冥書庫の、記録する少年
星光の月、十一日目の午後。
マテウス院長から、使いが来た。
「冥書庫に一人、お会いになった方が良い者がいます」
俺は頷いた。
月影亭から戻って以来、俺は冥書庫には行っていなかった。
沈黙の書の続きを、読む時間もなかった。
オルヴァンの件で、王宮の中が忙しかった。
今日ようやく、半日の空きができた。
マテウスの修道院へ、向かった。
修道院の回廊で、マテウスが俺を待っていた。
白い髭、茶色の修道服、左手に杖。
いつもの姿。
しかし今日は少しだけ、微笑んでいた。
「稜殿」
「マテウス院長」
「冥書庫の入り口の前で、少年が一人正座しています」
「五日続けて、そこに座っています」
「食事は私が運んでいます」
「しかし夜は一人で、修道院の納屋で寝ています」
「──五日、ですか」
「五日です」
「動かない」
俺は少し、考えた。
「名は、なんと」
「クロヴィス、と」
「十六歳。孤児の、出身」
「四年前、この修道院に預けられました」
「院内で古代アウレリア語の勉強を、続けてきました」
「書庫の記録を写す仕事を、任せていました」
「──冥書庫の存在を、彼は二年前から察していました」
「察していた」
「はい。私が毎晩一人で、回廊の奥へ消えるのを見ていたのです」
「しかし、尋ねなかった」
「五日前、突然冥書庫の入口の前に座り始めました」
「『院長。私をあの扉の関係者にしてください』と言いました」
俺は頷いた。
「マテウス院長。彼は扉の中を、知りたいのですか」
「それとも、扉の関係者になりたいのですか」
マテウスは少し驚いた顔を、した。
「──鋭い、問いでございます」
「違いがあると」
「大きな違いです」
「中を知りたい者は、知った後満足して去ります」
「関係者になりたい者は一生、関わり続けることを望んでいます」
「……彼は後者、でございましょう」
「会ってから、判断いたします」
─── ─── ───
冥書庫への入り口の、前。
螺旋階段を降りた地下六階の、さらに奥。
夜の門の手前の、小さな石の踊り場。
一人の少年が、そこに正座していた。
十六歳。
小柄で、痩せていた。年齢より少し小さく見える。
黒髪を後ろで、短くまとめていた。
修道院の、灰色の見習いの服。
目の下に、深い隈。
五日ここに座り続けた、結果の疲労。
しかし背筋は、伸びていた。
そして膝の上に、分厚い帳面が置かれていた。
その帳面に、少年の指が添えられていた。
ペンもインク壺も、一緒に置かれていた。
少年は俺たちの足音に、顔を上げた。
目を、見開いた。
しかし、立ち上がらなかった。
五日座り続けた脚が、すぐには立てなかったのだろう。
「──院長。お客様、でございますか」
声は、若かった。
しかし、落ち着いていた。
五日、空腹と疲労と不安の中で、磨かれた落ち着きだった。
マテウスが頷いた。
「クロヴィス。この方は高木稜殿。王国の戦略顧問」
「それから冥書庫の継承者の、一人」
クロヴィスの目が広がった。
「継承者の、一人」
「二人いらっしゃる。もう一人は帝国の宰相、神崎玲殿」
「稜殿は二人のうち、アウレリア側の継承者でございます」
クロヴィスは帳面を慎重に、膝から外した。
ゆっくりと、地面に置いた。
それから五日ぶりに立ち上がろうとして、膝から崩れた。
マテウスが急いで手を、差し伸べた。
しかしクロヴィスはマテウスの手を、受け取らなかった。
代わりに石の壁に手をついて、自分で立ち上がった。
「お見苦しい姿を、お見せいたしました」
俺はクロヴィスに一礼した。
「高木稜です」
「クロヴィス、でございます」
─── ─── ───
俺は地面に置かれた帳面を、指した。
「クロヴィス殿。あなたのその帳面に、何が書かれておられますか」
クロヴィスは少し迷った顔を、した。
それから帳面を拾い、俺に差し出した。
「どうぞ。お読みくださって結構です」
俺は受け取った。
開いた。
一頁目。
几帳面な、字。
日付と時刻と、冥書庫の入り口で見聞きしたことが、全て記録されていた。
「星光の月六日目、午後三時。マテウス院長、回廊を奥へ歩く。杖の音十五歩。その後音が消える。おそらく階段を降りた」
