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契約書の裏に一行あった

 月光の月、十七日目。月影亭まで、あと一日。

 この日、俺は宿で、もう一つの仕事を、していた。

 アウリオンを出る前に、カスパルから預かった、百五十年前の属国契約書の複製を、読み直す仕事。

 複製は、羊皮紙の束。カスパルが四十年、ずっと手元に置いていた一冊。

 文字は俺にはまだ読めない。しかしカスパルが余白にところどころ、古代アウレリア語を現代アウレリア語に書き直してくれていた。

 現代アウレリア語なら、この世界で生きている俺は話し言葉で覚えた範囲で、半分ほど、読める。

 俺は一枚一枚めくっていった。

 第一条から、第十四条まで。すべて、ハーゲン帝国に有利な条項。

 属国の王は、帝国の許可なく、外交できない。

 属国の軍は、帝国の命令で、動員される。

 属国の民は、月ごとの徴用令に従う。

 属国の交易は、帝国の関税を、優先する。

 百五十年、アウレリアを縛ってきた、二十三条の鎖。

 しかし、俺はその鎖の中に、穴を、探していた。

 どんな契約書にも必ず穴がある。前世で十五年、俺がしてきた仕事は、その穴を見つけることだった。

            ─── ─── ───

 夜が、更けていった。

 蝋燭を、二本、新しいものに、替えた。

 十九条を過ぎて、二十条の手前で、俺の目が止まった。

 契約書のある頁の、余白に、小さな文字が書かれていた。

 古代アウレリア語。しかもカスパルの現代語訳は、書かれていない。

 つまり、カスパルが、見逃した一行。

 俺は蝋燭を、近づけた。

 文字は、本文より、ずっと小さい。爪の半分ほどの大きさ。しかし、本文と同じインクで同じ筆跡で書かれていた。

 つまり、契約書の作成者自身が、書き加えた一行。

 俺はこの数日、カスパルの現代語訳を繰り返し読むうちに、古代語の単語のいくつかを覚えていた。

 目の前の小さな一行を、指でなぞりながら知っている単語だけを、拾った。

  「属国」「……」「継承者」「……」「破棄」

 この四つの単語が、一文の中に、並んでいた。

 間の言葉は、分からない。

 しかし、「属国」と「継承者」と「破棄」が、一文に並ぶ条件は、一つしかない。

 属国契約は、継承者の、ある条件下で、破棄できる。

 俺の背筋に、熱いものが走った。

 契約書の余白に、隠された、たった一行。

 百五十年、誰も気づかなかった──あるいは気づいても触れられなかった一行。

 この一行が正しければ、アウレリアは属国から解放される道を持っている。

            ─── ─── ───

 俺は蝋燭の灯りの下で深く息を吐いた。

 手帳を開き、その小さな一行を形のまま模写した。文字の意味は分からない。しかし形を、正確に写す。

 月影亭から戻ったら、マテウス院長に、翻訳してもらう。

 手帳の革が、熱くなっていた。

 今までで、一番、熱い。

(──俺が見つけるべきだった、一行)

(──百五十年、誰も、見つけられなかった、一行)

