剣を使わずに勝つ
星光の月、二十八日目。満月の夜。
アウリオン王宮の第一の間に四人の弟子が、揃っていた。
ロッテ・シエルク書記官助手、二十歳。
クロヴィス・モク、書記官補、十六歳。
ブラン・ゼグラル交渉人、二十八歳。
そしてセレネ・アウレリア・アルヴェリア王女、十六歳。
四人は卓を囲んで、座っていた。四つの椅子は稜が一人で過ごしていた頃には、この部屋にはなかった。新しい椅子だった。四人の弟子が、座る場所。
稜は四人の姿を、改めて見渡した。
ロッテは緊張を抑えきれず、机の下で両手の指を組んでいた。四年書記官助手として働いても消えなかった新米の癖だが今夜の組み方は、いつもと違う種類の緊張だった。
クロヴィスは速記の帳面を膝の上に開いていた。灰色の書記官服の胸のペンの刺繍が、蝋燭の光で微かに金色に映えた。孤児の少年の、この静かな集中力。師の言葉を一文字も逃すまいとする四年分の訓練が、十六歳の背筋に宿っていた。
ブランは椅子の背に深くもたれず、半分だけ預けていた。傭兵の座り方だった。十年の習性は、一週間で消えるものではない。しかし、腰に剣はない。背に弓もない。麻の服の袖から覗く日焼けした腕だけが、この男の過去を告げていた。
セレネは青いドレスの裾を、膝の上で揃えていた。三つ編みを解いた金の髪が、肩に流れていた。王女の姿勢で座りながら目だけは、四人の中で一番、弟子のそれだった。
四人の姿は互いに、全く違った。
しかし今夜四人は、一つの卓を囲んでいた。
窓の外満月が、王宮の東の空に昇り始めていた。
星光の月の満月は一年の中で、最も大きく青白く見える月だった。アウレリアの民間伝承ではこの夜に生まれた子は、特別な運命を持つとされる。千年前初代王アドレアンが、独立の決意を固めたのも星光の月の満月の夜だったと伝えられている。
その伝承の夜に四人の弟子が、初めて一堂に会した。
偶然ではなかった。稜がこの日を、選んだ。
─── ─── ───
卓の中央に稜は一枚の地図を、広げた。
アウレリア王国の全土を示す、古い地図。縮尺は粗いが主要な街道河川山脈港湾四大国との境界が全て、描かれていた。地図の四隅には古代アウレリア語で、「千年の契約」「銀貨五枚の証」「属国の秤」「継承者の誓い」と、書かれていた。
この地図は冥書庫の奥に、百五十年眠っていたものだった。
マテウス院長が今朝、稜に手渡した。
俺は地図の上を指で、撫でた。
「四人ともよく来てくれた」
四人は頷いた。
「今日は第四章の締めくくりの話をする」
ロッテが首を傾げた。
「第四章と仰いますと」
「俺の頭の中の話だ」
「俺は王国の再建を、段階に分けて考えている」
「今ちょうど、第四段階が完了するところだ」
ブランが頷いた。この男は数日で、稜の思考の癖を読み始めていた。
「第一段階は王宮に立つこと。殿下、カスパル殿との最初の会談」
「第二段階は契約の女──リリア殿との十年契約の、締結」
「第三段階は剣を抜いた男──オルヴァン殿の、復帰」
「第四段階は弟子を得ること。今、完了した」
俺は頷いた。
ブランが一週間も経たずに稜の道筋を、ここまで正確に把握していた。
─── ─── ───
セレネが静かに、問うた。
「師。第五段階は何でございますか」
俺は地図を、指した。
王宮のある首都アウリオンから北東へ、指を滑らせた。指は王国北部の、山脈の麓で止まった。
そこに小さく、点が描かれていた。
「月の庭」と古代アウレリア語で、書かれていた。
「第五段階──老宰相カスパルとの、完全な和解」
四人が地図を、見つめた。
月の庭。王宮から、馬で二日。千年前初代王アドレアンが、独立の瞑想を行った場所と伝えられる小さな石の庭。現在は誰も、訪れない。廃墟に近い。
しかしカスパルは四十年の宰相生涯の中で何度か、この場所を訪れていた。
稜は冥書庫の記録からそれを、知っていた。