「星光の月六日目、夕方六時。マテウス院長戻る。杖の音十五歩、表情穏やか」
「星光の月、七日目。朝七時。私、冥書庫の入り口の前に座り始める。院長、昼に現れる。驚かれる。『何をしている』と問われる。『関係者になりたい』と答えた。院長沈黙。そのまま去る」
「星光の月八日目、昼。院長、食事を運んでくださる。一言も話さず去る」
「星光の月、九日目。夜、修道院の納屋で寝る。虫の音が多い。春の兆し」
「星光の月十日目、午後。院長、食事と水を運んでくださる。水は瓶ごと。昨日より多い。──院長が私を認めてくださりつつあると感じた」
「星光の月十一日目朝。私、空腹だが集中できる。午後、院長が誰かを連れてお戻りになるかもしれないという予感。根拠は院長の杖の音のリズムが、昨日より少し早かったこと」
俺は帳面を閉じた。
(──この少年は五日間、冥書庫の扉をじっと観察していたのではない)
(──彼は自分の行動を観察されている可能性を意識して、記録を残し続けていた)
(──つまり彼にとって重要だったのは、扉ではなく記録そのものだった)
俺はクロヴィスを見た。
「クロヴィス殿」
「はい」
「あなたは扉の中の知識が、欲しいのではない」
「あなたは記録するという仕事を、欲しいのですね」
クロヴィスの目が広がった。
それからしばらく黙って、俺を見ていた。
「……なぜそう、お分かりに」
「あなたの帳面に、扉の向こうへの推測が一つも書かれていない」
「あなたが書いているのは全て、自分の観察と自分の感情」
「扉の向こうが気になっているなら、もっと『あの扉の向こうには何があるのだろう』という類の記述があるはずです」
「あなたにはそれが、一言もない」
「……」
「あなたは扉の中を、見たいのではない」
「扉の前に座り続けた五日間を、誰かに記録として認めてほしい」
「──それがあなたの、本当の願いでございましょう」
クロヴィスはしばらく、俺を見た。
そしてゆっくりと頷いた。
「……はい」
「仰る、通りでございます」
─── ─── ───
マテウスは驚いた顔を、していた。
「稜殿。私には思いもよらぬ、視点でございました」
「クロヴィスは二年、私の行動を見ていたと思っていました」
「しかし、違ったのですね」
クロヴィスが初めて、マテウスに向かって一礼した。
「院長。五日、申し訳ございませんでした」
「私は院長の行動を記録することを通じて、院長に記録の技を認めてもらいたかったのでございます」
「記録の、技」
クロヴィスは懐から、もう一冊の薄い帳面を出した。
「私がこれまで書き溜めた、見習いの記録でございます」
「院内の日々の出来事を、四年記録してまいりました」
「院長はご覧になったことが、ございません」
マテウスは受け取った。
開いた。
一頁読んだ。二頁読んだ。三頁目で、手が止まった。
五頁目で、マテウスの目が濡れた。
「クロヴィス。お前、これを四年」
「はい」
「私が十年前、修道院長になった日、私は一人裏庭で泣いた」
「先代のレナ院長が亡くなった直後で、私は十代で彼女に拾われた孤児だった」
「先代が亡くなって、私は継ぐ資格がないと思っていた」
「あの日、誰も見ていないと思っていた裏庭で、私は泣いた」
「──それをお前は、見ていたのか」
クロヴィスは小さく頷いた。
「私、当時十二歳でした。納屋の隙間から偶然見ました」
「記録、しました」
「しかし院長に言う勇気は、ありませんでした」
マテウスの手が、震えていた。
「クロヴィス。お前の記録は、私の十年前の裏庭を保存してくれたのか」
「──はい」
マテウスは帳面を両手で、握った。
それから稜を見た。
「稜殿。この少年の扉の関係者への登録を、許可いただけますか」
俺は頷いた。
「許可も何もあなたが、決めることでございます」
「しかし一つ、条件を付け加えさせてください」
「何でございますか」
「クロヴィス殿を、私のもう一人の弟子にしていただけないか」
─── ─── ───
マテウスは目を、見開いた。
クロヴィスも驚いた顔を、した。
「稜殿の弟子、でございますか」
「はい」
「私は参謀の仕事を、しております」
「参謀に不可欠なのは、情報と記録です」
