弟子入りの、一筆
星光の月、十二日目の朝。
王宮、第一の間。
窓から朝の光が、差し込んでいた。
今日から、クロヴィスが王宮の書記官室の補佐として、勤務を開始する。
正式な辞令をカスパルが出した。ロッテとクロヴィスは、同じ書記官室で机を並べることになる。
俺は昨夜のうちにカスパルに、一つ頼んでおいた。
「弟子入りの形式を、取りたい」
「正式な師弟関係の書面を、作成していただきたい」
カスパルは首を傾げた。
「稜殿。参謀に師弟関係の書面など、必要でしょうか」
「普通は、口頭で十分です」
「──今回は、書面にしたい」
「クロヴィスのためにも、ロッテのためにも」
カスパルは少し、考えた。
それから頷いた。
「ロッテ殿のためにも」
「彼女は既に私の弟子です。しかし書面には、なっていない」
「クロヴィスが書面で弟子になる。ロッテが書面になっていないことを気にするかもしれない」
「──同時に、二人の書面を作りたい」
「公平に、と」
「公平に、です」
カスパルは微かに笑った。
「稜殿。参謀の細やかさは、こういう一手に出ますな」
俺は少し、頭を下げた。
「細やかさではございません。不器用さの裏返しです」
「不器用さ、と」
「私は前世で、弟弟子に書面を交わさなかった。口頭で済ませた」
「その弟弟子が十五年後、私を嵌めました」
「──書面で結べたのは、弟子関係ではなかった。契約関係でさえなかった」
「今回、同じ轍を踏まないために、書面を作りたいのでございます」
カスパルは黙って頷いた。
そして羊皮紙とペンを用意する段取りに、入った。
─── ─── ───
朝、九時。
第一の間に、三人が集まった。
俺。
ロッテ。
クロヴィス。
ロッテは昨日のうちに「クロヴィスが弟子になる」という話を、聞いていた。
しかし彼女は俺が「ロッテも、書面で弟子にする」と決めたことを、まだ知らなかった。
ロッテが卓の端に、座っていた。
緊張した顔で、手の中に一枚の紙を握りしめていた。
「何を準備してきたのだ」と聞くと、ロッテは赤くなった。
「あの、師匠。私はクロヴィス殿の弟子入りの証人として、何か一言申し上げるべきかと思いまして」
「昨夜、考えてきました」
「紙に、書いてきました」
俺は少し笑った。
「ロッテ」
「はい」
「お前、今日は証人ではない」
ロッテは目を、丸くした。
「──証人、ではないのですか」
「お前も今日、弟子になる」
ロッテの紙が手から、落ちた。
クロヴィスが素早く拾って、ロッテに差し戻した。
この少年は既にロッテの紙を落とす癖を、把握していた。
─── ─── ───
「師匠。私は既に、師匠の弟子ではございませんでしたか」
ロッテの声は、震えていた。
「口頭では、そうだ」
「しかし今日、書面にする」
「お前にもクロヴィスにも、書面の弟子になる権利を渡したい」
「権利、でございますか」
「ああ」
「書面を交わすということは、二人がお互いに責任を負う、ということだ」
「師が弟子を育てる、責任」
「弟子が師の名を汚さない、責任」
「書面があれば、その責任を撤回できない」
ロッテは俯いた。
唇を、噛んでいた。
声は、出さなかった。
しかし、肩が微かに震えていた。
クロヴィスが隣で、ロッテを見ていた。
少年は何も、言わなかった。
ただ、ロッテの握った紙を見ていた。
ロッテが顔を上げた。
「師匠」
「ん」
「──ありがとうございます」
二文字だった。
しかしロッテの二十年の何かが、一つ今、卒業したように見えた。
─── ─── ───
カスパルが入ってきた。
二枚の羊皮紙を、携えていた。
表面に既に、形式の文字が書かれていた。
「稜殿。師弟関係、証書」
「アウレリア王国の古式に則った、書面でございます」
俺は受け取った。
一枚目、ロッテ分。
二枚目、クロヴィス分。
書面にはこう、書かれていた。
「師 高木稜」
「弟子 ロッテ・シエルク」
「本書をもって、両者は師弟関係を結ぶ」
「師は弟子を育てる、責任を負う」
「弟子は師の名を、汚さぬ責任を負う」
「本書の効力は、両者のどちらかが撤回を申し出るまで継続する」
「千二十年、星光の月、十二日目」
「立会人 老宰相カスパル・ヴェン・リルシウス」
俺は書面を、読み頷いた。
「カスパル殿。立会人、ありがとうございます」
「稜殿。立会人というのは、弟子が師と決裂した時、仲裁する責任を負う役でございますよ」
俺は驚いた。
「初めて、伺いました」
