父娘の、書類室
月光の月、二十二日目。
その日の午後、俺は初めて、王宮の「下級書類室」に入った。
王宮本館の地下一階。石造の階段を降りた先。湿気の匂いと、古い羊皮紙の匂いが混じった部屋。カスパルの所管下にあるが、日常の管理は下級書記が行っている。
ロッテの父、バルト・シエルク書記。
昨日ロッテが「父のことを、いつかお話ししたい」と言った、その父。
俺は直接、父バルトに会いに来た。
ロッテに事前に告げずに。
ロッテが自分から話すのを待つこともできた。しかし彼女は月影亭の件で既に十分、俺のために動いた。これ以上、娘に「語る」という負担を負わせたくない。
父本人と話すほうが早い。そして本人と話せば、ロッテが何を抱えているかも逆算で見えてくる。
書類室の扉を叩いた。返事はなかった。
扉を押すと、開いた。
部屋は薄暗い。窓が高い位置に一つだけあり、正午の光が斜めに差し込んでいた。
中央に長い机。その上に、山と積まれた書類の束。机の向こうに、一人の男が座っていた。
五十代前半。肩幅は狭い。白髪が半分ほど混じった髪。顔の肌は、紙の匂いと同じ色をしていた。日の光に当たらない肌。
眼鏡をかけ、ペンを握り、一枚の羊皮紙に黙々と写しを取っていた。
俺の気配に気づかず、しばらく作業を続けた。
俺は待った。
この男の仕事の呼吸を、壊したくなかった。
十数秒後、彼は書いていた一行を書き終え、ペンを置いた。それから初めて顔を上げた。
「……どなた、でしょうか」
声は、疲れていた。しかし、礼儀の籠った声。
「アウリオン王国、戦略顧問の高木稜と申します」
「ご子女ロッテ殿に、いつもお世話になっております」
バルトの肩が一瞬強ばった。
それから彼は、ゆっくりと立ち上がった。深く一礼した。
「高木稜殿。書類室の主、バルト・シエルクと申します」
「娘が、ご迷惑を、お掛けしております」
「迷惑など」
「ご子女はこの王宮の中で、誰よりも早く事態の本質を掴む眼力をお持ちです」
「私の助けに、大いになっております」
バルトは小さく頷いた。しかし、顔は上げなかった。
─── ─── ───
俺は机の向かいの椅子に座った。
机の上の書類を、一瞥した。
契約書の、古い記録。
具体的には、ハーゲン帝国への徴用令の、過去十年分の台帳。
写しを取っている、とバルトは言った。しかしこれは、ただの写しではない。
羊皮紙には朱色の印が、ところどころに打たれていた。古い台帳と何かを照合している。
「その印は」
「徴用された者のうち、三年以内に便りが途絶えた者の印でございます」
「私は毎日、一枚ずつ、照合しております」
俺は数を数えた。机の山の書類の、赤い印の多さを。
六百を超えていた。おそらく、千に近い。
「それは、誰の、ご命令で」
バルトはしばらく沈黙した。
「……私、個人の、作業でございます」
「誰の命令でもございません」
俺は頷いた。
王宮下級書記が誰の命令も受けず、自分の時間を削って徴用された者の消息を追う台帳を作り続けている。
理由は、一つしか、ない。
「奥様が、その中におられるのですね」
バルトの指が、ペンを強く握った。
「……はい」
「三年前、妻が徴用されました」
「月、止められる前の、最後の徴用の回で」
「お名前は」
「イリア」
「イリア・シエルク」
バルトは台帳の中の一ページを、開いた。俺に見せた。
そこにイリア・シエルクの名があった。隣に小さな朱色の丸。三年、便りが途絶えている印。
俺は一つの問いを、頭の中に、浮かべた。
しかし、口には出さなかった。
バルトが俺の表情から、その問いを、読み取った。
「──ご遺体は、戻っておりません」
「生きているか、死んでいるか、分かりません」
「ただ、便りが、途絶えました」
声は、震えていなかった。
三年、この男はこの話を何度も胸の中で反芻してきた。
─── ─── ───
「バルト殿」
「はい」
「ロッテ殿は、この台帳の存在を、ご存知ですか」
バルトは首を横に振った。
「娘には、知らせておりません」
「娘の母の、名が、この台帳にあることも」
「私が毎日、この台帳を作っていることも」
「なぜ、隠しておられるのですか」
「……娘が母を諦めてしまうことを、恐れたのです」
俺は頷いた。
しかし同時に、気づいた。
ロッテは父が何をしているか、知っている。
