かもめ亭で、二十年が終わる夜
星光の月、八日目の夜。
六日後。
オルヴァンはついに剣を抜いた。
練兵場の砂の上で、刃を最後まで引き抜いた。
的の朽ちた木を、一刀両断にした。
その夜、オルヴァンが俺に言った。
「稜殿。今夜、かもめ亭で飲まないか」
「錨酒場ではなく」
「俺が新しく飲み始める場所を、今日作りたい」
俺は頷いた。
かもめ亭は下町の街の食堂。ミラの路地の入口の、親父の店。
錨酒場はオルヴァンが二十年、死んだ五百人と飲み続けた場所。
彼はその場所を、卒業しようとしていた。
しかしグルムを、置き去りにはしない。
「グルムも、呼ぶ」とオルヴァンは言った。
「グルム殿は錨酒場を空けて、来られるのか」
「店は今夜、休みにした」
「二十年休んだことのない店が、今夜休む」
「グルムも、来る」
─── ─── ───
かもめ亭に、三人が集まった。
俺、オルヴァン、グルム。
親父はいつもの鍋の湯気の向こうで、目を丸くした。
「稜さん。今日は珍しい客を連れてきた」
「ああ。かもめ亭の親父と言う」
「グルムだ。港湾区の錨酒場の店主」
親父が目を、細めた。
「グルム──あの、錨酒場の」
「俺、あんたのこと三十年前から知ってる」
「船乗り時代、港で何度か見かけた」
グルムも目を細めた。
「あんた、かもめ亭の若旦那だな」
「三十年、下町で食堂続けているのか」
「親父から、継いだ」
「親父は二十年前に、死んだ」
二人の老人が、お互いを認識する瞬間。
三十年ぶりの、再会。
下町の小さな世界で、お互いを知っていた。
しかし三十年、話したことがなかった。
オルヴァンが微かに笑った。
「──港湾区と下町は、近いな」
「しかし人は三十年、話さずに過ごせる」
親父は鍋の湯気の向こうから答えた。
「そういうものだ」
「話せるのは、話す必要ができた時だけだ」
─── ─── ───
卓に三人分の、鍋と魚の煮付けと黒パン、そして蒸留酒。
ミラも路地から、顔を出した。
しかし俺たちの卓を遠くから一度見て、また路地に戻った。
「おねえちゃんも、くる?」と俺が呼ぶと、ミラは首を振った。
「きょうは、おとなのよる」と小さな声で答えた。
この八歳の女の子は、場の空気を大人以上に読む。
今夜は大人三人の夜。
子供は、混ざらない夜。
ミラは分かっていた。
親父はミラに、パンを一切れ持たせて路地に帰した。
ミラが路地の角を曲がる時、俺に向かって親指を立てた。
前世で俺が誰かを応援する時、よくやっていた仕草。
ミラはそれをどこで、覚えたのだろう。
俺は親指を、立て返した。
─── ─── ───
オルヴァンが盃を取った。
「──稜殿、グルム」
「今夜、一つ話をしたい」
グルムが頷いた。
俺も頷いた。
オルヴァンは続けた。
「二十年前、俺は霧峰で五百人を失った」
「その後の二十年、俺は自分を罰し続けた」
「しかし三日前、妹のセレアに、手紙を書いた」
俺は少し驚いた。
「セレア殿に」
「ああ。稜殿に、勧められて。書いた」
「『二十年、お前を冷たい他者として必要としていた』と書いた」
「──そして昨日、返事が来た」
オルヴァンは懐から一枚の羊皮紙を、出した。
封を開いた手紙だった。
「セレアは、こう書いてきた」
「『兄上。私も二十年、兄上を冷たい他者として必要としていました』」
「『夫が死んだ時、私は誰かを責めなければ生きていけなかった』」
「『兄上を責められれば楽だった。しかし兄上は自分を責めていた。責めても責めても、兄上は自分をもっと激しく責めた』」
「『私は責めることも、赦すこともできなくなった』」
「『──二十年、お互いに冷たい他者で居続けたのです』」
グルムは沈黙していた。
俺も、沈黙していた。
オルヴァンは手紙を、畳んだ。
「そしてセレアは最後に、こう書いた」
「『兄上。今夜、夕食にいらしてください。二十年ぶりに兄妹で食事をいたしましょう』」
オルヴァンは顔を上げた。
「明日の夜。俺はセレアの家に行く」
俺と、グルムは同時に頷いた。
