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組織の、失敗だった

 月光の月、三十一日目の朝。

 王宮の西塔、最上階。

 アウリオンの街並みが、朝靄の向こうに、広がっていた。東の空がゆっくりと赤く染まっていく。

 この時間、この場所に、一人の老人が毎朝立っている──俺はカスパル本人からそう聞いていた。

 俺は階段を、登らなかった。

 代わりに、一階下の回廊で、待っていた。

 西塔へ向かう石段を、一人の男が、上ってきていた。

 オルヴァン。

 古い将軍服を着ていた。徽章の外された跡が生地に、小さな影を作っていた。脇に黒い革の書類入れ。中に昨夜の五百人の名簿が、入っているはずだった。

 彼は俺に気づくと、一度、足を止めた。

 「稜殿」

 「オルヴァン殿」

 「──同席、してくれないか」

 俺は首を、振った。

 「私は、ここまでです」

 「カスパル殿と、お二人で、お話しください」

 「しかしあんたが、この場を、作ってくれた」

 「作ったのは私ではありません。二十年、お二人がお作りになった場です」

 「私は、扉を、押しただけ」

 オルヴァンはしばらく、俺を見ていた。

 それから頷いた。

 書類入れを、持ち直した。持ち直した時微かに手が震えた。

(──震え、か)

