二十年ぶりに剣を握る
星光の月、二日目の午後。
王宮の、練兵場。
アウリオン王宮の北西、石塀に囲まれた広い砂場。二十年前まで、アウレリア軍の新兵が毎日ここで訓練を受けていた。
独立戦争の後、新兵訓練は縮小された。今は衛兵の訓練場として、週に二回使われているだけだった。
俺は練兵場の入り口に、立っていた。
今日、オルヴァンが二十年ぶりに剣を抜く。
カスパルが俺に「立会人として、お越しいただけますか」と頼んできた。
「立会人というのは仰々しい。見届け人で結構です」と俺は答えたが、カスパルは「いえ、立会人です。名を記録に残します」と譲らなかった。
あの老人はやはり、食えない。
練兵場の砂の上に、オルヴァンが立っていた。
昨日とは、違う姿だった。
軍服は古い将軍の服ではなく、新しい副顧問服。深い紺色の地味な、しかし仕立ての良い服。
カスパルが昨日のうちに用意した、と聞いていた。
二十年ぶりの、新しい服。
彼は砂の上で一人で立っていた。
周りに誰もいなかった。
腰に、剣の鞘。
鞘は古い。しかし磨かれていた。
昨夜、錨酒場のグルムが「二十年、磨いていた」と教えてくれた。
──店主のグルムが二十年、誰にも言わずに客の剣の鞘だけを磨いていた。
オルヴァンはそのことを知らないまま、剣を今日腰に提げていた。
─── ─── ───
オルヴァンは俺に気づいた。
しかしすぐには、言葉を発さなかった。
砂を一度、足で軽く蹴った。
砂の質を、確かめる仕草。
軍人の、戦う前の儀式。
「──稜殿。お忙しい中、ありがとう」
「いえ」
「……抜ける、だろうか」
俺は少し驚いた。
この男が不安を口に出すのを、初めて聞いた。
「オルヴァン殿」
「ん」
「抜けなかったら抜けないと、私に教えてください」
「そうしたら私は、『抜かなくていい日だ』とあなたに申し上げます」
オルヴァンは微かに笑った。
「稜殿は本当に、面白い男だ」
「『今日、抜くべきだ』とは仰らない」
「抜くべき日は、あなたが決めます」
「私はあなたが決めた日を、見届けるだけ」
オルヴァンはしばらく砂を見ていた。
それから右手を腰の柄にやった。
指が柄に触れた。
触れた瞬間、指が一度強ばった。
俺はそれを見た。
二十年、握っていない柄。
手は、覚えていた。
同時に、手は怯えていた。
覚えているということは、動かせるということ。
怯えているということは、動かしたくないということ。
二つは同じ瞬間に、同じ手に起こっていた。
オルヴァンは指を柄から、一度離した。
「……少し時間を、いただく」
「どうぞ」
彼は砂の上を、一周歩いた。
ゆっくりと、砂の感触を足の裏で確かめながら。
練兵場の一角に、木製の的が三つ立てられていた。二十年放置されていたのか、上半分が朽ちていた。
オルヴァンはその前に、立った。
的の高さは、人の肩ぐらい。
「稜殿。この的は、俺が立てさせた」
「二十年前の春、独立戦争の直前に」
俺は少し驚いた。
「この的、ですか」
「当時ここで、五百人を訓練した」
「霧峰に連れて行く、五百人だ」
「的を立てて、一人ずつ抜刀の訓練をさせた」
「──一人も、この的に剣先を止めた者はいなかった。全員、貫いた」
そう言ってオルヴァンは、朽ちた木の半ばに残る古い傷を指で撫でた。
無数の切り傷。
五百人の、二十年前の痕跡。
「新兵訓練が縮小されてから、王宮の誰もこの的を片付けなかった」
「カスパル殿は、ご存知だったと思う」
「──二十年、この的は待っていたのだな」
俺はここで初めて、アウレリアの独立戦争のもう一つの地層を知った。
表の歴史では、千年の属国から独立を勝ち取った輝かしい戦争。
しかしこの王宮の砂場には、朽ちた的が二十年、誰にも片付けられずに残されていた。
王国は勝ったのに、勝ちきれなかった。
勝ったのに、五百人を片付けられなかった。
その未練が的の形で、ここに二十年あった。
彼は空を、見上げた。
春の、青い空。