「ロッテは書記官助手として、現在の情報を扱います」
「クロヴィス殿は記録を扱う、才をお持ちです」
「──二人で役割を分けて、いただきたい」
クロヴィスの目が濡れた。
「稜殿。私はまだ、何もお見せしていないのに」
「いえ。私は、今、見ました」
「あなたが五日間、扉の前に座り続けたという事実」
「あなたの、五日分の、記録」
「それが、あなたの、才でございます」
クロヴィスは深く一礼した。
頭を下げたまましばらく動かなかった。
顔を上げた時、目が、赤かった。
「──謹んで、お受けいたします」
─── ─── ───
マテウスが夜の門を開いた。
クロヴィスは扉の、前に、立った。
五日間、座り続けた、この扉。
今、初めて自分の前で開く。
彼は息を、呑んだ。
そして一歩踏み出す前に、ふとマテウスを見た。
「院長」
「ん」
「──私、入らなくて、良いですか」
マテウスは驚いた。
「入らない、と」
「私は扉の中を見たいのでは、ありません」
「扉の前に座り続けたという自分の体験を、大切にしたいのです」
「中を見てしまえば、その体験が終わります」
「今は、まだ、終わらせたくありません」
俺は少し笑った。
「クロヴィス殿。あなたは参謀の才がある」
「なぜ」
「決めない権利を、行使するタイミングを、知っておられる」
「入るべき日が来たら、入れる」
「今日入らなければ、今日の経験が今日のまま残る」
「──それを自分で判断できる方は、多くない」
クロヴィスは頷いた。
そしてマテウスに一礼した。
「院長。今日は扉を開けていただいて、ありがとうございました」
「私は、入らずに、帰ります」
「しかしいつか、入る日が、来るでしょう」
「その日まで、この扉を私が守る側になります」
マテウスはしばらく、クロヴィスを、見ていた。
それから深く頷いた。
「──クロヴィス。お前はもう、冥書庫の関係者だ」
「入らぬ権利を行使した者は、入った者と同じだけ扉と関わったということだ」
─── ─── ───
冥書庫から、地上に戻った。
俺はマテウスとクロヴィスの二人と、修道院の回廊で別れた。
クロヴィスは明日から、王宮の書記官室の補佐として働くことになった。
ロッテの同僚、兼、俺のもう一人の弟子。
王宮への、帰り道。
俺は一人で、歩きながら、手帳を開いた。
星光の月、十一日目。
クロヴィス、十六歳、孤児、冥書庫の関係者。
扉に、入らなかった。
入らない、という、選択を、した者。
ロッテとは違う種類の鋭さを、持つ。
ペンを閉じた。
(──クロヴィスの扉の前の、五日間)
(──俺の前世の、十五年)
(──扉の向こうを見たいのか、扉の前での自分を認めてほしいのか)
俺は前世で十五年、神崎と同じ扉の前に立ち続けた。
最後に、扉を、開けたのは、神崎の方だった。
俺は扉の前で立ち続けた自分の十五年を、誰にも認めてもらえないまま終わった。
クロヴィスの五日は、俺の十五年より、短い。
しかし、彼は認められた。
俺は認められなかった。
違いは、記録だった。
彼は記録を、持っていた。
俺は記録を、持っていなかった。
胸の奥が一瞬冷たくなった。
二十年前、事務所に入った時、高樹さんに「記録を取れ」と言われたことを思い出した。
俺は仕事の記録は取った。
しかし自分の、感情の記録は、取らなかった。
今、手帳を開く習慣は、この世界で毎日感情の記録を取る習慣になっていた。
俺は前世で学べなかったことを、四十二歳でようやく学んでいる。
二十五歳の、高樹さんの、一言が、四十二歳で、ようやく、意味を、持った。
(──師よ)
(──遅くなりました)
手帳の、革が、温かかった。
クロヴィス、十六歳、孤児。
五日間、扉の前に座り続けた少年。
「扉の中を見たいのではなく、扉の前に座り続けた自分を認めてほしい」──
この少年の、本当の願いを、稜が見抜く場面です。
人が扉の前に立ち続ける時、本当に求めているのは、
扉の中身ではなく、自分の「待った」時間を、誰かに見てもらうことだったりします。
そしてクロヴィスが「入らずに帰る」選択をする場面。
参謀の才能の一つは、「決めない権利を、決めるタイミング」です。
次話、クロヴィスの、正式な弟子入りが、記録されます。




