四十年の宰相
霜月の月、二日目の朝。
稜はカスパル老宰相の、執務室にいた。
王宮の二階東棟の奥に位置する、十二畳ほどの石の間。窓は東向きで、朝日がまっすぐに射し込む。机は四十年前に先代の宰相から受け継いだ、楢の一枚板。その上に常に三種類の書類が、きちんと積まれていた。左に現在進行中の案件中央に決裁待ち、右に保存済み。四十年この配置は、一度も変わらなかった。
石壁には、四代の王の肖像画。前王ヴィルフレッド前々王アドラム、その前のミケランジュ王、そして今のレオン王。カスパルが四人の王に仕えた証だった。
四代の肖像画は縦一列に、並んで掛けられていた。いちばん上がミケランジュ王。カスパルが三十二歳の時に仕え始めた最初の王。次がアドラム王。カスパルが四十歳の時に即位した、穏やかな王。その次がヴィルフレッド王。カスパルが五十二歳の時に即位した、独立戦争を指揮した王。そして最後に、現在のレオン王。
四つの肖像画の下に、小さな銘板が添えられていた。「在位年数」。ミケランジュ十二年アドラム十二年、ヴィルフレッド十五年、レオン五年。合計四十四年。しかしカスパルが宰相として仕えたのは、ミケランジュ王の晩年からだった。それでも、四十年。
四十年──それはアウレリア王国の近代宰相史の中で、最長在任記録だった。
しかし記録というのは虚しいものだ、と稜は思った。四十年この部屋でこの机で、この配置で、書類を処理し続けた一人の老人。記録の数字は彼の四十年の重さを何一つ、伝えてはいなかった。
俺は昨夜、カスパルに月の庭への同行を申し出た。
カスパルは即答しなかった。
「一晩、考えさせていただきたい」
それが昨夜の、カスパルの答えだった。
そして今朝老宰相から、使いが来た。
「執務室においでください」
─── ─── ───
カスパルは机の向こうで、待っていた。
白い髪、青い目、深く刻まれた顔の皺。
しかし今朝の表情はこれまで見てきた、宰相としての顔とは少し違っていた。
宰相としての仮面が一枚、剥がれていた。
そこにいるのは七十二歳の、一人の老人だった。
俺は机の前の椅子に座った。
カスパルはゆっくりと、口を開いた。
「稜殿」
「はい」
「昨夜一睡もできませんでした」
俺は頷いた。
「そうでしたか」
「あなたが私に、月の庭に同行してほしいと仰った」
「その意味を一晩考え続けておりました」
「私の意図は単純でございます」
「カスパル殿が四十年一人で抱えてこられた三つの失敗を一度、語る場をお作りしたいのです」
「はい。それは昨夜仰いました」
「しかしそれだけではございません」
カスパルの青い目が、稜を見た。
「稜殿。続けてください」
─── ─── ───
「カスパル殿」
「はい」
「私は一つお尋ねしたいのです」
「何でございますか」
「あなたは四十年の宰相として、幸せでしたか」
カスパルの目が広がった。
それから彼はゆっくりと机の上の、書類の山を見た。
左中央、右。四十年一度も、変わらなかった配置。
窓から射し込む朝の光が書類の紙の上で、金色に輝いていた。
長い、沈黙が、あった。
ようやく、カスパルが答えた。
「稜殿」
「はい」
「──幸せという言葉を私は四十年使ったことが、ございません」
俺は深く息を、吐いた。
この老人の四十年が、この一言に凝縮されていた。
宰相として、幸せを問われなかった四十年。
自分自身でも自分の幸せを、問うことを許してこなかった四十年。
「申し訳ございません」
「いえ。稜殿が悪いのでは、ありません」
「私は今、その言葉をあなたに問うた」
「──はい」
「答えてくださってもよろしいのですか」
カスパルは長く、俺を見ていた。
青い目の奥に四十年の、様々な色が重なっていた。誇り後悔、疲労責任そして語られなかった何か。
彼はゆっくりと、口を開いた。
─── ─── ───
「稜殿」
「はい」
「四十年私はアウレリアの国を第一に考えて、参りました」
「国があれば王族が生きる。王族が生きれば、国民が生きる。国民が生きれば、歴史が続く」
「私の責務はそこにありました」
「はい」
「しかし私自身はどこにも、いなかったのです」
「私は四十年、私ではない生き方をしてまいりました」
俺は頷いた。
「そう、感じていらっしゃるのですね」
「はい」