雲がほとんどなかった。
「──二十年前の霧峰の朝も、同じような空だった」
俺は頷いた。
「霧が濃くなる前の空。朝は晴れていた」
「俺はその空を今でも、覚えている」
オルヴァンは少し静かに続けた。
「青い空を見上げると、必ず霧峰の朝が浮かぶ」
「二十年、毎日青い空を見上げるたびに、心が一度冷たくなった」
「──今日、これから剣を抜く。もう一度、心が冷たくなる瞬間だろう」
「覚悟はしている。しかし、怖い」
─── ─── ───
俺はオルヴァンを、見ていた。
五十二歳の男が、「怖い」と口に出した。
前世の俺なら、こういう時、励ましの言葉を言ってしまっただろう。
「大丈夫です」「できます」「抜いてしまえば楽になります」。
そういう善意の嘘。
しかし今、俺は黙っていた。
高樹さんが、前世で言ったことがある。
「稜。怖いと言う人の前で、励ましを言うな」
「怖いと言った人は、怖いという事実を肯定してほしい」
「否定するな。同調しろ」
俺はオルヴァンの隣に並んで、立った。
的のほうを、一緒に見た。
「オルヴァン殿」
「ん」
「──怖いです、よね」
オルヴァンは俺を見た。
その目が一瞬広がった。
「……そう、だ。怖い」
「私も前世で、怖かった瞬間がいくつもありました」
「『今、この会議で発言しないと、誰かが死ぬ』という瞬間」
「発言したことで、別の誰かが死んだ瞬間」
「──その時の身体の硬直は、二十年消えません」
「……稜殿も、そうか」
「はい」
「怖さが消える日は、来ません」
「ただ、怖さと一緒に動ける日がある、というだけです」
オルヴァンは長く、黙っていた。
それから深く息を、吸った。
「今日は、怖さと一緒に動く日か」
「──そうかも、しれません」
彼は頷いた。
右手をもう一度柄に、やった。
─── ─── ───
抜刀の、瞬間。
正確には、抜きかけた瞬間止まった。
刃の三分の一が鞘から出た。そこで止まった。
オルヴァンの手が、震えていた。
震えは抑えようとしても、抑えられないほど明らかだった。
彼は目を閉じた。
深く息を吸った。
もう一度、吸った。
三度目の呼吸で、ようやく息を吐いた。
刃を鞘に戻した。
「……駄目、だった」
「十分、です」
「十分、とは」
「今日は、刃が三分の一出た」
「明日は、半分出るかもしれません」
「来週には、全部出せるかもしれません」
オルヴァンは笑った。
しかし顔は、蒼白だった。
「稜殿」
「俺は軍人として情けない姿を見せたと、自分を責めている」
「責めなくて、結構です」
「二十年、鞘に戻した剣を、三分の一抜いた」
「それは、進歩でございます」
「……進歩、と」
「はい」
「稜殿。あんたは軍人の論理を、ご存じないのではないか」
「軍人は抜けないなら、抜くべきではなかった」
俺は頷いた。
「私は、軍人では、ございません」
「私は、参謀でございます」
「参謀は、抜ける日を、待ちます」
「今日、抜かせようとしたのは私の焦りでございました。申し訳ない」
オルヴァンは俺をじっと見た。
しばらく沈黙した。
それからゆっくりと首を、振った。
「稜殿。あんたは、謝らなくて、いい」
「俺が自分で、決めて、抜こうとした」
「抜けなかったのは、俺の責任だ」
俺は少し、頭を下げた。
「では、オルヴァン殿。明日もう一度お付き合いいたします」
「──すまない」
─── ─── ───
練兵場の入り口まで戻った時、一人の老人が立っていた。
グルム。錨酒場の、店主。
前掛けを外した外出着の姿で、俺とオルヴァンが練兵場から出てくるのを待っていた。
オルヴァンが驚いた。
「グルム。お前、なぜ、ここに」
「稜殿に、お知らせ、いただいた」
「今日、将軍が剣を抜く日だ、と」
オルヴァンが俺を見た。
「稜殿が」
「──あなたの剣の鞘を二十年磨き続けた方に、今日の立会人になっていただくのが礼儀かと思いました」
オルヴァンの表情が、固まった。
それからグルムを見た。
