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雨の夜母の声がした

 星光の月、十三日目の夜。

 雨が、降っていた。

 アウリオン王宮の第一の間、格子の窓の外に春の雨が静かに落ちていた。大陸の南に位置するこの王国では星光の月の半ばから、春の長雨が始まる。前世で言えば五月の終わり東京を訪れる走り梅雨のような、細く白く長い雨だった。石畳を滑るように濡らす雨。足音を消す雨。

 俺は卓の前に、座っていた。窓の外を、見ていた。

 卓の上にセレネが昨夜置いていった八年分の日記が、開かれず革の表紙を伏せたまま置かれていた。その隣に俺の手帳。その隣に蝋燭が一本。蝋燭の炎が時折、雨の風で小さく揺れた。

 一晩考える、とセレネに約束した夜。

 しかし俺は一晩の半分を考えることを、怠っていた。

 考えるというのは、論理を組み立てる作業ではなかった。雨音を聴きながら、胸の底に何が沈んでいるかを確かめる作業だった。

 ──十六歳の王女が、平民の顧問の弟子になりたいと言った。王家の慣例を破る申し出だった。しかし俺がこの夜、本当に迷っていたのは王家の慣例ではなかった。

 俺は自分が、もう一人弟子を抱える資格があるのかを疑っていた。

 ロッテとクロヴィスは書面で弟子にした。二人には俺が去った後の未来がまだ長い。俺が二年で去ろうと五年で去ろうと、二人は若く残された時間で生きていける。

 しかしセレネは違った。セレネは王女だった。俺がこの王国の参謀としてあと何年彼女の隣に立てるかは、属国契約の更新・神崎の動き・王国の内部改革といったいくつもの不確定要素に左右される。一年後に俺がアウリオンを離れる可能性もある。

