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二重スパイの、涙

 月光の月、二十四日目の夕方。

 王宮の東門に、一台の馬車が着いた。

 降りてきたのは、リリア。十日ぶりの再会。

 彼女の顔は十日前より少しだけ明るかった。しかし同時に、少しだけやつれていた。

 娘の看病と三日の強行軍と、帰路の三日。疲れは当然だった。

 俺はカスパル経由で、王宮の客間を一室、手配していた。リリアにそこで休んでもらう。

 夜、第一の間で二人で話す。それが前もっての約束だった。

 第一の間。午後七時。

 窓の外、夕陽はもう沈んでいた。蝋燭を二本、机に置いた。

 俺は一人で、彼女を待った。

            ─── ─── ───

 リリアが入ってきた。

 茶色のワンピースを着ていた。髪は肩の高さ、三つに編んでいた。青緑の瞳は蝋燭の光を拾って、静かに揺れた。

 彼女は机を挟んで、俺の向かいに座った。

 座ってから、一度、深く息を吐いた。それから俺をまっすぐ見た。

 「稜殿」

 「リリア殿」

 「まず、お礼を、申し上げさせてください」

 「銀貨三十枚で、娘の薬が、届きました」

 「十日前、もし届かなかったら──」

 声がそこで、一度切れた。

 リリアは言わなかった。

 しかし俺には、分かった。

 薬が十日、遅れていたら、エマは危なかった。

 リリアはその可能性に、十日、怯えていた。

 「届いて、良かった」

 「……はい」

 「今、エマは元気にございます」

 リリアは懐から、小さな紙を出した。

 「エマから、お礼の、手紙です」

 俺は受け取った。

 白い紙に、少女の筆跡で、一言だけ書かれていた。

   「おじさま、ありがとう」

 筆跡は若く、不安定だった。しかし字の力はしっかりしていた。

 病弱な少女が、なんとか、自分で書いた一行。

 俺は紙を、手帳に挟んだ。

 手帳の革が、一段、温かくなった。

            ─── ─── ───

 「リリア殿」

 「はい」

 「娘殿の、ご病気の名は」

 リリアは少し沈黙した。それから言った。

 「……血の病、でございます」

 「生まれつき血がうまく固まらない」

 「小さな傷でも、出血が止まらず、危険になる」

 「月に一度の特別な薬で、血の固まりを、補います」

 地球で言えば血友病に近い。先天的、遺伝的。治療は生涯続く。

 「薬は、どこから」

 「ヴェロニア共和国。海路で月に一度、アウリオン港に届きます」

 「しかしハーゲン帝国が、その輸入を、管理しております」

 「帝国の許可がなければ、港に、入らない」

 「──帝国はあなたに、許可と引き換えに何を要求しているのか」

 リリアの青緑の瞳が、俺を見た。

 長い、沈黙。

 それから彼女は言った。

 「商人ギルドの、全ての情報を」

 俺は頷いた。

 ここが、二重スパイの構造の、最下層だった。

 「具体的には」

 「アウリオンの商人の動向、輸出入の実態。誰が何をいくらで、どこに売ったか」

 「密輸の経路、抵抗派の資金の流れ、反帝国派の商人の情報」

 「──すべて毎月、帝国の商務官に報告しております」

 「そして報告した情報で、誰かが、消されている」

 「……はい」

 「十年で十七人。私の報告のせいで消えたと、確信しております」

 リリアの指が膝の上で握り込まれた。爪がワンピースの布に食い込んでいた。

 「十七人の顔と名と、報告の日を、私はすべて記憶しております」

 「忘れようと、したことは、ございません」

 「忘れれば彼らが二度殺される」

            ─── ─── ───

 俺はリリアの顔を見た。

 十年、娘の命と十七人の命を天秤にかけてきた女。

 秤のある日は娘に傾き、ある日は十七人に傾いた。

 しかし結局、彼女は娘を、選び続けた。

 母親だから。

 選び続ける過程で、彼女の中にもう一つの別の秤が生まれた。

 「十七人の死を、無駄にしないための、仕事」という秤。

