた。

 ロッテは書斎の中に、入った。

 扉が、閉じた。

 稜は扉の外でしばらく、立ち尽くしていた。

 それから静かに立ち去った。

            ─── ─── ───

 【王の書斎、内部】

 レオン陛下は三十三歳。背が高く肩幅が広く、若い頃から武芸を学んだ体つきをしていた。しかし目には父王の死後の五年間の静かな疲れが、宿っていた。

 書斎は王宮の最も、私的な部屋だった。

 公式の謁見室ではなく王が一人で、読書や思索を行う場所。

 中央に、一つの木製の卓。卓の上に盤石格子の盤が、置かれていた。盤は月の庭の盤石の十分の一の、縮小版。王家の、私的な盤だった。千年王と王の選ばれた者だけが、打ってきた盤。

 盤の脇に、白と黒の小石が二つの木箱に、入っていた。

 ロッテは書斎に、入った。

 床に、跪こうとした。

 しかしレオン陛下が片手を上げてそれを、止めた。

 「ロッテ・シエルク」

 「はい、陛下」

 「──今夜、跪かないでくれ」

 ロッテは戸惑った。

 「しかし陛下」

 「今夜、私は王ではない。君も、書記官助手ではない」

 「盤を打ちに、来た。それだけだ」

 「──私の対面の席に、座ってくれ」

            ─── ─── ───

 ロッテはゆっくりと席に、座った。

 レオン陛下が白の小石を指に、取った。

 稜の時と同じ星の位置に白石を置いた。

 「ロッテ」

 「はい」

 「君は盤石格子をどこで、覚えた」

 「稜殿に二日前、教わりました」

 「二日で」

 「はい」

 陛下は少し笑った。

 「二日で王の対面に、座るのか」

 「陛下」

 「ん」

 「稜殿が、仰いました」

 「陛下は勝ちたいから、打つのではない」

 「新しい相手と打ちたいから私を、選ばれた」

 「だから二日の学びで十分、と」

 陛下の目が少し広がった。

 それから深く笑った。

 「稜殿は、鋭い」

 「はい」

 「──その通りだ」

 「君、打ってくれ」

 ロッテは黒の小石を指に、取った。

 指が少し震えていた。

 しかし左下の星の位置に黒石を置いた。

 稜との最初の対局の時と同じ応手。

            ─── ─── ───

 対局は二時間、続いた。

 ロッテは五日前に、ルールを覚えた素人だった。しかし意外に粘り強く、打った。

 陛下は三十年父王と打ち続けてきた、経験者だった。しかし五年、ブランクがあった。

 五十手目で、陛下がロッテの石を大きく、囲み取った。

 ロッテは青ざめた。

 しかし潔く次の手を、打った。

 投了、しなかった。

 八十手目で陛下の手が、止まった。

 陛下は盤を長く見ていた。

 それからロッテに、問うた。

 「ロッテ」

 「はい、陛下」

 「──君の打ち方は父王の打ち方に、似ている」

 ロッテは驚いた。

 「前王陛下の……?」

 「ああ」

 「父王は負けても、投了しなかった」

 「最後まで石を丁寧に、置き続けた」

 「君も、同じだ」

 ロッテの胸の奥が奇妙な感覚で、震えた。

 血の通う感覚。

 しかし彼女はその感覚を、理解できなかった。

 「陛下」

 「ん」

 「私は、修道院で育った孤児でございます」

 「前王陛下と私の間に何の関係も、ございません」

 陛下はしばらくロッテを、見ていた。

 青い目が彼女の目をじっと見ていた。

 「ロッテ」

 「はい」

 「──今夜は、それでいい」

 陛下はロッテの石の隣に白石を置いた。

 対局は、続いた。

            ─── ─── ───

 百二十手で対局は、終わった。

 陛下の勝ち。

 ロッテは深く、一礼した。

 「陛下。お勝ちでございます」

 「ロッテ」

 「はい」

 「──また、打ってくれ」

 ロッテは驚いた。

 「陛下。今夜の一局で陛下のお目に、かなわなかったのであれば」

 「いや」

 「はい」

 「今夜の対局は、楽しかった」

 「五年ぶりに盤を囲んで楽しいと感じた」

 「──次は、来週。同じ時刻で」

 「……かしこまりました」

 陛下は盤の白石と黒石を木箱に、片付け始めた。

 ロッテも、手伝った。

 二人で静かに片付けた。

 片付けが終わった後、陛下はロッテに一つ言った。

 「ロッテ」

 「はい」

 「──次の対局までに稜殿にもう少しルールの詳細を、聞いてきなさい」

 「今夜の君は、粘りすぎだった」

 「粘ることは美徳だが引き際も、大切だ」

 「かしこまりました」

 陛下は少し笑った。

 ロッテも少し笑った。

 書斎に王と書記官助手の対等な、人間同士の笑いが広がった。

            ─── ─── ───

 ロッテは書斎を、出た。

 外に、稜が待っていた。

 ロッテは稜の前で長く沈黙した。

 それから静かに言った。

 「師匠」

 「はい」

 「──陛下が不思議なことを、仰いました」

 「何を、仰った」

 「私の打ち方が前王陛下の打ち方に、似ていると」

 稜は長くロッテを、見ていた。

 胸の奥が、冷たくなった。

 先日、手帳に書いて消した一行が現実になりかけていた。

 「師匠」

 「はい」

 「これは何を、意味するのでございましょうか」

 稜は静かに答えた。

 「──今夜は何も、考えるな」

 「週末もう一度陛下と対局する時にもう少し、わかるかもしれない」

 ロッテは深く頷いた。

 しかし彼女の胸の奥にも奇妙な感覚が、残っていた。

 血の通う、感覚。

 自分の生まれの秘密に手が、触れた感覚だった。

第六章の開幕です。

ロッテと、レオン王の、初対局。

「君の打ち方は、父王の打ち方に、似ている」──

この一言で、ロッテの血筋の可能性が、物語に、入ります。

稜の、手帳の、書いて消した一行。

「ロッテ。王家の血筋の、可能性」

これから、少しずつ、明らかになります。

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