 ふと、考えが、もう一段、動いた。

 この一行を、誰が書いたのか。

 契約書の作成者と同じ筆跡で、本文と同じインクで余白に小さく書かれている。

 契約書の作成者は帝国の宰相と、アウレリア側の当時の宰相、二人。

 署名は、本文に、あった。アウレリア側の宰相の名は、ルドヴィク。

 ルドヴィクが、署名の後、帝国の宰相が、席を離れた間に小さく自分の筆跡で余白に書き加えた。

 百五十年後の、継承者に向けた、メッセージとして。

 百五十年。

 ルドヴィクは、百五十年後の誰かが、この余白に気づくことを、信じて書いた。

 そして今夜、俺が気づいた。

 俺は手帳に、書き加えた。

   ルドヴィクよ。ありがとう。

   百五十年後の、継承者が、届いた。

 声に出して蝋燭の灯りに呟いた。

 「──届いた」

            ─── ─── ───

 そして俺は革の手帳を閉じた。

 百五十年前にルドヴィクが手紙を送った。

 今夜、俺がそれを受け取った。

 ──これは六百五十年前のトルメアスと、今の俺の間にも同じことが起きている。

 六百五十年前の老師が、書を書いた。

 その後の継承者たちが、それを、補訂した。

 そして今、俺と、神崎が同じ書を、読んでいる。

 時間を、超えて、契約は、渡される。

 師は、弟子に、渡す。

 宰相は、百五十年後の継承者に、渡す。

 そうやって人は、一人では終われない仕事を繋いでいく。

 それが六百五十年前のトルメアスが沈黙の書に書いた、第一原則の裏側なのかもしれない。

 「助言は、決めさせるためにある」という原則。

 その原則の裏側は、「助言は、時を超えて、渡される」ということ。

 俺はこの夜、それを、学んだ気がした。

            ─── ─── ───

 その夜、蝋燭を消す前に、俺はもう一度、前世を思い出していた。

 十五年の、すべての始まり。

   二〇一四年、春。丸の内、会社の三十一階のオフィス。夕方六時頃。窓の外に皇居の森。

   稜は自分のデスクで資料を読んでいた。新しく転職してきた男の資料。

   ドアがノックされた。

   「失礼します」

   稜は顔を上げた。

   長身、百八十センチを超える。黒い艶やかな髪。灰色がかった茶の目。完璧に仕立てられたイタリアの高級スーツ。深い赤のネクタイ。

   「神崎玲です。以後、よろしくお願いします」

   声は音楽的だった。笑顔は完璧に作られていた。

   稜は立ち上がり、握手した。神崎の手は冷たかった。

   「高木さん」

   「お話は聞いています。同じ路地裏の寿司屋に、よく行かれるそうで」

   稜は驚いた。

   「どこでそれを」

   「業界では有名ですよ。私も学生時代から、あの店に通っていました」

   「二十年、通ってる、と」

   神崎は笑った。口元だけで。

   「奇遇ですね」

   稜はそれを奇遇と受け取った。

   しかし神崎は寿司屋の店主の前で一度も顔を合わせたことがなかった。

   二人の共通点は全て、神崎が調べて作ったものだった。

   それを稜は、六年後に知ることになる。

   目薬の癖に気づいたのは、神崎との仕事を始めて一年経ってからだった。

   緊張する場面で差す。相手が本音を話した瞬間に差す。

   神崎の目薬は、本心を読ませないための偽装──それが、前世で稜が神崎に最初に惚れた手品だった。

 ランプの、芯が微かに揺れた。

 今、神崎は俺の前で、目薬を差さない瞬間が、ある。

 本心を、伝える時だけ差さない。

 二十年前、破門された時から、変わらない習慣。

 そしてその習慣を、俺は今、神崎の本心を読み取る鍵にしている。

 十五年前、神崎の目薬は、俺を騙すための武器だった。

 今、神崎の目薬は俺に本心を読ませるための鍵になっている。

 神崎はそれを知っているのだろうか。

 おそらく知っている。

 あいつは、俺の観察力を知っている。

 そして自分の、目薬の癖が、俺に読まれることを、許している。

 それはあいつからの、最後の信頼のしるしなのか。

 あるいは、最後の、罠なのか。

 ──月影亭で、答えが、出る。

 俺は蝋燭を、消した。

 窓の外、月が、まだ昇っていた。十三日月。明日は、月影亭。

            ─── ─── ───

    【同刻、帝都ヴェルデン、皇宮】

 神崎は執務室の机で、書類を、書いていた。

 皇帝への、報告書。

 「アウリオン顧問稜、明日月影亭に到着予定。会見、予定通り」

 書き終えて、ペンを置いた。

 それから引き出しから、小さな、革の手帳を出した。

 二十年前、高樹壮一郎から、授けられた手帳。

 破門の時、返せと言われた手帳。

 返さなかった手帳。

 手帳の一頁目に、高樹の筆跡で、一行書かれていた。

 「神崎。お前の目薬をやめろ」

 神崎はそれを、読み、それから笑った。

 「先生」

 「僕は、あの夜から、二十年目薬をやめておりません」

 「しかし、稜の前でだけ、時々差さない瞬間がございます」

 「──それで先生の教えを守ったことになりましょうか」

 神崎は手帳を引き出しに戻した。

 窓の外を見た。月は昇っていた。

 神崎は静かに、目薬を差した。

 それからまた差さずに、拭いた。

 差したり、差さなかったり。

 二十年、続けてきた、真偽の、ゲーム。

 しかし今夜は、差さない時間のほうが、長かった。

「届いた」

蝋燭の灯りの下で、稜がぽつりと呟く場面を、書きたかったのです。

百五十年越しに、誰かの言葉を受け取る夜。

そして末尾、神崎の目薬のゲーム。

あの男、何を考えているのでしょうか。

次話もお楽しみに。

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