 それが二重スパイの、表と裏の表の方。

 「リリア殿」

 「はい」

 「あなたの本当の仕事は、十七人のことをどう救うかという話ではありますまい」

 「十七人はもう戻りません」

 「あなたの本当の仕事は、娘の薬を帝国の許可以外の経路で手に入れることでは」

 リリアの顔が、強ばった。

 「──稜殿」

 「十年、あなたはその経路を探してきた」

 「しかし、見つからなかった。なぜなら一人で探していたから」

 「商人ギルド長が帝国と反帝国の両方に既知の存在として動けば、すぐ足がつく」

 俺は机の上に、一枚の羊皮紙を出した。

 月影亭で神崎から非公式に受け取った、一つの情報。

 「神崎宰相から、月影亭で一つの情報を預かりました」

 「ヴェロニア共和国の、新しい海路」

 「この海路は、帝国の管理下には、ございません」

 「アウリオンの北、百五十里の無人海岸に、月に一度ヴェロニアの民間の貨物船が停泊する」

 「その船は、帝国の許可なく薬を運びます」

 リリアの目が広がった。

 「──それは、神崎殿が」

 「あいつが、俺に教えた」

 「理由は、分からない」

 「しかしあいつの情報は、正確でございます。十五年、知っております」

 リリアはしばらく、羊皮紙を見た。

 それから俺を見た。

 「稜殿」

 「──なぜ神崎殿は、敵のあなたにこんな情報を」

 「分かりません」

 「ただ一つ推測するとすれば──」

 「あいつは、俺があなたを救うかどうかを試している」

 「救えばあいつは、俺を一段強い敵と見做す」

 「救えなければ、俺を軽く見る」

 「……そのような、理由で」

 「あいつは、そのような男です」

 「敵を強くしてから倒す、というのがあいつの美学でございます」

 リリアは羊皮紙を、両手で包んだ。

 「稜殿」

 「この情報を、使わせていただいても」

 「どうぞ」

 「ただし一つ条件が、ございます」

 「条件」

 「──あなたがこの情報を使って薬を確保できた日から、あなたは私の仲間です」

 「二重スパイを続けるかどうかは、あなたが決めてください」

 「しかし続けるなら、その情報の一部を俺にも流してください」

 「続けないなら続けないで結構でございます。娘殿の安全を優先してください」

 リリアは沈黙した。

 長い、沈黙。

 それから彼女は涙を、流した。

 声を、出さなかった。

 ただ青緑の瞳から一滴、二滴、頬を伝った。

 「稜殿」

 「私は十年一人でこの秤を、抱えてきました」

 「誰にも、話さなかった」

 「夫が亡くなって以来、誰も、信じなかった」

 「今夜、あなたは私の秤を二人で抱えると仰っていますか」

 俺は頷いた。

 「はい」

 「──そうであれば」

 「私、今夜からあなたの仲間でございます」

            ─── ─── ───

 しばらく二人とも、何も言わなかった。

 蝋燭の炎がゆっくりと揺れた。

 リリアは涙を拭わなかった。

 拭えば、十年の秤が、なかったことになる気がしたのかもしれない。

 私は、それを、止めなかった。

 やがてリリアが、静かに口を開いた。

 「稜殿」

 「──夫の話を一つさせていただいても」

 「どうぞ」

 リリアは蝋燭の炎を見つめた。

 それからゆっくりと語り始めた。

 「夫の名は、ヴィラン。商人でした」

 「私より、七つ上でした」

 「結婚した時、私は、二十歳でした」

 「優しい人でした。商売の才覚は、私より、ずっとあった」

 「娘のエマが、生まれて、四歳になった時」

 「夫が、処刑されました」

 「罪名は、帝国への、反逆」

 「夫は商人を装って、帝国の軍事情報を集めていました」

 「それをアウレリアの抵抗派に、流していました」

 「密告者がいたのです」

 「処刑の前夜、夫は私に一つだけ言葉を残しました」

 リリアは少し、息を、吸った。

 「『リリア。人は嘘をつく。しかし紙に書かれた契約は、嘘をつかない。紙だけを信じろ』」