「カスパル殿は四十年、アウレリアの宰相として生きてこられた」
「しかしその四十年の中で三度、失敗があった」
「三度の失敗は彼の中で今も整理されていない」
「その未整理を整理しに行く」
クロヴィスが帳面を開いた。
彼の帳面はもう速記の記号で埋まり始めていた。覚え始めて、十日。クロヴィスは既に二百個の記号を、正確に使えるようになっていた。この少年の記録する才能と、新しい技術の相性は異様に良かった。
─── ─── ───
「師匠。三度の失敗とは」
俺は指を地図の、三つの地点に置いた。
「一つ目──霧峰」
「二十年前の独立戦争の、最後の決戦。カスパル殿はオルヴァン殿を、軍から外される前王に抗議しなかった」
「結果オルヴァン殿は霧峰で五百人を失った」
「カスパル殿は二十年自分を責めてこられた」
「二つ目──議会制の導入失敗」
「十五年前カスパル殿は、王国に議会を設置しようとした」
「しかし貴族たちの反対で、頓挫した」
「議会があれば十年前の、属国契約の更新はもっと有利な条件で纏まったはずだった」
「三つ目──前王の死」
「五年前前王ヴィルフレッドが、病で崩御された」
「前王は死の直前カスパル殿に、『次代の王を、選んでくれ』と、仰った」
「カスパル殿は今の王レオンを、選んだ」
「しかし後から考えるとレオン王の兄アルデス公が選ばれるべきだったと、カスパル殿ご自身が後悔しておられる」
四人は、沈黙した。
地図の三つの点の上に、蝋燭の炎の影が落ちていた。
─── ─── ───
ブランが静かに、問うた。
「稜殿。三つの失敗のうち、最も重いのはどれでしょうか」
「──三つ目です」
「前王の後継選定」
「はい」
「カスパル殿は霧峰と議会制の失敗は、語ることができる」
「しかし前王の後継選定の失敗は一度も、誰にも語られていない」
「それが今、カスパル殿の最深の重荷です」
セレネが顔を上げた。
「師。それは現王のレオン陛下の否定に、繋がります」
「はい」
「だからカスパル殿は語れない」
「語れば現王を否定することになる。カスパル殿は王国への忠誠心で、現王を支え続けておられる」
俺は少し深く息を吐いた。
「しかし語らないことでカスパル殿は、四十年自分を縛ってこられた」
「私の第五段階の仕事はカスパル殿が一度この話を、語れる場所を作ることです」
─── ─── ───
クロヴィスが静かに、問うた。
「師匠。月の庭がその場所でございますか」
「はい」
「月の庭は千年前、初代王が独立の瞑想をされた場所」
「王宮の中ではカスパル殿は、宰相としての立場から離れられない」
「月の庭なら一人の老人として話せる」
「師匠はおひとりで行かれるのですか」
「いや」
「カスパル殿と私と、そしてお前たち四人で行く」
四人の目が、一斉に広がった。
ロッテが口を開いた。
「私たちが、同行するのでございますか」
「はい」
「しかしそれはカスパル様が、話されるのを邪魔しませんか」
俺は首を、振った。
「逆だ」
「逆と仰いますと」
「カスパル殿は四十年、宰相として孤独でいらっしゃった」
「先代の宰相が亡くなり同世代の相談相手は、一人も残っていない」
「四十年一人で国を背負ってこられた」
「だから」
「お前たち四人の、若い世代の前で語っていただくことに意味がある」
「老人が若者の前で語るというのは継承の、儀式だ」
「語られる話は次の世代に、受け継がれる」
「カスパル殿の四十年の重荷はお前たち四人が少しずつ分けて、受け取る」
四人は、沈黙した。
蝋燭の炎が静かに揺れた。
─── ─── ───
セレネが小さく頷いた。
「師。私はお供します」
「私も参ります」
と、ロッテが続けた。
「私も記録する者として同行します」
と、クロヴィス。
ブランが最後に言った。
「私もお供いたします。──交渉人としてではなく、一人の弟子として」
俺は深く頷いた。
四人が、揃った。