父は隠していると思っている。しかしロッテは書記官助手として王宮の書類の流れに詳しい。下級書類室で父が毎日何をしているかを、知らないはずがない。
知っていて、ロッテは知らないふりをしている。
父の「娘に母を諦めさせない」という気持ちを、壊さないために。
父娘は互いに、相手を守り合っていた。
しかしそのために二人で話すことができなくなっていた。
ロッテが家に帰らない夜がある理由は、これだった。
家に帰れば、父の眼を見てしまう。母の名が入った台帳の作業を、してきた父の眼を。
しかし話題にすれば、父の「守る」仕組みが崩れる。
だから、帰らずに、書記官室で眠る。
俺はバルトに、一つの提案を、した。
「バルト殿」
「はい」
「明日の朝、ロッテ殿をこの書類室にお呼びいただけますか」
「そしてこの台帳を、娘殿にも、見せてあげてください」
バルトの顔が、強ばった。
「……それは」
「娘が、母を、諦めてしまいます」
「諦めません」
俺は机の上の台帳を、指で、指した。
「バルト殿」
「あなたが三年、この台帳を作り続けてこられたのは、妻を諦めていないからでございます」
「ロッテ殿も母を諦めていないからこそ、家に帰らずにあなたの背中を遠くから見守っておられるのです」
「父娘二人で諦めない、という仕事をしておられる」
「しかしお互いに、それを、知らぬふりをしておられる」
バルトの目に、水が、浮かんだ。
「娘殿は、知っておられます」
「あなたが毎日、何をしているかを」
「知っていて、尋ねないでいるのです」
「あなたが尋ねられたくないと、察しているから」
バルトは眼鏡を外した。
掌で目を覆った。
しばらく声を出さなかった。
─── ─── ───
バルトが顔を上げた時、目は少しだけ赤かった。
「稜殿」
「娘は、私を、見ていたのですね」
「はい」
「三年、見続けておられました」
「私は、娘を、守っていたつもりで」
「娘に、守られていた、ということでしょうか」
「守り合っていた、というのが、正確でございましょう」
「父娘のどちらがどちらを守っていたか、というのは二人が決めることではございません」
「二人が同じ痛みを違う場所で抱えていた──それだけのことでございます」
バルトは頷いた。
それから小さな声で言った。
「稜殿」
「──私、あなたに今日初めてお会いしました」
「それなのに、なぜ私どもの家のことをこうもご存知なのでしょうか」
俺は少し笑った。
「前世で、私の母も夫を亡くした人でございました」
「父娘と、母子と、形は違いますが」
「一人が死者を抱えたまま生きる家の空気は、同じでございます」
俺は立ち上がった。
バルトに、一礼した。
「バルト殿」
「明日、ロッテ殿と、お話しになる時──」
「『お前は、知っていたな』と、仰ってください」
「『私も、お前が知っていたことを、知っていた』と」
「二人で、知っていた、と認め合ってください」
「それ以上は、言葉は、要りません」
バルトは深く一礼した。
─── ─── ───
書類室を出た。
石の階段を、上った。
上がりきった一階の廊下に、ロッテが立っていた。
俺が来ると、知っていたのだろう。彼女は柱の陰にいた。
目が、濡れていた。
「師匠」
「ロッテ」
「……父の、ところに、行かれたのですね」
俺は頷いた。
ロッテは少し、俯いた。
「師匠には、お見通しでございましたか」
「見通したのは、お前が家に帰らない夜の理由の、そのもう一段奥だ」
「帰らない理由は、お前も父上も同じものを抱えていたから」
ロッテは柱から、一歩、出た。
そして柱にもう一度凭れた。
まるで立っている力が、少しだけ抜けたように。
「……三年、知っておりました」
「父が母の名を台帳に入れて、毎日照合しておられるのを」
「家でそれを話したことは、ございません」
「話せば父が壊れると、思いました」
「明日の朝、父上がお前を書類室に呼ぶ」
「一緒に台帳を見てほしい、と」
ロッテの目が広がった。
「……父が」
「俺がお願いした」
「余計な、お世話だったら、許せ」
ロッテは首を、横に振った。
「余計な、お世話、ではございません」
「……師匠」
「──三年、家の中で誰も母の名を呼べなかったのです」
「明日、呼べるように、なるのでしょうか」
「呼べる」
ロッテは両手で、顔を覆った。
声は、出さなかった。
しかし肩が、細く震えた。