 「そしてその夜のうちに、夫は自分の血で一枚の紙を書きました」

 「遺言状ではございません」

 「契約書、でございました」

 「夫と私の、二人の間の契約書」

 「夫が私とエマに、何を遺すか」

 「私が夫の死後、何を守るか」

 「夫は最後まで、契約書で私を縛ったのではございませんでした」

 「契約書で私に義務を渡してくれた、のでございます」

 リリアの目からまた一滴、涙が落ちた。

 「今夜、十年ぶりに私は、自分から誰かと契約を結びました」

 「──契約書を、介さずに」

 「口頭の、約束だけで」

 「……夫がこの世にいた頃、私は口頭の約束も信じました」

 「夫の死後、私は口頭を信じなくなりました」

 「しかし今夜、稜殿と口頭で約束しました」

 「十年ぶりに、人を信じたということでございましょうか」

 俺は頷いた。

 「十年、一人で秤を抱えた方が今、秤を一緒に持ってくれる人を見つけた」

 「それを信じると呼ぶのかは、分かりません」

 「ただ、秤の重さが半分になるのは、確かでございます」

 リリアは少し笑った。

 初めて、涙の後で笑った。

 「稜殿」

 「夫が亡くなってから十年私は、笑わない女、と言われてまいりました」

 「今夜、私少し笑いました」

 「夫が、あの世で、驚いているかもしれません」

            ─── ─── ───

 リリアが客間に戻ってから、俺は一人、第一の間に残った。

 蝋燭を、一本、消した。

 もう一本だけ残して、手帳を開いた。

 月光の月、二十四日目。

 リリア、仲間になる。夫ヴィランの遺言、「紙だけを信じろ」。

 今夜、彼女は紙を介さずに誰かを信じた。

 ペンを置いた。

 手帳の革が、今夜も、温かかった。

            ─── ─── ───

    【同刻、帝都ヴェルデン、皇宮】

 神崎の執務室。

 副官が立っていた。

 「閣下」

 「商人ギルド長リリアが本日、稜と、会見」

 「ヴェロニアの新しい海路の情報、稜からリリアへ流れた模様」

 神崎は頷いた。

 「稜は、リリアを、救ったか」

 「救いました」

 神崎は少し目を細めた。

 それから笑った。

 「副官」

 「俺は今夜、一段、稜を強い敵と見做すことにした」

 副官は眉を上げた。

 「閣下。それではわざわざ弱点を、稜に渡されたことに」

 「そうだ」

 「俺が自分の手で、稜を、強くしている」

 「──愚かな話だな」

 神崎は窓の外を見た。

 十八日月が、昇っていた。

 「副官」

 「はい」

 「一月後、月影亭での二度目の会見は中止にする」

 「代わりに、アウリオン王宮で正式な会見を要求する」

 「俺がアウリオンに、行く」

 副官は息を、呑んだ。

 「閣下、それは帝国宰相が属国の王宮に赴くということで」

 「そうだ」

 「宰相が属国の王宮に赴くのは、帝国史上初めてだろう」

 「皇帝陛下は、お許しになる」

 「稜と、アウリオン王宮の本陣で一度、盤を指したい」

 「──理由は」

 「稜が俺の手の届かない場所で、俺の駒を動かし始めたからだ」

 「リリアは俺の駒の、一つでございました」

 「今日、そのリリアが稜の仲間に、なった」

 神崎は窓を、離れた。

 「稜よ」

 「お前、俺の帝国を内側から崩すつもりか」

 彼は笑った。

 しかしその笑いは、先ほどより一段重かった。

第一部の、序盤の区切りの話でした。

リリアが、十年ぶりに、紙を介さずに誰かを信じる夜。

夫ヴィランの遺言「紙だけを信じろ」。

処刑の前夜、彼が妻に残したのは、遺言状ではなく、契約書でした。

「契約書で、私を縛ったのではなく、私に義務を渡してくれた」

──リリアの理解が、本作の契約観そのものです。

そして末尾、神崎から届いた新しい要求。

帝国宰相が、属国の王宮に、自ら赴く。

これが、次の大きな波紋になります。

次話もお楽しみに。

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