表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/60

かもめ亭で、二十年が終わる夜

 星光の月、八日目の夜。

 六日後。

 オルヴァンはついに剣を抜いた。

 練兵場の砂の上で、刃を最後まで引き抜いた。

 的の朽ちた木を、一刀両断にした。

 その夜、オルヴァンが俺に言った。

 「稜殿。今夜、かもめ亭で飲まないか」

 「錨酒場ではなく」

 「俺が新しく飲み始める場所を、今日作りたい」

 俺は頷いた。

 かもめ亭は下町の街の食堂。ミラの路地の入口の、親父の店。

 錨酒場はオルヴァンが二十年、死んだ五百人と飲み続けた場所。

 彼はその場所を、卒業しようとしていた。

 しかしグルムを、置き去りにはしない。

 「グルムも、呼ぶ」とオルヴァンは言った。

 「グルム殿は錨酒場を空けて、来られるのか」

 「店は今夜、休みにした」

 「二十年休んだことのない店が、今夜休む」

 「グルムも、来る」

            ─── ─── ───

 かもめ亭に、三人が集まった。

 俺、オルヴァン、グルム。

 親父はいつもの鍋の湯気の向こうで、目を丸くした。

 「稜さん。今日は珍しい客を連れてきた」

 「ああ。かもめ亭の親父と言う」

 「グルムだ。港湾区の錨酒場の店主」

 親父が目を、細めた。

 「グルム──あの、錨酒場の」

 「俺、あんたのこと三十年前から知ってる」

 「船乗り時代、港で何度か見かけた」

 グルムも目を細めた。

 「あんた、かもめ亭の若旦那だな」

 「三十年、下町で食堂続けているのか」

 「親父から、継いだ」

 「親父は二十年前に、死んだ」

 二人の老人が、お互いを認識する瞬間。

 三十年ぶりの、再会。

 下町の小さな世界で、お互いを知っていた。

 しかし三十年、話したことがなかった。

 オルヴァンが微かに笑った。

 「──港湾区と下町は、近いな」

 「しかし人は三十年、話さずに過ごせる」

 親父は鍋の湯気の向こうから答えた。

 「そういうものだ」

 「話せるのは、話す必要ができた時だけだ」

            ─── ─── ───

 卓に三人分の、鍋と魚の煮付けと黒パン、そして蒸留酒。

 ミラも路地から、顔を出した。

 しかし俺たちの卓を遠くから一度見て、また路地に戻った。

 「おねえちゃんも、くる?」と俺が呼ぶと、ミラは首を振った。

 「きょうは、おとなのよる」と小さな声で答えた。

 この八歳の女の子は、場の空気を大人以上に読む。

 今夜は大人三人の夜。

 子供は、混ざらない夜。

 ミラは分かっていた。

 親父はミラに、パンを一切れ持たせて路地に帰した。

 ミラが路地の角を曲がる時、俺に向かって親指を立てた。

 前世で俺が誰かを応援する時、よくやっていた仕草。

 ミラはそれをどこで、覚えたのだろう。

 俺は親指を、立て返した。

            ─── ─── ───

 オルヴァンが盃を取った。

 「──稜殿、グルム」

 「今夜、一つ話をしたい」

 グルムが頷いた。

 俺も頷いた。

 オルヴァンは続けた。

 「二十年前、俺は霧峰で五百人を失った」

 「その後の二十年、俺は自分を罰し続けた」

 「しかし三日前、妹のセレアに、手紙を書いた」

 俺は少し驚いた。

 「セレア殿に」

 「ああ。稜殿に、勧められて。書いた」

 「『二十年、お前を冷たい他者として必要としていた』と書いた」

 「──そして昨日、返事が来た」

 オルヴァンは懐から一枚の羊皮紙を、出した。

 封を開いた手紙だった。

 「セレアは、こう書いてきた」

 「『兄上。私も二十年、兄上を冷たい他者として必要としていました』」

 「『夫が死んだ時、私は誰かを責めなければ生きていけなかった』」

 「『兄上を責められれば楽だった。しかし兄上は自分を責めていた。責めても責めても、兄上は自分をもっと激しく責めた』」

 「『私は責めることも、赦すこともできなくなった』」

 「『──二十年、お互いに冷たい他者で居続けたのです』」

 グルムは沈黙していた。

 俺も、沈黙していた。

 オルヴァンは手紙を、畳んだ。

 「そしてセレアは最後に、こう書いた」

 「『兄上。今夜、夕食にいらしてください。二十年ぶりに兄妹で食事をいたしましょう』」

 オルヴァンは顔を上げた。

 「明日の夜。俺はセレアの家に行く」