「では月の庭で私ではない生き方を手放していただく、お手伝いをさせてください」
カスパルの目が濡れた。
しかし涙は、流れなかった。
七十二歳の老人は涙を流す習慣を四十年で、失っていた。
「稜殿」
「はい」
「──お供いたします」
「月の庭へ参りましょう」
─── ─── ───
俺は深く、頭を下げた。
「ありがとうございます」
「しかし一つお伺いしたい」
「何でございますか」
「なぜお前様の弟子、四人を同行させるのですか」
「この話は私と、お前様の二人で十分なはずでございます」
俺は頷いた。
カスパルがこの質問をするだろうと、予想していた。
稜はゆっくりと答えた。
「カスパル殿」
「はい」
「あなたが四十年、孤独であったからでございます」
「……」
「同世代の宰相仲間は既に全員亡くなられた」
「あなたの話を対等に聞ける同世代はこの王国にもう一人もいない」
「私が同行しても私もあなたと対等ではない。あなたの半分の年齢の、外国人の顧問に過ぎない」
「──しかし」
「若い世代の前で語っていただくことは、違う種類の対等さを生みます」
「若者はあなたの話を、判断しません。ただ、受け取ります」
「それは審判ではなく継承の関係です」
「継承の場で人はようやく自分の四十年を、整理できます」
カスパルは長く、俺を見ていた。
それから深く頷いた。
「稜殿」
「はい」
「あなたは七十二歳の老人の心を、見ておられる」
「どこでそのような眼を、お養いになったのですか」
─── ─── ───
俺は少し、考えた。
そして正直に答えた。
「前世で私の師が同じ歳で倒れました」
「脳梗塞でございました」
「師は引退されました」
「引退後師は五年間ほとんど誰にも、語らず過ごされた」
「私は月に一度師を訪ねました」
「しかし師はあまり話されなかった」
「四年目にようやく、少しずつ話し始められた」
「しかしその時師の横にいたのは私一人でした」
「師の話は私にしか伝わらなかった」
「師の七十年の重みが私一人の肩に、乗せられた」
「私はそれを背負いきれなかった」
「──あの時もう一人二人師の横に若い誰かがいればと今でも、思います」
カスパルが静かに、俺を見ていた。
「稜殿。あなたご自身の失敗の、経験でございますか」
「はい」
「だからあなたを、一人にしないと決めました」
「そして四人の若者と共に、月の庭へ参ります」
カスパルの目からついに、一筋涙が落ちた。
四十年使わなかった、涙だった。
青い目の奥から一筋、机の上の楢の板に音もなく落ちた。
「稜殿」
「はい」
「お前様の師は、幸せでいらしたと思います」
俺は首を、振った。
「いえ」
「師は一人で五年を過ごされた」
「幸せではなかったと思います」
「私が同行者を、もう一人連れてきていれば違ったのです」
「しかしお前様は今日、私のために四人を連れてくださる」
「はい」
「それで十分でございます」
「お前様の師が望んでおられたのはそのような継承の連鎖だと私は、思います」
─── ─── ───
その日の午後カスパルは執務室の書類を、全て片付けた。四十年、左・中央・右と固定されていた書類の山が、今日初めて空になった。左の現在進行中の案件は、副宰相に引き継ぎの指示書と共に渡された。左の山には、九十七通の書類があった。穀物の備蓄量の調整北部国境の警備配置、地方貴族のセレスキア家からの陳情月影亭の補修予算、属国契約更新の準備港湾税の見直し、書記官室への新人採用──九十七通をカスパルは一通一通、副宰相に手渡しで説明した。副宰相は三十代の若手で、カスパルが五年前から育ててきた後継候補だった。若い顔は緊張に強ばり、途中で指が震え始めた。しかしカスパルは手を休めなかった。手を休めれば、若者の緊張が増す。ただ淡々と四十年の実務を、手渡し続けた。四時間の引き継ぎ作業が終わった時副宰相は深く頭を下げ、「宰相閣下。私ではまだ、半分もお役に立てませぬ」と、正直に言った。カスパルは「それでいい。半分、務めよ。残りの半分は、一年で育つ」と答えた。中央の決裁待ちは、カスパル自身が全て決裁した。四十八通。全て、事前に目を通して判断が定まっていたものだった。ペンが紙の上を走る音だけが二時間、執務室に響いた。右の保存済みは、書庫に運ばれた。書記官が三往復して三十年分の古い書類を、地下の保存書庫へと運んだ。カスパルは最後の一束を自分の手で運びたいと言い、七十二歳の腕で重い羊皮紙の束を、書庫の奥まで運んだ。