剣を使わずに四十年の重荷を、解きほぐしに行く。
それが稜の、第五段階の仕事だった。
─── ─── ───
「出発は三日後」
「月の庭への道は春の雨で、ぬかるんでいる。しかし満月の光で夜道も、明るい。二日で、辿り着ける」
「カスパル殿には今夜俺から話をする」
「お前たちには明日、装備の準備をしてほしい」
「ロッテには道中の記録。クロヴィスには、速記の帳面。ブランには、現地での対話の補佐。セレネには王族としての、同行の正当性を頼みたい」
四人は頷いた。
「そして最後に一つ」
「はい」
「月の庭でのカスパル殿の話を、誰にも漏らさないこと」
「これは私たち五人だけの秘密だ」
「前王の後継選定の話が、外に漏れれば王国は揺らぐ」
「現王レオン陛下の統治の正当性が、傷つく」
「お前たち四人はこの秘密を一生守る」
四人の目が、引き締まった。
ブランが胸に、手を当てた。
クロヴィスが帳面を閉じた。
ロッテが深く頷いた。
その時、ロッテがそっとセレネの手を一瞬握った。書記官助手の書類を持つ手と、十六歳の王女の、金の光を宿した手。二つの手は一瞬だけ触れ、すぐに離れた。しかしその一瞬は、これから七日の旅を共にする二人の間に、身分を超えた姉妹のような繋がりを、静かに約束していた。稜はそれを視界の隅で、見ていた。
セレネが王族の誓いの仕草で稜の前に、右手を差し出した。
「師」
「殿下」
「王家の古式に、則って誓わせていただきます」
俺は頷いた。
セレネの右手の上に俺の右手を、重ねた。
そしてロッテブラン、クロヴィスの順に手が重ねられた。
五人の手が卓の上で、一つになった。
蝋燭の炎が五人の手を、金色に照らした。
「秘密を守る。命に代えても」
五つの声が静かに重なった。
その瞬間第一の間に、不思議な静寂が訪れた。蝋燭の炎は揺れず窓の外の満月の光だけが、石の床に、銀色の帯を描いていた。五人の手の下の卓は千年前に王宮が建てられた時から、ここにあった古い楢の板で表面には無数の微かな傷と、代々の王宮の住人たちが残した細い線が、積み重なっていた。今、その上に新しい五つの指紋が、重ねられた。五つの体温が楢の板に、一時的な温もりとして、残された。数秒後にはその温もりも、冷え去るだろう。しかし千年の歴史の中でこうして五人の手が一つの卓の上で交わる瞬間は、稀だった。アウレリア王国で同世代ではなく、異なる年齢・階層・出自の五人が命を賭けた誓いを交わした記録は、千年の冥書庫の中にも、数えるほどしか残っていない。初代王アドレアンが、独立の誓いを五人の臣下と交わした時。十一代女王シビルが、議会の草創期に五人の議員と誓った時。百五十年前の独立戦争の直前当時の宰相ルシアンが、四人の将軍と誓った時。──いずれも王国の運命が、大きく動いた時だった。今夜、その数百年に一度の瞬間が再びこの第一の間で、起きていた。
四人の弟子の顔を、稜は順に見た。
セレネの朝焼けの色に染まった頬。しかし目は王族としての決意で、揺るがなかった。
ロッテの、ペンを握り続けてきた手。今、王女の上に重ねられた指は書記官助手四年の訓練の全てを、命の誓いのために捧げていた。
クロヴィスの孤児として育った小さな指。その指の下には、稜の家名の一部を受けた「モク」という姓がまだインクの匂いも消えないまま、彼の帳面の最後のページに、刻まれていた。
ブランの十年、剣を握り続けた手。左頬の古傷が蝋燭の光に、淡く照らされていた。この手が剣を置き言葉の武器を選び、そして今師の秘密を守るために、重ねられていた。
四人の、全く違う人生。
しかし今夜同じ誓いが、四つの異なる背景から一つの声として、重なった。
これが、師の教えの、真の意味だった。
「四人の弟子はお互いを、映し合う。そして誰も、鏡にならない」──高樹さんが前世の満月の夜に、稜に告げた言葉。その言葉が今四つの異なる運命の重ね合わせとして、第一の間で、現実になっていた。