「グルム、お前、鞘を磨いていたのか」
グルムは答えなかった。
代わりに、自分のズボンの後ろから一枚の古い布を取り出した。
黒く光る、油の染み込んだ布。
二十年、鞘を磨き続けた布。
オルヴァンは布を見つめた。
しばらく、黙っていた。
それから震える声で言った。
「──グルム」
「なぜ、言わなかった」
「言う必要が、なかったからだ」
「しかし二十年、だぞ」
「二十年磨くのが、俺の仕事だと思っていた」
「誰に、頼まれた、わけでもない」
「ただ、磨いていた」
オルヴァンの目がまた濡れた。
「グルム」
「お前、俺の友人、だったのだな」
グルムは首を、振った。
「俺は店主だ」
「客の必要なものを見て、黙って準備する。それだけだ」
「友人というような立派なものでは、ない」
「──友人、だ」
「俺がそう、決めた」
「これからは、お前を友人と呼ぶ」
グルムは笑った。
二十年、客の話を黙って聞き続けてきた店主の、初めての客に向けた笑いだった。
「将軍が、そう、仰るなら」
─── ─── ───
俺は二人の、後ろを歩いた。
オルヴァンとグルム、二人の老人が肩を並べて、王宮の門から下町の方へ歩いて行った。
その後ろ姿を見ながら、俺は少し胸が熱くなった。
(──「磨いていた」という言葉だけで、人は二十年の関係を再定義できる)
前世で、俺が神崎に何かを頼んだ時、彼はいつも黙って準備してくれた。
俺はそれを、当たり前だと、思っていた。
礼も、言わなかった。
もしあの時、俺が神崎に「お前、いつも俺のために準備してくれていたな」と一言言っていたら。
あいつは、俺を嵌めなかっただろうか。
──いや。
嵌めたことと、俺が礼を言わなかったことは、別の問題だ。
あいつは、別の理由で、俺を嵌めた。
俺は別の理由で、礼を、言わなかった。
しかし二つは、同じ事務所の同じ窓際で起きたことだった。
二つを、完全に別々にすることはできない。
俺は自分の胸ポケットに、手を、やった。
手帳が、入っていた。
今夜、手帳に何を書こうか。
ペンの重さを、指先で感じた。
─── ─── ───
【同日夕方、下町、ロッテ家】
ロッテは夕食の、支度を、していた。
父バルトは書類室から、早めに帰宅していた。
弟トビ十五歳、剣術の練習から帰ってきた。
妹ミカ十二歳、絵を描いていた。
四人の、食卓。
ロッテは前夜、父に「他に重荷はないか」と聞いた。
父は、長く、黙っていた。
そして「お前の母のこと以外に、もう一つある」と答えた。
今夜、その「もう一つ」が食卓で語られるはずだった。
ロッテは緊張していた。
緊張して、塩を砂糖の袋に入れそうになった。
妹ミカが横で、「お姉ちゃん、それ、砂糖!」と止めた。
「あ、ありがとう、ミカ」
ロッテは苦笑した。
緊張は相変わらず、彼女を不器用にする。
しかし今夜、彼女は書類を落とすことを気にしていなかった。
塩を、間違えても、笑える。
それは、新しい、ロッテだった。
父が、食卓に、着いた。
四人で、手を、合わせた。
アウレリアの、古い食前の、祈り。
「今日の食べ物を運んでくださった、海と月に感謝いたします」
母が、いた時と、同じ祈り。
父が三年ぶりに、この祈りを四人で唱えた。
父の、声が少し震えていた。
しかし祈りは、途切れなかった。
途切れずに家族全員で唱えた瞬間──ロッテは今夜は、どんな話が来ても受け止められる、と感じた。
「怖いです、よね」──稜が、高樹さんの教えを、実践する場面です。
励ましではなく、同調。
これは、相手を動かす魔法ではなく、相手の動きを邪魔しない、礼儀のようなもの、かもしれません。
グルムが二十年、誰にも言わずに、鞘を磨き続けていた──
この男も、沈黙で愛を示すタイプの、古い人間です。
ロッテ家の食卓、三年ぶりに四人揃った夜。
父の声が震えながらも、祈りが途切れない場面を、書きたかったのです。
次話、かもめ亭。二十年が終わる夜を、オルヴァンと、グルムと、稜で。