夕刻、執務室の机は、空になった。楢の一枚板の上にはもう何もなかった。四十年前先代の宰相から受け継いだ時、机は今日と同じように空だった。そして四十年一度も、こうして空になったことはなかった。楢の板はペンの跡、インクの染み蝋燭の涙、そして四人の王の決裁印が押された時の紙の痕跡で、薄く汚れていた。しかし今夕日の光の中で、その汚れの一つ一つが、記録のように見えた。稜はこの瞬間の、カスパルの執務室を、目に焼き付けておこうと思った。四十年の宰相が、初めて、自分の机を空にした夕刻。窓の外の王宮の西の空に、夕日が、沈み始めていた。赤い光が、石壁に映り、四代の王の肖像画を、順番に、赤く染めていた。ミケランジュ王の肖像の顎が、赤く。アドラム王の肖像の額が、赤く。ヴィルフレッド王の肖像の胸が、赤く。そして現在のレオン王の肖像の目が、赤く。四代の王の視線が、今、机を空にしたカスパルを、じっと見つめているように、稜には感じられた。カスパルは四代の王に仕えた男だった。その男が今、五代目の王のために、机を空にした。五代目の王は、レオン王ではなく──稜が育てる、四人の弟子たちが、いずれ支える王だった。継承の連鎖が、この夕刻の、空の机の上で、千年の王家の時間軸の一点として、成立した。窓から射し込む夕日が机の表面を、赤く染めていた。
稜は夕刻の執務室を、訪ねた。
カスパルは窓辺に、立っていた。
夕日を、見ていた。
「稜殿」
「カスパル殿」
「机が空になりました」
「四十年で初めてでございます」
「どうお感じですか」
カスパルは少し笑った。
「──軽いでございます」
「肩が少し軽うございます」
俺は頷いた。
そしてカスパルの隣に立った。
二人で、窓の外の夕日を見た。
王宮の西の遠い山並みが、赤く染まっていた。
「稜殿」
「はい」
「月の庭への出発は明日でございますね」
「はい」
「楽しみにしております」
老宰相が楽しみ、という言葉を使った。
四十年で、初めてだったかもしれない。
稜の胸の奥が微かに熱くなった。
─── ─── ───
その夜俺は第一の間で、四人の弟子を集めた。
明日の出発の、最終確認のためだった。
ロッテは道中の記録用の帳面を三冊、準備していた。
クロヴィスは速記用のペンを五本インク壺を二つ鞄に、入れていた。
ブランは道中の警護の装備を軽く、整えていた。剣は、持たなかった。代わりに短い旅杖を、一本。
セレネは王族の装束ではなく平民の、質素な旅装を選んでいた。
灰色の羊毛のマント茶色の革のベルト、旅用の実用的なブーツ。王女の身分を隠すための装束だった。しかしどれだけ質素に装っても彼女の金の髪と、姿勢の良さは、隠せなかった。ロッテがこっそり稜に囁いた。「師匠。殿下は、どんな服を着ても、殿下でございますね」と。
クロヴィスが帳面に、何かを書き留めた。
ロッテがそれに気づいた。
今朝セレネはロッテの部屋を訪ねていた。王女の方から書記官助手の部屋に訪問するのは、王宮の慣例では前代未聞だった。しかしセレネはロッテに「旅の準備を、一緒にさせてください」と頼んだ。二人は三時間部屋の中で、荷造りを共にした。その間セレネはロッテに、八年分の日記の一部を読ませていた。十二歳、六月三日のあの一行を。ロッテは泣かなかった。ただセレネの肩にそっと手を置いた。それが二人の、最初の姉妹のような瞬間だった。
「クロヴィス殿。まさか、それを記録して、おられますのか」
「『ロッテ先輩殿下について、感嘆の言葉を漏らす』と、書いております」
「──消してくださいませ」
「消すのは記録の掟に反します」
「クロヴィス殿!」
セレネがふふと、笑った。
ブランが真顔で言った。
「ロッテ殿。帳面を奪ってはなりません。クロヴィス殿の帳面には既に三人分の恥が、記録されています。今さら一つ増えても、同じことです」
「ブラン殿!あなたの恥も、入っておられるのですか」
「残念ながら」
三人が、同時に少し笑った。
稜も、笑った。
この旅立ちの前夜に四人の弟子が、少しずつ互いの癖を、認識し始めていた。
俺は四人を、見渡した。
「明日出発する」
「はい」
「月の庭まで二日」