 師が弟子の隣に、長く居られない──それは弟子にとって、どれほどの孤独か。

 前世の高樹さんが脳梗塞で倒れたのは、俺が事務所に入って十一年目の冬だった。

            ─── ─── ───

 雨が少し強くなった。

 格子の窓の向こうで、王宮の庭の葉が揺れる音がした。

 俺は蝋燭の炎を、見ていた。

 そしてふと胸の奥が、冷たくなった。

 雨音の中に別の雨音が、混じった気がした。

 この世界の雨ではなかった。

 前世の下町の、古い木造アパートの屋根に落ちる雨の音。

 稜が七歳の冬父が死んだ日の午後三時の、曇天のその日の雨音。

 ──あの日、父の死後、雨は降っていただろうか。

 記憶は曖昧だった。しかしこの世界の雨の音が、何かの記憶を呼び起こしていた。

 母が台所に、立っていた。

 湯気の立つ鍋の前で、動かなかった。

 稜が「ただいま」と言っても、振り返らなかった。

 テーブルの上に病院からの、連絡書。

 父の名前。そして、「急性心不全」の、文字。

 母の目は、赤くなかった。

 涙が、出ていなかった。

 ただとても、静かだった。

 「稜。お父さんが亡くなったの」

 七歳の稜は何を答えていいか、わからなかった。

 畳の上にランドセルが、転がっていた。

 窓の外で風が、乾いた音を立てていた。

 ──記憶の中で雨は、降っていなかった。乾いた風だけだった。

 しかし今アウリオンの雨音が、あの日の乾いた風と同じ響きを持っていた。人生のある種の音。何も言わない音。何も語らず何も慰めず、ただそこに在る音。

            ─── ─── ───

 母の震える指を、稜は覚えていた。

 父の葬儀の翌朝、母は台所で米を研いでいた。

 水の中に、指が沈んでいた。

 稜はちゃぶ台の前で母の背中を、見ていた。

 米を研ぐ母の指が、震えていた。

 しかし震えは水の中に、隠されていた。

 母は震えを、稜に見せないようにしていた。

 稜はそれを、見ていないふりをした。

 その朝、母が炊いた米は、いつもより少し柔らかかった。

 水加減がわずかに、多すぎた。

 母の指が震えたせいで、水が余分に入ったのかもしれなかった。

 稜は柔らかい米を、黙って食べた。

 美味しいともまずいとも、言わなかった。

 二十五年それが母と稜の、父の死についての会話の全てだった。

 母は震えを、隠した。

 稜は隠された震えを、見ないふりをした。

 二人は、その沈黙を、二十五年続けた。

 母が死んだ時十九歳の稜は区立図書館の床で、母の背を抱いた。

 母の手から本が、落ちた。

 最後に母が稜に言った言葉は、「本は読むより整える方が大事」だった。

 稜はその言葉の意味をその時は、わからなかった。

 今、四十二歳で異世界の王宮の雨の夜にようやく理解しかけていた。

 整える、というのは書棚の本を並べ直すことではなかった。

 言葉を、並べ直すこと、だったのかもしれない。

 父の死について母が稜に、言えなかった言葉。

 稜が母に、言わなかった言葉。

 それらを誰かが、整える。

 母は図書館で一生、本を整えていた。

 それは、言葉にならなかった言葉たちの代わりだったのかもしれない。

            ─── ─── ───

 雨が、また少し強くなった。

 蝋燭の炎が、揺れた。

 俺は胸ポケットに手をやり、手帳を出した。

 ペンを、握った。

 (──母よ)

 ペンを動かす前に、俺は少しだけ手を止めた。

 手帳の革の表面を指先が、撫でた。

 革の匂い。前世で毎日触れていた匂い。しかしこの世界に来てから、この手帳は前世のものとは違う新しい匂いを帯び始めていた。石造りの建物の微かな湿気の匂い。蝋燭のわずかに甘い匂い。そして稜自身の、手の匂い。