 俺はそれを、見て見ぬふりをした。

 震えを、指摘すれば、彼はそれを隠そうとする。

 震えたまま、階段を上ってもらうほうがいい。

 オルヴァンは石段を、上り始めた。

 一段、一段。

 普段の軍人の歩幅とは、違う歩幅だった。

 慎重すぎる、歩幅。

 二十年ぶりに「上官」のもとへ出頭する男の、歩幅。

            ─── ─── ───

 俺は回廊の石柱に、凭せかかった。

 西塔の上から微かに声が、聞こえてくる気が、した。

 実際には聞こえるはずがなかった。二階分の石壁が隔てている。

 しかし耳が、聞こうとしていた。

 俺は目を閉じた。

 オルヴァンはカスパルの前で、何と、切り出すだろう。

 「二十年、申し訳、ございませんでした」

 ──おそらく、最初の一言は、それに近い。

 彼は自分の過去を、そう整理している。

 しかしカスパルはそれを、遮るはずだ。

 「オルヴァン殿。頭を、お上げください」

 ──その後の、言葉が、問題だ。

 カスパルは自分の二十年を、語るだろうか。

 二十年前、若き指揮官を軍から守り切れなかった老宰相の、二十年を。

 おそらく、語る。

 しかしどう、語るか。

 人は自分の罪悪感を、他者の前でそのまま語れるほど強くない。

 必ず少し加工して、語る。

 「私も辛かった」と言うか、「私にはできなかった」と言うか、「私は沈黙を選んだ」と言うか。

 同じ内容でも語り方で、相手が受け取る重さが変わる。

 二人の老人の語り方が、今日噛み合うか。

 俺は少し、心配していた。

 しかし心配しても、俺には何もできない。

 扉を押したら、後は中の二人に任せるしかない。

            ─── ─── ───

 一時間ほど、経った。

 西塔から、オルヴァンが降りてきた。

 顔は、赤かった。

 目も、赤かった。

 しかし顔の赤さと目の赤さは、色が違っていた。

 顔は怒りではなく、自分への憤りの赤。

 目は、泣いた後の、腫れの赤。

 俺は石柱から、離れた。

 「オルヴァン殿」

 「稜殿」

 彼は俺の前で、一度深く息を吐いた。

 「──あの老人は俺より、重いものを抱えておられた」

 「……そうでしたか」

 「二十年前、王が俺を軍から外そうとした時」

 「カスパル殿は王の前で泣いて、反対なさったそうだ」

 「六十近い宰相が、若き王の前で泣いた、と」

 「しかし王は、聞かなかった」

 オルヴァンは拳を、軽く、握った。

 「俺は二十年、カスパル殿を冷たい人だと思っていた」

 「軍から追い出された時、あの人は一言も俺を庇わなかったと聞いていた」

 「──嘘だった」

 「泣いた話は王宮の記録から、消されていた」

 「王の体裁のために、消されていた」

 俺は頷いた。

 「カスパル殿はなぜ、それを二十年、あなたに伝えなかったのですか」

 オルヴァンは笑った。

 低い、短い笑い。

 「『伝えれば、お前が自分を赦せなくなると思った』」

 「『お前が自分を裁くために、俺を冷たい人として必要としていただろう』」

 「──そう、仰った」

 「俺は何も、言い返せなかった」

            ─── ─── ───

 オルヴァンは石柱に、手を、ついた。

 体重を、支える仕草。

 しかし身体は、倒れそうでは、なかった。

 心が倒れそうな時、人は石柱に手をつく。

 「稜殿」

 「はい」

 「俺は二十年、必要としていたのか」

 「自分を、裁く、冷たい他者を」

 俺は答えなかった。

 答えるべき問いでは、ないと、感じた。

 オルヴァンはしばらく、石柱を、見ていた。

 それからゆっくりと言った。

 「──カスパル殿は、こうも、仰った」

 「『オルヴァン殿。今日から私は、あなたの冷たい他者を辞めます』」

 「『代わりに、あなたの仕事の上司に戻ります』」

 「『連絡体制の再設計を、あなたに命じます』」

 オルヴァンの目がもう一度赤くなった。

 「俺は、『はい』と答えた」

 「二十年ぶりに、『上官』に、『はい』と答えた」

            ─── ─── ───

 俺は頷いた。

 オルヴァンが書類入れを開いた。

 中に五百人の名簿と、もう一枚新しい羊皮紙が入っていた。

 「カスパル殿から、今朝受け取った」

 「辞令だ」

 俺は羊皮紙を見た。

 「オルヴァン・デル・ラタル殿を軍務副顧問に任命する。軍の連絡体制の再設計を命ずる。本日より発効。カスパル・ヴェン・リルシウス」

 辞令の下に、稜の名も、書かれていた。

 「協議者:王国戦略顧問、高木稜」

 ──俺はこれに同意した覚えはない。しかしカスパルは俺の名を、勝手に添えた。

 あの老人は、こういう小さな悪戯をする。

 俺は苦笑した。

 「オルヴァン殿」

 「ん」

 「この辞令、私の名が勝手に載っておりますが」

 「──気づいたか」

 「カスパル殿は、何か、仰いましたか」

 「『稜殿はきっと、笑って受け入れてくださる』と」

 オルヴァンは久しぶりに、軍人らしいはっきりとした笑いを見せた。

 「あの、老人、食えないな」

 「食えません」

 「稜殿より、食えないか」

 「私はまだ、あの方の半分も食えません」

 オルヴァンは声を出して笑った。

 二十年ぶりに西塔の回廊で、男が声を出して笑った。

            ─── ─── ───

 回廊の途中で、俺はふと一つの問いを思い出した。

 「オルヴァン殿」

 「ん」

 「一つ、お伺いしたいのですが」

 「どうぞ」

 「──あなたのお家には、今、誰かおられますか」

 オルヴァンの歩みが止まった。

 彼は少し、空を見た。

 「……妹が、一人」

 「二十年、兄の顔を、見ていない」

 「同じ王都に、住んでいるのに」

 「なぜ、会わない」

 「妹の夫が、霧峰の生還兵だった」

 「俺が指揮した部隊の、一人」

 「彼は帰ってきた。しかし心は、帰ってこなかった」

 「三年後、自分で命を絶った」

 「妹は、俺を責めなかった」

 「──だから、俺は妹に、会えない」

 俺は頷いた。

 オルヴァンは続けた。

 「責められなかった、ということが一番重いのだ」