─── ─── ───
グルムが自分の盃を、卓に置いた。
重い音がした。
「オルヴァン殿」
「ん」
「俺も、一つ話をしたい」
オルヴァンは驚いた顔を、した。
二十年、錨酒場でグルムが自分から話を始めるのを、聞いたことがなかった。
「聞く」
グルムはゆっくりと、語り始めた。
「俺は元、船乗りだ」
「しかしただの船乗りではない」
「──俺は若い頃、海賊だった」
オルヴァンの目が広がった。
俺も一瞬驚いた。
しかしすぐに、納得した。
この男の太い首、厚い胸板、港湾区の人間関係の知り方──普通の船乗りでは説明できない深さがあった。
「二十五歳の時、俺は一人の女を殺した」
オルヴァンが息を、呑んだ。
「俺たちの海賊団が商船を襲った時、甲板で抵抗した女を俺が斬った」
「女はまだ、二十歳だった」
「後でわかった。女はアウレリアの、若き貴族の娘だった」
「名前は、セラフィア・デル・ラタル」
オルヴァンの顔色が、変わった。
デル・ラタル──オルヴァンの家名。
「セラフィア、とは」
「お前の父の妹、だ」
「つまり、お前の、叔母」
オルヴァンの手が、盃の、縁で止まった。
「──叔母、セラフィア」
「父から、話は、聞いていた」
「三十年前、海賊に襲われて死んだ、と」
「その海賊が、お前だったのか」
「俺、だった」
店内が、静かになった。
親父は鍋の向こうで、動きを、止めていた。
─── ─── ───
グルムは続けた。
「俺は海賊を辞めた。セラフィアを斬った翌年に」
「海賊団から離れて、港湾区で酒場を開いた」
「それ以来三十年、ここで酒を注ぎ続けた」
「罪滅ぼしに俺自身を、この場所に縛り付けた」
「十年前、お前が錨酒場に初めて来た時」
「俺はお前の姓を聞いて、息が止まった」
「デル・ラタル。俺が殺した女の、家名」
「それから十年、俺はお前に酒を注いできた」
「償いとして、注いでいた」
「しかしお前は、俺の正体を、知らなかった」
「知らせるべきか、迷った」
「知らせれば、お前は俺を斬るかもしれない」
「知らせなければ、俺は永遠にお前を騙し続ける」
グルムの声が、震えていた。
「昨日、お前が俺を『友人』と呼んだ時」
「俺は決めた」
「今夜、話す、と」
─── ─── ───
オルヴァンは長く、沈黙していた。
俺は二人の間に、立ち入らなかった。
何も、言わなかった。
この場は、俺が何か言う場では、ない。
グルムとオルヴァン、二人の三十年と十年の重みが、卓の上で釣り合う瞬間を待つしかない。
オルヴァンが盃を、手に取った。
それからゆっくりとグルムの盃に、蒸留酒を、注いだ。
客が店主に、酒を注ぐ。
逆転した、光景だった。
「グルム」
「……はい」
「俺はお前を、斬らない」
「叔母セラフィアも、お前が今夜話してくれたことを望んでいた、と思う」
「オルヴァン殿」
「グルム。三十年、一人で抱え、十年俺に注ぎ続けた」
「それが、お前の、償いだ」
「十分、過ぎるほどの、償いだ」
「これ以上お前を罰するつもりは、ない」
「俺にもセラフィアにも、その権利はない」
グルムは盃を、両手で包んだ。
二十歳の女の血の染みた手で、酒を注ぎ続けてきた男の手。
今、その手が、震えていた。
「ありがとう、ございます」
「俺は明日、セラフィアの墓に、参る」
「セレアの家に、行く前に」
「グルム、お前も一緒に来るか」
グルムはしばらく、答えなかった。
それから小さく頷いた。
「──参ります」
─── ─── ───
店内がゆっくりと呼吸を、取り戻した。
親父が鍋の湯気の向こうから、新しい魚の煮付けを持ってきた。
何も、聞かなかった顔を、していた。
しかし魚の煮付けの汁が、いつもより薄かった。
塩を、入れ忘れていた。
三十年失敗しない親父が今夜、塩を入れ忘れた。
それが親父なりの、三人への敬意だった。
俺は薄い汁の、魚を、食べた。
美味かった。
塩が入っていない方が、この夜の気分に合っていた。
─── ─── ───
夜、かもめ亭を出た時、月が昇っていた。
星光の月の、八日目。