 前世の手帳と今の手帳は、もう別の物だった。

 しかし書くという行為だけは、繋がっていた。

 俺は一行書いた。

 「星光の月十三日目、雨。前世の、母の震える指の記憶が戻った」

 それからしばらく書けなかった。

 ペンが止まった。

 雨音だけが第一の間に、満ちていた。

 卓の上のセレネの日記の革の表紙が、蝋燭の光を微かに反射していた。

            ─── ─── ───

 日記を開いた。

 セレネが昨夜俺に渡した、八年分の日記。

 最初のページ。

 少女の、幼い字で、こう書かれていた。

 「八歳十二月二日」

 「きょう、宮殿を出た。母は門で泣いた。父は泣かなかった。わたしは泣かなかった。馬車の中で少しだけ、泣いた」

 俺はページを、めくった。

 「九歳三月一日」

 「帝国の、雪。アウリオンの雪と、違う。重い。白くない。灰色の雪」

 「十歳八月十二日」

 「夏。人質たちの部屋に、窓が一つある。窓から帝都の城壁が見える。城壁の向こうに山。その向こうに海があると、先生は言った。わたしは海を見たことがない」

 「十一歳一月七日」

 「母から、手紙。父は体調が良くない、と。わたしは泣かなかった。泣くことを忘れたのかもしれない」

 「十二歳六月三日」

 「皇太子ヴィスカルトが、わたしの部屋の扉を叩いた。わたしは答えなかった。一時間叩き続けた。わたしはずっと、ベッドの下に隠れていた」

 俺はページを、めくる手が止まった。

 十二歳のこの一行の、重さ。

 一時間ベッドの下に隠れていた、という事実。

 ヴィスカルトがセレネに何をしようとしていたか、直接の記述はなかった。しかしこの一行が、書かれなかったもう一つの一行を示唆していた。

 「十二歳六月四日」

 「きのう、扉は開かなかった。わたしは助かった。神様にお礼を言った」

 俺は深く息を、吐いた。

 ここから先を読む覚悟が、必要だった。

 窓の外の雨音が、少しだけ弱くなっていた。

            ─── ─── ───

 ページを、めくり続けた。

 十三歳のセレネはアウレリア語の古書を、読み始めていた。

 十四歳のセレネは帝国宰相イリア・シエルクの娘が病気で死んだことを、記録していた。

 十五歳のセレネはアウレリアへの帰還が決まったことを、三行だけ書いていた。

 「帰れる。父と母に、会える。わたしはまだ、泣かない」

 そして最後のページ。

 日付は十六歳、八月二十日。

 三週間前。

 稜がアウリオンに、現れた翌日。

 「師が来た」

 「高木稜。前世は日本の戦略コンサルタント。師が『三案を並べる参謀は信用するな』と仰った」

 「わたしは初めて、父の前で決断した。二つの道があった。どちらを選ぶか、わたしが決めた」

 「父は驚いた顔をなさった。母は少し笑われた」

 「八年ぶりにわたしは自分で決めた」

 「師が、わたしの中に何かを戻してくれた」

 「──八年、閉じていた何かが、ひらいた」

 日記はそこで、終わっていた。

 残りのページは、白紙だった。

 俺は日記を両手で、包んだ。

 革の表紙が、俺の手のひらの温度で微かに温まった。

 八年、誰にも見せなかった日記を、彼女は俺に見せた。

 そして日記の最後に、稜の来訪を記していた。

 ひらいた何かという言葉が、俺の胸の奥に静かに残った。

            ─── ─── ───

 雨音がまた強くなった。

 蝋燭の炎が一度、大きく揺れた。

 炎が戻った時、俺の胸の底で決まっていた。

 (──セレネを、弟子にする)

 論理ではなかった。王家の慣例を破る覚悟も、まだついていなかった。しかし胸の底に一つの確信が、沈んでいた。ひらいた何かを、閉じさせない役──それが、今の俺の仕事だった。俺が一年で去ろうと五年で去ろうと、ひらいた何かは戻らない。師が弟子の隣に長く居られない、という孤独は確かに残る。しかしひらいたまま閉じずに生きていくことのほうがずっと難しく、ずっと価値がある。前世の高樹さんが俺に教えてくれたのも、それだった。高樹さんは俺が事務所に入って十一年目に、倒れた。退院後、復帰せずに、引退を選ばれた。俺は師を失った。しかし師が俺の中にひらかせた何かは、失わなかった。あの日、路地裏の寿司屋で「稜。お前の最初の判断は遅かった。しかし正しかった」と高樹さんに言われた。十八歳の俺の中でひらいた何かは、二十五年閉じずに生きてきた。──だから今、俺はこの異世界で参謀として立っている。その二十五年の系譜の中に今夜、セレネの十六歳の決意が、新しい一点として加わろうとしていた。稜は自分の役割を理解した。高樹さんが稜にひらかせたように、稜もまた、セレネの中にひらいた何かを、閉じさせないために、残りの時間を使う。それが千年の歴史の中で繰り返されてきた、師と弟子の系譜の、最も古い本質だった。孔子と顔回。ソクラテスとプラトン。釈迦と阿難。名前を持たない無数の師弟たちの二千年、三千年の連鎖。その連鎖の一環として、稜とセレネの関係が、今夜静かに生まれ始めていた。