 俺と、グルムは同時に頷いた。

            ─── ─── ───

 グルムが自分の盃を、卓に置いた。

 重い音がした。

 「オルヴァン殿」

 「ん」

 「俺も、一つ話をしたい」

 オルヴァンは驚いた顔を、した。

 二十年、錨酒場でグルムが自分から話を始めるのを、聞いたことがなかった。

 「聞く」

 グルムはゆっくりと、語り始めた。

 「俺は元、船乗りだ」

 「しかしただの船乗りではない」

 「──俺は若い頃、海賊だった」

 オルヴァンの目が広がった。

 俺も一瞬驚いた。

 しかしすぐに、納得した。

 この男の太い首、厚い胸板、港湾区の人間関係の知り方──普通の船乗りでは説明できない深さがあった。

 「二十五歳の時、俺は一人の女を殺した」

 オルヴァンが息を、呑んだ。

 「俺たちの海賊団が商船を襲った時、甲板で抵抗した女を俺が斬った」

 「女はまだ、二十歳だった」

 「後でわかった。女はアウレリアの、若き貴族の娘だった」

 「名前は、セラフィア・デル・ラタル」

 オルヴァンの顔色が、変わった。

 デル・ラタル──オルヴァンの家名。

 「セラフィア、とは」

 「お前の父の妹、だ」

 「つまり、お前の、叔母」

 オルヴァンの手が、盃の、縁で止まった。

 「──叔母、セラフィア」

 「父から、話は、聞いていた」

 「三十年前、海賊に襲われて死んだ、と」

 「その海賊が、お前だったのか」

 「俺、だった」

 店内が、静かになった。

 親父は鍋の向こうで、動きを、止めていた。

            ─── ─── ───

 グルムは続けた。

 「俺は海賊を辞めた。セラフィアを斬った翌年に」

 「海賊団から離れて、港湾区で酒場を開いた」

 「それ以来三十年、ここで酒を注ぎ続けた」

 「罪滅ぼしに俺自身を、この場所に縛り付けた」

 「十年前、お前が錨酒場に初めて来た時」

 「俺はお前の姓を聞いて、息が止まった」

 「デル・ラタル。俺が殺した女の、家名」

 「それから十年、俺はお前に酒を注いできた」

 「償いとして、注いでいた」

 「しかしお前は、俺の正体を、知らなかった」

 「知らせるべきか、迷った」

 「知らせれば、お前は俺を斬るかもしれない」

 「知らせなければ、俺は永遠にお前を騙し続ける」

 グルムの声が、震えていた。

 「昨日、お前が俺を『友人』と呼んだ時」

 「俺は決めた」

 「今夜、話す、と」

            ─── ─── ───

 オルヴァンは長く、沈黙していた。

 俺は二人の間に、立ち入らなかった。

 何も、言わなかった。

 この場は、俺が何か言う場では、ない。

 グルムとオルヴァン、二人の三十年と十年の重みが、卓の上で釣り合う瞬間を待つしかない。

 オルヴァンが盃を、手に取った。

 それからゆっくりとグルムの盃に、蒸留酒を、注いだ。

 客が店主に、酒を注ぐ。

 逆転した、光景だった。

 「グルム」

 「……はい」

 「俺はお前を、斬らない」

 「叔母セラフィアも、お前が今夜話してくれたことを望んでいた、と思う」

 「オルヴァン殿」

 「グルム。三十年、一人で抱え、十年俺に注ぎ続けた」

 「それが、お前の、償いだ」

 「十分、過ぎるほどの、償いだ」

 「これ以上お前を罰するつもりは、ない」

 「俺にもセラフィアにも、その権利はない」

 グルムは盃を、両手で包んだ。

 二十歳の女の血の染みた手で、酒を注ぎ続けてきた男の手。

 今、その手が、震えていた。

 「ありがとう、ございます」

 「俺は明日、セラフィアの墓に、参る」

 「セレアの家に、行く前に」

 「グルム、お前も一緒に来るか」

 グルムはしばらく、答えなかった。

 それから小さく頷いた。

 「──参ります」

            ─── ─── ───

 店内がゆっくりと呼吸を、取り戻した。

 親父が鍋の湯気の向こうから、新しい魚の煮付けを持ってきた。

 何も、聞かなかった顔を、していた。

 しかし魚の煮付けの汁が、いつもより薄かった。

 塩を、入れ忘れていた。

 三十年失敗しない親父が今夜、塩を入れ忘れた。

 それが親父なりの、三人への敬意だった。

 俺は薄い汁の、魚を、食べた。

 美味かった。

 塩が入っていない方が、この夜の気分に合っていた。

            ─── ─── ───

 夜、かもめ亭を出た時、月が昇っていた。

