月影亭、十五年ぶりの盤
月光の月、十八日目。
月影亭は、青の街道が二つの国の中立地帯に入る境界に建つ、古い宿だった。
三階建て、白い漆喰の壁。屋根の上に月を象った銅の風見。風が吹くと月の欠けた部分がぎぃと軋む。
この宿を建てたのは三百年前のある商人だと聞いた。二つの国の商人が休戦期間中だけここで商談を行った。だから宿の看板は二つの国のどちらの言語でもない古代アウレリア語で書かれていた。
俺は午前十時に宿に着いた。
御者に馬車を預け、一人で宿の扉をくぐった。
主人は七十代の痩せた男だった。白髪、眼鏡、深い皺。俺を一瞥して一言だけ言った。
「──お連れ様は、昨夜、到着されております」
俺は頷いた。
神崎が先に着いていた。俺より一日早く。
あいつらしい、と思った。
「お部屋は」
「三階、月の間。お一人でお待ちでございます」
「ありがとう」
俺は階段を、一段ずつ、上った。
三階の廊下の突き当たり。扉に古代アウレリア文字の表札が一枚。意味は分からない。しかしこの字は、冥書庫の扉に彫られていた文字と同じ系統だった。
扉の前で一度立ち止まった。
息を整えた。
呼吸の間隔を、前世の会議室に入る時と同じリズムにした。胸の底を空にして、肩の力を抜く。
この二十年、幾度となく繰り返してきた所作。しかし今日の相手は、この所作を俺に教えた男だった。
扉を二度叩いた。
「──どうぞ」
音楽的な声が、内側から、聞こえた。
俺は扉を開けた。
─── ─── ───
月の間は六畳ほどの広さの、畳の間ではなく板張りの部屋だった。
窓が一つ庭に面していた。庭には月下の花が朝の光を吸って白く閉じていた。夜に咲く花。
窓の横に低い長机。机の上に円形の魔法盤が一枚、置かれていた。
盤将の盤。
十九掛ける十九の光石の格子。朝の光に、薄く青く光っていた。
盤の向こうに、一人の男が、座っていた。
長身、百八十を超える。黒い艶やかな髪に少しだけ霜が混じり始めていた。十五年で若干歳を取っていた。
灰色がかった茶の目。
完璧に仕立てられたイタリア風の黒いスーツ──ではなく、この世界の深い赤と黒を組み合わせた、ハーゲン帝国宰相の正装。
ネクタイは、深い赤のまま。十五年、変わっていなかった。
神崎玲。
俺と同じ師の弟子。俺より六年遅く事務所に来た男。俺を嵌めた男。
そしてこの世界で、帝国の宰相になっていた男。
「──稜」
声は十五年前と同じだった。音楽的な、しかし冷たい声。
「神崎」
俺も、同じ温度で返した。
神崎は笑った。口元だけで。
左手を上げた。
ポケットから目薬の瓶を取り出した。しかし、差さなかった。
一滴を空に落とすふりをして瓶を机の端に置いた。
「本心を、言う時だけ、差さないのだったな」
俺は言った。
神崎の目が一瞬広がった。それからまた細くなった。
「覚えていたのか」
「十五年、隣で見ていた」
神崎は頷いた。
それから盤を、指した。
「一局、どうだ」
俺は机の向かいに座った。
─── ─── ───
盤将はこの世界に来て何度か目にしていた。街の広場で老人たちが指していた。市場で商人が暇つぶしに指していた。
しかし俺はまだ、駒を握ったことが、なかった。
ルールは冥書庫の古書で、概略だけ読んだ。
「──神崎。俺は盤将を、指したことが、ない」
神崎は笑った。
「知っている」
「しかしお前なら、十分で覚える」
彼は自分の側の駒を、一つずつ、並べ始めた。
王一つ、参一つ、将二つ、騎三つ、哨四つ、兵八つ、塔二つ。
二十一の駒が、綺麗に並んだ。
俺も、自分の駒を並べた。
駒の動き方は盤の表面に小さな文字で書かれていた。光石の文字。指で触ると駒の能力の説明が青く浮かび上がった。
「特殊駒はそれぞれ、一つずつ作ることになっている」
神崎は自分の特殊駒を、盤の中央に置いた。
黒い、小さな駒。表面に、古代アウレリア文字で「偽」と書かれていた。
「これは、俺の二十年、育ててきた空駒だ」
「名は、偽王」
「盤上に自分の王と同じ姿の偽物をもう一体置ける。敵はどちらが本物か分からない」