 ペンをもう一度取った。

 手帳の、新しいページに、一行書いた。

 「セレネを、弟子にする。理由──ひらいた何かを、閉じさせないため」

 書いた瞬間ペンの先が、わずかに震えた。

 震えは、不安ではなかった。

 覚悟の、震えだった。

            ─── ─── ───

 翌朝。

 雨は、上がっていた。

 王宮の庭の石畳が、雨で黒く濡れていた。葉から雫が落ちていた。朝日が雲の切れ間から差し込み、王宮の東の壁を金色に染めていた。

 第一の間の窓を、俺は開けた。

 春の湿った空気が、部屋の中に流れ込んだ。

 土の匂い花の匂い、そして雨上がりの石の匂い。

 アウリオンの、朝の匂いだった。

 俺はセレネを、呼んだ。

 ロッテとクロヴィスも同席するよう、頼んだ。

 三人が、第一の間に、揃った。

 セレネは青いドレスを着ていた。昨日と同じ色だった。しかし髪はいつもの三つ編みではなく、後ろで一つにまとめていた。

 ロッテは緊張した顔で俺の左側に、立っていた。

 クロヴィスは新しい灰色の書記官服を着ていた。胸に小さなペンの刺繍が、縫い付けられていた。

 ──マテウス院長が昨日縫ってくださった刺繍だと、朝クロヴィスが教えてくれた。

 俺は卓の前に、立った。

 昨夜書いた手帳を閉じた。

 そしてセレネに答えた。

            ─── ─── ───

 「殿下」

 「はい」

 「──お受けします」

 セレネの目が、広がった。

 頬が一瞬で、朝焼けの色に染まった。

 十六歳の少女の、表情だった。

 ロッテが隣で小さく、「あ」と声を漏らした。

 クロヴィスは静かに頷いた。

 俺は続けた。

 「ただし、条件が一つ」

 「……何でございますか」

 「殿下の弟子の書面は、二通作らせていただきます」

 セレネが首を、傾げた。

 「二通、と仰いますと」

 「一通は公式の書面。立会人に、カスパル殿を立てます」

 「もう一通は、殿下と私だけが保有する個人の書面」

 「公式の書面には、王女としての殿下の立場が書かれます」

 「個人の書面には、一人の師と一人の弟子としての約束が書かれます」

 セレネは長く、俺を見ていた。

 「──師はなぜ、二通お作りになるのですか」

 「公式の書面は、王国のための書面」

 「個人の書面は、あなたご自身のための書面」

 「王女としての立場が、いつか変わることがあるかもしれません」

 「しかし一人の人間として師を持ったという記録は、どんな立場の変化でも失われてはならない」

 セレネの目に透明なものが、溜まった。

 しかし、彼女は流さなかった。

 ただ、小さく頷いた。

            ─── ─── ───

 それから俺は一つ、付け加えた。

 「それともう一つ」

 「はい」

 「殿下の、日記をお返しします」

 セレネは日記を受け取った。

 両手で大切に、包んだ。

 「全て、読ませていただきました」

 「……」

 「十二歳、六月三日の一行」

 「あの一行を読んで、私は一晩眠れませんでした」

 「しかしあの一行を私に、見せてくださったこと」

 「──それが、私がお受けするもう一つの理由でございます」

 セレネは日記を胸に、抱いた。

 顔を、伏せた。

 肩が、一度微かに震えた。

 しかし彼女は涙を、見せなかった。

 震えを隠す女性たち──母セレネそしてきっと、これから出会う多くの女性たち。

 俺は母の震える指を見ていないふりを、していた。

 今、セレネの震える肩を、俺は見ないふりをしないと決めた。

 それが四十二歳の、俺の一つの変化だった。

 「殿下」

 「……はい」

 「震えて結構でございます」

 「震える肩を、私は見ております」

 「見ていることをあなたに、伝えます」

 セレネは顔を上げた。

 目が、濡れていた。

 しかし、笑顔だった。

 朝焼けの色の頬と涙の光で濡れた目と、微かな笑み。

 「──師」

 「はい」

 「ありがとうございます」

 ロッテが隣で鼻を、啜った。

 クロヴィスは静かに書記官の帳面を開き、この瞬間を記録していた。

            ─── ─── ───

 【同日夕方帝都ヴェルデン、皇宮】