「はい。古式では、そうでございます」
「私は稜殿と二人の弟子が二十年後、三十年後、もし決裂することがあれば」
「──仲裁に、出てまいります」
「カスパル殿はその時、ご高齢で」
「墓から、出てまいります」
俺は吹き出した。
あの老人は、たまにこういう、冗談とも本気ともつかないことを言う。
しかし言いながら、目は笑っていなかった。
──本気、だった。
─── ─── ───
俺は卓の上に、二枚の羊皮紙を並べた。
ペンを、手に取った。
「ロッテ」
「はい」
「お前から、署名する」
「──私が、先ですか」
「お前の方が先に、俺の弟子になった」
「クロヴィスより、先輩だ」
ロッテはクロヴィスを見た。
クロヴィスは静かに頷いた。
「先輩」という言葉が、少年の何かを安心させたように見えた。
──孤児の少年にとって、自分に先輩がいるという事実は、特別な意味を持つ。
ロッテはペンを受け取った。
ペンを握る手が、震えていた。
しかし震えたまま、彼女は書いた。
「ロッテ・シエルク」
文字は、丁寧だった。
震えていたのに、丁寧だった。
二十歳の書記官助手が四年書き続けてきた筆跡が、そこにあった。
次に、俺が師の欄に署名した。
「高木稜」
それからカスパルが立会人欄に、署名した。
「カスパル・ヴェン・リルシウス」
三人の署名が、揃った。
ロッテは自分の書いた文字をしばらく見つめていた。
涙は、流さなかった。
しかし自分の名前をここまで長く見つめたことは、おそらく生まれて初めてだった。
─── ─── ───
次に、クロヴィス。
クロヴィスはペンを受け取った。
彼の手は、震えていなかった。
しかしペンの持ち方に、いつもの記録する時と違う緊張があった。
彼はしばらく羊皮紙を、見ていた。
そしてふと、俺に問うた。
「師匠」
「ん」
「──一つ、お願いがございます」
「何だ」
「私は、孤児でございます」
「両親の顔を知らずに、育ちました」
「家名も、ございません」
俺は頷いた。
「クロヴィスという名前だけで、ございます」
「書面の弟子の欄に、クロヴィスと書くだけでは」
「──家名がない者の書面に、なってしまいます」
「そうなるな」
「師匠」
「私に家名を一つ、いただくことはできますでしょうか」
俺は驚いた。
しかしすぐに、理解した。
この少年は今日、自分の人生の一線を引こうとしている。
記録する少年が、自分自身の起点の記録を残そうとしている。
カスパルが少し驚いた顔を、していた。
「家名をいただくという古い習慣は、アウレリア王国にもございます」
「師が弟子に家名を授ける。家族のない者に」
「しかし千年、使われていない習慣でございます」
俺は頷いた。
それからペンを、持ち直した。
「クロヴィス」
「はい」
「お前に俺の家名の一部を、分けたい」
「俺の家名は、高木」
「──この世界の言葉では、高い木」
「お前に、高い木の、木の部分を分ける」
「クロヴィス・モク」
「いかがか」
クロヴィスの目が一瞬広がった。
そしてすぐに下を、向いた。
唇を噛んで、沈黙した。
しばらく俺も、言葉を待った。
彼が顔を上げた時、目に透明なものが溜まっていた。
しかし彼はそれを、流さなかった。
記録する少年は涙も記録する対象にしていた。流せば、記録がぼやける。
「──師匠。謹んで、お受けいたします」
彼はペンを取った。
そして弟子の欄に書いた。
「クロヴィス・モク」
初めての家名付きの、自分の名前。
十六歳の孤児が、世界に自分の席を得た瞬間だった。
─── ─── ───
書面が、二枚、並んだ。
ロッテ・シエルク。
クロヴィス・モク。
二人の新しい弟子が、今日俺の横に並んだ。
ロッテがクロヴィスの新しい名前を、読み、ぽつりと言った。
「クロヴィス・モク」
「いい、名前です」
クロヴィスは少し、頬を、染めた。
ロッテは続けた。
「私、これから先輩として、クロヴィス殿に仕事の手順をお教えします」
「朝、書記官室に一番乗りする、とか」
「書類を三回落としても拾う、とか」
「菓子を作る時、塩と砂糖を間違えない、とか」
クロヴィスが少し笑った。
「ロッテ先輩」
「は、はい!」
「最後の、塩と砂糖の話は、先輩が間違えた過去の話でございますか」
ロッテが真っ赤に、なった。
「……き、記録しないでください!」
クロヴィスは懐から、例の分厚い帳面を出した。
冥書庫の前に座って五日間、記録していた帳面。