─── ─── ───
四人の弟子が第一の間を、退室した。
稜は一人、窓辺に立った。
満月が高く、昇っていた。
星光の月二十八日の、満月。
一年で最も、大きな月。
窓の向こう王宮の庭の石畳の上に月の光が銀色に、降り注いでいた。
稜はふと前世を、思い出した。
東京、丸の内、事務所の三十一階の窓。
あの夜、満月を、見ていた。
師・高樹壮一郎が倒れる、三日前の夜。
高樹さんが隣に、立っていた。
師は満月を、見ながらこう仰った。
「稜。弟子は一人だけ持つな」
「一人の弟子は師の鏡になる」
「鏡は師の姿を、映すだけで師を超えない」
「弟子は四人五人持て」
「四人の弟子はお互いを映し合う」
「そして誰も鏡にならない」
「それぞれが師を超えていく」
俺はその言葉の意味を、当時理解していなかった。俺は一人の弟子しか、持たなかった。その一人が、神崎玲だった。神崎は俺の鏡にならなかった代わりに、俺を嵌めた。今俺は異世界で、四人の弟子を持った。四人はお互いを、映し合い俺を超えていく。高樹さんの言葉の意味がようやく四十二歳で、身体に戻ってきた。考えてみれば、人は一生のうちに、本当の意味で「理解」する機会が、何度あるだろうか。稜は十五年間、神崎という一人の弟子と共に歩み、その弟子に裏切られ、異世界に転生し、新たに四人の弟子を得て、ようやく、四十二歳にして、二十五年前の師の一言の真意を、身体で知った。師の言葉は、言葉として伝わるのではなく、時間を経て、弟子の人生を通して、初めて、身体化される。稜自身も、高樹さんを継ぐ師として、今夜、この四人の弟子に何かを伝えようとしている。しかしその何かは、四人の人生を経て、四人が四十二歳になった時に、ようやく身体化するものなのだった。稜はその時間のスパンを受け入れた。急がない。二十五年後、四人のうちの誰かが、この一夜を思い出すだろう。その時、稜はもうここにはいないかもしれない。しかし、ひらいた何かは、伝わっている。千年前からの師弟の連鎖の中に、稜もまた、一つの環として、加わろうとしていた。
(──師よ)
(──弟子を四人、持ちました)
月がゆっくりと天頂を、目指していた。
─── ─── ───
【同日深夜帝都ヴェルデン、皇宮】
神崎玲は執務室の、机の前に座っていた。
卓の上に三日前に届いた報告書が、広げられていた。
「アウリオン王宮。ブラン・ゼグラル元傭兵、交渉人として稜殿に仕官」
「稜殿の弟子は四名──ロッテ・シエルク、クロヴィス・モク、セレネ・アウレリア・アルヴェリア、ブラン・ゼグラル」
神崎は報告書を閉じた。
窓の外、帝都の満月が、見えていた。
アウリオンと、同じ満月。しかし帝都の月は少し冷たく、見えた。
彼は目薬の瓶を、ポケットから出した。
今夜は、差した。
一滴、右目に。
もう一滴、左目に。
(──稜。お前、四人の弟子を、持ったか)
(──師の教えを俺より、早く理解したな)
(──俺は一人だった。お前一人で十分だと、思っていた)
(──しかしお前は自分の下に、四人を揃えた)
神崎は椅子に深くもたれかかった。
(──次に俺はお前に、何を仕掛けるべきか)
窓の外の満月が、一度雲に隠れまた現れた。
雲が、流れていた。
帝都の、北風が少し強くなっていた。
神崎は窓を、閉めた。
閉める時、彼は一瞬ためらった。
風を、もう少し、入れておきたかったのかもしれない。
しかしためらいの一瞬は、彼の胸の中で、すぐに、封じ込められた。
神崎玲は、窓の鍵を、二度、回した。
彼の執務室は、再び、完全な静寂に、包まれた。
第四章の締めくくりです。
四人の弟子が、初めて、一つの卓を囲みました。
前世の高樹さんの言葉「弟子は、四人、五人、持て」。
稜が、二十五年後に、その意味を、体で理解する場面。
書いていて、少し、胸が熱くなりました。
次話から、第五章。
四十年、沈黙の宰相の、話に入ります。