俺は彼女の隣に、少し離れて、立っていた。
肩に触れなかった。
触れれば、彼女の「一人で泣く」を、崩してしまう。
─── ─── ───
翌朝。
俺は書記官室にいた。ロッテはまだ来ていなかった。
代わりに、カスパルが入ってきた。
「稜殿」
「下級書類室から、今朝変わった報告が上がってまいりました」
「どのような」
「バルト書記とご子女ロッテ殿が、書類室で一時間、二人で泣いておられるとの」
「警備の者が扉の外を通る時、泣き声が聞こえたと」
カスパルが少し、首を傾げた。
「稜殿。何か、ご存知でいらっしゃいますか」
俺は首を、振った。
「何も」
「ただ、父娘が同じ台帳を見ておられるだけかと」
カスパルはしばらく、俺を見た。
それから深く頷いた。
「……稜殿」
「この王宮は、三年ぶりに台帳を二人で見る家族を、持ちました」
老宰相は、それ以上は、聞かなかった。
しかし顔は微かに緩んでいた。
─── ─── ───
その夜、ロッテが書記官室に来た。
目は、赤かった。
しかしいつもより、まっすぐに立っていた。
「師匠」
「ん」
「今夜、家に帰ります」
「三年ぶりに、父と一緒に夕食を食べます」
「弟と妹と父と、四人で」
俺は頷いた。
「父上に、よろしく」
ロッテは深く一礼した。
顔を上げた時、目はもう、濡れていなかった。
「師匠」
「──ありがとうございました」
彼女は書記官室を出て、家へ、歩いて帰った。
栗色の髪が、夕陽に、揺れていた。
─── ─── ───
手帳を開いた。
月光の月、二十三日目。
バルト書記、イリアの台帳。三年の沈黙。父娘今日台帳を二人で見た。
母の名を、呼べる家に戻った。
ペンを置いた。
手帳の革が、今夜も、温かかった。
前世で俺は自分の母と、父の話をする機会を失ったまま終わった。
母は父の死を、俺の前で一度も口にしなかった。
俺も母の前で、父の話をしなかった。
二十五年、俺と母は父の名を呼ばない家で暮らした。
今夜、俺はバルトとロッテの三年間を、縮めた。
三年で済ませた。
自分が、二十五年、できなかったことを。
胸の奥で母の震える指が、一瞬だけ蘇った。
(──母さん)
(──あんたの名前は、イリアではないが)
(──今夜、誰かの家で母の名が呼ばれた)
手帳の革が、温かかった。
─── ─── ───
【同刻、帝都ヴェルデン、皇宮】
神崎は執務室の机に、一枚の地図を広げていた。
アウレリア王国、徴用令の徴用者の流出経路の地図。
三年前に徴用された女たちの名が、地図の左端に列挙されていた。
その中に、一つの名。
「イリア・シエルク、アウリオン、四十八歳、料理人」
神崎はその名に、指を置いた。
「副官」
「はい」
「稜は、今日、バルト書記と、台帳を、見た」
「王宮の下級書類室に、三年間誰にも知られずに作られてきた台帳だ」
副官は頷いた。
「あの男は王宮の中の、最も奥の部屋まで既に入り込んでおります」
神崎は微かに笑った。
「──イリア・シエルクは、生きているか」
副官の顔色が変わった。
「……閣下。その情報は帝国の徴用者管理局の機密で」
「俺が、訊いている」
副官は小さな声で答えた。
「──生きております」
「ハーゲン北方の兵器工廠の調理場で、雇われております」
「体は弱っておりますが、命に別状はございません」
神崎は頷いた。
地図のイリアの名の横に、小さな「生」の字を書き加えた。
「副官」
「はい」
「一月後、アウリオンの正式会見の時」
「──俺は、イリアを、連れていく」
副官は息を、呑んだ。
「閣下、それは徴用者を本国に返還するという意味でございますか」
「それは帝国の政策の根幹に関わる」
「一人だけだ」
「一人返せば、王国の家族が一つ、食卓を取り戻す」
「それが俺の贖罪の、一つの形だ」
神崎は地図を閉じた。
「稜の手が届かない場所に、俺の手を置く」
「それが俺と稜の、新しい契約だ」
父娘が、三年ぶりに母の名を呼べるようになる話を、書きたかったのです。
守り合うために、話せなくなる家族。
守り合うために、家に帰れなくなる娘。
どこの世界にも、きっと、そういう家族がいます。
カスパルの「この王宮は、三年ぶりに、台帳を二人で見る家族を、持ちました」
──この一言を、稜に向けて言える老人を、書けて良かったです。
次話、リリアが稜に、夫の話をします。