「もう、書きました」
ロッテがクロヴィスの帳面を奪おうとして、卓の上のインク壺を倒しそうになった。
カスパルが素早く、インク壺を、押さえた。
「ロッテ殿。書面のインクをこぼすと、師弟関係が無効になります」と老宰相は真顔で言った。
ロッテが蒼白に、なった。
その表情を見て、クロヴィスが初めて声を出して笑った。
俺と、カスパルも笑った。
第一の間が今日、初めて若い笑い声に満たされた。
─── ─── ───
書面の儀式が終わった後、俺は一人で冥書庫に向かった。
マテウスが既に、夜の門の前に、立っていた。
俺が来ると頷いた。
「稜殿。弟子入り、完了でございますか」
「はい。お陰様で」
「クロヴィスは家名を、いただきましたな」
「──お聞きになっていらっしゃいましたか」
「書面を書いている時、クロヴィスが緊張するだろうと思っていました。しかし稜殿が家名を授けることで、緊張を転換させられた」
マテウスは夜の門を開いた。
俺は中に、入った。
「稜殿。今日は、何を、お調べになりに」
「クロヴィスが今日から、関係者になりました」
「彼のために、冥書庫の、運用書を、整備したいのでございます」
「彼が入る日に、困らないように」
マテウスは驚いた。
「稜殿が、運用書を」
「はい」
「私は二年、三年、五年、この世界にいるかもしれません」
「十年、十五年、いるかも、しれません」
「しかしいつか、去る日が、来ます」
「去った後、クロヴィスが入れるように、今運用書を残しておきたい」
マテウスは長く、俺を見た。
それから小さく頷いた。
「稜殿は、常に、去った後のことを、お考えになる」
「──はい」
「それが、継承者の、作法でございますな」
マテウスは運用書の、古い帳面を、取り出して、俺に渡した。
俺は受け取った。
この夜、俺は自分の、後を、考え始めた。
そして気づいた。
この二日で弟子を増やしたことは、自分が去る日を意識し始めたということだった。
増やすことと、去ることは、同じ動きだった。
増やした分だけ、去る準備が、整う。
─── ─── ───
冥書庫から戻った夜。
俺は第一の間で、手帳を開いた。
星光の月、十二日目。
ロッテ・シエルク、書面の弟子。
クロヴィス・モク、書面の弟子。
冥書庫の、運用書、整備を、開始する。
ペンを置いた。
窓の外、月が、昇っていた。
星光の月、十二日の、月。
満月に、向かって、膨らんでいる、途中の月。
セレネが、第一の間に入ってきた。
彼女は俺の手帳の、横に、何かを置いた。
昨日、俺に渡した、八年分の日記。
「師」
「殿下」
「──返却、でございますか」
「いえ、返却では、ございません」
「と、仰いますと」
セレネは少し、頬を、染めた。
「今日、ロッテとクロヴィスが書面で弟子になった、と聞きました」
「はい」
「──私も、書面で、何かに、なりたいのです」
俺は少し、驚いた。
「殿下。あなたは、王女でいらっしゃいます」
「書面で、何かに、なる必要は、ございません」
セレネは首を、振った。
「王女、ではなく」
「師の、弟子に、なりたいのです」
俺は長く、セレネを見た。
彼女の、頬が、朝焼けのような色に、染まっていた。
しかし目は、まっすぐだった。
十六歳の王女が、平民の顧問の弟子になりたいと言っていた。
それは王家の慣例を壊す、申し出だった。
俺は静かに答えた。
「殿下」
「はい」
「──その件は、明日、お答えします」
「一晩、お考えに、なる時間を、いただきたい」
「私、に、でございますか」
「いえ、私に、でございます」
セレネは少し笑った。
「師が一晩お考えになる時は、大抵大きな決断の時でございます」
「──そうで、ございますな」
セレネは日記を、卓の上に、残したまま、部屋に戻った。
俺は日記を、開かなかった。
まだ読む資格が自分にあるかどうかを、一晩考えなければならなかった。
クロヴィスに、家名を授ける場面。
孤児の少年が、世界に初めて、自分の席を得る瞬間を、書きたかったのです。
「クロヴィス・モク」──稜の家名「高木」の「木」を分けた、小さな家名。
ロッテが、書面の弟子になる場面も、書けて良かったです。
口頭の約束を、書面にする、という一手は、稜が前世でしなかった、一つの贖罪でした。
そして最後、セレネの申し出。
王女が、平民の弟子に、なりたいと言う夜。
稜は、その夜、答えを保留しました。
次話、稜の、一晩の答えが、出ます。