俺は偽王を、見つめた。
神崎らしい駒だった。本物と偽物の区別を、盤上で、作る。
前世のあいつの、仕事の仕方の、縮図だった。
俺は自分の特殊駒を、手に取った。
まだ、設計していない。
「俺はまだ空駒を、持たない」
「好きに、作れ」
「対局前に、一つだけ、設計できる」
俺はしばらく、考えた。
十五年、前世でやってきた仕事の核心を一つの駒に凝縮するとしたら。
自分では攻撃しない。しかし相手に、決めさせる。
そんな駒。
俺は空駒の表面に、古代語ではなく日本語で文字を書いた。
「──触媒の手」
「能力は」
「自身は攻撃しない。しかし盤上の敵味方のいずれか一つの駒に、次の一手を強制できる」
神崎の目が静かに俺を見た。
「──稜。お前、盤将を指したことがないはずだ」
「ない」
「それなのに二十年、誰も設計したことのない空駒を、十五分で作った」
「俺の仕事の縮図を、駒にしただけだ」
神崎は笑った。
今度は、口元ではなく、目も笑った。
十五年ぶりに、あいつの、目の底が動いた。
「──稜。お前は前世で、俺を最も殺したかった時期にもこういう駒を作っただろう」
俺は頷いた。
「作った」
「しかし殺す、ためには、使わなかった」
「決めさせるために、使った」
「そうだ」
「──今日は、どちらに、使う」
俺は神崎を見た。
「今日は、お前に決めさせるために使う」
─── ─── ───
対局が、始まった。
時間制限、一時間。
盤上の時間は四十分で一巡する。朝、昼、夕、夜。時間帯によって駒の能力が変わる。
序盤、神崎が攻めた。
将を二つ、騎を一つ、俺の陣地の左翼に並べた。王道の攻め。しかしその背後に偽王が本物の王と重なっていた。
俺は偽王を、見破れなかった。
「──稜。お前の十五年の観察力は、どこへ行った」
神崎はからかった。
「まだ、温まっていない」
俺は触媒の手を自分の陣地の中央に置いた。動きを強制した対象は、神崎の偽王。
偽王は俺の指示で一マス前に出た。
しかし何も、起きなかった。
触媒の手で偽王を動かせたのに、本物の王は、動かなかった。
神崎の顔が一瞬強ばった。
俺はその一瞬で、どちらが本物か見抜いた。
偽王は、俺の指示を、受けた。
しかし本物の王は触媒の手の射程外にいた。つまり偽王ではないもう一つの「王」が射程外にいる。
俺は参を動かした。
参の隣に兵を集めた。兵の能力が、二倍になった。
そしてその兵の群れで、神崎の本物の王を一マス押し込んだ。
神崎の頬が少し強ばった。
それから笑った。
「──稜。お前、俺の目薬の量を、見ていたな」
俺は頷いた。
「偽王を動かす前、お前は目薬を差さなかった」
「本物の王が危ない時は、本心を隠さない。だから目薬を差さない」
「──それがお前の癖だ」
神崎は笑った。
声を、立てて笑った。
十五年前、路地裏の寿司屋で初めて俺と二人で笑った時と、同じ声だった。
「──稜。お前、俺を二十年、観察していたな」
「十五年だ。転移する前まで」
「この世界に来ても、観察を、続けている」
「──そうだ」
─── ─── ───
盤は中盤に入った。
時間帯は、昼から、夕方へ。
夕方になると、参の駒の能力が、一・五倍になる。
俺の参の周りの、兵の能力が、三倍になった。
神崎はじりじりと、押されていた。
彼の将は、俺の兵の群れに、囲まれ始めていた。
しかし、神崎は焦らなかった。
それが十五年前の、あいつの恐ろしさだった。
盤上で劣勢でも、盤外の展開で、逆転する。
それが前世で俺を嵌めた時の、手口でもあった。
俺は盤から、目を離さず、神崎に訊いた。
「──神崎」
「なんだ」
「港湾区の、黒い印の、事業」
「一月、止めているな」
神崎の指が一瞬駒の上で止まった。
「──気づいていたか」
「気づいていた」
「なぜ、俺が止めたと、分かる」
「カスパルの諜報網が止まった。帝国の使者の出入りが止まった。封印倉庫の解除が止まった」
「──止めたのは、お前だ」