 「責められれば、反論できる。言い訳できる。赦しを、請うこともできる」

 「しかし責められない時、人はどこにも逃げ場がない」

 俺はしばらく沈黙した。

 この男が今、初めて自分の二十年の、もう一つの隠された地層を見せたと分かった。

 「オルヴァン殿」

 「ん」

 「──妹さんの、お名前は」

 「……セレア」

 「セレア殿に今日、手紙をお書きください」

 オルヴァンは俺を見た。

 「なぜ」

 「カスパル殿が今朝、あなたに伝えたこと」

 「それを、あなたも妹さんに伝える番でございます」

 「『俺はお前を冷たい他者として、二十年必要としていた』と」

 オルヴァンの目が濡れた。

 しかし彼はもう、拭わなかった。

 「……書く」

 「今夜、書く」

            ─── ─── ───

 俺は西塔の回廊を、後にした。

 下の階へ降りる石段を、一歩一歩、降りていた。

 この一週間で、俺は二つの家族を、動かした。

 バルト書記とロッテ。

 そして今、オルヴァンと、妹のセレア。

 家族とは面白いもので、赦せないのは相手ではなく、自分であることが多い。

 相手を赦せるかではなく、自分を相手に赦されたと感じられるか。

 その違いは、言語化しにくい。

 しかし家族の中で二十年、話せなかった人々は、全員この違いに苦しんでいる。

 俺は前世でも、同じだった。

 父の死について、母と、話せなかった。

 母は、俺を責めなかった。

 母が俺を責めなかったから、俺は母に自分を赦されたと感じる機会を失った。

 責められないという、一番重い形。

 オルヴァンの言葉が俺の胸の奥に、二十五年分の静かな同調を呼んだ。

            ─── ─── ───

 王宮の回廊を歩いていると、ロッテが小走りに追いついてきた。

 「師匠!」

 「ロッテ」

 「先ほどカスパル様が、西塔からお降りになって──」

 「何かあったか」

 「お顔が二十年で一番穏やかだったと、他の書記官が口々に」

 「『ついに二十年の、私の肩が軽くなった』と仰ったそうです」

 俺は頷いた。

 ロッテは俺の隣を歩きながら、少しだけ足を遅めた。

 「師匠」

 「ん」

 「……私、気づいたのです」

 「何を」

 「この王宮は、年寄りが多いのです」

 「そして年寄りたちは、皆、何か古い重荷を抱えておられる」

 「カスパル様。マテウス院長。オルヴァン将軍。バルト書記。──みんな、そう」

 俺はロッテを見た。

 この娘は、観察力が、ある。

 本人は気づいていない。しかし気づいていないからこそ、率直に言えることがある。

 「ロッテ」

 「はい」

 「王国は、長い。アウレリアは、千年の歴史を持つ」

 「千年の間に王国は、多くの痛みを抱え込んだ」

 「痛みを抱え込んだまま死ねなかった老人たちが、王宮に集まっている」

 「それを、俺とお前で一つずつ下ろしていく」

 「──時間は、かかる」

 ロッテは頷いた。

 それからぽつりと言った。

 「師匠。私、今日帰ったら、父に一つ聞いてみます」

 「何を」

 「父に、抱えている重荷がまだあるか聞いてみます」

 「母のことだけではないかもしれない、と思って」

 俺は少し驚いた。

 この娘は五日で、俺と同じ視点を持ち始めていた。

 書類を三回、落とす娘が、だ。

 「ロッテ」

 「はい」

 「それは、いい問いだ」

 ロッテはぱっと笑った。

 それから早口で、付け加えた。

 「で、でも、師匠!」

 「私、今朝もパンを落としたのです」

 「三枚、全部、床に」

 「……成長してません」

 俺は笑った。

 「パンは、落としていい」

 「問いは、落とすな」

 ロッテは何かを考える顔をした。それから「問いを落とさない!」と声に出して復唱した。

 廊下の途中でロッテの復唱が、壁に反射していた。

 通りかかった若い侍女が、目を丸くしていた。

 ロッテは赤くなって、頭を下げた。

            ─── ─── ───

    【同日夜、帝都ヴェルデン、皇宮】

 神崎は執務室の、机に、一枚の報告書を置いた。

 「アウリオン王宮、オルヴァン前将軍、軍務副顧問に復帰」

 「カスパル宰相より、連絡体制の再設計を、命じられる」

 「稜の、協議者として、関与」

 副官が神崎の前に、立っていた。

 「閣下。アウリオン軍の、組織改編が、始まります」

 「これは帝国にとって、好ましからぬ動きで」

 神崎は首を振った。

 「いや」

 「……と、仰いますと」

 「俺はアウリオン軍を、強くすることに、賛成だ」

 「弱い属国の軍より強い属国の軍のほうが、大陸全体の平衡を取るのに役立つ」

 副官は眉を、寄せた。

 「閣下。帝国の立場として、属国が強くなることは脅威では」

 「帝国の、立場ではない」

 「大陸の、立場から、見ている」

 神崎は窓辺に、立った。

 夜空に、満月が、昇っていた。

 「副官」

 「はい」

 「俺が帝国宰相に、上り詰めた理由は、何だと思う」

 「それは、閣下のお力と」

 「違う」

 「前の宰相が、酒の飲みすぎで、死んだからだ」

 「あの方は十年、アウリオンとハーゲンの版図の不均衡に、苦しんでいた」

 「苦しんで酒に逃げて、死んだ」

 副官の、顔色が、変わった。

 「それは、帝国の、機密で」

 「俺が話している」

 「──副官。俺は前宰相と同じ、死に方を、したくない」

 「だから今のうちに、アウレリアを強くする」

 「バランスが取れてきたところで、俺と稜で大陸の未来を決める」

 神崎は窓の外を、見続けた。

 「それが、俺の帝国宰相としての、仕事だ」

 副官は長い沈黙の後深く頭を下げた。

オルヴァンと、カスパル。

二十年、お互いを誤解していた老人たちの、一時間の再会を、書きたかったのです。

扉の外で待つ稜も、書いていて苦しかった。

中に入れない人がいることも、物語の一部です。

オルヴァンの「責められない、ということが、一番、重いのだ」──

この一行、書いた後、しばらく動けませんでした。

次話、オルヴァンがようやく、剣を抜きます。

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