 星光の月の、八日目。

 細い、三日月。

 オルヴァンとグルムは肩を並べて、港湾区の方へ歩いて行った。

 俺は一人で、王宮の方へ戻った。

 途中、ミラの路地の入口を通った。

 ミラがまだ、起きていた。

 路地の入口の木箱に、座っていた。

 俺を待っていた。

 「おにいちゃん」

 「ミラ」

 「いま、おとなのよる、おわった?」

 「終わった」

 「よかった」

 ミラは俺の手を引いて、路地の奥の孤児院の玄関まで連れて行った。

 玄関の、軒先で、ミラは俺を見上げた。

 「おにいちゃん」

 「ん」

 「ごつごつしたおじいさんと、やさしくつよいおじいさん、ないてなかった?」

 俺は驚いた。

 ミラは遠くから俺たちを見ていたのか。

 「なぜ、そう思う」

 「おとなのひとが、おさけをのむよるは、たいていなく」

 「きょうは、いつもより、しずかなよるだった」

 「しずかなよるのおさけは、なかないおさけ」

 俺はしゃがんで、ミラの目線に合わせた。

 「ミラ」

 「ん」

 「お前、今日、よく観察したな」

 「うん」

 ミラはにっこりと笑った。

 「おにいちゃんが、いつも、みてるから」

 「わたしも、まねした」

 俺は胸の奥が一瞬止まった。

 この子は、俺の観察の癖を、真似していた。

 俺が気づかぬうちに、この子は俺の参謀の技を学んでいた。

 俺が教えたのでは、ない。

 ただ俺のそばにいただけで、学んだ。

 「ミラ」

 「ん」

 「おやすみ」

 「おやすみ、おにいちゃん」

 ミラは孤児院の、扉の中に、消えた。

 俺はしばらく、扉の前に、立っていた。

(──俺の弟子は気づかぬうちに、既に増えていたのか)

 胸ポケットの手帳に、手をやった。

 今夜、書くことが多すぎて、どれから書くべきか分からなかった。

            ─── ─── ───

 王宮の、第一の間に戻った。

 セレネが、まだ、起きていた。

 窓辺の、石の椅子に、座っていた。

 青いドレスは昼間と同じ。しかし髪はもう、三つ編みを解いていた。

 肩に、金の髪が、流れていた。

 「師」

 「殿下」

 「オルヴァン殿は、ご無事で、お戻りになりましたか」

 「はい」

 「──今夜は、何か大切な夜だったのですか」

 俺は頷いた。

 「三十年、港湾区に縛り付けられていた男が、明日一つ自由になります」

 セレネは少し、首を、傾げた。

 「師」

 「師がお帰りになる日は、いつも誰かが自由になっている気がします」

 俺は答えなかった。

 セレネの表現が、的を射ていた。

 しかし俺は何も、していない。

 ただ、人と人の間の扉を押しているだけだった。

 「殿下。今夜は、もう、お休みください」

 「師は」

 「私は手帳に、今日のことを書いてから休みます」

 セレネは頷いた。

 それからふと、自分の膝の上に置いていた一冊の本を、俺に差し出した。

 「師」

 「これは私が八年間、人質時代に書き溜めた日記でございます」

 「──昨夜初めて、誰かにお見せしようと思いました」

 俺は受け取った。

 分厚い、革の、日記。

 表紙が擦り切れていた。八歳から十六歳まで、毎日書いてきた日記だった。

 「──私に、お見せいただいて、よろしいのですか」

 セレネは小さく頷いた。

 「師は、見ても、黙っておられる方だから」

 「黙って、読んでいただけたら、嬉しいです」

 俺は頭を下げた。

 「ありがとう、ございます」

 「大切に、読ませて、いただきます」

 セレネは頬を、染めた。

 それから小さく「おやすみなさい」と言って、自分の部屋の方へ歩いて行った。

 俺は日記を両手で持ったまま、第一の間に残った。

 今夜は、書くことが、多すぎる。

 そして読むものも、増えた。

錨酒場の店主グルムが、三十年、黙って抱えてきたもの。

この老人の沈黙の深さを、書けて良かったです。

ミラが「しずかなよるのおさけは、なかないおさけ」と言う場面。

八歳の女の子にしか、言えない観察です。

子供は、時に、大人よりも、空気を読みます。

そしてセレネが、八年の日記を、稜に差し出す夜。

彼女が、師に「黙って読んでいただけたら」と頼む、その信頼が、

ようやく生まれた、という夜でした。

次話、冥書庫に、記録する少年が、いるそうです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