神崎は将を一つ、俺の兵の群れに、差し出した。犠牲の一手。
しかしその一手で神崎の騎が俺の参に近づいた。参を潰せば俺の兵の能力は元に戻る。
俺は触媒の手を動かした。
強制対象は神崎の騎。俺の指示で騎は一マス後ろに退いた。
神崎の表情が歪んだ。
「──稜、お前、俺の空駒の動きを止めているのか」
「空駒ではない。お前の、本音を、止めている」
俺は言った。
「お前が今、俺に勝ちたいのか負けたいのか。お前自身まだ決めていない」
「それが今の、お前の騎の動きに出ている」
神崎は長い、沈黙の後笑った。
「──稜。お前、俺がこの盤で何を考えているか見抜いているな」
「見抜いているのではない。お前が、俺に見せている」
「──ほう」
「偽王を二十年育ててきたお前が、なぜ今日偽王を俺に簡単に、見破らせた」
「俺に勝ちを、渡したいからだ」
「しかし勝ちを渡す理由は、お前にしか、分からない」
「それが、今日のお前の本音だ」
─── ─── ───
神崎は目薬を、机から取った。
一滴、目に差した。
それから笑った。
「──稜。お前、俺を怒らせに、来たのか」
「いや」
「お前の本音を聞きに、来た」
「本音は、盤に、出ているとお前は言ったな」
「ああ」
「──では、聞こう」
「なぜ、俺に勝ちを、渡したい」
神崎は長く、沈黙した。
盤上の時間が夕方から夜に変わった。
夜時間帯は参の能力が二倍になる。俺の兵の能力は、四倍。
この瞬間、盤の勝敗はほぼ決まっていた。
しかし神崎は盤を、見ていなかった。
俺の目を、見ていた。
「──稜。二十年前、俺は師に、破門された」
「知っている」
「破門の理由を、お前は、知らない」
「知らない」
「俺は師が俺に教えた全ての技を、敵を殺すために使った」
「師は俺に技を、人を生かすために教えた」
「俺は人を、殺すために、使った」
「だから、破門された」
俺は頷いた。
「──そして今も、使っているのか」
「使っている」
「しかしある日、気づいた」
「殺すと決めさせるは、盤上では同じ手だということに」
俺の息が止まった。
「相手を殺すも相手に決めさせるも、同じ駒で可能だ」
「使い方の、意図が、違うだけ」
「──俺は意図だけを変えれば、師の教えに戻れる」
神崎は目薬をもう一度差した。
しかし今度は、目尻を少し拭った。
彼の、目が微かに赤くなっていた。
「──稜」
「俺を師のところに、連れ戻してくれ」
俺の手が、盤の上で止まった。
十五年前に俺を嵌めて、会社を追い出した男。
その男が今俺の前で、「連れ戻してくれ」と言った。
─── ─── ───
俺は長く、沈黙した。
盤上の、夜が、深くなっていった。
月が俺の兵の群れに、光の帯を落とした。
俺は触媒の手をもう一度動かした。
強制対象は、神崎の王。
神崎の王が一マス、俺の兵の群れに近づいた。
兵が王に剣を突きつけた。
盤将の終局の形。
しかし俺は兵に、攻撃の指示を、出さなかった。
代わりに、参を、兵の隣に動かした。
兵の能力がさらに上がった。もう倒せる距離。
「──神崎」
「ん」
「師はもう、この世にいない」
「前世でも、この世界でも、会いに行く場所はない」
神崎の顔が一瞬歪んだ。
「だから、俺がお前を連れ戻す役を引き受ける」
「師の代わりに」
神崎は俺を見た。
長い、長い、沈黙。
「──稜。お前、本気で、言っているのか」
「本気だ」
「ただし一つ条件がある」
「条件」
「帝国宰相を辞めろ、とは言わない」
「続けろ。続けながらお前の技の、意図を、変えろ」
「殺すから、決めさせるへ」
「それがお前の俺への、対価だ」
神崎はしばらく、俺を見た。
それから笑った。
最後の、笑いだった。
「──稜。お前今日俺に、勝ったな」
「盤上では、ない」
「盤の外で、俺の人生ごと、俺に差し出させた」
俺は頷いた。
「──これで、俺の、契約が一つ済んだ」
「師との、契約だ」
「師は、俺にお前を、見捨てるな、と言った夜がある」
「二十年、俺はその契約を、果たせていなかった」
「今日、果たした」