「到着後カスパル殿が、お話しになる時間を三日確保する」
「帰路でまた二日」
「合計七日の旅になる」
四人は頷いた。
「一つ約束してほしい」
「はい」
「カスパル殿の話を誰一人、遮らないこと」
「途中で質問を挟まないこと」
「沈黙の時は共に沈黙すること」
「お前たちは、審判ではない。継承者だ」
四人は深く頷いた。
─── ─── ───
セレネが最後に、手を挙げた。
「師」
「殿下」
「──カスパル様のお話を聞いた後私たちはどう、なるのですか」
俺は少し、考えた。
「殿下。変わるでしょう」
「変わると仰いますと」
「カスパル殿の四十年の重みを一部受け取るということは、お前たち自身が少し老いるということだ」
「しかしそれは悪い老い方ではない」
「同世代より少し遠くが見える老い方だ」
セレネは静かに頷いた。
他の三人も、同じように頷いた。
「明日の出発は朝六時」
「王宮の北門に集合」
「それぞれ十分な睡眠を取ってほしい」
四人は第一の間を、退室した。
俺は一人、残された。
卓の上には明日から使う、七日分の手帳が重ねられていた。
新しい革の表紙の、手帳が三冊。稜は道中で三つの失敗の記録をそれぞれ別の手帳に書き留めようと、していた。霧峰議会制、前王後継──三つの失敗はそれぞれ、独立した物語として保存されるべきだった。
窓の外、月が、昇り始めていた。
昨夜の満月は、過ぎていた。
少し、欠け始めた月。
しかし光はまだ強かった。
俺は胸ポケットから、古い手帳を出した。
前世から持ち続けている、手帳。
革の表紙を、撫でた。
そして最後の白紙のページに、一行書いた。
「霜月の月二日。カスパル殿と和解の旅に、出発する」
ペンを置いた。
月の光が卓の上の、新しい手帳たちを銀色に照らしていた。
─── ─── ───
【同時刻、帝都ヴェルデン、皇宮】
神崎玲は、夜の執務室にいた。
帝都の月はアウリオンの月とは違い、やや欠けていた。大陸の北と南では同じ夜の月でも、見え方が微妙に違う。緯度の差が、月の位置を変える。しかし神崎の目には月の違いが、別の意味を持って映っていた。同じ夜の月が違って見えるように同じ二人の男も、別の場所で、別の月を見ている。
副官が、報告書を携えて入室した。
「閣下」
「ん」
「アウリオン王宮。カスパル宰相明日、稜殿と共に月の庭へ出発」
「四人の弟子全員が同行」
「目的は不明。王宮では、『視察』と告げられております」
神崎は報告書を、一瞥した。
そして静かに笑った。
副官にはその笑みの意味が、分からなかった。
(──稜。お前、月の庭にカスパル殿を、連れて行くのか)
(──あの老宰相の四十年の中で、誰にも語られなかった何かを若い四人の前で、引き出す気だな)
(──師の教えを異世界で、実行する気か)
神崎はポケットから目薬の瓶を出した。
蓋を開けた。しかし、差さなかった。瓶を、卓の上に、そっと置いた。
今夜は、目が乾かなかった。
(──稜。俺はお前の師ではない)
(──しかし俺は師の教えをお前の横で、共に聞いた男だ)
(──お前が今何をしようとしているか、俺には、分かる)
窓の外、欠けた月が雲の切れ間から、一瞬だけ、顔を出した。
そしてまた、隠れた。
神崎はしばらく、動かなかった。
執務室の壁には、帝国の大地図が掛かっていた。その地図の、アウリオンの位置に、神崎は視線を、向けた。月の庭の位置は、地図には描かれていなかった。王宮の北東、馬で二日。それは、地図の上では、何もない場所として、描かれていた。
しかし今夜、そこに、稜と、四人の弟子と、老宰相が、向かおうとしていた。
神崎はポケットから、目薬の瓶を、出した。
今度も、差さなかった。
瓶を、卓の、四十年前の写真立ての隣に置いた。
そして一つ静かに呟いた。
「稜。お前は、俺より、師の教えを、遠くへ、運ぶつもりだな」
第五章の開幕です。
四十年、「幸せ」という言葉を使わなかった、七十二歳の老宰相。
この老人の、四十年の沈黙を、どう解きほぐしていくか。
稜が、前世の師のことを語る場面。
「あの時、もう一人、二人、若い誰かが、いれば」──
これは、稜自身の、本当の後悔でした。
今、四人の弟子と共に、カスパル殿の元へ向かう。
過去の失敗を、今、別のかたちで、取り戻そうとしている。
次話、月の庭への道中です。