細い、三日月。
オルヴァンとグルムは肩を並べて、港湾区の方へ歩いて行った。
俺は一人で、王宮の方へ戻った。
途中、ミラの路地の入口を通った。
ミラがまだ、起きていた。
路地の入口の木箱に、座っていた。
俺を待っていた。
「おにいちゃん」
「ミラ」
「いま、おとなのよる、おわった?」
「終わった」
「よかった」
ミラは俺の手を引いて、路地の奥の孤児院の玄関まで連れて行った。
玄関の、軒先で、ミラは俺を見上げた。
「おにいちゃん」
「ん」
「ごつごつしたおじいさんと、やさしくつよいおじいさん、ないてなかった?」
俺は驚いた。
ミラは遠くから俺たちを見ていたのか。
「なぜ、そう思う」
「おとなのひとが、おさけをのむよるは、たいていなく」
「きょうは、いつもより、しずかなよるだった」
「しずかなよるのおさけは、なかないおさけ」
俺はしゃがんで、ミラの目線に合わせた。
「ミラ」
「ん」
「お前、今日、よく観察したな」
「うん」
ミラはにっこりと笑った。
「おにいちゃんが、いつも、みてるから」
「わたしも、まねした」
俺は胸の奥が一瞬止まった。
この子は、俺の観察の癖を、真似していた。
俺が気づかぬうちに、この子は俺の参謀の技を学んでいた。
俺が教えたのでは、ない。
ただ俺のそばにいただけで、学んだ。
「ミラ」
「ん」
「おやすみ」
「おやすみ、おにいちゃん」
ミラは孤児院の、扉の中に、消えた。
俺はしばらく、扉の前に、立っていた。
(──俺の弟子は気づかぬうちに、既に増えていたのか)
胸ポケットの手帳に、手をやった。
今夜、書くことが多すぎて、どれから書くべきか分からなかった。
─── ─── ───
王宮の、第一の間に戻った。
セレネが、まだ、起きていた。
窓辺の、石の椅子に、座っていた。
青いドレスは昼間と同じ。しかし髪はもう、三つ編みを解いていた。
肩に、金の髪が、流れていた。
「師」
「殿下」
「オルヴァン殿は、ご無事で、お戻りになりましたか」
「はい」
「──今夜は、何か大切な夜だったのですか」
俺は頷いた。
「三十年、港湾区に縛り付けられていた男が、明日一つ自由になります」
セレネは少し、首を、傾げた。
「師」
「師がお帰りになる日は、いつも誰かが自由になっている気がします」
俺は答えなかった。
セレネの表現が、的を射ていた。
しかし俺は何も、していない。
ただ、人と人の間の扉を押しているだけだった。
「殿下。今夜は、もう、お休みください」
「師は」
「私は手帳に、今日のことを書いてから休みます」
セレネは頷いた。
それからふと、自分の膝の上に置いていた一冊の本を、俺に差し出した。
「師」
「これは私が八年間、人質時代に書き溜めた日記でございます」
「──昨夜初めて、誰かにお見せしようと思いました」
俺は受け取った。
分厚い、革の、日記。
表紙が擦り切れていた。八歳から十六歳まで、毎日書いてきた日記だった。
「──私に、お見せいただいて、よろしいのですか」
セレネは小さく頷いた。
「師は、見ても、黙っておられる方だから」
「黙って、読んでいただけたら、嬉しいです」
俺は頭を下げた。
「ありがとう、ございます」
「大切に、読ませて、いただきます」
セレネは頬を、染めた。
それから小さく「おやすみなさい」と言って、自分の部屋の方へ歩いて行った。
俺は日記を両手で持ったまま、第一の間に残った。
今夜は、書くことが、多すぎる。
そして読むものも、増えた。
錨酒場の店主グルムが、三十年、黙って抱えてきたもの。
この老人の沈黙の深さを、書けて良かったです。
ミラが「しずかなよるのおさけは、なかないおさけ」と言う場面。
八歳の女の子にしか、言えない観察です。
子供は、時に、大人よりも、空気を読みます。
そしてセレネが、八年の日記を、稜に差し出す夜。
彼女が、師に「黙って読んでいただけたら」と頼む、その信頼が、
ようやく生まれた、という夜でした。
次話、冥書庫に、記録する少年が、いるそうです。