神崎は笑った。
目を拭った。
目薬ではなく、涙を、拭った。
十五年で俺が初めて見た、あいつの素の涙だった。
─── ─── ───
盤の勝敗は、つかなかった。
俺は王の直前で駒を止めた。神崎は降参も、勝利宣言も、しなかった。
二人で盤をそのまま、畳んだ。
昼時になっていた。
神崎が宿の主人に、昼食を頼んだ。
魚の煮付けと、白い麦粥、塩漬けの野菜。旅人の、簡素な食事。
二人で、無言で食べた。
食事の最後に、神崎が一つ言った。
「──稜。アウリオン港湾区の、黒い印の事業だが」
「一月後、アウリオン王宮で、正式に、会見したい」
「帝国宰相としてお前の王と、俺が直接、話す」
俺は驚いた。
「属国の、王宮に帝国の宰相が、赴くのか」
「帝国史上、初めてだろうな」
「理由は」
「黒い印の事業を、公式に、閉じるためだ」
「これは、皇帝陛下の、密命事業だった」
「しかし今日、俺が閉じると決めた」
「閉じるには属国の王の前で、閉じる宣言をしなくてはならない」
「──それが、責任の、取り方だ」
俺は頷いた。
「──神崎」
「ん」
「一つ、聞かせてくれ」
「リリアに、新しい海路の情報を、流せと俺に教えたのは」
「俺だ」
「なぜ」
神崎は笑った。
「お前が救うかどうかを試した」
「──と、これまで、お前には、言っていた」
「しかし本音は、違う」
「本音は」
「リリアの娘を、救いたかった」
「俺は帝国宰相として、自分の手で、リリアの娘を、救えない立場だった」
「お前に救ってもらう以外に方法がなかった」
俺は息を、止めた。
神崎は続けた。
「──稜。帝国宰相になって五年。俺は自分の手で誰も救えない立場になった」
「殺すことしか、できない」
「だからお前に救う仕事を、託した」
「俺の代理で、救ってもらった」
「──それがお前の師への、帰り道だったのか」
「そうだ」
─── ─── ───
食事が終わって俺は立ち上がった。
「──一月後、アウリオンで待つ」
「ああ」
俺は扉に、向かった。
扉の前で一度立ち止まって、振り返った。
神崎が盤の前に、まだ、座っていた。
光石の盤は対局が終わっても微かに青く、光っていた。
「──神崎」
「ん」
「今日、俺はお前を殺しに来た」
神崎の目が広がった。
「殺す代わりに、お前の人生を俺に差し出させた」
「これは、俺の新しい、殺し方だ」
「──前世でお前に嵌められた借りは、これで返した」
神崎はしばらく、沈黙した。
それから笑った。
「──稜。お前、俺を二度、殺したな」
「これで、師の契約は、お互いに、果たせた」
「──そうだな」
俺は扉を開けた。
廊下に出た。
扉を閉める瞬間、神崎が小さな声で言った。
「──稜」
「師に、よろしく」
俺は頷いた。
扉を閉めた。
師は、もう、この世に、いない。
しかし二十年ぶりに、師の名を、神崎の口から、聞いた。
それで十分だった。
─── ─── ───
宿を、出た。
馬車に、乗った。
御者が、振り返った。
「旦那。お戻りで」
「王都へ」
「急ぎますか」
「──ゆっくり、帰ろう」
御者は頷いた。
馬車が走り始めた。
俺は手帳を、開いた。
月光の月、十八日目。
一行だけ書いた。
神崎と盤を指した。
二人で、師の契約を、果たした。
一月後、アウリオンで、正式会見。
ペンを置いた。
手帳の革が、温かかった。これまでで、一番、温かかった。
青の街道を、馬車がゆっくりと北へ進んだ。
王都まで、三日。
この三日で俺は自分の中の十五年分の何かを、整理して帰る。
十五年ぶりの対面、ようやく書けました。
白い漆喰の宿、月の風見、庭の月下の花──この情景の中で、二人を向かい合わせたかったのです。
光石の盤が青く脈打つ音まで聞こえてきそうで、書いていて指が震えました。
「師に、よろしく」
神崎の最後の一言、皆様はどう受け取られたでしょうか。
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次話もお楽しみに。