 神崎玲は、執務室の窓辺に立っていた。帝都の午後の秋めいた風が窓から入っていた。アウリオンが春の雨の中にある一方、帝都は大陸の北に位置するため星光の月の半ばに早くも秋の気配を帯び始めていた。執務室の壁には帝国の大地図が壁一面に描かれていた。ハーゲン帝国の領土、その南に広がる四つの属国──アウレリア王国ヴェロニア共和国、サルマティア王国、オスタール公国。地図の四隅には千年の属国条約の締結年が、金文字で刻まれていた。アウレリアは一番古い、千年前。ヴェロニアが八百年前サルマティアが六百年前、オスタールが四百年前。帝国が大陸を束ねた、四つの世紀。その千年の記録の中で、一人の「属国の参謀」が帝国の皇太子の意を挫いた例は、数えるほどしかなかった。稜は今、その数少ない一人に、なろうとしていた。神崎の執務室の机の上には一枚の古い写真立てが、置かれていた。前世で二十四歳の神崎が、新人研修で稜の部屋に挨拶に来た日の事務所の集合写真だった。神崎はこの異世界に来てからも、なぜかその写真だけは持ち込んでいた。異世界でも、写真は存在するらしかった。ただし、アウレリアの写真技術は素朴で、色は単色の褐色のみ。しかし集合写真の中の二十四歳の自分と、三十九歳の稜の姿は、まだ微かに識別できた。神崎はその写真立てを時々裏返した。見たくない時。今日のように。千年の帝国史の中で、稜という存在は、前世では稜の弟子であった神崎にしか、その本当の恐ろしさは、分からなかった。帝国の他の誰も、稜を正しく評価できなかった。皇帝も軍務官も税制官も、皇太子ヴィスカルトですら、稜を「属国の新しい参謀」としか、見ていなかった。神崎だけが、稜が千年の属国支配を三年で崩し得る男であることを、知っていた。だから神崎は稜の動きを監視し続けていた。止めるためではなかった。止められないことを神崎自身が、最もよく知っていた。彼がしていたのは、監視ではなく、むしろ記録だった。前世で稜の弟子として過ごした十五年の間、彼は稜のやり方を一つ一つ覚えていた。一案を即断する速さ、相手の本当の争点を見抜く鋭さ。三案を並べる参謀を信用しない思想、弟子を複数持つことの意味を二十五年後に身体で理解する時間軸、そして何より責任を設計する手つき。神崎はその全てを、前世の十五年で吸収した。そして裏切りの形で師から自立した。しかし異世界で再会した今、神崎は理解していた。自分が前世で吸収したのは、稜の一部に過ぎなかった。稜は、神崎が吸収できなかった領域を今、異世界で、展開し始めていた。王族を弟子にし、千年の王家の系譜に介入する。それは前世の稜には、できなかった領域だった。神崎の前世の裏切りが、むしろ稜をその新しい領域に送り込んだのかもしれなかった。皮肉な話だった。しかしこの皮肉を神崎は、理解していた。稜の動きを見ることは、自分の前世の裏切りの正当性と限界を、同時に見ることだった。神崎の机の上の写真立ては、その二重性の象徴としてそこに、置かれていた。

 副官が一枚の報告書を手に、入ってきた。

 「閣下」

 「ん」

 「アウリオン王宮。セレネ王女、正式に高木稜殿の弟子となられました」

 「書面、二通。公式書面の立会人、カスパル宰相」

 神崎は報告書を受け取った。

 一瞥した。

 それから窓の外を見た。

 「──稜らしい、二通という判断だな」

 副官は答えなかった。

 「副官」

 「はい」

 「アウリオンの王族の系譜を、調べてくれ」

 「セレネ王女の継承順位を、正確に知りたい」

 「はい。直ちに」

 副官は退出した。

 神崎は一人で、窓辺に残った。

 ポケットから、目薬の瓶を出した。

 差さなかった。

 瓶を、手の中で、転がした。

 (──稜。お前は王族を、弟子にした)

 (──お前は自分が、何をしたか気づいているか)

 (──セレネ王女を弟子にしたということはアウレリア王家の次の継承に、お前が関与するということだ)

 神崎は目薬の瓶をポケットに、戻した。

 窓の外の夕日が、帝都の東の城壁を赤く染めていた。

 そしてふと、机の上の写真立てに、視線を落とした。

 前世の事務所の集合写真。二十四歳の自分が、稜の隣に、立っていた。

 神崎はその写真立てを、静かに裏返した。

 今夜、見たくない顔が、そこにあった。

 しかし指を離す瞬間彼は一言、呟いた。

 「稜。王族を弟子にした、ということの重さを、お前はまだ、知らない」

 写真立ての裏に描かれていたのは、千年前のアウレリア王家の紋章だった。神崎が異世界に来てから、自分でインクで描いた紋章。なぜ彼がそれを描いたのか、神崎自身も、もう思い出せなかった。

雨の夜、母の震える指。

稜が、二十五年、見ないふりをしてきた何か。

この一話で、少しだけ、書けた気がします。

セレネの日記、十二歳のあの一行。

書いていて、手が止まりました。

読んでくださった皆様、気づかれたでしょうか。

感想、ブックマーク、評価、いただけると励みになります。

次話もお楽しみに。

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